第47号【日本植物学の父、ツュンベリー】

 街を歩けば庭先や小道の脇などに置かれた、洒落た鉢植えが目を楽しませてくれます。それにしてもここ数年、鉢植えを育てる家々が増えて来たように感じませんか。植木や盆栽など、昔から植物と親しむ生活を送って来た日本人ですが、昨今のガーデニングは国境もブームも越えて、私たちの暮らしの中に定着した感があります。それだけ現代人は「自然」を求めているのでしょうね。


 話はグルリと変わって。江戸時代の人物で、「日本の植物学の父」と呼ばれている人がいます。1775年夏、オランダ商館医師として出島に赴任したツュンベリーが、その人です。彼が日本の地を初めて踏んだ時、その胸中には大切な目的が秘められていました。(,,)ナニ、ナニ?



▲ツュンベリー肖像画

(長崎市文化財課蔵)


 出島に来る前に、大学で医学と博物学を学んだツュンベリーは、実は植物学の権威として著名なリンネの弟子でもありました。当時、リンネは世界中の生物の分類を試みようと、自分の門弟たちを各国に派遣し、植物を採集・調査していて、ツュンベリーもそのひとりとして日本へやって来たのです。しかし鎖国中の日本が、外国人に植物の調査・研究を許可するはずがありません。リンネの弟子の中でもひときわ優秀だったツュンベリーは、そんな難しい環境の中で、師の期待に応えるべくいろいろな苦労をしています。



▲ツュンベリー記念碑(上西山町)

日本学術会議と日本植物学会

によって1957年建立


 たとえば研究のための植物採集で出島から出るのは許されないため、治療に必要な薬草を採るのだとウソをついて外出。時には仲良くなったオランダ通詞に採集を頼んだり、冬枯れの季節には出島で飼っている動物たちのエサとして運ばれて来た飼料の中から標本用の植物を探し出すこともあったそうです。また、1度だけ同行した江戸参府の道中でも、隙を見ては駕篭(かご)を担ぐ人の労をねぎらうふりをして、駕篭から降り、すばやく道端の崖をよじのぼり植物を採集していたそうです。((((((( *≧▽≦)P 忍者顔マケ?


 ところで、当時のお江戸は「解体新書」が出版されて間もない頃。オランダ通詞らの情報網によって、ツュンベリーが優れた学者であることは知れ渡っていたらしく、一行が宿に着くやいなや、学者らの訪問を受け、盛んに学術交歓の宴が開かれたといいます。



▲本国スウェーデンでは切手の

デザインにもなった偉人なのです。


 さてツュンベリーの日本滞在は、約1年4ヶ月。その間に長崎、箱根、江戸の植物を約800種類採集したそうです。そして帰国後、「日本植物誌」を著し、そこで日本の多くの植物がはじめて学名を付けられ世界に紹介されたのでした。これがツュンベリーが今も「日本植物学の父」と呼ばれている理由だとか。トリカブト、オケラ、スイカズラなど、日本の薬用植物の分類はこの時のツュンベリーの功績によるものが大きいと言われているそうです。


 学者としての使命を果たすために、はるばる日本へやって来たナチュラリスト、ツュンベリー。今、私たちが育てている花や植物の中には、ツュンベリーによって分類され、学名がつけられたものもあるかもしれません。 (^-^)ウン!

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