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  • 第113号【長崎の秋の食卓を彩る魚たち】

     代表的な秋の魚といえばサンマ。脂がのったこの時期はやっぱり塩焼きが一番。 あの香ばしい匂い、ホントにたまりません。 そのサンマ以上に魚屋の店頭で目立っているのは、やはり今が旬のサバです。 どれも目が澄み、尾の方までぷっくり太っていておいしそう。 シメサバや味噌煮などいろんなメニューが頭に浮かびます。 (^∇、^)“カマス“もオイシソー▲お店に並んだきれいなサバ サバは青背魚の中でも「頭がよくなる」と話題になった栄養素、 EPAやDHAが多く含まれ、ガンやボケ防止にも効果があるといわれています。 健康のために家族でたくさん食べたいものです。 ちなみにこれから冬にかけて五島沖や対馬海峡などで獲れるサバは、 非常に脂がのっておいしく「旬(とき)サバ」というブランド名で長崎県外に出回っているそうです。あなたの街の魚屋さんで「旬サバ」を見つけたらぜひ味わってみて下さい。 (’▽‘)/ヒト味違ウ美味シサ 「モチ魚(ウオ)」もおいしい季節。関東方面ではイボダイと呼ばれている魚です。 エラの上に黒い斑点を持ち、ちょっと丸みのある姿をしています。甘鯛に似た淡白な味わいです。 関東では「イボダイの開き」はちょっとした高級品らしいのですが、長崎では割合リーズナブル。 ちなみに選りすぐりの塩干品を置いている長崎の某デパートでは、五島沖産モチ魚の一夜干しは2匹で500円でした。 一般家庭では刺身やカラ揚げ、煮付けなどでいただくことが多い魚です。 (^^)肉厚デ、美味!▲五島沖産のモチ魚とカマスの開き 長崎で「アゴ」の名で親しまれている「飛び魚」も旬です。 最盛期(9月下旬~10月上旬)は過ぎましたが平戸周辺で行われているアゴ漁は特に有名で、初秋の風物詩。 山陰沖を季節風にのって南下して来たアゴの群れが飛行機の翼のように胸びれと腹びれを広げて海面上を泳ぎ、 青い身体をキラキラ輝かせる光景が見られるそうです。それを地元の人々が網ですくってとり、焼きアゴ、塩アゴに加工して全国に出荷します。 上品な風味のあるアゴのだしは、長崎のお正月の雑煮や五島うどんに欠かせません。 ところで一年通して新鮮な魚に恵まれている長崎の家庭では、かまぼこを手作りしているところが多いです。 つい先日も我が家ではエソ、サワラが手に入ったのでさっそく作りました。母はすり鉢を使います。 機械混ぜに比べ手間がかかり、夏などは汗だくになるのですが、仕上がりが違うのだそうです。 家庭で作るかまぼこは味や形など家ごとに個性があります。 かまぼこ一切れでその家の味つけの好みやセンスが見えて来るような気がして面白いです。 (^~、^)ンマカ、カンボコばい。▲我が家の手づくりかまぼこ

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  • 第112号【東山手のオランダ坂】

     秋の冷んやりと澄んだ空気がとても心地よい今日この頃です。 観光&修学旅行シーズンの真っ只中ということもあり、 今回訪れた東山手のオランダ坂にも多くの観光客が異国情緒あふれる風情を満喫していました。 (^∇^)/東山手ハ、コラム10号デモ紹介シテマス▲中腹から見たオランダ坂 この一帯は安政の開港(1859年)後、外国人居留地のひとつとして栄えたところで、 今も幕末~明治期の洋館が建ち並んでいます。 当時、居留地には各国の領事館が競うように建てられ、商社、ホテル、倉庫なども次々に造られたのですが、 高台の東山手やグラバー園のある南山手といったところには個人の住宅が多く建てられたようです。 ( ' ∇')>眺メガイイデスカラネ 東山手一帯の石畳の坂道や坂段は、どこもたいていオランダ坂とかオランダ通りなどと地元では呼ばれています。そのオランダ坂のスタート地点ともいえるのが活水学院下にある切り通しの坂。 長崎の観光パンフレットや旅行雑誌などでもよく紹介されるので、ご存じの方も多いことでしょう。 この近くにある東山手十二番館(国指定重要文化財)に行くと、長崎を代表するこの坂の昭和30年代の写真を見る事ができます。▲東山手十二番館(国指定重要文化財) 写真では当時の切り通しの坂が今よりもずいぶん狭かったのがわかります。 時代の要請で道幅が広げられたようです。他にも昭和30年代の東山手の風景写真が十数点ほどあり、 素朴で健やかな人の笑顔と懐かしい坂の風景を楽しむことができました。 この東山手十二番館は明治元年(1868)に建設されたもので、ロシア領事館、アメリカ領事館、 アメリカの宣教師などの住宅として使用されました。 広々としたベランダや廊下に威風堂々とした領事館の面影が感じられます。 現在は長崎市旧居留地私学歴史資料館として利用されています。 オランダ坂をさらに高台へ歩いていくと、2枚の平らな石をV字に組んだ溝が残っています。▲オランダ坂の端にある三角溝三角溝と呼ばれる現役の排水溝です。この形だと雨水や汚物が流れやすいとか。 長崎市内では他の数カ所にも残っています。 グラバーさんの別荘があった長崎港沖の高島やオランダ商館が最初につくられた平戸にも同じような溝があるそうですが、 この溝についてはまだ歴史的には詳しく解明されていないというから残念です。 ( ’o ’)鋭角ナ溝ッテ珍シイデスヨネ 東山手の高台の活水学院や海星学園の裏手をまわると、平地へ下る長い石段があります。 ばってん坂ともいわれているその石段の途中にあった小さな商店は、行き交う人々の休憩&井戸端会議所です。 「登ったり降りたりたいへんだけど、あたしゃココが好きだよ」。 坂や石段に鍛えられたおばあちゃんのおおらかな笑顔がとても素敵でした。 (=´∇`)健康ニモ良カヨ。

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  • 第111号【長崎・斎藤茂吉の歌碑をたずねて】

     日々深まりゆく秋。ふだんは見向きもしない文学書を開いてみたくなるのはなぜでしょう。 今回はそんな季節にふさわしく(!?)長崎ゆかりの歌人・斎藤茂吉の歌碑を訪ねました。 斎藤茂吉は明治15年(1882)、山形県生まれの有名歌人。医者としても大成した方です。 (□_□)/作家北杜夫ハ、茂吉ノ次男。▲斎藤茂吉寓居の跡 茂吉が長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)の精神病学科教授として長崎へやって来たのは大正6年(1917)12月。 前年、長男の茂太も生まれており、妻と子を東京に残しての単身赴任でした。 着任当初、しばらく宿泊したのが長崎駅にほど近い金屋町にあった「みどり屋」という旅館でした。 余談ですが、この「みどり屋」は明治時代に乃木希典や東郷平八郎といった、当時の陸軍関係者が定宿としていたところだそうです。 長崎に来たばかりの頃、茂吉は「あはれあはれここは肥前の長崎か 唐寺の甍に降る寒き雨」という歌を詠んでいます。まだ不馴れな町でのさびしい想いが感じとれます。 翌年の春、旅館などでの仮住まいを経て、やはり長崎駅に近い上町の一角に移り住みました。 現在、そこには「斎藤茂吉寓居(ぐうきょ)の跡」という碑があります。 茂吉は大正10年(1921)3月に帰京するまでここに住み、時折、歌人の集いなどを催していたそうです。 ( ’o ’)長崎デ多クノ歌ガ詠マレマシタ。 寓居跡から少し歩いた場所に緑の芝生に包まれた「桜町公園」があります。 ここにも長崎に来た当初に詠まれた歌を刻んだ碑がありました。 「朝あけて船より鳴れる太笛(ふとぶえ)の こだまはながし竝(な)みよろふ山」。 長崎で聞いた汽笛がよほど印象に残ったのでしょうか。 事実、後に茂吉は『作歌四十年』に、長崎に一夜寝た翌朝からこの汽笛の反響にひどく感動し、 長崎を去った後も忘れることができないでいるという話を記しているそうです。▲緑に包まれた桜町公園 茂吉は、長崎にいる間、丸山あたりでもよく遊んだようです。丸山には「斎藤茂吉遊地」と記された碑もあります。 またちゃんぽんも好きでよく食べていたとか…。 茂吉はしっかり長崎を遊び、味わっていたようです。 興福寺にも歌碑がありました。 「長崎の昼しづかなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花」。 人けも絶え静かな夏の昼下がりの唐寺の趣を詠ったものです。 ( ̄∇ ̄;チャンポンノ歌はナイノカナ? 茂吉は帰京する約1年ほど前より身体をこわし、養生のため雲仙や小浜、 そして佐賀県の古湯、嬉野といった温泉地へも行っています。 小浜には大正9年(1920)に二度訪れたそうで、町には記念の歌碑がありました。 「ここに来て落日を見るを常とせり 海の落日も忘れざるべし」。 小浜の夕日の美しさは茂吉に大きな感動を与えたようです。 (・_;)ソノ感動、シミジミ伝ワリマス▲小浜の美しい夕日を詠んだ歌碑◎参考にした本「長崎の文学」(長崎県高等学校教育研究会国語部会発行)「長崎事典~風俗文化編~」(長崎文献社発行)

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  • 第110号【西洋医学を日本で最初に伝えたアルメイダ】

     先日、著名な長崎の郷土史家の方と同席していた時のこと。某テレビ局からその方へ問い合わせの電話が入りました。 「先生、アルメイダって何ですか?」。何かの番組の下調べだったのでしょうか。「昔のどこかの地名ですか?」。 先生は笑いながら「それは人の名前。室町時代に長崎で最初にキリスト教の布教を行った人です」。 ( ’◇ ’)アナタハ、ゴ存ジデシタカ?▲ルイス・デ・アルメイダ(記念碑説明版より) アルメイダ(1525~1583)はポルトガルの貴族出身で、外科医の免許を持つ青年でした。 大航海時代だった当時、東インドを中心に貿易商として活躍。20代初めには膨大な資産を蓄えたそうです。 ある日、リスボンから東インドに向かう船中で、彼は運命的な出会いをします…。(“)? 運命の相手はイエズス会の神父と修道士でした。 実は彼らは日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの弟子たちで、 『信仰』と『ジパング(日本)』への熱い思いをアルメイダに話しました。 それが縁で1555年、日本(平戸)へ上陸。戦国時代の最中で、戦火に巻き込まれ苦しむ貧しい人々を見た彼は翌年、 人々を救うためにイエズス会の修道士へと転身したのでした。 アルメイダは西洋医学を最初に日本に伝えた人物といわれています。 というのも西日本各地で布教と同時に医療活動も行ったからです。 長崎へ来る前には豊後で、殿様の大友宗麟(おおともそうりん)に、 自らの資産を提供し病院や育児院までつくり、治療にあたっています。 キリスト教の布教はポルトガル貿易とともに行われ、その港は諸事情で各地を転々としていました。 そんな中、アルメイダが長崎に派遣されたのは、1567年の初冬のこと。 さっそく現在の春徳寺付近(長崎市夫婦川町)に布教所を設けると、すぐに500人近くの人がキリシタンなったそうです。 活動情況は具体的にはわかりませんが、他の地でもそうだったように、 医者としての力を発揮していたのかもしれません。 (゛)タブン、ソウダト…。▲アルメイダ渡来碑(夫婦川町) 長崎で多くの信者を得たアルメイダの滞在はたいへん短く、翌年の春には長崎を離れています。 それから1年後には長崎で最初の教会「トードス・オス・サントス教会」(現:春徳寺)が造られました。▲トードス・オス・サントス教会跡の碑(春徳寺の前) 実はイエズス会の宣教師らは布教活動と同時に長崎港の水深を計るなど港の調査も行っていました。 そしていよいよ教会、信者、港と条件の揃ったところで藩主・大村純忠へ開港を要請。 そうして1571年4月、長崎港は開港します。もしアルメイダの長崎での布教が上手く行ってなかったら…。 イエズス会は別の土地を探し、長崎は開港しなかったかもしれません。 (^∇^)マッ、開港ニ至ルニハ、他ノ要因モアッタデショウガ。

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  • 第109号【発掘!ワクワク、長崎奉行所!】

     9月初旬、長崎の歴史ファンをワクワクさせる催しがありました。 それは長崎奉行所跡地の一般公開です。 発掘場所となった県立美術博物館の敷地内(長崎市立山)には2日間の公開期間中、 残暑が厳しい最中にも関わらず約2,300人の市民が訪れ、その歴史的遺構を目の当たりにしたのでした。゜〇゜)コレガ長崎奉行所…。▲長崎奉行所跡(長崎市立山) 長崎奉行所が設けられたのは安土・桃山時代の1592年のこと。 その頃すでに海外貿易で栄えていた長崎は豊臣秀吉の直轄領で、 まもなく徳川の時代になってからも天領として奉行所は継承されました。 その場所は当初、本博多町(もとはかたまち/現在の万才町)にありましたが、 1663年、大火で焼失後、外浦町(ほかうらまち:現在の江戸町)に東役所と西役所の2つを設置。 さらに1671年には東役所が今回の発掘場所となった立山に移され、名称も立山役所と改称。▲発掘された階段が描かれている以後、立山役所と西役所が明治維新で廃止されるまで、長崎奉行所としての役割を果たしたのでした。 (□o□)/役所ガ2ケ所、オ奉行モ2人イタンダヨ。 長崎奉行所は、長崎の歴史にとって出島同様、重要な存在であったにも関わらず、 その面影を偲ぶような建造物の遺構はほとんど残されていませんでした。 しかし今回、発掘現場に行ってみると、奉行所の正門付近にあたる高さ約4mの石垣と、 幅7.8mもある広々とした階段が出土されていました。 その階段は素人目にも丈夫で上等そうな石でできています。 この階段を当時の役人らが行き交ったのかと思うと、つい何度も登り降りしたり、 階段を手で触ったりしてしまいました。 ( ’ー ’)歴史好キナラ分カルヨネ? 奉行所の東側には水の溜まった壕(ほり)が発掘されていました。 その水は発掘後に雨水が溜まったものではなく、背後にある山の水が地下から沸き出たものとか。 濠へ降りる石段もあることから生活用水として利用されていたようです。▲生活用水に使われていた壕また、この濠からは有田焼や波佐見焼などの国内の陶磁器だけでなく、 中国製の急須やドイツ製のボトルなど海外製品も数多く出土しています。 出島貿易を支配した長崎奉行所らしく、インターナショナルで豊かな暮しぶりが垣間見えます。 今回の発掘は、今年度で閉館となる長崎県立美術博物館の後に新しく建設さ れる歴史文化博物館(仮称)の建設にあたり、敷地を試し掘りした際に出土した ものだそうです。発掘された建造物の遺構が今後、利用されるかどうかは安全 面を考慮して検討されるとか。見学者からは「なぜ、このような重要な遺構が 埋められたままなのか」という声が多く聞かれました。しかし過去に埋めてし まった時代があったのは事実。江戸時代、出島貿易の盛衰に翻弄された長崎奉 行所は、今も尚、時代に翻弄されているようです。 ( ’o ’)/モット上手ニ残シテホシイデス。

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  • 第108号【くんちの心意気が伝わる、庭見せ】

     いよいよ来週の10月7・8・9日は、長崎くんちです。 今年の踊り町は上町(うわまち)の本踊り、元船町(もとふなまち)の唐船祭、 鍛冶屋町(かじやまち)の宝船・七福神、油屋町(あぶらやまち)の川船、筑後町(ちくごまち)の龍踊りで、 全部で5ケ町。本番を目前に、それぞれの町が最後の練習に励んでいます。 o(^ー^)o 今カラ、ワクワク ところで、くんちはこの3日間だけが注目を浴びがちですが、実はその前後にも、いろいろなくんち行事が行われています。 その中から今回は、本番前の10月3日に行われる「庭見せ」をご紹介します。 長崎以外では、あまり知られていませんが、 くんちファンの中には本番よりこの「庭見せ」の方が楽しみという人もいるほど見応えのある行事です。 (^▽^)/今年ノ庭見セハ明日!▲豪華絢爛の飾り物 「庭見せ」とは、各踊り町の家々で祭り当日に着る衣装や小道具、楽器などを飾り、一般市民にお披露目する行事です。 鯛やお菓子など踊り町に届いたお祝いの品々も一緒に所狭しと並べられ、とても豪華。 くんちに対する心意気を見せる行事だといわれるだけのことはあります。(`д´)ヤルバイ 「庭見せ」は江戸時代には「庭おろし」といわれていたそうで、 庭見せする家々では道に面した側の格子や障子を取り払い、小庭も含め堂々と中を見せていました。 キリシタンの取締が厳しかった時代、家の中をオープンにすることは「我が家はキリシタンではありませんよ」というのを暗に証明していたという説もあります。 現在では、民家よりも商店などの店先を利用した「庭見せ」が多いように感じます。 「庭見せ」は夕方から夜にかけて行われます。 仕事を終え、夕食を済ませた市民は、まるで散歩に出るかのように庭見せ見物に繰り出すのです。▲親子連れも多い、見物客たち庭見せをやる家では入り口に家紋入りの幕を張り、豪華絢爛な飾り物を、どうぞご覧あれとばかりにドドーンと並べています。 押すな押すなの大盛況の中、振るまい酒を出す所もあり、町はすでにお祭り気分。 気持ち良い秋の夜風に吹かれて、ホロ酔い気分で、庭見せ巡りを楽しむ人もけっこういらっしゃいます。 (*^ー、^*)オ酒ハ、ホドホドニ▲栗、柿、そして長崎の祝いに欠かせない桃カステラ 「庭見せ」いちばんの楽しみは、手の込んだ傘鉾やだしもの、衣装などを間近でじっくり見れること。 伝統芸能を支える人々の姿が垣間見え、それを受け継ぐ町の人々の熱い思いも伝わって来て、改めてくんちの素晴らしさを感じます。 モッテコーイヽ(▽⌒ヽ)(ノ⌒▽)ノモッテコーイ!

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  • 第107号【キリシタンの島・黒島へ】

     長崎県はキリシタンの里。 県内各地に戦国時代から江戸時代にかけて迫害を逃れた信者たちが密かに暮らした集落があります。 今回、ご紹介する佐世保・黒島もそのひとつ。信仰とともにある、静かで美しい島を巡ります。 長崎県佐世保市の相浦港からフェリーで約50分。 黒島は西海国立公園九十九島を構成する170余りある島のひとつで、 海路は風光明美な西海の島々の景色を楽しみながら行くことができます。 緑に覆われた黒島が前方に見えて来ました。その昔、海から見ると生い茂った樹木のせいで、 島が真っ黒に見えることから「黒島」と呼ばれるようになったとか。豊かな自然は今も変わらないようです。 ( ’∇ ’)ビューティフル・アイランド!▲海から見た緑豊かな「黒島」 黒島は周囲12.5km、面積5.37km2の小さな島。 現在、約770人が暮らしていて、その約8割がカトリック信者だといわれています。島の中心部に建つ「黒島天主堂」(国重要文化財)へ行ってみました。 素朴な中に神々しさを感じるこの天主堂は全国で17棟しかないといわれるレンガ造りの天主堂のひとつ (ちなみに17棟内、16棟は長崎県にあります)。 キリスト教解禁後の明治33~35年にかけて創建されたもので、 美しいステンドグラスや祭壇の床に施された有田焼のタイル、フランス製の聖鐘などが、 当時のまま備えられていました。▲黒島天主堂(国重要文化財) ステンドグラスの窓を開け放した教会内の空気はとても爽やかで、 信者の方々の日頃の掃除・手入れが行き届いているのが分かります。 ミサは日曜日だけでなく、毎朝6時からも行われていて、 熱心な信者の方々が島のあちこちから通って来るそうです。 ( ’_ ’)祈リノ島デス 車もめったに出会わない静かなこの島をひととおり巡っていて、気づく事がありました。 民家が島内のあちこちにポツン、ポツンと点在しているのです。しかも生い茂る樹木に覆い隠されるようにヒッソリと。 島の人の話によると、これはかつて潜伏キリシタンとして密かに信仰を続けた先祖たちの知恵で、 それぞれが目立たぬよう離れて暮らしていた名残りだということでした。 黒島には天主堂の他にも見所があります。島の北部の海岸にある県の天然記念物「串ノ浜岩脈」です。 800万年前の地殻変動によって地下のマグマが地表の岩盤のさけ目に入り込んで冷え固まったもので、 地球の大きな活動を感じる、ダイナミックな地質の姿を見ることができます。▲串の浜岩脈(長崎県天然記念物) この他、島内には手付かずの自然林や、黒島特産のミカゲ石の産出場などもあります。 街中の観光地とは違った素朴な風情が魅力の黒島。今度はゆっくり訪れようと思います。 (・▽・)/黒島デ、ノンビリシマショウ!

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  • 第106号【幻想的な中国盆会】

     9月はじめ、唐寺・崇福寺(長崎市鍛冶屋町)では赤や黄色、 桃色の灯篭(ていろん=提灯)が飾られ、幻想的な雰囲気に包まれました。 伝統行事の「中国盆会(ちゅうごくぼんえ)」が行われたのです。これは中国式の盆祭り。 毎年、旧暦の7月26日から3日間、地元長崎や全国各地の華僑の人々が大勢集います。 (□o□)/崇福寺ハ、福健省北部出身者の菩提寺▲期間中、朝夕読経が行われた崇福寺(大雄宝殿) 長崎市民はこの行事を「中国盆(ちゅうごくぼん)」と呼び親しんでいます。 正式には「普度蘭盆勝会(ぽーるらんぼんしょうえ)」というそうで、華僑の 人々は頭部分だけとって「ぽーる」と呼んでいます。もともと中国の方では、 「普度」を「プオトウ」と発音していて、それがのちに「ぽーる」と割り切っ た言い方になったそうです。(`ー´)長崎版ノ中国語? このお盆の間、崇福寺は異国のお盆を一目見ようとする地元市民や観光客で賑わいます。 境内は帰って来た御霊にゆっくりくつろぎ遊んでもらうためのお風呂や劇場などをデザインした小さな家と、金紙、銀紙でこしらえた高さ1m ほどの「金山」、「銀山」などが飾られます。 お堂の中は、果物や中国菓子など白い器に盛られた何種類ものお供物でいっぱいです。▲金銀財宝を意味する金山・銀山 この「ぽーる」では、先祖だけでなく「施餓鬼供養(せがきくよう)」といっ て、死後も苦しんでいる霊をはじめ、動物、植物、虫にいたるまで全世界の生 きものを対象に供養します。日本のお盆が先祖や身内の霊だけを供養するのに 対し、たいへん大きな意味があります。(/\)全テノ生物ニ感謝 亡くなった人が、あの世でお金に困らないようにと、お金に見立てた長方形の紙を燃やし、 あの世へ送金するという独特の風習も見られました。 あたりには中国の線香の煙がたちこめ、日本のお盆では見られない光景が繰り広げられ、 まさに異国情緒・長崎といった感じです。 華僑の人々が静かに線香をたむけて祈る中、境内をあちこち動き回るアマチ ュアカメラマンたちの姿が目立ってました。毎年この行事を撮影しているとい う地元の80代の男性は「昔は華僑の人々はみな中国の服を着て参加してたけど、 今はあまり見なくなったよ」と懐かしそうに話してくれました。 この中国盆会の見どころは、何といっても最終日の夜。金銀財宝を意味する 約2百本の「金山」「銀山」を燃やし、お金を先祖に持たせて送り出す習わし です。午後10時頃、火をつけられた金山・銀山は、爆竹のはじける音と同時に 勢い良く燃え上がりました。こうして華僑の人々に手厚く見送られた御霊は、 きっと満足して帰ったに違いありません。(^o^)/~~マタ来年▲最終日、燃え上がる金山・銀山◎参考にした本/「時中」(長崎華僑時中小学校史・文化事誌編纂委員会刊)「長崎事典・風俗文化編」(長崎文献社刊)

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  • 第105号【かわいいペンギンの赤ちゃんたち】

     夏休みの間、連日大勢の家族連れで賑わった長崎ペンギン水族館。 中でも注目を浴びていたのが、孵化(ふか)して1~3ヶ月ほど経ったフンボルトペンギン、 マゼランペンギン、ジェンツーペンギンの赤ちゃんたちでした。 >゜)ミ▲マゼランペンギンのさつきちゃん(左端) 長崎ペンギン水族館は、世界にいる全18種類のペンギンの内、7種類を飼育しています。 ここは旧長崎水族館の流れを汲んで昨年の4月に新装オープンしたばかり。 飼育係の人によると、昨年は新しい巣にペンギンが慣れなかったこともあり、 卵は産むものの孵化までは至らなかったそうです。 水族館で卵を孵化させる場合、親が卵を温めるのを放棄したり、 踏みつぶしたりする事があるなど、けっこう難しいようです。 (‘ .‘)野生トハ違ッテクルミタイ 同館では今年の2月、キングペンギンのぎん吉が39年9ヶ月15日という飼育の世界最長記録を残して亡くなっています。 ぎん吉以外にも長寿ペンギンの飼育や繁殖の実績もあり、その飼育技術は内外に高く評価されているとか。 今年の相次ぐ孵化は、その地道な研究と豊富な経験が実を結んだからなのです。 7月30日に孵化したジェンツーペンギン。この種では6年ぶりということで、待望の赤ちゃん誕生でした。 成鳥は体長約75cm、体重4.8~5.7kgほどで、他の種より尾羽がちょっと長めなの特長です。 孵化して1ヶ月ほどしか経っていない赤ちゃんは、成長が早く親より若干小さい程度。 でもやっぱり甘え盛りらしく、ペンギン室の岩場の隅で、両親の間に入りずっと寝そべっていました。 「岩場をヨチヨチ動き回るので、水槽に落ちないように気をつけてます」と飼育係の人。 この赤ちゃんはまだ綿毛で、水に入ると溺れてしまうのです。 ミ´◇`ミ オ腹ガ空クト、ピーピー鳴キマス▲ジェンツーペンギンお尻だけ見えてるのが赤ちゃん 5月に誕生したフンボルトとマゼラン。成鳥だとフンボルトは胸からお腹にかけて黒い1本の帯模様、 マゼランは胸元に2本の帯模様が見られるのが特長です。 2羽とも誕生から3ヶ月経ってましたが、まだその帯模様がありませんでした。 公募で付けられた名前はそれぞれ「フーちゃん」、「さつきちゃん」。 実はこの2羽はオスかメスか不明です。ペンギンは誕生からずいぶん経たないとオスメスの見分けがつかないといいます。 だから名前を付ける時は、どちらでも違和感のないものを選ぶようです。(°◇°)Boy? Girl?▲フンボルトペンギンのフーちゃん(左から2番目) さて2002年、長崎に生まれたかわいいペンギンたち。 彼らの祖先は、すでに恐竜の時代からいたと考えられています。 一見、その愛らしい姿から臆病そうにも見えますが、 人間の生まれる遥か昔から生き延びて来たことを思えば、きっと相当の知恵者なのかもしれません。 (‘ ~‘;)絵文字ペンギンッテ難シイ

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  • 第104号【オテンバは、オランダ語!?】

     パソコンを習ってるという60代男性が、初めて本屋のパソコンコーナーをのぞいた時の事。 意味のわからない英語のタイトルばかりズラリと並んだ書棚に仰天。 勇気を出して一冊開いてみるとカタカナ語が洪水のようにあふれてる。 思わず「ここは日本か!」と叫んじゃったそうです。 この男性の苛立つ気持ちに同情する方もいらっしゃることでしょう。 IT関係のカタカナ語は聞き慣れない英単語ばかりですよね。 ( ̄~ ̄;)用語マニュアルも買わなきゃ。 同じカタカナ語でも昔からあるものは、既に意味がわかっているから安心です。 今となってはそれが舶来の言葉とは知らずに使っているものもたくさん。 南蛮貿易&出島時代に伝わった長崎ゆかりのものであげてみると、 服に付けるボタンや、水を入れるコップ、雨の日に着るカッパなどがそう。 ボタンはもとはポルトガル語Botao(ボタン)で、日本語では釦、鈕という文字が当てられています。 ボタンはもともと日本の衣服にはなかったもの。 ですから音読みでそのまま取り入れるしかなかったようです。 コップはその昔、ポルトガル船が来航した時に日本へ運ばれて来ました。 ポルトガル語ではCopo(コッポ)ですが、私たちが言うコップは、オランダ語のKop(コップ)から来たものらしい。 江戸後期の蘭学者で長崎に遊学したこともある大槻玄沢は、 オランダ製のガラスの盃(さかずき)をコップというとして、 『コップというはもと茶碗の如きものをいうなり…』と記しているそうです。 蘭学者をはじめとする当時のオランダかぶれの皆さんは、得意げにコップでブドウ酒を飲んでいたとか。  ( ̄∇ ̄)_∀ シミルナァ~▲コップはオランダ語から? おきゃんで、そそっかしい女の子のふるまいをいうお転婆(オテンバ)という言葉も、 オランダ語Ontembaarから来たという説があります。オランダ語では“制御できない、屈服しない、野生の”という意味。 その意味からしてもオランダ語源説は有力かもしれません。 お店の売り出しの時よく使われるバザールという言葉、もとは市場を意味するペルシア語ですが、 日本へはポルトガル人またはオランダ人が伝えた思われ、17世紀の出島で、すでに表記されていました。 当時の年表に記されたその文字は『ラク・バザル』(Lak Bazar)。直訳すると 漆(うるし)市場のことですが、 実際は出島内に設けられた『伊万里陶磁店』のことだそうです。 それにしても当時もいろいろあった外来語。人々はどんな気持ちで受け入れていたのでしょうね。 (^。^゛結構、楽シンデタカモネ▲「日本の想い出・出島の大通り」バザールで売られた日本の陶器(右下)(リンデン刊/長崎市立博物館蔵)※参考にした本/「ながさきことはじめ」(長崎文献社編)「長崎舶来言葉」(入江一郎著 長崎文献社発行)

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  • 第103号【白亜の神ノ島教会へ】

     今回は長崎港の入り口の岬に建つ「神ノ島教会」(所在地/長崎市神ノ島町)を訪ねました。 長崎市中心部から少し離れたところにある神ノ島へは、バスが便利です。 長崎駅前から乗り込んだ『神の島~教会下』行きのバスは、稲佐山の裾野を左手に行き、 三菱造船所を経て約25分ほどで終点『教会下』へ到着します。 (‘ ∇‘ )/意外ニ、近イ▲青空に際立つ美しさの神ノ島協会 降り立った神ノ島は観光客の姿も見られない静かな海辺の町。 ここは地名からも想像できるようにかつては小さな「島」でしたが、昭和42年の埋め立てにより陸続きになりました。 バス停から山手を見上げると荘厳な雰囲気の「神ノ島教会」がありました。 急な階段をのぼり教会へ行ってみると、長崎港の沖合いや対岸にある町、 そして長崎港内に出入りする船が白い波をたてて気持ちよさそうに走る姿が見えます。 神ノ島教会はまさに航海に出る人の安全を見守るかのようです。 <(‘ o‘ )ナカナカノ景勝地デス 青空にくっきりと映える真っ白な外観が特徴の神ノ島教会は、 同じ長崎市内にある国宝の大浦天主堂(1864年築)の次に古い教会で、 フランス人ジュラン神父によって設計された由緒ある建物です。 明治30年(1897)に造られたものですが、それ以前は木造の仮教会(明治9年築)があったそうです。 建築学的にも珍しい神ノ島教会は、れんが造りの平屋建て。 創建当初、表面は漆喰で塗られでしたが、現在は石灰・セメントが塗られています。 中に入るとこうもり傘のように弧を描くいくつものアーチが天井を支え、 窓枠には赤・青・緑・橙・黄色などの古めかしい雰囲気のステンドグラスがはめ込まれていました。▲神ノ島教会の内部。天井、ステンドグラスも美しい地元の人によると、教会はあちこち改修されているけれど、海側のステンドグラスは昔から変わらないものだそうです。 (☆o ☆ )キレカァ・・ 近くには神ノ島教会と共に船の航海を見守る大きなマリア像もあります。 地元でドンク島と呼ばれる小さな岸壁の上に建つそのマリア像は、 昭和24年、聖フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念して建てられました。 現在のマリア像は2代目で昭和59年、老朽化を機に、大勢の漁船員を抱える地元の水産会社の支援で再建されたものだそうです。▲船の航海を見守る美しいマリア像 ところで神ノ島教会はずいぶん昔、俳優の故・上原謙(加山雄三さんの父)さんが挙式を上げた教会として地元では知られています。 知人や友人の多い都会ではなく、わざわざこの地を選んだのは、都会の喧噪を離れ、静かにおごそかに愛を誓いたかったからかもしれません。 (‘ ◇‘ )LOVEガ永遠デ、アリマスヨウニ※参考にした本/長崎の教会(発行:カトリック長崎大司教区司牧企画室)

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  • 第102号【西瓜(スイカ)と南瓜(カボチャ)】

     残暑が厳しいですが、お元気ですか。今回は西瓜と南瓜のお話です。 いずれも長崎ゆかりの夏野菜。夏バテ気味の身体にうれしい効果をもたらしてくれる食材です。  へ(×_×;)へ 暑ーーッ 暑い日は、冷やした西瓜を豪快にガブリ。 そのみずみずしい甘さはノドの渇きと疲れを和らげてくれます。 子供の頃は西瓜割りを楽しんだり、実をくり抜いて西瓜ぢょうちんを作ったりしたもの。 真ん丸い愛嬌たっぷりの姿と赤い実に、果物なのか野菜なのか、 真剣に悩んだ事も今となっては懐かしい思い出です。 (`_´)ソレデ、野菜、果物、ドッチネ?▲夏はやっぱりスイカです! 西瓜の原産地はアフリカで、11世紀頃インドやシルクロードを経由して中国へ伝わったそうです。 この時、西の方から中国へ入って来たことから「西瓜」と呼ぶようになったとか。▲ポンポンと叩いて品定め!?音良し、味良しでした。日本へ伝わったのは16世紀末頃、ポルトガル人が西瓜の種を長崎に伝えたという説、 また17世紀中頃に中国から隠元和尚が隠元豆と一緒に種を持って来て長崎で栽培したのが始まりという説などがあります。 当初、その赤い果実が血の色だとして人々が気味悪がり食べなかったという西瓜。 その赤の正体はリコピンという栄養素の色素でした。 果汁にはその他リン酸やカリウムなど、いずれも利尿作用のある物質が含まれていて、 解熱や二日酔にいいのだそうです。(@∇+;)二日酔イノ朝ハ、西瓜! 南瓜はポルトガル人が16世紀後半頃、長崎に伝えたのが始まりだといわれています。 ポルトガル人はインドシナ半島にあるカンボジアからそれを持ち込んだらしく、 カンボジアが転じてカボチャと呼ぶようになったとか。 それに後から中国文字の南瓜を当てて書くようになったようです。▲ポルトガル人が伝えた「西洋カボチャ」 長崎(九州地方)では南瓜をボウブラと呼ぶ人もいます。 南瓜はポルトガル語でabobora(アボブラ)というのですが、どうもそれが訛ったようです。 関東では南瓜を唐茄子(トウナス)とも呼んでいるようですが、これには南蛮渡来の瓜という意味があるそうです。 南瓜はたいへん栄養豊富な緑黄色野菜です。 お腹の調子を整え便秘を防ぐ食物繊維、皮膚を保護するビタミンAの他、 ビタミンC、ビタミンEなどがバランスよく含まれています。 その栄養価と育てやすさから、終戦後の食料不足の折、各家庭ではおおいに作り食べていたという話を聞きました。 当時を知る人にとってはちょっと苦い思い出のある野菜のようですが、命をつないでくれたありがたい野菜だったのです。 *⌒▽⌒*/旬野菜デ、ヘルシーナ夏ヲ!※参考にした本/ながさきことはじめ(長崎文献社編)

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  • 第101号【2002夏のハウステンボス】

     ハウステンボスは長崎市内からバスで約1時間ほどで出かけられるリゾートの街。 今回、久しぶりに故郷・長崎へ帰省した叔母たちと週末に一泊してきました!  短いレポートですが、夏のハウステンボスをお届けします。 L(@^▽^@)」 楽シムゾー! バスから降り立つとそこはレンガ造りの古き良きヨーロッパの街並。 今年で10周年を迎えたハウステンボスは、運河には鳥などかわいい生き物たちが棲みつき、 自然環境を大切にするこの街ならではの、のどかな光景が根付いていました。 (゜゜)ゞコブ白鳥、鴨ナドガイルヨ 初めて来た叔母のために、まずは街の中心部にあるドムトールン(ハウステンボスのシンボル的な塔)へ。 最上階からは波静かな大村湾に抱かれた広大なヨーロッパ風の街並がよく見渡せます。 「こんなに広いとは思わなかった」と叔母は感動しきり。ここが日本ということを忘れさせる美しい景色です。▲ドムトールンから臨むハウステンボスの街並み ドムトールンの近くではこの夏スタジオジブリの話題の映画「猫の恩返し展」も開催中(9月1日迄)でした。 歴代のジブリアニメの作品を紹介するコーナーもあり、ジブリファンは見逃せません。 (@∇@)大きなネコバス発見!! さてハウステンボスの夏は、実は夕刻からが本番!海辺で、歌って、踊って、 歓声をあげるスペシャルなひとときが待っているのです。 夕方5時、夏の熱気を昇華させるようなラテンミュージックが潮風にのって聴こえはじめます。 海辺の舞台周りでは、たいまつが焚かれ情熱的な雰囲気。作家の村上龍氏がプロデュースしたというこの舞台。 キューバのトップミュージシャンらで編成されたサルサバンドと女性歌手が、ノリノリのショーを見せてくれます。 それは理屈抜きに心地よく、ンもう、最高の気分です。♪♪ ""8(^∇^8)(8^∇^)8"" ♪♪▲夕刻からはじまるラテン音楽のステージ ラテンのリズムの余韻に浸りながら夜の運河巡りへ。 街灯やイルミネーションのロマンチックな光をたたえる街に、見とれっぱなし。 さらに運河を利用した「ウオータースキーショー」では世界でも指折りの実力者たちがアクロバットな妙技を次々に展開。 波しぶきと歓声に包まれ、爽快なひとときでした。 夜はまだまだ続きます。港では「クリスタル・イリュージョン」という水と光と音のショー。 まさに真夏の夜の夢のような、幻想的な世界です。続いては「花火」。 ドドーンと頭上で開く大輪の花が夜空を焦がす様は圧巻。日常のいろいろが遠くなっていくのを感じます。 花火の後、再びラテンの音楽に酔いしれながら、夢の一夜は熱く感動的にふけていったのでした。 *.;“;^・:(*^▽^*)/:・;^;早朝のハウステンボスもステキですよ。▲クリスタル・イリュージョン

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  • 第100号【ちゃんぽん文化が育んだ家庭料理「ハトシ」】

     皆さんは「ハトシ」をご存じですか?それは長崎の家庭料理が発祥だといわれている料理です。 今回は長崎でも知る人ぞ知る「ハトシ」の謎に迫ります。 α~ (ー.ー") ハテ?サテ?ハトシ?▲おいしく出来上がったハトシ手作り(自作)です(^-^) 「ハトシ」は、エビのすり身を食パンにはさみ油で揚げたもので、おかずというよりおやつ風な料理です。 名前がとてもユニークですが、実は「ハトシ」は広東語で、 中華レストランでは「蝦吐司」「蝦仁吐司」「蝦多絲」「炸吐司」などと書き表されています。 (□□)ノ旦~~「飲茶」系ノ料理ミタイデス 中国料理の名前の付けられ方には、 料理を作った人の名・地名・縁起のいい言葉などと材料・調理法などを組み合わせることが多いそうですが、 「蝦吐司」の場合は「蝦」はエビ、「吐司」はトーストを意味し、材料名をそのまま使っています。さて、その「ハトシ」が長崎へ伝わったのはいつ頃でだったのでしょう。長崎の著名な郷土史家である越中哲也先生によると「ハトシが伝わったのは明治以降で中国から来たらしい。 もともとは、料亭から始まり家庭料理になったようだ」ということでした。 中国と長崎は古くから交流の歴史があり、その中で卓袱料理やちゃんぽんが生まれています。 その土地柄を思えば「ハトシ」もまた然りと考えていいのかもしれません。 「ハトシ」は主に中華レストランや卓袱料理を出す料亭や小料理屋などで味わうことができますが(五百~千円位)、 実はこうしたお店で出される「ハトシ=蝦吐司」(エビのすり身を使ったもの)と、 ジゲモン(長崎人)たちが家庭で作る「ハトシ」は、ちょっとした違いがあります。▲中華街で見かけたハトシのメニューサンプル たとえば戦後昭和20年代後半に、子供達によく作ってあげていたという70代の老夫婦は『魚や豚のミンチとか、その日、手に入ったものに野菜やあり合わせのものを混ぜて作りよった。 それこそ材料はちゃんぽんで、いろいろ工夫してね。子供がそりゃあ喜んだとよ』 (⌒ー、⌒〃)母チャン、ンマカー また、鶏のすり身で作ったハトシが正月の定番料理だという人もいるなど、 パンにはさむすり身がエビに限らず家庭ごとの個性があるです。 その多様さ、懐の深さが、長崎の家庭料理が発祥だといわれる由縁かもしれません。 いろんなものを大らかに受け入れ、そこから新しいものを作っていく長崎独自のちゃんぽんな風土。 家庭料理「ハトシ」にはそんな長崎の地域性が秘められていました。▲三角タイプのハトシ※参考にした本/中国料理用語辞典(井上敬勝 編・日本経済新聞社 発行)

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  • 第99号【グラバー園の夜は、ビューティフル】

     満月を2日後に控えた7月の夜、グラバー園へ行ってまいりました。 普段は18時(ランタンフェスの時は19時)以降は入れませんが、 夏から秋にかけては21時30分まで楽しめるのです(今年は7月20日から10月14日迄)。 この夜間開園が行われるようになったのはほんの数年前から。 景勝地のひとつとして名高いグラバー園からの夜景をゆっくり楽しめるとあって観光客や地元の人に好評です。 (^▽^)/期間限定ナイト・スポット! 長崎市南山手にあるグラバー園一帯はかつて外国人居留地でした。 園内には旧グラバー邸や旧リンガー邸などのように、 幕末~明治に長崎にやって来た外国人貿易商が海を見下ろすこの丘を気に入り建てた洋館の他、 その頃、長崎市内に散在していた洋館をここへ移築・復元させたものもあります。 日本家屋にはない独特の雰囲気で、古き良き居留地時代を彷佛させる洋館たち。 特に夜はそれぞれがほどよくライトアップされて、ますますエキゾチシズムをたたえた趣のある表情を見せてくれます。(σ。σ)/オススメハ、旧オルト邸!▲月明かりの下の旧グラバー邸 さて西果ての地・長崎の日没は遅く、この日も暗くなりはじめたのは19時30分を過ぎてからでした。 最高の夜景をカメラにおさめようと、園内でもっとも見晴しがいいといわれる「旧三菱第2ドッグハウス」へ向かいました。 開放的なベランダが印象的なこの建物、もともとは造船所のドッグのそばに建てられていたもので、 修理に来る船の乗組員の休憩宿泊施設として利用されていたそうです。 \(□_□)明治初期洋館建築ノ典型的スタイル!▲旧三菱第2ドッグハウスからの夜景はゼッタイお薦め。 その2階ベランダに上がると長崎の空と港と街の景観がいっぺんに目の中に飛び込んで来ました。 真正面には港をはさんで稲佐山が横たわり、その山肌にある民家や観光ホテル、 そして港内を行き交う船もきれいな明かりを灯しはじめました。ホントに素敵な眺めです。 もう少し暗くなってから撮ろうと待っていたところ、同じ思惑らしき人々が数人カメラ片手に集まって来ました。▲夕暮れ間近の長崎港と稲佐山三脚を持って来なかったことを嘆く観光客の声が聞こえます。よほどこの景色が気に入ったのでしょう。 ((_・ (・_・) ・_))素晴ラシイ"パノラマ"デス  さて美しい眺めの中で、ひときは目立つ船がありました。 今年5月に進水したばかりの客船「ダイヤモンド・プリンセス」(全長290m、11万3千総トン)です。 イギリスの会社から発注されたもので最大乗客数3100名の世界最大の豪華客船だそうです。 現在は内装を中心に工事が進められているとか。しばらくはその巨大な姿を楽しめるようです。 月明かりの下、夕涼みがてらそぞろ歩いたグラバー園。 街の喧噪からも離れて久しぶりに贅沢なひとときを過ごしました。 (^▽^@)大満足!

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