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  • 第53号【ちゃんぽん・皿うどん】

     「ちゃんぽんコラム」御愛読の皆様へ。おかげさまで初配信から丸1年が経ちました。好奇心の赴くままに書いて来た長崎からの便りを、毎週読んでくださって、本当にありがとうございます。これからも長崎をPRしつつ、読者の皆様の心に届く内容を目指したいと思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします!(\∨∨/) 今回は「ちゃんぽん・皿うどん」についてです。意外ですがこのコラムでは一度も扱ってないテーマでした。それではさっそく本題に!▲秘伝!? 月見ちゃんぽん まずちゃんぽんの話から。ちゃんぽん誕生については諸説あって、明治のはじめ頃、ある長崎の人が丸山で支那うどんをちゃんぽんと名付けて店を開いたのが始まりという説や、明治30年代に中国・福建省出身の青年が長崎で中国料理店を開業した際、従業員や家族、そして同郷の貧しい留学生たちのために残り物の食材で作ったのがきっかけ、という説などがよく知られています。いずれにしてもちゃんぽんは中国と日本が混じりあう長崎生まれ料理には間違いありません。 具はキャベツ、タマネギ、タケノコ、キクラゲ、モヤシ、ネギといった植物性食品と、カキ、イカ、エビ、カマボコなどの動物性食品が入り、栄養のバランスが抜群に良く、味もお互いを引き立てあっています。我が家では出来たてのちゃんぽんに生タマゴを落として食べるのですが、これがなかなかおいしいのです。ぜひお試し下さい。(^◎^)月見ちゃんぽん?▲ちゃんぽん麺と色鮮やかなかまぼこ ところで、ちゃんぽん麺が黄色い訳はご存じですか?ちゃんぽん麺は小麦粉にアルカリ性の唐あく水(かん水)を加えて作るのですが、その時、小麦粉の中のビタミンBと化学反応を起こし黄色に変わるのだそうです。ちゃんぽん麺に独特の色と風味をつける唐あくは、漢方薬の世界では「身体の邪気を払う」といわれているそうですよ。 お次は皿うどんについて。具の材料はちゃんぽんとほぼ同じで、あのトロリとしたアンがのる麺は、パリパリの細麺(揚麺)か太麺(生麺)。▲海の幸、山の幸いっぱいのちゃんぽん・皿うどんの具「パリパリ麺が口の中でつきささる感じが良い」という人や「時間が経ってクタクタになったものが良い」という人、そして「太麺に限る」という人や、ソースをかける派、かけない派など、人それぞれのこだわりが見られる料理です。w(^_^)アナタハドッチ? 長崎ではお客さんのおもてなしや親戚の集まりに、皿うどんを出前でとる家庭が多いのですが、数人分が盛られたひとつの大皿を囲んで食べるというスタイルは、お客さんとの絆を深めるのにちょうど良く、大切な来客には皿うどんというのが定着しているように感じます。 さて全国に名を馳せる長崎名物「ちゃんぽんと皿うどん」。その個性的なおいしさは、海と山の幸、外国と日本の文化といった、違うもの同士をひとつにしたことで生まれました。溶け合えば新しいものが生まれる。そんなことも教えてくれる実に奥深い料理なのですね。(^¬^)ダカラ美味シイノ※地元郷土史家、越中哲也先生の「長崎チャンポン考」も併せてご覧ください。

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  • 第52号【世界初の株式会社、オランダ東インド会社】

     長崎のみやげショップなどで「VOC」のマーク入りの商品を見かけたことはありませんか? お皿などの陶器類を始め、いろいろな小物商品にこのマークは用いられています。ちょっとかっこいいロゴデザインなのですが、何のマークかご存じですか? 答えは「オランダ東インド会社」です。正式には「連合東インド会社(Vereenighde OostIndische Compagnie)」といい、「VOC」はその略称なのでした。(^◇^)知ッテタ?▲VOCマーク入りの大皿 1602年に設立された「VOC」は世界初の株式会社としても知られています。この頃のヨーロッパは大航海時代(15世紀~17世紀前半)の最中で各国が新しい航路や新大陸の発見に力を注いでいました。当時、航海をする際は「当座会社」といって、その都度「座」を開き、出資金を集め、船を準備していました。そして航海をして買い付けを行い、出資者に利益を分配していたのですが、ひとつの航海ごとに行われていたこの方法では、もし船が沈んだりしたら全てを失う事になります。また競合となると利益もそう望めないのが難点でした。それでもっといい方法はないかと考え出されたのが「株式会社」だったのです。オランダは当座会社だった14の貿易会社を統合。国王を総裁にして、軍事・外交・行政の特権を持たせ、しっかりとした組織力で世界初の株式会社「オランダ東インド会社」を立ち上げたのでした。(@o@)カッキテキ! その頃、スペインやポルトガルの大国に押されていたオランダは、東南アジア貿易でも苦戦を強いられていました。しかし株式会社にしたことで組織力は強まり、リスクも分散。人材を集め、船を作り、航路を決め、貿易のルートまでも組織的に対応したことでめきめきと力をつけます。東南アジアでも勢力を増し、他のヨーロッパ勢を押し退けてついには日本との貿易も勝ち取ったのでした。そうして江戸時代に200年以上に及んだ日本とオランダとの交流。この時は「オランダ東インド会社」=「オランダ」で、平戸と出島に設けられたオランダ商館はいわばこの会社の日本支店といったものだったのです。(^o^)出島ノ外国人ハ会社員ダッタンダ▲出島の敷地内にあった石門にもVOCのマークが ところでオランダ東インド会社設立の2年前、イギリスも「東インド会社」を設立していたのですが、当座会社だったためオランダのそれに比べれば資金力も組織力も弱く、平戸にイギリス商館を設けるもわずか3年で閉鎖。対日貿易競争でオランダに敗退しています。イギリスのお話はさておき、すごいのはやはりオランダ東インド会社。資本主義の最大の発明は「株式会社」だという人もいますが、そういう意味ではまさに現代ビジネスの原点ともいえますよね。(“)今回ハ経済学ミタイデシタ?▲土産用のネクタイ。よーく見るとVOCのマーク入り

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  • 第51号【異才の建築家が残した旧香港上海銀行長崎支店記念館】

     長崎は残暑がとても厳しいです。皆さんのところはどうですか? 夏バテに気をつけてお過ごし下さいね。 さて旧香港上海銀行長崎支店記念館は、長崎港に面した松ヶ枝町にあります。南山手にほど近いこの辺りは幕末から明治時代にかけて外国人の居留地だったところで、現在も多くの洋館が点在する異国情緒豊かな界隈です。そんな中、威風堂々とした表情でひときわ目を引くのが明治37年(1904)に建てられた旧香港上海銀行長崎支店記念館(国指定重要文化財)です。この洋館、古さは一番ではありませんが、長崎の石造りの洋館としては最大級の規模と言われています。 ▲旧香港上海銀行長崎支店記念館 「香港上海銀行」は1865年、東洋で活躍するイギリス人貿易商らによって造られ、本店は香港にありました。翌1866年に最初の外資系銀行として横浜支店を開設。長崎支店は1896年に開設され、以後閉鎖される1931年(昭和6年)までの35年間、外国貿易港長崎の繁栄に大きな役割を果たしました。( ̄o ̄)/現在は東京と大阪に支店があります。 長崎に支店が置かれて間もなく銀行建設がはじまるわけですが、その設計を任せられたのが明治から昭和初期にかけて建築界の異才として名を馳せた「下田菊太郎」という人物でした。彼は日本人で初めてアメリカ建築家協会の免許を取得。帰国後はアメリカで学んだ鉄骨・鉄筋コンクリート構造の工法を日本にもたらしました。菊太郎は当時、洋風建築一辺倒の日本の建築界を批判。欧米風と和風を組み合わせた独自の日本建築デザインを提唱しますが、主流派からは無視されたといいます。しかし現在では逆に彼の業績は評価されているそうです。その彼の作品で日本に唯一残っているのがこの旧香港上海銀行長崎支店記念館なのです。 大きな石柱を配し、ずっしりとした風格が漂う外観。3階建ての館内は各階とも天井がたいへん高く、窓が大きいのが特徴的です。1階のフロアはいかにも銀行らしい当時のカウンターが残されています。かつてここに貿易商を営む在留外国人たちが訪れ外国為替や外貨の売買を行なったのですね。2階、3階は当時の部屋を利用して長崎に関わる歴史資料が展示されています。ベランダからは長崎港を一望。当時の銀行マンたちもこのベランダから港を眺めたのでしょう。 ( “)感慨深イネ▲銀行時代ののカウンターは当時のまま利用されています ところでこの8月、2階展示室に新しいコーナーが設けられました。「頓珍漢(とんちんかん)人形」という手びねりのかわいい素焼き人形です。作者の故久保田馨さんが、戦後の爪痕が残る昭和29年に平和への願いを込めて作りはじめたもので、かつては長崎のお土産品屋にも売られていました。ひとつひとつ姿形が違い不思議な表情をしたこの人形は修学旅行生に人気があったそうです。展示室には約800点に及ぶ作品を見る事ができます。心に何かを訴えてくる頓珍漢人形。必見です。▲かわいい素焼きの頓珍漢人形

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  • 第50号【わくわくサイエンスワールド、長崎市科学館!】

     夏休みも早や後半戦。先日、小学3年生になる親戚の男の子が宿題を手伝って欲しいと我が家へひょっこりやって来ました。そういえば昨年の夏も手伝ったっけ。見込まれたものだと内心苦笑しながら、工作も自由研究もまだ手をつけていないという呑気な少年を連れ、油木町にある長崎市科学館へ出かけたのでありました。( ̄ー ̄)取材ノツイデニ・・・ 「長崎市科学館」は、「スターシップ」の異名にふさわしく宇宙船っぽい雰囲気の漂う超モダンな建物。科学という広範で複雑な世界を分かりやすく紹介している学習施設です。というと、子供向けと思うかもしれませんが、そんな事はありません。宇宙の誕生から地球の内部の様子、そして長崎の地質や気象、動植物の事まで、盛り沢山の内容。「科学の世界は奥深い」って気になるオモシロイところなのです。( ゜◇ ゜)オドロキの連続ダヨ▲長崎市科学館(長崎市油木町) さて館内は夏休みということもあり、たくさんの子供達で大賑わい。展示室へ入ると、長崎の森林を再現したコーナーをはじめ、大昔の長崎に存在したアケボノゾウという大きな動物の骨格、そして気象衛星ひまわりからリアルタイムに情報が送られて来るウェザーステーションなど、子供の興味を惹くネタがいっぱい。ゲーム感覚で楽しめる“体験コーナー“には銀河の広がりを擬似体験できる「宇宙船アドベンチャー号」や自転車をこぎながら太陽系の惑星を旅する「ツール・ド・コスモス」、震度1~7の地震を体験できる「地震体験ステージ」など、有意義なシミュレーションばかりです。(^◇^)遊ビナガラ、学ベル!▲大昔の長崎にいたアケボノゾウ▲ウェザーステーションでは気象情報がリアルタイムに更新 この科学館の大きな魅力のひとつが「プラネタリウム」です。直径23mもある大型ドームの天井周囲いっぱいに、その日の長崎の星空が写し出されます。夜も明るい街中では決して見る事ができない無数の星たち。山や丘など自然の中で見ているような錯角に陥ります。それにしても星々をつないで神話を生み出した大昔の人々の想像力はすごい。夜空の星には人間の想像をかき立てる不思議な力があるのでしょう。(^ー^)/交互ニ上映サレル全天周映画モ大迫力! ところでこの科学館では今、「工作工房」を開き、子供達の夏休みの宿題を応援しています。自由参加で料金無料、道具や材料もいらないとのこと。また昆虫や植物など採集したけど名前が分からないという人は、25、26日に行われる「採集品分類会」に参加すれば、ばっちり教えてもらえますよ。 帰り道、親戚の子の手には「工作工房」で作ったグライダーがありました。夏休み、子供達の力強い味方となる長崎市科学館。週末は屋上の天文台で夜間天体観測も行われています。家族でお出かけになってみませんか?(^ー^)カップルにもOK

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  • 第49号【耳せん必携、精霊(しょうろう)流し!】

     もうすぐお盆。帰省の季節ですね。私も都会に住む親戚や友人らとの再会が待ち遠しい気分です。しばらく故郷へ帰っていないという方はこの夏帰省してみてはいかがですか? 懐かしい顔や風景が、あなたをリフレッシュさせてくれますよ。 さて、この時期になると長崎の街角のあちらこちらで製作中の精霊船を見かけます。精霊船とは初盆を迎えた故人の霊を乗せる船のことで、8月15日「精霊流し」の日に極楽浄土へ送り出されます。「精霊流し」を知らない方でも、小さな船にちょうちんを灯して川に流す「万灯流し」ならご存じの方も多いはず。「精霊流し」は、この「万灯流し」が長崎独自の発展を遂げたものといわれ、「万灯流し」の静かに御霊(みたま)を見送るイメージに比べると「精霊流し」は全くその逆です。チャンコン、チャンコンという鉦(かね)の音に「ドーイドーイ(語源はナムアミダブツ)」というかけ声、さらに耳をつんざくような大量の爆竹(バクチク)の音とその煙の中、派手やかに見送るのです。(^^)さだまさしさん(グレープ)の歌のイメージとは大違い!?▲街角で見かけた製作中の精霊船 船の上には「極楽丸」、「西方丸」、「浄土丸」などと書かれた大きな帆がはられ、家紋入りの提灯がズラリと並びます。大陸の影響か、極彩色を配したタイプが多く、ときにはカラフルな花飾りをつけた船も見られます。大きさは3m位から6m位のものが中心で、中には10m~60m位の大船もあります。個人で出すところもあれば、催合船(もやいぶね)といって町内で一つの船を仕立てるところもあります。 精霊船の行列の編成は、まず一番先を印灯籠(しるしとうろう)が行きます。印灯籠は船頭のような役割で、船もそれに合わせて動きます。印灯籠の動きはすぐ後に続く鉦を持つ人が、後方の船に合図を送ります。次に遺族や親戚の人々、そして揃いのハッピや江戸職人風の腹掛衣装の男達に引かれる精霊船と続きます。この中に道を浄める役として爆竹係がいます。精霊流し当日は、夕刻より各家々や町内を出発。幹線道路を練り歩きながら終点の長崎港(もしくは近くの海)へと向かいます。(><)近クデ見ル時ハ耳栓必携 さて江戸時代に始まったといわれる精霊流し。当初は「わらぶね」と呼ばれる竹と麦わらで作った1m~2m位の小さめの船でした。が、その頃の行列も『夢のように壮観』だったという記録があるそうです。そして最後は長崎港で船に灯をともして港に流していました。この時、船について行こうと沖合いまで泳ぐ者もいたそうです。▲江戸時代の精霊流し(川原慶賀筆)長崎市歴史民俗資料館のパネルより 現在は、さすがに大量の船を海に流すのはいろいろ問題があるので、同じ光景を見ることはできません。その分、陸上で力いっぱいに練り歩き、しっかりお見送りしているのですね。( ̄O ̄)ドーイドーイ

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  • 第48号【夏の日、平和のレリーフ!】

     暑中お見舞い申し上げます。連日猛暑が続いていますが、夏バテしないように気をつけて下さいね。(^_^;;クーラー病ニモ気ヲツケテ さて今日から8月。長崎に原爆が投下された8月9日が近付いて来ました。長崎ではその日からずっと原爆犠牲者の方々へ祈りを捧げ、世界の平和を願い続けています。松山町の爆心地周辺には、同じ惨事が再び繰り返されないように平和への願いが込められたモニュメントが数多く建立されています。今回はそんなモニュメントを巡ってみました(・・)平和公園etc... 平和公園の一角に、まっすぐ天に向かって建つ黒く細長い石碑があります。「原子爆弾落下中心地の塔」です。昭和20年8月9日午前11時2分。アメリカの爆撃機B29により投下された原子爆弾は、長崎市の北部に位置する松山町の上空約500mで炸裂。▲原子爆弾落下中心地の塔(平和公園内)まさにこの塔の上空で起きたのでした。発生した大きな火球は、わずか0.2秒後には半径200mになり、表面温度は7000~9000度に達したといいます。巨大な火球の周囲はその熱で膨張し、すさまじい爆風に変わり、強い熱線と放射能と共に四方へ散乱しました。焼き尽くされ、叩きつぶされ、廃虚と化した長崎の街。この時の死傷者は約15万人といわれています。 この爆心地から北東へ500m離れたところには、約20年の歳月をかけて作られ1925年に完成したレンガ造りの大教会「浦上天主堂」がありました。地元の信徒たちの地道な活動によって造られ、東洋一の壮大さを誇ったその聖堂も完成からわずか約20年後に原爆によって壊滅。聖堂の南側に残された残骸の一部だけが、現在平和公園内に移築されています。レンガ積みのその残骸は教会建立にかけた信徒たちの熱い思いそして原爆投下後の悲惨な光景を知っています。それを思うと胸が詰まります。▲浦上天主堂遺壁(平和公園内) 平和公園内では、他にも世界各国の都市から贈られた多彩なモニュメントを見ることができます。それぞれお国柄が偲ばれる個性的でアーティスティックな造型ですが、その中に込められた思いは皆同じ。「世界の恒久平和」です。これらのモニュメントを通して世界の誰もが平和を願っているのだと再確認できます。 爆心地から北に500mの丘の上にある城山小学校。当時、鉄筋コンクリート3階建てのモダンな校舎は、巨大なハンマーで叩きつぶされたように崩れ落ち、校内では110人が亡くなり、学校周辺に住む児童らの多くは家庭で約1400人が命を落としています。学徒報告隊員としてこの校舎で仕事中に被爆死した女学生の林嘉代子さん。校内には彼女が好きだった桜の木が母親によって植えられました。今、嘉代子桜として子供達に親しまれているこの桜は、春には美しい花を咲かせ優しく微笑みながら、命の尊さと平和の大切さを子供達に伝えています。(・o・)LOVE&PEACE▲嘉代子桜(城山小学校の校庭の一角にある)

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  • 第47号【日本植物学の父、ツュンベリー】

     街を歩けば庭先や小道の脇などに置かれた、洒落た鉢植えが目を楽しませてくれます。それにしてもここ数年、鉢植えを育てる家々が増えて来たように感じませんか。植木や盆栽など、昔から植物と親しむ生活を送って来た日本人ですが、昨今のガーデニングは国境もブームも越えて、私たちの暮らしの中に定着した感があります。それだけ現代人は「自然」を求めているのでしょうね。 話はグルリと変わって。江戸時代の人物で、「日本の植物学の父」と呼ばれている人がいます。1775年夏、オランダ商館医師として出島に赴任したツュンベリーが、その人です。彼が日本の地を初めて踏んだ時、その胸中には大切な目的が秘められていました。(,,)ナニ、ナニ?▲ツュンベリー肖像画(長崎市文化財課蔵) 出島に来る前に、大学で医学と博物学を学んだツュンベリーは、実は植物学の権威として著名なリンネの弟子でもありました。当時、リンネは世界中の生物の分類を試みようと、自分の門弟たちを各国に派遣し、植物を採集・調査していて、ツュンベリーもそのひとりとして日本へやって来たのです。しかし鎖国中の日本が、外国人に植物の調査・研究を許可するはずがありません。リンネの弟子の中でもひときわ優秀だったツュンベリーは、そんな難しい環境の中で、師の期待に応えるべくいろいろな苦労をしています。▲ツュンベリー記念碑(上西山町)日本学術会議と日本植物学会によって1957年建立 たとえば研究のための植物採集で出島から出るのは許されないため、治療に必要な薬草を採るのだとウソをついて外出。時には仲良くなったオランダ通詞に採集を頼んだり、冬枯れの季節には出島で飼っている動物たちのエサとして運ばれて来た飼料の中から標本用の植物を探し出すこともあったそうです。また、1度だけ同行した江戸参府の道中でも、隙を見ては駕篭(かご)を担ぐ人の労をねぎらうふりをして、駕篭から降り、すばやく道端の崖をよじのぼり植物を採集していたそうです。((((((( *≧▽≦)P 忍者顔マケ? ところで、当時のお江戸は「解体新書」が出版されて間もない頃。オランダ通詞らの情報網によって、ツュンベリーが優れた学者であることは知れ渡っていたらしく、一行が宿に着くやいなや、学者らの訪問を受け、盛んに学術交歓の宴が開かれたといいます。▲本国スウェーデンでは切手のデザインにもなった偉人なのです。 さてツュンベリーの日本滞在は、約1年4ヶ月。その間に長崎、箱根、江戸の植物を約800種類採集したそうです。そして帰国後、「日本植物誌」を著し、そこで日本の多くの植物がはじめて学名を付けられ世界に紹介されたのでした。これがツュンベリーが今も「日本植物学の父」と呼ばれている理由だとか。トリカブト、オケラ、スイカズラなど、日本の薬用植物の分類はこの時のツュンベリーの功績によるものが大きいと言われているそうです。 学者としての使命を果たすために、はるばる日本へやって来たナチュラリスト、ツュンベリー。今、私たちが育てている花や植物の中には、ツュンベリーによって分類され、学名がつけられたものもあるかもしれません。 (^-^)ウン!

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  • 第46号【長崎・夏の風物詩、ペーロン!】

     青空にくっきりと浮かんだ真っ白な雲。ウルサイほどの蝉の鳴き声。いよいよ夏本番!という感じですが、暑さに負けず元気に過されていますか?(⌒▽⌒)ノ さてこの時季、小さな漁港を擁した長崎の各地域では「ペーロン」が盛んに行われています。「ペーロン」は日本のボートレースの元祖とも言われる中国伝来の競技で、「闘魂」とか、「熱血」といった元気ハツラツのキャッチフレーズがぴったりくる勇壮な伝統行事です。すでに6月からあちらこちらの漁港で、ペーロン大会が開催されていて、この土日に長崎港で行われる「長崎ペーロン選手権大会」では、各地域の選抜チームが競い合うことになっています。▲長崎の夏の伝統行事「ペーロン」(長崎ペーロン選手権大会より) 細長い舟の長さは昔はまちまちでしたが現在は大会の規定で約13.6m、乗員も30名以内(漕ぎ手26名以内、太鼓、銅鑼(ドラ)、舵手、采振り、あか汲み)と決められています。1mほどもある櫂を手にした漕ぎ手の若者達が、太鼓と銅鑼の囃子に合わせてスピードを競う様は、まさに圧巻です。(“)生デ見テホシイ! ところで長崎でペーロンが最初に行われたのは江戸時代初めの1655年頃と言われています。当時、長崎港にてい泊していた唐船が暴風雨で難破し、多くの犠牲者を出したことから、長崎在住の唐人たちが海神の怒りを鎮めようと端船(はしけ:荷物を運ぶ小舟)で競漕したのがはじまりだそうです。\(-o-)ソレヨリ前カラトイウ説モ… 中国の福建地方には、長崎のペーロンとよく似た競渡船が存在するそうで、その起源をたどると、川に身を投げた楚の詩人、「屈原(くつげん)」をとむらうために、毎年その命日(旧暦の5月5日)の頃に行った船祭りの風習がいつしか競渡船になり、それがペーロンのルーツではないかといわれているそうです。 長崎にとってペーロンは、ハタ揚げやくんちに並ぶ花形伝統行事のひとつ。昔は中国の故事にちなんで旧暦の端午の節句に行われていましたが、現在は新暦の6月初め頃から8月のお盆の頃までがシーズンになっています。(^▽^)夏ノ風物詩! 実際に300年以上のペーロンの歴史を持つ長崎市深掘町の練習を見に行って来ました。夕方6時半頃、地元で「有海(あるみ)」と呼ばれている小さな漁港は、ペーロンの練習を終えたばかりの中学生と、仕事を終えこれから練習に入る地元チームの社会人が、入れ代わったばかり。大人たちはこれから9時までみっちり練習です。聞けばこのチーム、既に3月から毎日練習をしているとか。漕ぎ手を高校生の時からやっているという20代半ばの青年にその魅力をたずねると、『競技中はどのチームもキツイわけです。そこで何クソと思って熱くなる。意地になって頑張るってところがイイんですよね。』▲300年以上の歴史をもつ深堀町の練習前光景 目前に迫った長崎港での大会では往復1200mを競います。今年も海上での熱戦と、陸での地元の応援団による大声援を見る事ができるはず。頑張る人がいて、それを応援する人がいる。このとてもシンプルな在り方が、長く人々に受け継がれ、愛されて来た理由なのかもしれません。(^○^)ガンバレ~ッ!!▲ボートに先導され、練習は9時までみっちり続きます

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  • 第45号【遊ボーヤの島、高島!】

     夏休みが来るの指折り数えはじめた子供たちを横目に、どこへ連れて行こうかと思案中の親御さんは多いはず。そこでおすすめなのが長崎港沖に浮かぶ小さな島・高島(西彼杵郡高島町)。この島は近年ファミリー向けのレジャースポットとして大いに注目されています。実はここはかつて炭坑の島として栄えた町。今回はその歴史に触れながら、現在の島の様子と魅力をご紹介します!(┘⌒⌒)┘早くキテキテ、夏休み! 長崎港から高速船でわずか35分。渋滞ストレスなしで、降り立った高島の桟橋は、のんびりした雰囲気が漂い、人々の表情も穏やか。町のあちこちで見かけるヤシの木ときれいな海と青空に、まるで南国の島に来たような気分に…。そんな高島町は現在、人口1000人余り。小高い丘を擁した島の面積はわずか1.27km2で、日本で一番小さな町なのだそうです。ここは以前、石炭の町として発展し、最盛期には2万人余りの人々が暮していました。しかし昭和61年、約120年続いた高島炭坑が閉山。その後、多くの人々が島を離れていったのでした。 高島のすぐ近くに浮かぶ、端島(はしま)は、日本の近代化を支えた海底炭坑として知られる人工島で、高層鉄筋アパートが林立した島の外観は、軍艦島の異名とともに、無人島となった今も当時のまま残されています。(+o+)戦時中、軍艦ト間違ワレタラシイ…▲軍艦島の異名を持つ端島(右) 時代に翻弄されながらも、町は炭坑に代わる新しい活路を探り、新しく島の自然をレジャースポットとして活かした町づくりをはじめます。そうして数年前オープンしたのが、「飛島(とびしま)磯釣り公園」と「高島海水浴場」です。「飛島磯釣り公園」は、ベテランもビギナーも安全に本格的な釣りが楽しめる釣りスポット。もともと九州きっての好漁場だけあって、マダイ、チヌ、クロ等、魚の種類も豊富で、初心者がいきなり大物を釣り上げることも多いとか。▲飛島磯釣り公園では初心者の私にもたくさん釣れました私もさっそくサビキでアジゴ釣りに挑戦! 初心者なのに、釣れる、釣れる、わずか30分で、30匹も釣れました! そばで見ていた老人が、「これだけ釣れれば、病みつきになるぞ」と、声をかけて来て、帰り際には釣ったばかりの大きな水イカをわけてくれました(後で聞くと、その人は島のイカ釣り名人!)。ありがとうございました!くコ:彡 =(^¬^ )甘クテオイシカッタァ さて広々としたウッドデッキが、どこか外国のリゾート地を思わせる「高島町海水浴場」は、温水シャワーやコインロッカーなどの設備が充実。海際には真水のプールも設けられていて、小さなお子さんたちに利用されています。また特筆すべきは海の水質で、きれいで快適な水浴場として今年環境省から「日本の海水浴場88選」に認定されています。何を隠そう高島町は、100%下水処理を行い、島の宝である海を守っているのでした。▲高島海水浴場は日本の海水浴場88選に認定されています※高島町役場総務課に取材のご協力をいただきました。ありがとうございます。

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  • 第44号【長崎市歴史民俗資料館】

     「花の都パリ」。ずいぶん昔から使われているこのフレーズ、最初に言い出したのは一体誰なのかしら? もしや映画のセリフ? 旅行代理店の宣伝文句?いずれにしてもパリにはお似合いの表現ですよね。こんな風に人々が注目する個性的な街には、それにぴったりの代名詞があるようです。長崎でいうならば「異国情緒」とか「港町」といったところですね。(“)神戸にも言えるね! 実はそんな代名詞で語ることができる長崎は、1570年ポルトガルとの貿易のためにこの街が開港されてからのこと。それじゃあ開港以前の長崎はどんな風で、そもそも長崎のはじまりはいつ頃なのでしょうか? そんな素朴な疑問を抱えて今回行って来たのは「長崎市歴史民俗資料館」(上銭座町)です。(・・)ソンナトコアッタノ?▲長崎市歴史民俗資料館(長崎市上銭座町) 長崎市の中心部茂里町(もりまち)にほど近い場所にある「長崎市歴史民俗資料館」。路面電車だと茂里町電停下車、徒歩10分。県営バスは立山行き(目覚経由)に乗り「あじさい荘バス停」で下車、徒歩5分。近くには坂本国際墓地があるので、それを頼りに行くと分かりやすいと思います。(“)人に聞クトイイヨ! 館内には1階は考古資料、2階は農機具や漁具、酒道具などの民俗資料や中国及びポルトガルとの貿易資料、3階は電信機器や電話機器などといったものが展示されています。この館の目的は、長崎の歴史民俗の資料を収集・保存し、調査・研究を行うこと。そして来館者には長崎の歴史の特異性と民俗文化財についての知識と理解を深めてもらうことにあるとか。▲懐かしさを感じる昔の生活道具たち さまざまな展示物の中で私がもっとも驚いたのは、1階に展示されていた、柿泊遺跡(かきどまりいせき)のナイフや矢じりなどの出土品でした。これは市内柿泊町で発掘された約2万年前の旧石器時代のもの。つまりこの時代にはすでに長崎市内には人類が住んでいたという証で、現在もっとも古い長崎市の遺跡といえます。 学芸員の方の話によると、この館では2万年前の柿泊遺跡から現代にいたるまで、いわゆる日本史レベルで系統的に長崎を見渡す事ができるのだそうです。また開港以前の長崎については、長年ただの寒村だったというのが通説だったのが、ここ15年くらいの発掘によって、単なる寒村ではなく、きちんとした町が形成され、なおかつ文化水準も高かったというようなことがわかって来たとか。もちろんその証拠となる陶磁器や室町時代に建立された五輪塔(供養塔)なども展示されています。(°°)ヘエ▲長崎の近世遺跡から出土した東南アジアの陶磁器 展示物をじっくり見て行くと、歴史民俗の視点にウエイトをおいているだけあって、江戸期や明治~昭和初期の暮らしの様子などいろんな時代の人々の生活や温もりが伝わってくるようなものが多くあり、面白かったですよ。 ところで「長崎市歴史民俗資料館」は、平成九年に出島から今の場所に移転したのですが、場所的にわかりにくいのと宣伝不足で、来館者がずいぶん少なくなっているというから残念な話です。これを機に、新しい長崎を発見しに出かけてみませんか? ‘ー’)入場無料です!

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  • 第43号【お江戸に高島秋帆のなごり】

     東京の板橋区に大きな団地で知られる「高島平(たかしまだいら)」という所があります。この地名は日本の西洋砲術の祖「高島秋帆(たかしましゅうはん)」の名にちなんで付けられたものです。(´-`)??ハテ、シラナイナ さて、いきなり東京の地名の話から入ったのには理由があります。高島秋帆は江戸時代後期の長崎の地役人ですが、彼の人生はたいへんお江戸との関係が深いものでした。今回は幕末に数奇な運命をたどったこの人物についてのお話です。(“)面白イ話ナライイケド…▲高島秋帆旧宅の門扉(長崎市東小島:国指定史跡) 秋帆が生まれた家は代々、長崎奉行の下でこの地を支配・管理する地役人、「町年寄(まちどしより)」で、外国貿易を統括する「長崎会所」で事務全般を仕切る役目も兼務。またさらに鉄砲方として長崎港の内外に設けられた港を警備するための砲台(台場)の責任者も務めていました。▲秋帆旧宅地の井戸と土塀向こうに見える山は稲佐山 17才で家を継いだ秋帆は、早くから国防の必要性を感じ、私財を投じてオランダ人から砲や銃などを購入し、先進の西洋の砲術を研究していたそうです。そんな折、アヘン戦争(1840~1842)で清国が英国に港を封鎖されたことをオランダ人から聞き、幕府に新しい砲術を採用し日本も近代的な国防を考えるべきといった内容の意見書を提出しました。これが有名な「天保上書」といわれる書状です。(-o-;有名ってイワレテモ… 幕府も危機を感じていたのか上書を受けた老中・水野忠邦は、秋帆に江戸の市街地から遠く離れた徳丸ヶ原(ここが冒頭の高島平)で、西洋式大砲発射の演習を命じます。長崎から門人を率いてお江戸へ上がった秋帆。天保12年(1841)大勢の見物人の中で行われた演習は見事成功! 発射された大砲の音は、江戸中に響き渡り、たいそう人々を驚かせたそうです。(゛)ソレデ地名ニ… この演習で幕府に認められた秋帆でしたが、翌年、高島家は突如お家断絶となり、秋帆とその子、浅五郎ら他10名は江戸送りとなり牢屋へ入れられます。これは同僚や旧砲術家らのねたみによるいわれなき弾圧でした。秋帆の成功と才能は、周囲の大きな嫉妬を買ったようです。(`ε`)ヒドイハナシダナ 10年あまりも牢獄に押し込められた秋帆らが解放されたのは嘉永6年(1853)、日本が諸外国に開国を迫られている時でした。"外国船は打ち払うべし"という風潮の中で、秋帆は「嘉永上書」という国防慎重論を書きます。それは「いま外国と戦争してはならぬ。それよりまず国防を充実させよ。その費用は諸外国との貿易による利益をあてるべき」といった内容で開国を説いたものでした。 出獄後は砲術の師範役になるなど、幕府に重く用いられた秋帆は、慶応2年(1866)東京・白山の屋敷で、明治維新を待たずして病死します。69才でした。長崎に残る彼の邸宅跡(長崎市東小島)には、砲術練習所跡や砲痕石が残されています。(^^;大砲はナイヨ▲砲術練習所跡に残された砲痕石(秋帆旧宅敷地内)

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  • 第42号【気分爽快、長崎港クルージング!】

     気象庁の梅雨入り宣言直後に訪れた"梅雨の晴れ間"。お天気が良いのはうれしい事ですが、どうしていつもこうなの?と雨の季節への心構えをくじかれたようでちょっとプリプリ…。それはそうと、私にはやるべき事がある!そう、「長崎港クルージング」。さっそく、行ってまいりましたよ~。┌(^0^)┘GO!GO! ところで「クルージング」というと、船でさっそうと大海原を駆けめぐるというイメージが浮かびますが、今回のは少し違います。深く入り組んだ長崎港の一番奥から、港の沖合(出入口付近)までを海岸線をたどるように60分かけて1周するもので、遊覧船でゆっくり港を巡るのです。(⌒▽⌒)/ノンビリイコウ! 船の発着場所の大波止ターミナルからは、「やまさ海運」、「安田産業汽船」という2つの船会社が長崎港めぐりの定期便を出しています。いずれもルートが似ていて、所要時間も同じ(料金は違います)。両方の便を合わせると朝から夕方までの間に約10本は出ています。(‘▽’)利用しやすい! さてターミナルの窓口で大人料金1200円を支払い、朝10時45分発の船(安田産業汽船)が待つ桟橋へ。「ゼリーフィッシュ(くらげ)」というユニークな名を持つ遊覧船に乗り込むと、すでに約30名ほどの乗客が思い思いにくつろぎ、出航を待っていました。軽食やドリンク類が楽しめる船内は、1階が窓越しに展望を楽しめるスペース、2階は360度に視界が広がる屋根付きの広いデッキ。この日はお天気が良かったので皆2階へ。さあ、初夏の爽やかな風を感じながら、いよいよ出航です。(^〇^〃)ゞワクワク▲可愛い?カラーリングでひときわ目立っていたゼリーフィッシュ コースを簡単にたどってみましょう。まず三菱重工長崎造船所へ。巨大な工場をかなり近距離で見る事ができます。ほどなくして数年後に完成が予定されている女神大橋の架橋場所が見えて来ました。この橋は新しい観光スポットとして期待されています。次にキリシタン殉教にまつわる「高鉾島(たかほこじま)」、続いて昔、長崎市民が海水浴場として利用していた「ねずみ島」。▲すれ違う船に子供達も大喜びそして大浦天主堂の次に古い「神ノ島教会」と海に向かって立つ「マリア観音像」。ここで長崎港の沖合に浮かぶ伊王島、高島を望みつつUターン。三菱重工の「100万トンドッグ」、グラバーさんが明治元年に創業した「ソロバンドッグ」、異国情緒あふれる建物が目を引く「南山手の景観」と続いて終点です。▲神の島教会と船舶の安全を祈願して建立されたマリア観音像 船内では出港時からアナウンスで丁寧な解説があります。長崎の港にまつわる話をいろいろ聞けて得した気分になりますよ。それにしても、いつもと違う視点で見る長崎は格別の味わいでした。かつて長崎港へやって来た異人さんたちはその美しさを褒め讃えたそうです。時代を経てずいぶんその姿も変わったのでしょうが、何だかその気持ちがわかるような美しさでしたよ。(☆☆)行って、良かったァ

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  • 第41号【長崎ことはじめ(通信編)】

     今回は長崎ことはじめシリーズ(!?)通信編をお届けします。ひと口に「通信」といってもその意味はとても広く、広辞苑によれば『人がその意志を他人に知らせること。郵便・電信・電話などによって意志や情報を通ずること』とあります。 今やインターネットで世界中がつながっていますが、電気通信による情報ネットワークの歴史をひもとけば、1837年モールスによる電信の発明にまでさかのぼります。「トン・ツー」という電流の長短をテープに記録する「モールス信号」はご存じの方も多いはず。長崎の阿蘭陀通詞たちは出島のオランダ人や洋書によって、このモールスの発明を早くから知っていたといいます。日本初の電信機も、出島に持ち込まれたものがはじめだといわれていて、1854年(安政元年)に幕府の勘定奉行が出島を訪れた時、電信機を見て『脈一つ動くうち百里の内に通達合図の出来る品』と驚きぶりを記しています。\(◎◎)▲初期の通信機(長崎市歴史民俗資料館・展示パネルから) 出島の電信機とはまた別の話になりますが、日本初の国際電信も長崎がはじまりでした。明治政府は1870年(明治3)に、上海-長崎間およびウラジオストック-長崎間の海底電信線を長崎に陸揚げすることをデンマークのグレートノーザン・テレグラフ社に許可します。翌年には電線の敷設が完成し、通信が開始されました。これでめでたく日本はヨーロッパをはじめとする世界各地と電信線で結ばれたのでした。(^^)//。.:¨:・‘★パチパチ。▲国際電信発祥の地(左)と長崎電信創業の地の碑(長崎市南山手町) さて、モールスが電信機を発明してから約30年後の1876年(明治9)、アメリカのグラハム・ベルが電話を発明しました。日本はベルの電話器を輸入し、国産の電話機制作に乗り出します。そうして1890年、東京~横浜で電話が開通、これが日本の電話創業とされています。 しかし長崎ではそれよりも約8年くらい前に電話が使われていました。イギリス人貿易商のトーマス・グラバーが南山手にある自宅と、長崎港から約14.5kmほどの沖合に浮かぶ小さな島・高島に建てた別邸との間に電話線を引いていたのです。これは日本初の私設電話といわれています。いかにも幕末~明治期に数々の偉業を成し遂げたグラバーさんらしい話でもあります。(¨)ヘエ…。▲電信発祥の地はグラバー園に続く坂の入口付近にあります。

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  • 第40号【遠藤周作文学館へ】

     我が社では、10年ほど前から「長崎の歴史と文化を学ぶ会」ということで長崎に関わるいろんな事をテーマにした講座を(隔月開催、参加無料)開いています。つい先日行われた第55回目のテーマは『遠藤周作と長崎』でした。講師は長崎県外海町(そとめちょう)にある『遠藤周作文学館』(H12年開館)の専門研究員の方。“遠藤周作と長崎との関わり”やキリシタン弾圧を通して心の深淵を描き出した代表作“「沈黙」について”などのお話がありました。あらためて長崎の歴史や人間について考えさせられる、たいへん興味深い内容でしたよ。(“)理解デキタト?((^,^;)ノ 実はコラムの読者の方からも「遠藤周作文学館」について知りたいというグッドタイミングなリクエストもあったばかりで、さっそく次の休みに「遠藤周作文学館」へ出かけて来ました。(^ー^ )アクションはハヤイ!▲遠藤周作文学館(長崎県外海町) 長崎市内から車で西彼杵半島の西側を通る国道202号線を30~40分北上したところにある遠藤周作文学館(西彼杵郡外海町)。ちなみにこの202号線は別名「サンセットオーシャン202」と呼ばれ、五島灘に沈む夕日を眺める海岸線が続く県内屈指のドライブコースなのです。(^^/絶景デス もしバスを利用するなら、長崎・新地のバスターミナルから「瀬戸板の浦」行きに乗り「黒崎支所前」で下車、そこから約5分ほど歩きます。バスだと所要時間は約1時間ほどです。(^◇^)バスも又よし 長崎市から外海町へ入ると、海が眼下に広がり山の緑とともに豊かで素朴で静かな自然の風景が続きます。どこかひそやかな佇まいを感じさせる外海町はキリシタンの里として知られ、小説「沈黙」の舞台となったところです。「遠藤周作文学館」は海も山も一望できる見晴しのいい丘の上にありました。▲自然が豊かな外海町 観覧料350円を支払って館内(開館時間:午前9時~午後5時)へ。生前の愛用品や膨大な蔵書が収蔵され、作家の生涯と足跡をたどる写真パネルや小さな字でぎっしり書かれた生原稿などファンにはたまらないものが多数展示されていました。ちょうど1周年記念企画展「作家の書棚より~書き込み本と狐狸庵(こりあん)アルバム~」が開催中(11月30日まで)で、創作の過程を垣間見られる資料をじっくり見ることができましたよ。ところで外海町にはこの文学館とは別の場所に遠藤周作ファンが訪れる場所があります。1987年に建てられた文学碑「沈黙の碑」のある丘です。除幕式の際は、夫妻で出席されたそうです。(¨)見たかったナ・・。 いつになく静かに物思いにふけった帰路、あいにくの曇りで夕日は見られませんでしたが、視界いっぱいに広がる濃紺の海は何だか心にしみる美しさでした。ふと浮かんだのは「沈黙の碑」に刻まれた言葉。『人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです。』(><)奥ガ深スギル~▲沈黙の碑(出津文化村内)「遠藤周作文学館」と外海町の情報はこちらからもどうぞ。http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/endou/

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  • 第39号【オランダ商館員の面白エピソード】

     アジサイが咲きはじめています。長崎ではアジサイといえばシーボルト。日本原産のアジサイに魅せられたシーボルトは帰国後、日本に残した妻・楠本滝(通称・オタキさん)の名にあやかり「ヒドランジア・オタクサ」という学名を付けました。そういう縁もあってアジサイは長崎市の市花に。街のいたる所にこの花木は植えられていて、これから梅雨が終わるまでブルーやピンクが微妙に七変化する花々を楽しむことができます。(^▽^)キレイカヨ~ さてアジサイの話とは打って変わって。今回は出島のオランダ商館員さんたちの話です。出島には商館長(カピタン)率いるオランダ商館員らは常時十数名ほどいました。荷物の管理者、会計担当者、書記役や医師などの役職にある彼等は基本的に出島の外へ出る事を許されず、貿易業務の少ない時期はたいへんたいくつな日々を送り、商館の中に設けたビリヤードに興じたり、遊女と戯れたりしていたそうです。▲ビリヤードに興ずる商館員 そんな中、今どきでいうなら三面記事に掲載されそうなエピソードを2つほど紹介します。1659年秋の某日。商館医師マルティン・レミが突如出島から姿を消しました。机に残された遺書によると、"遊女を愛しているが、自分のものにすることができない。だから死ぬよりほかにはない" という理由での失踪のようです。他の商館員や長崎奉行所の役人らはあわてて捜索をはじめ、出島はもとより民家や船、そして海中には網を投げるなどして長崎の町中を巻き込んでの大騒動になりました。そうして事件が解決したのは行方不明になってから3日目の夕暮れどき。出島の近くに停泊していた唐船の帆の下からひょいとレミが姿を現したのです。何でも失恋の末、海に身を投げるつもりだったのが、命が惜しくなり、さらには遊女に一目会いたくなって丸山へ向かおうと思っていたのだそうです。実際のところは空腹に耐えかねて出て来たところを無事に保護されたのですが、本当に人騒がせな話です。まあ、何といいますか「恋の病」は古今東西変わらぬようで…('-'*)。▲楽器演奏を楽しむ様子が伺えます。 もうひとつはちょっと悲しいお話。1811年冬、商館員スヒンメルがお酒の飲み過ぎで亡くなりました。せまい出島でのわび住まいに加え、その頃の世情も本国オランダがナポレオン軍に占領されていたためオランダ船の長崎への寄港が途絶えていて、商館員らは不安とあせりを感じていました。そんなストレスの多い日々を、スヒンメルは「人並みはずれた飲酒」で解消しようとしていたのでしょう。酒を飲み過ぎては治療を受け、周囲に迷惑をかけながら何度も禁酒の誓いをたてては破りをくり返していたそうです。(*^¬^*)ウィーッ▲食事風景(2階)と家畜の世話をする姿が見えます。 失恋も、お酒の飲み過ぎも現代によくある話。江戸時代のオランダ商館員さんたちがご近所の人のように感じませんでしたか?※各資料とも長崎県立美術博物館蔵「漢洋長崎居留図巻・長崎阿蘭陀出島之図」(画者不詳)より(一部)

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