第69号【江戸時代のボーナス、かまど銀】
あと数日でお正月。我が家では毎年この時期、お正月用の餅つきを行います。昔はどこの家でもやっていたらしいのですが、今ではけっこう珍しいようです。子供の頃は餅米を炊いた時に出る蒸気の匂いをかぐと、ああ、もうすぐお正月だとウキウキしたものです。餅をつくのも杵と臼を使っています。一時は家庭用の餅つき器を使っていたのですが、気分が出ないということで復活したのです。狭い玄関先でペッタンペッタンやっていると、ご近所の方がニコニコしながら通りすぎます。どうも我が家の餅つきはご近所では暮れの風物詩になっているようです。 モチ肌だね( ・_・)―――C<―_-)アイタァ
さて暮れの風物詩といえば“ボーナス”というものもあります。今回は江戸時代、長崎の町民らがボーナスをもらっていたという話です。当時の長崎には「かしょ(箇所)銀・かまど(竈)銀」といって、外国貿易での利益を庶民に配分する珍しい制度がありました。配分された時期は7月と12月の年に2回。まさに現代のボーナスのようなものだったのです。(゜◇゜江戸時代にボーナス!?
▲江戸時代にボーナス!?
なぜそのようなシステムが生まれたかというと、17世紀末に長崎の貿易が幕府直営になったことがきっかけでした。それ以前は長崎港では自由貿易が行われており、この時はルールがないので一部の者だけに利潤が傾いたり、銀貨が流出し物価沸騰を招いたり等、さまざまな弊害が起こっていました。かねてより幕府は長崎貿易の利益に目をつけていたので、それらの弊害を理由に長崎貿易を幕府直営にし、大切な財源のひとつにしたのでした。(`_´)シメシメ
幕府直営システムの大元締めとなったのが「長崎会所」です。今でいう貿易会社とお役所の機能がひとつになったようなところで、長崎貿易の利潤は全てここに集まるようになっていました。その利益から、まず幕府への運上金(税金のようなもの)が吸い上げられ、さらに長崎会所の積立や地役人らの給与が差し引かれます。そして残りの中の一部が「かしょ銀」として町内の地主さんたちへ。「かまど銀」として同じく借家人たちへと配分されたのでした。
▲長崎会所跡地(長崎市上町)
「かしょ銀・かまど銀」が具体的にどれほど町民の懐を温めたかは詳しくはわかっていませんが、身分制度が厳しい封建社会の中で町民へ利益配分するとは、長崎以外の地域から見ると相当うらやましい話だったようです。(^^)人(^^)モラッテウレシイ、カマド銀
長崎だけがなぜ?と思うでしょうが、それにはちゃんと理由がありました。長崎の町民らはオランダ船や中国船の出入港時に必要な船の提供や、輸入品や幕府への献上品の運搬、そして長崎奉行の交代時などにかかる人夫や馬の費用も前もって決められた町が全額支払うようになっていました。さらに天領だった長崎の町民は「将軍様の民」でもあるので、お互いを傷つけるような喧嘩もろくにできませんでした。そういった長崎独特の閉息感は人々をたいへん窮屈にさせていたと推測できます。そんな中で貿易利益を配分するシステムの「かしょ銀・かまど銀」はみんなを納得させるいい制度だったようです。幕府もなかなか考えたものですね。
さて今回のコラムは今年の最終便です。いつもご愛読いただいてホントにありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆さん、どうぞよいお年を!(●^▽^●)ノ
※参考文献/「長崎事典」「長崎町人誌・第一巻」(両書とも長崎文献社発行)