第200号【出島は高い賃貸物件だった】
長崎は夏の一大イベント、精霊流し(8/15)が終わってホッと一息…、と言いたいところですが、今年はそういうわけにはいきません。今、世界中がアテネオリンピックの話題でもちきり。長崎県(県内高校卒業者も含む)からは、野球の城島健治選手、女子バスケットの浜口典子選手、永田睦子選手、バトミントンの大束忠司選手、自転車の井上昌己選手、そしてサッカーは、国見高校OB大久保嘉人選手、徳永悠平選手、平山相太選手が出場。オリンピック生誕の地アテネに向かって連日エールを送っています!(^▽^)/ガンバレ、ニッポン!
さて、当コラムの方は、感動満載のアテネからひとまず離れて、久しぶりに出島のお話をお届けします。夏休みともなると、観光客だけでなく、地元の人々も家族連れで訪れる機会が多くなるようですが、この話を知っていると、出島見学が少し面白くなるかもしれません。
出島にはその全貌を一目で見渡せる「ミニ出島」があります。東京ドームの約1/3の広さがある出島を、1/15に縮小したもので、江戸時代のシーボルトのお抱え絵師、川原慶賀が描いた絵をもとに建造物もミニチュアで再現。ガリバー気分で江戸時代の出島を眺めることができます。
「ミニ出島」を見ると、扇形の狭い敷地を有効利用して、古き良き町家風の家屋や蔵が整然と軒を列ねている様子がよくわかります。オランダ人は、そこに居住するにあたって、高い家賃を支払い続けていました。
出島は、江戸時代はじめ、長崎市中に自由に居住していたポルトガル人を住まわせるために造られた人工の島です。建設費用は、長崎の有力町人25人が出資しました。その金額は銀200貫目、現在のお金に換算すると約4億円ともいわれています。有力町人らは出島を賃貸物件にして、建設にかかった費用にあてることにしました。最初に出島に住んだポルトガル人、そしてのちに平戸から出島に移設されたオランダ商館も家賃を支払ったわけですが、その金額は、オランダ商館の場合、年間銀55貫目、今のお金にすると約1億円になるそうです。出島貿易でいかに大きなお金が動いていたかが、想像できる賃貸料です。
ところで、出島の和風家屋は、当時の長崎の大工さんたちによって建てられました。現在の出島には、江戸時代の「ヘトル部屋(商館長次長の居宅)」や「一番船船頭部屋(オランダ船船長の宿泊所)」、輸入したものを保管した蔵など、数棟がすでに復元されていますが、復元にあたっては、今も長崎の街に残る伝統的町家の造りを大いに参考にしたそうです。
当時の長崎らしい家屋の特長のひとつに屋根があります。幕末~明治期の長崎市街地の写真などでよく見かけるのですが、家々の黒い瓦屋根のふちを真っ白な漆喰で押さえた屋根が、遠目から見ると屋根の上に「口」の字を書いたいるように見えます。この漆喰でふちを押さえる技術が、長崎風といわれる屋根のおさめ方だそうです。その技術は、残念ながらミニ出島のミニチュアの家屋では見られませんが、復元された家屋の屋根には施されていました。そのほか、雨戸やひさしなどにも長崎風といわれる建築技術を見ることができます。ぜひ、現地でご覧になってください。
◎参考にした本など/「よみがえる出島オランダ商館~19世紀初頭の町並みと暮らし~」(長崎市教育委員会)