第109号【発掘!ワクワク、長崎奉行所!】
9月初旬、長崎の歴史ファンをワクワクさせる催しがありました。 それは長崎奉行所跡地の一般公開です。 発掘場所となった県立美術博物館の敷地内(長崎市立山)には2日間の公開期間中、 残暑が厳しい最中にも関わらず約2,300人の市民が訪れ、その歴史的遺構を目の当たりにしたのでした。
゜〇゜)コレガ長崎奉行所…。
▲長崎奉行所跡(長崎市立山)
長崎奉行所が設けられたのは安土・桃山時代の1592年のこと。 その頃すでに海外貿易で栄えていた長崎は豊臣秀吉の直轄領で、 まもなく徳川の時代になってからも天領として奉行所は継承されました。 その場所は当初、本博多町(もとはかたまち/現在の万才町)にありましたが、 1663年、大火で焼失後、外浦町(ほかうらまち:現在の江戸町)に東役所と西役所の2つを設置。 さらに1671年には東役所が今回の発掘場所となった立山に移され、名称も立山役所と改称。
▲発掘された階段が描かれている
以後、立山役所と西役所が明治維新で廃止されるまで、長崎奉行所としての役割を果たしたのでした。 (□o□)/役所ガ2ケ所、オ奉行モ2人イタンダヨ。
長崎奉行所は、長崎の歴史にとって出島同様、重要な存在であったにも関わらず、 その面影を偲ぶような建造物の遺構はほとんど残されていませんでした。 しかし今回、発掘現場に行ってみると、奉行所の正門付近にあたる高さ約4mの石垣と、 幅7.8mもある広々とした階段が出土されていました。 その階段は素人目にも丈夫で上等そうな石でできています。 この階段を当時の役人らが行き交ったのかと思うと、つい何度も登り降りしたり、 階段を手で触ったりしてしまいました。 ( ’ー ’)歴史好キナラ分カルヨネ?
奉行所の東側には水の溜まった壕(ほり)が発掘されていました。 その水は発掘後に雨水が溜まったものではなく、背後にある山の水が地下から沸き出たものとか。 濠へ降りる石段もあることから生活用水として利用されていたようです。
▲生活用水に使われていた壕
また、この濠からは有田焼や波佐見焼などの国内の陶磁器だけでなく、 中国製の急須やドイツ製のボトルなど海外製品も数多く出土しています。 出島貿易を支配した長崎奉行所らしく、インターナショナルで豊かな暮しぶりが垣間見えます。
今回の発掘は、今年度で閉館となる長崎県立美術博物館の後に新しく建設さ れる歴史文化博物館(仮称)の建設にあたり、敷地を試し掘りした際に出土した ものだそうです。発掘された建造物の遺構が今後、利用されるかどうかは安全 面を考慮して検討されるとか。見学者からは「なぜ、このような重要な遺構が 埋められたままなのか」という声が多く聞かれました。しかし過去に埋めてし まった時代があったのは事実。江戸時代、出島貿易の盛衰に翻弄された長崎奉 行所は、今も尚、時代に翻弄されているようです。 ( ’o ’)/モット上手ニ残シテホシイデス。