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  • 第203号【長崎の街に点在する昔ながらの溝】

     長崎市の中心市街地を歩き回っていると、表通りから少し入った路地などで、石組みの溝と出会うことがあります。その溝は、底に長方形の板石が敷かれ、それを両側から別の板石が斜め立て掛けるように組まれたもの。石と石の間は漆喰でふさがれています。 その形状から三角溝とも呼ばれているこの溝は、長崎の繁華街・浜町にほど近い築町や鍛冶屋町、長崎港にほど近い五島町あたりなどの数カ所で見ることができます。コンクリートのビルが建ち並ぶ中に、ふと現れるもの静かな石組みの表情。どこかほっとする風情が漂っています。この三角溝が造られたのは、明治時代のことです。 日本は、開港してから明治中期にかけて、外国人居留地からコレラなどの伝染病がはやりました。その対策として、神戸や横浜の外国人居留地では下水道が建設され、その後、東京でれんが造りの神田下水道が造られるなど、外国人居留地だけでなく日本各地の主要都市でも下水道建設が行われるようになります。 長崎では、1885年(明治18)にコレラが流行。それを機に、居留地以外の長崎市街地でも下水溝の対策が講じられました。長崎の場合は、東京・神田下水道のように地下につくられたものでなく、すでに市街地に張り巡らされていた溝を改修しました。溝を拡大し、板石を敷いて水が流れやすいように傾斜を持たせ、汚水が地下に浸透しないように、石と石の間を漆喰でふさいだのです。 この時の改修された下水溝の幹線は、6線ありました。第1線は今博多町から築町を経て中島川へ合流。第2線は麹屋町を起点に、ししとき川(現:鍛冶屋町付近)から銅座川へ合流。第3線は、万屋町を起点に銅座川へ合流。第4線は、寄合町を起点に丸山町を経て、銅座川へ合流。第5線は、本博多町(現:万才町付近)を起点に五島町を経て海へ入る。第6線は、鍛冶屋町を起点に第2線に合流。以上の6つの幹線で現在も残っているのは、第1線、第2線、第5線、第6線の一部です。 これらの下水溝は、明治初期、近代的な公衆衛生の考え方をもとに疫病対策を実践した証で、貴重な歴史的遺構と思われます。長崎市文化財課に問い合わせてみると、貴重な遺構であるということで調査はされたが、まだ保存されるべき文化財などとして指定されるには至っていないということでした。 ちなみに日本の下水道の生みの親といわれているのが、大村出身の長与専斎(ながよせんさい)です。専斎は1871年(明治4)に、岩倉具視欧米視察団に参加し、内務省の初代衛生局長時代には、疫病の根本的な予防は下水道をつくることだとして、神田下水道の建設に着手したそうです。また専斎は、「衛生」という言葉を生み出した人物としても有名です。 明治時代、新しい公衆衛生の武器として造られた三角溝。100年以上も現役でいるその丈夫さもすごいことですが、見た目も現代のコンクリートづくりよりセンスの良さを感じます。三角溝には現代人が見習うべきものがあるのかもしれません。◎参考にした冊子/「長崎県近代化遺産総合調査報告書」(長崎県教育委員会)

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  • 第202号【島原半島めぐり】

     今日からいよいよ9月。まだまだ暑さは続いていますが、朝晩には涼しい風も時おり吹くようになりました。秋はもうすぐそこです。夏バテに気を付けてお過ごしください。 今回は島原半島がテーマです。風光明美なこの地域は、その魅力も多彩。先日、避暑地あり、自然の脅威あり、歴史ありのスポットめぐりを楽しんできましたのでご紹介します。 まず最初に向かったのは高原の温泉地・雲仙です。長崎駅から車で1時間40分ほどで到着します。地図でみると島原半島のほぼまん中に位置する雲仙。その温泉街は、標高約七百メートルのところにあり、車を降りると、まずはその涼しさに感激します。聞けば、夏場の平均的な気温が22~24℃くらいだとか。下界で酷暑の日々を過ごしていた者としては、その快適な涼しさに心が癒されるようでした。 雲仙の温泉街を囲むようにして連なる山々は、春はツツジ、秋は紅葉、冬は霧氷と四季折々に美しい表情をみせ、登山を楽しむ人々も大勢います。温泉街から散歩がてら山道に入ると、ヤマホトトギスやキッコウハグマ、ノリウツギなど高原の植物たちの姿がありました。自然観察会にはもってこいの土地のようです。 日本で最初に国立公園になった雲仙は、昭和9年の指定から今年で70周年を迎えました。温泉街の中央に位置する「雲仙スパハウス・ビードロ美術館」ではそれを記念して「雲仙むかしの写真展(来年3/31迄)」と「ノスタルジックUNZEN展(~9/30迄)」が行われています。明治時代から外国人の避暑地として人気のスポットだった雲仙の歴史を垣間見れる素敵な展覧会で、ヘレン・ケラー女史が雲仙を訪れた際の貴重な写真も見ることができました。 さて、涼しい雲仙から東へ山を下り、国道251号線沿いにある「道の駅みずなし本陣ふかえ」へ。この道の駅は雲仙普賢岳噴火によって生まれた平成新山を一望できる場所にあり、土石流による被災家屋が保存された「遺構保存公園」もあるなど、自然の脅威を肌で感じることのできるスポットです。もちろん道の駅ですから、農業の盛んな島原半島ならではの特産品を味わえる食事処、お土産店も充実しています。 「道の駅みずなし本陣ふかえ」でひと休みしたら、国道251号線をいっきに北上。めざしたのは、国見町神代小路(こうじろくうじ)地区です。ここには、江戸時代初め頃の旧神代鍋島藩陣屋をはじめ立派な庭園を持つ「鍋島氏」のお屋敷や、鶴亀城跡などがあり、その一帯は武家屋敷群が整然と広がっています。広々とした通りの脇を流れる水路や生け垣や石垣、そしてかやぶき屋根の家など、今にもお侍さんが現れそうな風景が、現実に残っていることに感動を覚えます。 文化庁の補助事業の「伝統的建造物群保存対策調査」でも、その歴史的価値は、高く評価されているそうです。鍋島氏のお屋敷は私邸なので、庭園の公開は平日のみということ。武家屋敷の静かな通りを歩くだけでも江戸時代にタイムスリップできます。一度、訪れてみませんか。

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  • 第201号【長崎ロープウェイで、懐かしい感動と出会う】

     長崎ロープウェィに乗ったことはありますか?初めて乗ったのはいつでしたか?長崎ロープウェイとは、長崎市街の北西部にそびえる標高333メートルの稲佐山山頂とそのふもとを結ぶロープウェイのこと。ふもと側の乗り場「淵神社駅」は、長崎駅から車で5分ほどのところにあります。 長崎ロープウェイは、昭和34年にオープン。高度成長期に入って間もないこの時代、子供も大人もワクワクさせる特別な乗り物として、観光客はもちろん地元の人々にも大人気でした。現在は、稲佐山の新たな車道の開通や、いろんな乗り物を楽しめるレジャー産業の隆盛で、残念ながら乗車客は減少傾向にあり、ロープウェィに対する関心も以前と比べればずいぶん薄れてしまったようです。 とはいえ、長崎の観光で稲佐山のロープウェィをはずすことはできません。なぜなら、ふもとからいっきに上がるときのダイナミックな街の景色の変化は車道では体験できませんし、またその景色もロープウェイならではの独自のロケーションだからです。 「淵神社駅」から稲佐山山頂の展望台のそばにある「稲佐山駅」までの約1、096メートルの距離を5分ほどで登るこのロープウェイは、いわばゴンドラの空中遊覧。久しぶりに乗ってみると、家々や山の樹木を真下に見下ろしながら急な傾斜(勾配27度)を行く時のちょっとしたスリル感は、子供の頃、初めて乗った時の気分を思い出し、懐かしい気持ちになりました。 山頂の展望台からの眺めも相変わらず感動的です。山の稜線や長崎港沖合いの島々の姿は当然ながら昔のままですが、新しい建物や道路ができるなど刻々と変化してきた長崎の街が眼下に広がり、時の流れを実感。感慨深いものが込み上げてきます。ここから望む1000万ドルの夜景は変わらぬ人気です。夕刻からの時間帯はロープウェイの利用者が急増(朝9時から夜10時まで営業。冬場は夜9時まで。)し、恋人たちのデートスポットとしても好評です。稲佐山山頂であらためて気付かされるのは、この山が豊かな樹木に覆われた、自然を満喫できるところであるということ。特に市街地の反対側に見られる緑の尾根が続く景観は圧巻です。ここはハイキングコースとしても人気だそうです。 さて、稲佐山には8合目に「スカイウェイ」と呼ばれるから6人乗りのゴンドラリフトが稲佐山山頂まで片道2分半で運行しています。8合目には、コンサート等のイベントが行われる野外音楽堂や広場、大型駐車場があり、休日は市民の憩いの場になっています。「スカイウェイ」は、8合目までマイカーで出かける方に利用されているようです。 ロープウエイのゴンドラが動き出すと、子供たちの中には、遊園地の乗り物にでも乗ったように、歓声を上げて大喜びする子もいるそうです。夏休み最後の思い出づくりにお出かけになってみませんか?

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  • 第200号【出島は高い賃貸物件だった】

     長崎は夏の一大イベント、精霊流し(8/15)が終わってホッと一息…、と言いたいところですが、今年はそういうわけにはいきません。今、世界中がアテネオリンピックの話題でもちきり。長崎県(県内高校卒業者も含む)からは、野球の城島健治選手、女子バスケットの浜口典子選手、永田睦子選手、バトミントンの大束忠司選手、自転車の井上昌己選手、そしてサッカーは、国見高校OB大久保嘉人選手、徳永悠平選手、平山相太選手が出場。オリンピック生誕の地アテネに向かって連日エールを送っています!(^▽^)/ガンバレ、ニッポン! さて、当コラムの方は、感動満載のアテネからひとまず離れて、久しぶりに出島のお話をお届けします。夏休みともなると、観光客だけでなく、地元の人々も家族連れで訪れる機会が多くなるようですが、この話を知っていると、出島見学が少し面白くなるかもしれません。 出島にはその全貌を一目で見渡せる「ミニ出島」があります。東京ドームの約1/3の広さがある出島を、1/15に縮小したもので、江戸時代のシーボルトのお抱え絵師、川原慶賀が描いた絵をもとに建造物もミニチュアで再現。ガリバー気分で江戸時代の出島を眺めることができます。 「ミニ出島」を見ると、扇形の狭い敷地を有効利用して、古き良き町家風の家屋や蔵が整然と軒を列ねている様子がよくわかります。オランダ人は、そこに居住するにあたって、高い家賃を支払い続けていました。 出島は、江戸時代はじめ、長崎市中に自由に居住していたポルトガル人を住まわせるために造られた人工の島です。建設費用は、長崎の有力町人25人が出資しました。その金額は銀200貫目、現在のお金に換算すると約4億円ともいわれています。有力町人らは出島を賃貸物件にして、建設にかかった費用にあてることにしました。最初に出島に住んだポルトガル人、そしてのちに平戸から出島に移設されたオランダ商館も家賃を支払ったわけですが、その金額は、オランダ商館の場合、年間銀55貫目、今のお金にすると約1億円になるそうです。出島貿易でいかに大きなお金が動いていたかが、想像できる賃貸料です。 ところで、出島の和風家屋は、当時の長崎の大工さんたちによって建てられました。現在の出島には、江戸時代の「ヘトル部屋(商館長次長の居宅)」や「一番船船頭部屋(オランダ船船長の宿泊所)」、輸入したものを保管した蔵など、数棟がすでに復元されていますが、復元にあたっては、今も長崎の街に残る伝統的町家の造りを大いに参考にしたそうです。 当時の長崎らしい家屋の特長のひとつに屋根があります。幕末~明治期の長崎市街地の写真などでよく見かけるのですが、家々の黒い瓦屋根のふちを真っ白な漆喰で押さえた屋根が、遠目から見ると屋根の上に「口」の字を書いたいるように見えます。この漆喰でふちを押さえる技術が、長崎風といわれる屋根のおさめ方だそうです。その技術は、残念ながらミニ出島のミニチュアの家屋では見られませんが、復元された家屋の屋根には施されていました。そのほか、雨戸やひさしなどにも長崎風といわれる建築技術を見ることができます。ぜひ、現地でご覧になってください。◎参考にした本など/「よみがえる出島オランダ商館~19世紀初頭の町並みと暮らし~」(長崎市教育委員会)

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  • 第199号【丸山・梅園天満宮でぶうらぶら】

     夏、本番!皆さんお元気ですか?汗をかく前に水分補給をして、熱中症を予防しましょう。さて、当コラムでは8月に入ってから、長崎らしさを楽しめるスポットをご紹介しています。いずれも気軽に出かけられる場所ですので、夏休みを利用してぜひ、お友達やご家族とお出かけ下さい。今回は、数年前に映画「長崎ぶらぶら節」で一躍有名になった丸山界隈の一角にある「梅園天満宮」(梅園神社)です。 長崎の有名な民謡「ぶらぶら節」に、『♪遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて丸山ぶーらぶら…』という一節がありますが、この中の゛梅園″というのは、梅園天満宮のこと。民謡にも登場するほど、江戸時代から丸山の住民に親しまれてきました。 この神社は、昔から心や体の悩みの身代わりになってくれるといわれ、地元では「身代わり天神」とも呼ばれているのですが、境内には参拝する人々の日常の悩みや願いを反映するかのように、ちょっとユニークなものがあります。 境内の中央付近に植えられたサルスベリの木。フリルのような可憐な夏咲きの花が今、満開です。その木のたもとに、「恵比須石」と呼ばれる大きな石があります。自然に刻まれたと思われる石の紋様が、満面の笑みをたたえた恵比須顔に見えます。こちらも思わずニッコリしてしまうほど、素敵な笑顔の恵比寿石。立て看板には、「この石を眺め、恵比寿様の笑顔を見ることができれば、笑顔が美しくなり、身体も心も美しくなるといわれています」と書かれていました。 神社に欠かせないのが、こま犬です。梅園天満宮の社殿前にも一対のこま犬がいますが、その内の一匹は口が開いていて、その口の中には、キャンデーらしきものが置かれています。これは「歯痛こま犬」と呼ばれているもので、説明書きには、『歯の痛みのある人が、こま犬の口に水飴を含ませるとたちまち痛みを取って下さるそうです』とあります。その昔、このいわれを聞いて全国各地から大勢の人々が参詣に訪れたそうです。痛み止めの薬を飲んだり、すぐに歯医者で診てもらえる現代とは違う時代の人々の切なる思いが伝わってきますが、今でも、キャンデーを含ませる人のあとが絶えないところを見ると、歯痛が人間につきものの身近な病であることをあらためて感じます。 梅園天満宮には、菅原道真公を祀る神社にみられる菅原道真公ゆかりの牛の像もあります。「御神牛(撫で牛)」と呼ばれるこの像を撫でてから自分の身体を撫でると身体が健全になるといわれ、頭を撫でると知恵がつくといわれているそうです。 ここにはもう一体、「撫で牛」がいました。その名も「ぼけ封じ撫で牛」。この牛と自分を交互に撫でさするとぼけを封じるといわれているそうです。 人を笑顔にし、歯痛を忘れさせ、高齢化社会にとって朗報!?ともいうべき「撫で牛」までいる梅園天満宮。何だか、ほほえましい気分にさせる不思議なところです。梅園の神様がみんなの願いを聞き入れて下さるといいですね。

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  • 第198号【何度でも出かけたいグラバー園】

     長崎の夏の恒例となったグラバー園の夜間開園が今年も好評のようです。帰省した友人や親戚たちと夕涼みがてら出かけている姿をよく見かけます。久しぶりの故郷だからこそ、もっとも長崎らしい雰囲気と景色を味わってほしい。来客を迎える側のそんな思いが伝わってくる光景です。 夜間開園の時間は夜9時30分まで。通常の夕方閉園の時期には見られない、ロマンチックにライトアップされた洋館や南山手の丘から見渡す美しい長崎港と市街地の夜景を楽しめるとあって、観光客もあとが絶えません。行くたびに新しい魅力が見つかり、長崎の歴史の奥深さに触れることができるなど、リピーターを飽きさせないのも大きな魅力です。当コラムでも何度も登場したグラバー園ですが、まだまだ紹介しきれていません。 グラバー園には、新しいものがどっと押し寄せた居留地時代を反映して、日本初のものがいろいろ残されています。たとえば、アスファルト道路。これはトーマス・グラバーの息子、倉場富三郎が日本で初めて造ったものだそうです。また、そばには大きな石製のローラーが置かれているのですが、実はこれ、テニスコート整地用のローラーで、リンガー邸の庭園内に設けられた日本で初めてのテニスコートで使用していたものだそうです。 また、江戸時代末期に造られた日本初の木造洋風建築グラバー邸(国重要文化財)では、天井裏に設けられた隠し部屋も見ることができます。グラバーは幕末、薩摩藩や長州藩といった倒幕派の若者を支援していましたが、いざという時に彼らをかくまうためのものだったと推察されています。 ところで、今年はグラバー園が開園して30周年(1974年9月4日開園)を迎えます。時代を経るにしたがって『異国情緒・長崎』の象徴である洋館が減ってきたことが危惧され、その保存のために、グラバー邸があった南山手の丘に、市内に残っていた洋館を移築、整備してグラバー園が生まれました。現在では、国内外から訪れる年間の来場者数は約130万人とも言われ、長崎観光を代表するスポットに成長しました。 30周年記念として素敵な催しがいろいろと予定されています。居留地時代にグラバー邸、オルト邸、リンガー邸などに暮らした人々の姿を写した、『古写真展~居留地生活した人々たち』(9/5~9/30)が行われます。また11月23日(祝)には、長崎ゆかりのオペラ、「マダム・バタフライ国際コンク―ルin長崎」の上位入賞者3名によるオペラコンサートも開催されます。 「蝶々婦人(マダム・バタフライ)」に関連して、現在、旧リンガー邸では、戦前のヨーロッパで、「マダム・バタフライ)のオペラ歌手として名を馳せた「喜波貞子(きわ ていこ)」の特別展が行われています。公演に使われた衣装や小道具などが展示され、幻のオペラ歌手といわれる彼女の生涯を垣間見ることができます。オペラファン必見です。

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  • 第197号【親子で出かけよう!夏のハウステンボス】

     子供たちの夏休みも1週間が過ぎました。元気いっぱいの彼らを早くももてあましている親御さんのために、「夏のハウステンボス」をご紹介します。コマーシャルでご存知の方もいらっしゃるように、ハウステンボスは今、本場ヨーロッパの洗練された空間やサービスをどんどん取り入れ、より魅力的な「ヨーロピアン・リゾート」をめざして「変身中」です。この夏は、そんなテーマをかかげる新生ハウステンボスのスタートとあって、期待を裏切らない素敵な催しが目白押し。今回は特に親子が楽しめるものをピックアップしました。この暑ささえも素敵な思い出に変わる楽しい時間が待っていますよ。 まず、親子でぜひ訪れていただきたいのが、ハウステンボス美術館で開催中の「ディック・ブルーナー展」です。「ミッフィー」に代表されるシンプルな線と明るい色彩で描かれたキャラクターは、きっとどこかで見たことがあると思います。公開されているのは、このキャラクターを生み出したオランダを代表するアーチスト、ディック・ブルーナー氏の絵本や原画、青年時代のグラフィックのデザイン画、絵画など約1300点です。かわいくて微笑ましいその絵の中に、作家の厳しいこだわりと、信念が込められていました。とにかく見応えたっぷりで、ミッフィーが世界中で愛されている理由がわかるようです。 夏の海を楽しみたいという方々には、帆船「観光丸」での洋上クルーズがおすすめです。大村湾の美しい景色を楽しめるだけでなく、デッキでのロープワークも体験できるとあって、親子連れに人気です。大村湾クルーズは、ヨットやボートなどでも行われています。好みのスタイルで海へ乗り出してみませんか。 この夏のハウステンボスでは、太陽の下で元気に遊ぶ子供たちを大勢見かけることができます。運河では、「バンパーボート」というタイヤのような丸い形をしたボートに乗ってはしゃいだり、広場では地面から噴き出す噴水や霧を浴びて笑顔いっぱい。人口の雪を積もらせた「サマースノーランド」では、炎天下で雪だるまづくりに夢中になる子など、エキサイティングで、涼しい遊びが街のあちらこちらに用意されています。 街の一角には、人気のテレビアニメ「マシュマロ通信(タイムス)」の世界を再現した「マシュマロタウン」もオープンしました。手作りドーナツがおいしい「ドーナツショップ」や「シナモンの占いの館」、グッズ販売、ゲームなど、お楽しみが満載の賑やかなタウンです。 夏休み期間中(~8月31日)毎日、日替わりで、ビーズストラップや万華鏡、麻ひも手提げ、手作りカレンダー、アロマ石鹸などの手作り体験ができる「SUMMERワークショッププログラム」(1プログラム1000円)も、親子に好評です。約1時間ほどで、手作りの作品を仕上げることができます。これを利用して、夏休みの図工の宿題を仕上げるのもいいかもしれません。その日によって、作品のアイテムが変わるのでチェックして参加してくださいね。

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  • 第196号【夏野菜ことはじめ~トマト、トウモロコシ~】

     暑中お見舞い申し上げます。全国的に梅雨明けが早かった今年。長崎も平年より約1週間ほど早い今月11日に明けました。いきなりやってきた蒸し暑い夏に、早くも夏バテぎみの人が続出。こんな時こそ、旬の食材から元気をいただいて暑さに負けない毎日を過ごしたいものです。 今回は、長崎がはじまりといわれる夏野菜を二つご紹介します。ひとつ目は、食卓を真っ赤な元気カラーで彩るトマトです。子供の頃、畑でもぎって食べたトマトは夏の太陽の匂いがしておいしかったですね。今ではスーパーなどで年中手に入り、私たちの毎日の食卓に欠かせない野菜になっています。 最近ではトマトの赤い色をつくるリコピンという色素が、ガンを防ぐ効果があるということで話題になりました。また美肌づくりに欠かせないビタミンCや体内の余分な塩分の排出を助けて高血圧を予防するカリウムも豊富など、栄養面ではたいへん優れた野菜です。 そんなトマトの原産地は南アメリカです。大航海時代にヨーロッパへ渡来したあと、17世紀にオランダ船が出島に運んできたのが日本での最初だといわれています。その頃は観賞用として栽培され、見た目のとおり、「あかなす」とか、「唐柿」などと呼ばれていたそうです。明治に入ってから食用の野菜として輸入されたそうですが、独特の臭いが日本人には好まれず、なかなか普及しませんでした。消費が増えたのは昭和30年代に入ってからで、この頃には改良され、気になるトマト臭がずいぶん緩和された品種になっていたようです。 もうひとつの長崎ゆかりの夏野菜は、トウモロコシです。お米や小麦とともに世界の三大穀物のひとつです。トウモロコシの原産はアメリカ大陸で、アメリカ先住民の主要穀物として栽培されていたそうです。日本へはトマトよりも少し早く16世紀の南蛮貿易時代に、ポルトガル船によって長崎に伝えられといわれています。当時、長崎では「ナンバンキビ(南蛮黍)」と呼ばれていました。 また、トウモロコシは今でも「トウキビ(唐黍)」とも呼ばれますが、その名からも想像できるように、中国から伝わったという説もあるようです。ただ、オランダ船が運んできたトマトを「唐柿」と呼んだように、とにかく当時の長崎では、海を渡ってきた珍しいものに対して、運んできた船の国籍にかかわらず「南蛮○○」「オランダ○○」「唐○○」というふうに称することがよくあったようです。余談になりますが、野菜の名に限らず、このような当時の人々のシンプル&アバウトな名前の付け方は、何かと深読みしがちな現代の歴史愛好家たちにいろいろと混乱を与えているような気がします。 トウモロコシはビタミンB1、B2、Eとリノール酸を含み、動脈硬化の予防にいいそうです。また、ヒゲや、芯の部分も利尿作用や血中の脂肪を減らす栄養分が含まれているとか。焼きトウモロコシの香ばしい匂いは食欲をそそり、茹でたトウモロコシも甘くてジュシーな種実がたまらなくおいしいですよね。 この夏も、トウモロコシやトマトなど旬の野菜を豊かな食生活と健康づくりにお役立てください。 ◎参考にした本や資料/「からだによく効く食べもの事典」(池田書店)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第195号【長崎ラムネ物語展(長崎市歴史民俗資料館)】

     りんご飴、わた菓子、お面に風船…夏祭りの出店に並べられたおもちゃやお菓子の中で必ず見かける飲み物といえば、「ラムネ」ですよね。ビー玉入りの個性的なスタイルと、甘くてちょっぴり苦味のある炭酸の味わいは、子供の頃の夏の思い出とも重なって懐かしい気分になります。そんなラムネと長崎との深い関わりについて紹介した「長崎ラムネ物語展」が、長崎市歴史民俗資料館(長崎市上銭座町)で今、開催されています(~7月31日迄)。 「日本清涼飲料史」によると、ラムネと日本の出会いは、嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航した際、船に積んでいたラムネを幕府の役人に飲ませたのが最初だとされ、それが定説になっているようです。このペリーより前か後かは定かではありませんが、実は長崎・出島にも江戸時代の後期にはラムネが輸入されています。長崎市内の発掘調査で出てきたラムネ瓶により、出島だけでなく、新地荷蔵や町家などでも飲まれていたことが確認されているそうです。 発掘されたラムネの瓶は、「キュウリ瓶」と呼ばれるタイプで、文字どおりキュウリのようなユニークな形をしています。この頃の口栓はコルクだったので、それを湿らせておくために横に置かれ、飲む時に専用の台に置かれていました。ラムネは当初、「オランダ水」と呼ばれていましたが、のちにコルクの栓を抜くとき「ポン」と勢いのいい音をたてていたことから「ポン水」と呼ばれるようになります。そして現在のラムネという名称がおおやけに長崎で使われるようになったのは、明治33年(1900)頃からで、「レモネード(Lemonade)」の名称で輸入されていたものが、訛ってラムネとなったといわれています。 さて、「長崎ラムネ物語展」では、日本でもっとも早い時期にラムネ製造を行ったとされる長崎の2つの製造元が紹介されています。製造者の名は藤瀬半兵衛氏、そして古田勝次氏という人物です。藤瀬氏は慶応元年(1865)、長崎で製造をはじめたのちに東京に移転。一方、古田氏は藤瀬氏より少し後に開業し昭和46年まで製造を続けていました。古田氏はラムネのトレードマークとして握手をしている図柄、その名も「お手引きラムネ」というマークを使っています。世界の人は仲良く手を握らなければという考えから生まれた図案だそうです。世界に目を向けた明治時代の商人の心意気が伝わるようです。「お手引きラムネ」のマークのついたラムネは現在も販売されていて、長崎市内の食事処や商店など置いているところもあるようです。(諏訪神社の月見茶屋にもあります)。 又、外国人では、長崎にウォーカー商会を設立した海運・貿易商のウォーカー兄弟が、「バンザイ・エアレイテツド・ウオーター・ファクトリー」という会社を立ち上げ、1904年にラムネ製造を開始しています。長崎市小曽根町には、その時の製造所だったレンガ造りの建物が現在も残されています。 「長崎ラムネ物語展」ではそんな先駆者たちが製造した時代の珍しいラムネ瓶が数タイプ展示されています。ぜひ、間近で御覧下さい。余談ですが、長崎市歴史民俗資料館は、小規模ながらもユニークな企画展を催すことで知られるミュージアムです。知的好奇心旺盛な方は今後の企画展も要チェックです。 ◎参考にした本や資料/「日本清涼飲料史」(東京清涼飲料協会編)、「歴史民俗資料館だよNo.47」(長崎市歴史民俗資料館)

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  • 第194号【貿易港フィランド(FIRAND)を散策】

     九州本土の西北端、平戸瀬戸を隔てて浮かぶ平戸島は、南北に細長くタツノオトシゴに似た形をしています。北は玄界灘、西は東シナ海を望む風光明美な島で、長崎市から車で約3時間ほどです。 九州本土と平戸瀬戸をまたぐ巨大な平戸大橋(長さ665m、高さ30m)を渡るとまもなく平戸の中心市街地に到着です。かつてこの地は、日本初の海外貿易港として栄えました。日本が鎖国する前のことです。今回はその面影を辿りつつ平戸の魅力に迫ります。 平戸港を囲むようにしてある平戸の市街地は旧平戸藩の城下町で、2~3時間もあればひとめぐりできる小さな街です。しかし、街に点在する史跡をひとつひとつ堪能し、食や文化に触れ、風情あるたたずまいに目を止めながら歩けば時間はいくらあっても足りないというくらい奥深い街なのです。 日本の西の端に位置する平戸は、その地の利を生かして古くから中国や朝鮮との交流がありました。奈良・平安時代には遣唐使船の寄港地として船や人々が往来し、鎌倉・室町時代には、この地を治めていた松浦氏はアジアとの貿易で富みを得ていたといいます。 このように早くから海外交流に目覚めていた平戸が、さらなる国際化で繁栄をみせるのは1550年にポルトガル船が入港してからのことです。この時から、のちに徳川幕府が鎖国政策で海外貿易の拠点を長崎・出島だけとするまでの約90年間、平戸の港ではポルトガル、イギリス、オランダの国々の船と交易が行われました。平戸は、「FIRAND」(フィランド)と呼ばれ南蛮貿易の隆盛を極めたそうです。 平戸港の入り口右側には「常燈の鼻」と呼ばれる石垣の防波堤があります。ここにはかつてオランダの国旗がはためき、そばには1609年、日本で初めて開設された平戸オランダ商館がありました。しかし、1941年、幕府の命令で長崎出島に移設される際、その建物は徹底的に取り壊されたそうです。現在は、当時、貿易品が積みおろされていた階段状の埠頭や1610年~1620年代に築かれたという高さ2メートルほどの「オランダ塀」、オランダ商館員らが使用した井戸などが残されています。 街の中心部には、城と城下街を結ぶ石橋がありました。「幸橋(さいわいばし)」という名ですが、別名「オランダ橋」(国指定重要文化財)とも呼ばれています。1702年に、オランダ商館の築造に携わった大工さんたちによって造られたものです。ここから山手の方へ10分ほど歩くと、かつて東西の文化が共存した平戸の街を象徴する「寺院と教会の見える風景」が見られます。 平戸の市街地はエキゾチックな石畳の道が続き、ゆったりとした城下町ならではの風情も漂っています。そんな街中で、樹齢400年という大きなソテツに出会いました。太い茎が枝分かれしてニョキニョキとのび、くだを巻いている状態です。こんなソテツは見たことがありません!江戸初期の貿易商の家の庭に植えられていたものそうです。このソテツに南蛮貿易で栄えた頃の平戸について、いろいろ聞いてみたくなりました。

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  • 第193号【長崎の金星観測碑】

     しばしば足を止め見上げる空は、心をときめかせたり、おおらかな気分にしてくれます。今月8日、金星が太陽の前を横切るという現象がありましたが、ご覧になられましたか?日本では130年ぶりという現象に、多くの人が空を見上げたことでしょう。 この日、金星が太陽に入ったのは、午後2時11分。全国的に悪天候で長崎も曇り空でしたが、夕方近くになって晴れ間がさし、感動の天体ショーが観測されました。長崎市科学館では、午後4時20分から見られるようになった金星の丸い影が太陽の前をゆっくりと過ぎる様子をインターネットでも中継したそうです。 ところで130年前の金星の太陽面通過は、1874年(明治7)12月9日でしたが、外国の観測隊が長崎で観測を行ったことをご存知ですか?当時、欧米の国々は金星の太陽面通過の現象を通じて、地球と太陽の正確な距離を求めようと、観測がしやすいとされた東アジアなどに観測隊を派遣させたそうです。その中で、日本の横浜と長崎も観測の適地として選ばれ、長崎にはフランスとアメリカの観測隊がやってきたのでした。 天文学者ジャンサン氏率いるフランスの観測隊は、長崎港から北側に位置する金比羅山を観測地に選びました。金比羅山の一角には、この時の観測を記念して建てられたピラミッド型の碑があります。碑には、金星を意味する「VENUS」の文字が大きく刻まれていました。ほかにも関係者の名前らしき文字や何かのデザインが刻まれているようですが、風化してよくわかりません。長い時の流れが感じられます。 この碑から東に24メートルほど離れた場所には、レンガ積みの金星観測台がひっそりと残っていました。実際に観測の機材を載せて使われた貴重な史跡ですが、発見されたのは何と平成5年(1993)のことで、つい最近です。生い茂った樹木に隠れ、その存在は長い間忘れ去られていたようです。 一方、ダビッドソン氏率いるアメリカの観測隊は、長崎市街地の南側に位置する「星取山」で観測を行いました。観測地だったところには現在、「星取山無線中継所」があります。この時の観測がきっかけで、もとは「大平山」という名の山だったのが、「星を撮る」から、「星取山」と呼ばれるようになったそうです。 アメリカのダビッドソン氏一行は、星取山での金星観測にあたり、正しい経緯度を知る必要性から、長崎と東京間の経度差の測定を行い、日本最初の経緯度原点(東京都板倉:チットマン点)値を決定しています。金比羅山で発見された観測台は、経緯度原点地を決める基準になったダビッドソン点の位地を推定する手がかりとなるもので、測地学上重要な意義を持つのだそうです。 観測台のそばには長崎県測量設計業協会が、「我が国初の経緯度原点確定の地」の記念碑を平成9年(1997)に建立しています。 現在、金比羅山の観測地跡地に設けられている展望所からは、長崎市街地と港が一望できます。フランスの観測隊は、天体だけでなく、居留地時代で賑わう長崎港もしっかり眺めたに違いありません。

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  • 第192号【初夏のハウステンボス】

     全国的(北海道を除く)に梅雨入りして早1週間が過ぎました。ジメジメのお天気に外出もおっくうになりがちですが、ここはいさぎよく雨と仲良しになって、雨に濡れる庭の花々を楽しんだり、家の中でじっと雨音に耳を傾けたりするのもいいですね。小さな気分転換になります。 それでも、お出かけして思いきり気分をリフレッシュしたい!という方には、ハウステンボスがおすすめです。今、「ヨーロピアンフラワーフェスティバル」を開催中(7月16日迄)で、アジサイなど季節の花々が満開。賑やかなイベントもあって、しめった気分を爽やかにしてくれます。 広大なハウステンボスの花畑には今、白、ピンク、赤色のベゴニアが美しいグラデーションを描くように植えられています。街の通りや運河沿いには、涼しげな青紫色のアジサイがひときわ鮮やかに咲き誇り、各所で雨の風景にもよく似合う素敵な花々やハーブとの出会いがあります。 中でも、街の中心部にあるホテル・アムステルダムの中庭はぜひ訪れて欲しいところのひとつです。色とりどりの花々でつくられた「ヨーロピアンパティオガーデン」が設けられていて、その庭を愛でながら優雅なティータイムを過ごせます。また、世界各地に分布する「ベゴニア」の多彩な品種を集めたコレクションも楽しめます。 ホテル・アムステルダムの近くにあるマリンクラブハウスの一室では、韓国人写真家チョ・セーヒョン氏の写真展「the man」を開催中です。チョ・セーヒョン氏は、俳優、ミュージシャンやスポーツ選手など韓国の多くの有名人を撮影している写真家で、展示されている作品50点の中には、「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンさんやサッカー選手のアン・ジョンファンさんなどの写真もありました。 韓国の男性たちの魅力が伝わる写真展で気分はすっかり・KOREA・!となったところで、つづくランチタイムも韓国料理店「ソウル」へ足を運びました。ハウステンボスのシンボルタワー「ドム・トールン」のある建物の中で、中国料理やイタリア料理など各国の本格的な味を楽しめるレストラン街の一角にあります。 注文したメニューは、この季節どうしても食べたくなる「韓国冷麺」。ソバ粉とジャガイモのデンプン粉でつくられたハンフン麺という韓国独特のコシのある麺を、唐辛子味噌を入れたあっさりスープでいただきます。梅雨時の蒸し暑さを忘れさせる唐辛子の刺激。さすが、本場の味といったおいしさです。 その他の場内イベントとして、日中は歌やダンスのエンターテイメントショー、夜には海辺の広場でクラシック&ジャズライブや、ミュージカルなどが連日行われていて、ドラマチックなひとときを楽しむことができます。 ところで、現在、「HUIS TEN BOSCH変身中」というTVCMでもご存知のように、ますます魅力的なリゾート地を目指して、今、場内の各所でリニューアル工事が行われています。新生ハウステンボスは、7月17日からだそうで、新スポットや新施設などがお目見えする予定です。乞う、ご期待!

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  • 第191号【長崎てんぷら】

     サク、サクッとした衣に包まれた天ぷら。大好きという人も多いことでしょう。天ぷらはお寿司と並ぶ代表的な日本食のひとつですが、長崎学の書籍などを読むと、織田信長の時代に南蛮人によって長崎に伝えられた料理として紹介されています。最初から日本食だったわけではなかったようですね。 みろくやのホームページに掲載している越中哲也先生の「長崎開港物語~第一回西洋料理編(一)」にも、南蛮料理のひとつとして伝えられたことが記されています。天ぷらという言葉もポルトガル語のTemporaからきたらしいということです。 歴史的に天ぷらにゆかりの深い長崎には、「長崎天ぷら」という郷土料理があります。天ぷらといえば通常、野菜や魚などを、天ぷら粉か小麦粉を水で溶いた衣に包んで油で揚げ、天つゆなどでいただきます。一方、長崎天ぷらは、砂糖や卵であらかじめ味付けした衣で揚げ、天つゆなどは添えないのが特長です。衣の味と食感は、前者があっさり、サクサクとしているのに対し、後者は甘くてサックリ&ポッテリといった感じです。 香ばしく揚がった長崎天ぷらは、揚げ菓子のようでもあり、子供の頃、母親が夕食のおかずにと揚げていくそばから、ひとつ、ふたつ摘んで食べては怒られた記憶があります。我が家では天ぷらといえば、長崎天ぷらがスタンダードで、天つゆでいただく天ぷらは、外食先のものという認識でしたが、周囲10名ほどの友人らの家庭の天ぷらについて聞いてみると、衣に味付けをしない天つゆ派が半分以上という意外な結果が出て驚きました。てっきり、みんな長崎天ぷら派だろうと思っていたからです。 このミニミニ調査の結果では、長崎てんぷら自体を知らない長崎人もいました。また、ふだんは天つゆ派だけど、たまに長崎天ぷらを作るというところもありました。また、長崎天ぷら派の家は、60代以上の家族がいるところばかりでしたので、もしかしたら、あっさり系を好む現代っ子の長崎天ぷら離れという現象が、いつの間にか進行していたのではないだろうかと勝手な想像をします。では、長崎天ぷらの作り方をご紹介しましょう。(1)衣に包む材料を用意します。野菜ならサツマイモ、インゲンマメ、レンコンなど。魚なら甘ダイやブリの切り身やキビナゴなど、お好きなものを選んでください。野菜は適当な大きさに切り、魚類は洗って水気を切り、薄塩をしておきます。(2)衣を作ります。小麦粉1カップと片栗粉小さじ1を合わせて振るい、水50cc、酒大さじ1杯、砂糖大さじ1/2杯、塩少々、卵1個(卵黄のみ1~2個でも可)を加えてよく混ぜ合わせます。調味料の分量などは好みに応じて適宜加減してください。(3)材料の野菜や魚類は水気をとり、衣をつけ油で揚げます。砂糖が入っているので焦げやすくなっていますから火加減に注意して揚げて下さい。さて、長崎天ぷらは、冷めてもおいしいのが特長です。でも、やはり揚げたてがいちばんです。温かいうちに召し上がってください。

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  • 第190号【長崎・龍馬の足跡を訪ねて】

     幕末の志士、坂本龍馬(1835―1867)は、長崎へは1864年から、京都の近江屋で暗殺される1867年までの数年間にたびたび立ち寄っています。まさに維新前夜といえるこの時期、龍馬は長崎のどんなところに出没していたのでしょう。その足跡を訪ねてみました。  スタートは、「浜んまち」の名称で親しまれている浜町アーケードの入り口付近にある「土佐商会跡」(長崎市浜町)です。土佐藩の海軍貿易を取り扱った土佐商会は1866年(慶応2)に設立。その翌年、龍馬引きいる海援隊がここで結成されました。海援隊は、すでに龍馬が長崎で組織していた日本初の商社・亀山社中(長崎市伊良林)を再編成したものでした。 土佐商会跡からほど近いところに、新地中華街へと抜ける「西浜通り」があります。その通りにある三菱信託銀行の辺りは、かつて薩摩藩蔵屋敷(長崎市銅座町)がありました。薩摩藩蔵屋敷は、幕末の頃には志士らが集い活躍する場になっていたとか。1866年に結ばれた薩長連合(1866年成立)の成立のために尽力していた龍馬もまた、ここを訪れたに違いありません。いったん土佐商会跡にもどり、鉄橋(くろがねばし)を渡って、長崎地方裁判所や長崎法務局などがたち並ぶ万才町へ。この町の一角にある長崎法務合同庁舎は、幕末の頃、長崎を代表する豪商・小曾根(こぞね)家の邸宅があったところです。小曾根家は、坂本龍馬や勝海舟と親交があり、亀山社中もその財力で援助したそうです。 小曾根邸跡から、地元テレビ局がある金屋町まで徒歩5分。テレビ局の入り口近くに土佐藩士、後藤象二郎の邸宅跡の碑があります。象二郎は、武器や軍艦の買い付けのため長崎に来ていましたが、同藩を脱藩していた龍馬と意見が一致し、土佐藩を倒幕派へと導いた人物です。土佐商会の経営にも携わり、龍馬と象二郎の会談により海援隊も組織されています。 長崎市から海を渡り、五島列島・有川町江ノ浜地区へ。その海岸沿いに「龍馬ゆかりの地」の石碑がありました。この石碑から見渡す海の沖合いで、1866年春、亀山社中の練習船ワイル・ウェフ号が暴風雨に合い遭難するという事故がありました。碑の解説板によると、この遭難事故で、亀山社中の若き志士らを含む10数名の乗組員が亡くなりました。有川の代官をはじめ地元の鯨組の人々もかり出されて、遭難者や船の荷物の引き上げにあたったそうです。龍馬はこの時、伏見の寺田屋で襲われ負傷していた傷の療養のため鹿児島にいて、現地には事故から約1ヶ月半後に訪れ仲間の冥福を祈ったと伝えられています。江ノ浜地区には乗組員の墓と、龍馬の依頼で建碑されたワイル・ウエフ号遭難者の慰霊碑も残されています。◎参考にした本:長崎の史跡~北部編、南部編~(長崎市立博物館)

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  • 第189号【唐風の中に和風の趣き・聖福寺】

     長崎の唐寺・聖福寺(しょうふくじ:玉園町)は、崇福寺(そうふくじ:鍛冶屋町)、興福寺(こうふくじ:寺町)、福済寺(ふくさいじ:築後町)とともに、「長崎の唐四ケ寺」、「長崎四福寺」のひとつに数えられています。昨年、さだまさしさん原作の「解夏」という映画のロケ地にもなり話題になりました。 聖福寺は、長崎駅前にある筑後町から隣接する玉園町にかけて続く「筑後通り」の一角にあります。この通りは、他にも冒頭の福済寺をはじめ由緒ある寺院が建ち並ぶ静かなところで、同じくお寺が並ぶ思案橋近くの「寺町通り」界隈とは、また違った落ち着いた風情が漂っています。 聖福寺(1678年創立)の開基は鉄心という長崎人です。中国人を父に持つ鉄心は、中国の名僧・木庵に師事し、黄檗宗の総本山である京都宇治の「黄檗山万福寺」で修行。のちにこの寺の要職にも付くような名僧となりました。そんな鉄心のために、長崎奉行や在留唐人らが建立したのが聖福寺だったのです。 ところで、黄檗宗とは、1654年に隠元禅師が中国から長崎に渡来した際に伝えた禅宗の一派です。(ちなみにこの時のお土産がインゲン豆で、「隠元」の名前が付けられました。)日本で活躍した隠元禅師は、ときの将軍さまにこの国にとどまるようにいわれて、永住を決意。そうして1661年に開創されたのが、のちに鉄心が修行した宇治の万福寺でした。 聖福寺は、大陸の大らかな風格が漂う建物ですが、どこか和風の趣もあります。それは、鉄心が当時すでに長崎にあった他の3つの唐寺の建築様式よりも、宇治の万福寺の様式を好んだからと推測されているそうです。 とはいえ、やはり唐寺。釈迦を祀る大雄宝殿の正面の扉に施された桃の浮き彫りや朱塗りの手すりは、いかにも大陸の息吹が感じられます。また、ほんのり朱色がかっ屋根瓦は、肥前武雄産の「釉薬(うわぐすり)かけ瓦」で、長崎では他に見られないものだそうです。 聖福寺の敷地内には他にも見どころがいろいろあります。ひとつは「惜字亭(しゃくじてい)」と呼ばれる赤レンガ造りの六角形をした炉です(1866年造)。お寺の不要となった文書類を焼却するための炉なのですが、ハッとさせられるのは、その「惜字亭」という名称です。ものごとを大切にする当時の心が伝わってくるようです。 また、明治初期に廃寺となった寺の瓦などを集めて造られた「瓦壁」や、毎年茶道の各流派が集って茶筅の供養が行われているという「茶筅塚」(昭和40年建立)などもあります。観光がてら、散歩がてらに、お出かけになりませんか。◎参考にした本:長崎歴史散歩(原田博二著・河出書房新社)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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