第226号【長崎・五足の靴】
長崎市万才町にある長崎県警本部の裏路地の一角にひっそりと建つ「五足の靴」の碑。目立たない場所なので、長崎市民でもこの碑の存在を知らない方は多いと思います。
「五足の靴」とは、与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人が、1907年(明治40)の夏(7月28日~8月27日)に九州西部(博多、柳川、佐賀、佐世保、平戸、長崎、天草、島原、熊本など)を旅した際、そのメンバーが交代で新聞に執筆した紀行文のタイトルのことです。彼らは、この旅でキリシタン関連の遺跡を訪ねるなど、おおいに異国文化に触れたようです。
「五足の靴」一行が、平戸から佐世保を経て長崎へ到着したのは東京を出発してから10日後のことでした。宿泊したのは、「上野屋旅館」というところで、現在の長崎家庭裁判所(万才町6番)附近にありました。残念ながら昭和20年の戦災で焼失し廃業になりましたが、それまでは長崎を代表する旅館として知られ、多くの著名人が宿泊。約1、000坪の敷地には、本館(約100坪)をはじめ別館、倉庫、車庫など全部で8棟の建物があったそうです。
「五足の靴」の一行は、この旅館で一泊し翌朝には天草へ渡るため、乗合馬車で山道を辿り、茂木の港へ向かっています。茂木は、長崎市の東部に位置する町で、天草灘に面したその港は、古くは肥後、薩摩に渡る海路の要所として利用されていました。現在も茂木~富岡(天草)を結ぶ航路として知られています。
この茂木~富岡の航路が、定期航路となったのは明治初めの頃だそうで百年以上の歴史があります。現在は天草側からの利用者が多く、長崎市内の病院へ通ったり、買い物に出たりといった生活の足になっているそうです。しかし、乗客の減少で、昨年11月でフェリーが運休。現在は一日4本の高速船のみが茂木港から出ています。(富岡港からも一日4本)。一時は、この高速船の運航も危ぶまれていましたが、何とか今後1年間は継続することになったそうです。
茂木港の小さなターミナルの窓口では、この航路の存続署名が集められていました。航路が存続することを願って著名していく文学ファンもけっこういるそうです。
さて、「五足の靴」の旅は、参加者の創作意欲をくすぐったようです。北原白秋の「邪宗門」「天草雑歌」や木下杢太郎の「天草組」などは、この旅の影響を受けて生まれた作品だといわれています。
冒頭の「五足の靴」の碑の案内版には、「長崎の円き港の青き水 ナポリを見たる目にも美し」(与謝野鉄幹)の歌が記されていました。当時の長崎は洋館などが今より多く建ち並びもっとハイカラな風情が漂っていたはず。異国情緒に酔いしれる作者の心情が伝わってくるようです。
◎参考にした本/長崎の史跡・北部編(長崎市立博物館)