第129号【武蔵と島原の乱と出島】
今、大河ドラマの影響で時代を越えた国民的ヒーロー!? となっている剣豪・宮本武蔵。 その生涯は謎が多いといわれていますが、佐々木小次郎との厳流島での戦いや、 剣の修行のため諸国を巡る旅をしていたこと等はよく知られています。 その足跡をたどると、島原の乱に参戦するため長崎(島原半島)へも来ていました。((^。^;ノナント…
▲原城、城壁跡
江戸時代はじめ1637年(寛永14)に起きた島原の乱は、 島原藩主の厳しいキリシタン弾圧と過酷な年貢の取り立てに苦しむ地元民の不満を背景に起こった一揆です。 約3万人ものキリシタンや農民らの一揆軍が原城(南有馬町)に立てこもり、幕府軍の度重なる攻撃にも強く抵抗。 その戦いは約120日間にも及び幕府を震撼させました。(゜0゜;;
武蔵が幕府軍としてこの乱に参戦する時、小倉から鍋島藩(佐賀)、そして海路を渡り、 同じく鍋島藩で島原半島北部にある国見町神代(こうじろ)の港に上陸し、同半島の南側に位置する原城へ出向いたかもしれないという説があるそうです。 海岸の絶壁にあった神代鍋島藩の船着場は現在、神代橋が架けられ島原鉄道も通っています。 橋の下には小さな船が数隻停泊し、その名残りが感じられます。 (’’;)モシヤ、ココニ武蔵ガ…
▲国見町神代。ここに武蔵が?
ところで島原の乱の起きる前年、長崎港内には人工島・出島が完成しています。 すでに南蛮貿易で栄えていた長崎に幕府はこの出島に市中にいるポルトガル人を住まわせることで、 彼らによるキリスト教の布教活動の取り締まりをしながら、南蛮貿易も掌握しようと考えていたのです。
しかし出島の完成で鎖国の基礎が固まったと思っていた矢先に起きた島原の乱に、 幕府は大きなショックを受け、まもなくポルトガル船の日本渡航は全面禁止。 ポルトガル人は国外追放となります。そして出島には平戸にあったオランダ商館が移転。
その後200有余年にも渡り貿易が行われることになります。 ちなみに島原の乱では幕府の依頼によりオランダ船から砲撃も行われています。 ( □o□)/ 砲撃デ幕府ノ信頼ヲ得タヨウデス
▲城跡から望む南有馬
さて養子の伊織とともに参戦していた武蔵は、 一揆軍による城壁からの投石でスネに怪我したというエピソードが残されています。 既に54歳だった武蔵は剣豪というより、兵法に優れた軍師として招かれたようで、 島原での体験は晩年に執筆した『五輪書』にも影響を及ぼしたかもしれません。
武蔵と島原の乱と出島。 戦国末期から江戸初期という変化に富んだ時代に生まれ起きたこの三つをつなげると、 まだまだ新たな興味や謎が生まれて来そうです。 (^ー^)武蔵ハ西洋ニ興味ナカッタノカナァ