第62号【コンプラ】

 昔から「芸術の秋」、「読書の秋」なんていいますが、今頃の季節は頭が適度に冴える気温(16℃)に恵まれ、身体にとっても過ごしやすい気候なので、頭と心を使うのにちょうどいいのだそうですよ。(^¬^)私はダンゼン食欲ノ秋


 さて今回はコンプラ瓶のお話です。白磁の徳利に肩パットをいれたような独特の形をしたコンプラ瓶は、今もコピー品がたくさん出回るほど人気の骨董品です。その瓶に詰まった面白いエピソードをいくつかご紹介しますね。



▲染付コンプラ瓶

(長崎市教育委員会蔵)


 コンプラとはポルトガル語で商人や仲買人を意味するコンプラドール(Comprador)から来た言葉です。江戸時代に出島から外出できないオランダ人らを相手に、さまざまな日用品を売る「コンプラ仲間」と呼ばれる日本の商人たちがいました。1652年に記されたオランダ商館の日誌で、「彼等は高利をむさぼる」と記されているところをみると、なかなかちゃっかり屋の商い人だったようです。そんなコンプラ仲間たちはやがて日本の醤油や酒を海外へ輸出するようになります。その際、容器として使用した瓶がコンプラ瓶と呼ばれていたのです。 ♪コンプラ♪フネフネ♪(^O^)☆\(--;)チガウヨ・・・



▲商品入札の図(川原慶賀)

この中にコンプラ仲間もいた?


 その瓶は焼物の産地として有名な波佐見地方で大量につくられ、組織のマークとしてコンプラドールの略語「CPD」と、醤油用には「JAPANSCHZOYA」、酒用には「JAPANSCHZAKY」の文字が入っていました。


 長崎港でオランダ船に積まれたたくさんのコンプラ瓶は、まず貿易の中継地点となる東南アジアで一部荷降ろされました。その後、船はインド洋を渡り、喜望峰を回って大西洋を北上。一路ヨーロッパへと向かったのでした。実はこの醤油や酒の海外への輸出が一体いつ頃はじまったのか定かではありません。一説によると元禄時代には既に行われていて、その頃のフランス宮廷料理に日本の醤油が使われていたなんていう話もあります。そんな時代にフランスの国王が醤油を味わっていたなんてちょっと驚きですよね。((~^*)トレビア~ン!



▲長崎奉行所(立山役所)趾には

たくさんのコンプラ瓶が

埋まっていたらしい


 ところで文人・井伏鱒二(1898~1993)が長崎を訪れた際、知人からもらったコンプラ瓶について書いた随筆が残っています。『コンプラ醤油瓶』というタイトルのその文章には、ロシアの文豪トルストイ(1828~1910)が書斎でコンプラ瓶を一輪挿しとして使っていたらしいという面白い話が記されていました。井伏鱒二は、トルストイは文人仲間のゴンチャロフからコンプラ瓶をもらったのだろうと推察しています。ゴンチャロフはロシア皇帝の使節プチャーチン提督の秘書として、幕末長崎に来航したことのある人物。彼が長崎で手に入れたコンプラ瓶を土産話ついでにトルストイへあげたと考えても不自然ではありません。


 輸出用の容器なので実用性が重視され、けして優美な姿とはいいがたいコンプラ瓶をトルストイはなぜ一輪差しにして書斎に置いたのでしょう。もしかしたら見知らぬ東洋の国、日本に憧れがあったのかもしれませんね。(^▽^)ゞロマンを感じたのかもネ

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