第111号【長崎・斎藤茂吉の歌碑をたずねて】
日々深まりゆく秋。ふだんは見向きもしない文学書を開いてみたくなるのはなぜでしょう。 今回はそんな季節にふさわしく(!?)長崎ゆかりの歌人・斎藤茂吉の歌碑を訪ねました。 斎藤茂吉は明治15年(1882)、山形県生まれの有名歌人。医者としても大成した方です。 (□_□)/作家北杜夫ハ、茂吉ノ次男。
▲斎藤茂吉寓居の跡
茂吉が長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)の精神病学科教授として長崎へやって来たのは大正6年(1917)12月。 前年、長男の茂太も生まれており、妻と子を東京に残しての単身赴任でした。 着任当初、しばらく宿泊したのが長崎駅にほど近い金屋町にあった「みどり屋」という旅館でした。 余談ですが、この「みどり屋」は明治時代に乃木希典や東郷平八郎といった、当時の陸軍関係者が定宿としていたところだそうです。
長崎に来たばかりの頃、茂吉は「あはれあはれここは肥前の長崎か 唐寺の甍に降る寒き雨」という歌を詠んでいます。
まだ不馴れな町でのさびしい想いが感じとれます。 翌年の春、旅館などでの仮住まいを経て、やはり長崎駅に近い上町の一角に移り住みました。 現在、そこには「斎藤茂吉寓居(ぐうきょ)の跡」という碑があります。 茂吉は大正10年(1921)3月に帰京するまでここに住み、時折、歌人の集いなどを催していたそうです。 ( ’o ’)長崎デ多クノ歌ガ詠マレマシタ。
寓居跡から少し歩いた場所に緑の芝生に包まれた「桜町公園」があります。 ここにも長崎に来た当初に詠まれた歌を刻んだ碑がありました。 「朝あけて船より鳴れる太笛(ふとぶえ)の こだまはながし竝(な)みよろふ山」。 長崎で聞いた汽笛がよほど印象に残ったのでしょうか。 事実、後に茂吉は『作歌四十年』に、長崎に一夜寝た翌朝からこの汽笛の反響にひどく感動し、 長崎を去った後も忘れることができないでいるという話を記しているそうです。
▲緑に包まれた桜町公園
茂吉は、長崎にいる間、丸山あたりでもよく遊んだようです。
丸山には「斎藤茂吉遊地」と記された碑もあります。 またちゃんぽんも好きでよく食べていたとか…。 茂吉はしっかり長崎を遊び、味わっていたようです。 興福寺にも歌碑がありました。 「長崎の昼しづかなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花」。 人けも絶え静かな夏の昼下がりの唐寺の趣を詠ったものです。 ( ̄∇ ̄;チャンポンノ歌はナイノカナ?
茂吉は帰京する約1年ほど前より身体をこわし、養生のため雲仙や小浜、 そして佐賀県の古湯、嬉野といった温泉地へも行っています。 小浜には大正9年(1920)に二度訪れたそうで、町には記念の歌碑がありました。 「ここに来て落日を見るを常とせり 海の落日も忘れざるべし」。 小浜の夕日の美しさは茂吉に大きな感動を与えたようです。 (・_;)ソノ感動、シミジミ伝ワリマス
▲小浜の美しい夕日を詠んだ歌碑
◎参考にした本「長崎の文学」(長崎県高等学校教育研究会国語部会発行)
「長崎事典~風俗文化編~」(長崎文献社発行)