第203号【長崎の街に点在する昔ながらの溝】
長崎市の中心市街地を歩き回っていると、表通りから少し入った路地などで、石組みの溝と出会うことがあります。その溝は、底に長方形の板石が敷かれ、それを両側から別の板石が斜め立て掛けるように組まれたもの。石と石の間は漆喰でふさがれています。
その形状から三角溝とも呼ばれているこの溝は、長崎の繁華街・浜町にほど近い築町や鍛冶屋町、長崎港にほど近い五島町あたりなどの数カ所で見ることができます。コンクリートのビルが建ち並ぶ中に、ふと現れるもの静かな石組みの表情。どこかほっとする風情が漂っています。この三角溝が造られたのは、明治時代のことです。
日本は、開港してから明治中期にかけて、外国人居留地からコレラなどの伝染病がはやりました。その対策として、神戸や横浜の外国人居留地では下水道が建設され、その後、東京でれんが造りの神田下水道が造られるなど、外国人居留地だけでなく日本各地の主要都市でも下水道建設が行われるようになります。
長崎では、1885年(明治18)にコレラが流行。それを機に、居留地以外の長崎市街地でも下水溝の対策が講じられました。長崎の場合は、東京・神田下水道のように地下につくられたものでなく、すでに市街地に張り巡らされていた溝を改修しました。溝を拡大し、板石を敷いて水が流れやすいように傾斜を持たせ、汚水が地下に浸透しないように、石と石の間を漆喰でふさいだのです。
この時の改修された下水溝の幹線は、6線ありました。第1線は今博多町から築町を経て中島川へ合流。第2線は麹屋町を起点に、ししとき川(現:鍛冶屋町付近)から銅座川へ合流。第3線は、万屋町を起点に銅座川へ合流。第4線は、寄合町を起点に丸山町を経て、銅座川へ合流。第5線は、本博多町(現:万才町付近)を起点に五島町を経て海へ入る。第6線は、鍛冶屋町を起点に第2線に合流。以上の6つの幹線で現在も残っているのは、第1線、第2線、第5線、第6線の一部です。
これらの下水溝は、明治初期、近代的な公衆衛生の考え方をもとに疫病対策を実践した証で、貴重な歴史的遺構と思われます。長崎市文化財課に問い合わせてみると、貴重な遺構であるということで調査はされたが、まだ保存されるべき文化財などとして指定されるには至っていないということでした。
ちなみに日本の下水道の生みの親といわれているのが、大村出身の長与専斎(ながよせんさい)です。専斎は1871年(明治4)に、岩倉具視欧米視察団に参加し、内務省の初代衛生局長時代には、疫病の根本的な予防は下水道をつくることだとして、神田下水道の建設に着手したそうです。また専斎は、「衛生」という言葉を生み出した人物としても有名です。
明治時代、新しい公衆衛生の武器として造られた三角溝。100年以上も現役でいるその丈夫さもすごいことですが、見た目も現代のコンクリートづくりよりセンスの良さを感じます。三角溝には現代人が見習うべきものがあるのかもしれません。
◎参考にした冊子/「長崎県近代化遺産総合調査報告書」(長崎県教育委員会)