第55号【インゲン豆をもたらした隠元禅師】
スーパーの食料品コーナーをのぞくと、木の実や根野菜、きのこ類など旬の食材が満載。ああ収穫の季節だなあと、食いしん坊の喜びに浸りながら大根と柚子そしてサンマを購入。今夜は家族全員のリクエストでサンマの塩焼きデス。<゚)#)))彡 ∧\(^¬^)大根オロシをソエテ
さて旬といえば今回の話の中に登場するインゲン豆も夏場から今頃にかけてが収穫の時期。ゴマあえやテンプラにするとおいしいですよね。ところでこのインゲン豆、現代の私たちにとってはたいへん日常的な野菜ですが、もともと日本にあったわけではありません。最初に日本に渡来したのは江戸時代。1654年、明国(中国)福建省の僧侶、隠元(いんげん)が長崎に来た際に持ち込んだのがはじめだそうです。だから名前がインゲン豆なのですね。(“)ワカリヤスイ!
▲隠元禅師の木像
(興福寺本堂内)
地方によってはササゲ、フジマメとも呼ばれるインゲン豆。現在は北海道が主な産地ですが、南は沖縄まで全国各地で作られているようです。江戸時代、どんな荒れ地にも育ったというこの強い野菜は各種ビタミンやカルシウム、タンパク質など栄養面にも優れ、飢饉の時におおいに役立ったそうです。
「隠元禅師」「隠元さん」「隠元おしょう」。どこかで聞き覚えのある名前だけど、よく知らないなあという方は多いのではないでしょうか?隠元禅師は日本三禅宗のひとつ黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖として知られる人物です。明国(中国)で黄檗山・万福寺(まんぷくじ)の住職だった隠元は、禅界の重鎮として活躍。その名声は日本にも伝わっていました。
▲興福寺山門に残されている
隠元御書「初登宝地」
当時、日本では禅宗が衰退していて、それを案じていた長崎・興福寺の三代目唐僧・逸然(いつねん)や長崎の唐寺の檀家たちは、高名な隠元禅師による新たな禅宗の伝来を願います。そして来日を懇願する書状を数回にわたり送り届けました。長崎の唐寺からの度重なる懇願に心を打たれたのでしょう、この時63才だった隠元は日本への渡海を決心。30名の弟子をはじめ仏師、絵師など職人らも一緒に引き連れて来日しました。
長崎に着くと逸然をはじめとする唐僧たちや長崎奉行、そして檀家らの大歓迎を受け興福寺へ行きます。ここで大勢の聴衆に禅学思想を伝えたそうです。興福寺には隠元の徳を慕う人々が全国から集まり、寺では外堂を建て増して集まった人々を住まわせたほどでした。(^^)大盛況!
▲ゆったりとした南方風の
興福寺大雄宝殿(本堂)
日本の僧侶の質問に丁寧に答え、座禅の教えを広めた隠元。彼は当初、3年したら帰国するつもりだったといいます。しかし長崎滞在から1年後、江戸に上がったところで四代将軍家綱に日本にとどまるように言われ、この国への永住を決意。そして京都に黄檗宗の総本山として故郷の寺と同じ名の万福寺を開山します。それから81才で亡くなるまで広く人々に慕われ尊敬されたそうです。
日本での隠元は建築や書画など明の文化をもたらし大きな影響を与えました。この他、煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり/中国僧の精進料理)を伝えるなど、計り知れない功績を残しています。そんな隠元に歴代の天皇は折にふれ敬意を表して、号を授けています。近年では1972年(昭和47年)に「華光大師」の号が授けられていて、その数は合計6個にも及びます。(@o@)GREAT!