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  • 第23号【すごいぞ!生月鯨太左衛門】

     コラムのタイトルを見て、???という人も多いと思います。今回のお話は読者からのリクエスト。その方はお相撲が大好きで、江戸時代の力士、生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)について詳しい話を知りたいということでした。(\∪∪/)リクエストありがとうございます。▲生月みやげ、鯨太左衛門のれん(販売元:生月町博物館・島の館) 生月鯨太左衛門(本名:要作)は身長2m27cm、体重168kg、手のひら32cmという巨体で、江戸時代末期の相撲界で一大ブームを巻き起こした男です。出身は長崎県の北部、平戸島の隣にある生月島。平戸領だったこの島は江戸時代、捕鯨で栄えていました。これが鯨太左衛門の名前の由来です。この日本人離れした巨体。勝手に推測するならば、平戸はかつてオランダとの交流があったところ。もしかして世界一身長が高いといわれるオランダ人の血が要作に混じっていたからかもしれません。(``)?ソウカナ▲生月島(朱色部分)は長崎の北西部にあります。 さて要作は生まれた時、とり上げた産婆さんが度胆を抜くほど大きく、通常の2倍はあったといわれています。幼少の頃は大きすぎて、漁師をしていた父の漁船に乗せてもらえず、出漁の時、船に積んだ網を離さず駄々をこね、あげくの果てには網をひっぱり船を陸へ引き上げてしまったこともあるとか。心優しいこの息子は、巨体を活かして大人顔負けの働きぶりを見せ、父の船がもどると1人で船を引き上げ、いとも簡単に船をひっくり返して、船内に残った海水を流していたそうです。(,,)感心、感心 「鯨の生まれ変わりのような巨童がいる」の噂は平戸のお殿さまにも伝わり、また大阪、京都、江戸の相撲界からも差し出してくれとの願い出がありましたが、15才の要作と父は、その話に全く応じません。本人はやる気がなく、そして父は息子が見せ物にされるのを危惧したからです。しかし後に、執拗な勧誘を受け入れることになり、大阪へ上がります。(“)サテ、ドウナルコトカ 激しく厳しい稽古を積み要作が大阪場所に登場したのは18才の時。番付には「前頭」として名が記されました。巨体が繰り出す技は豪快で、張り手と突っ張りはたいへんな威力だったそうです。そうして大阪の街で人気者になり、翌年には望まれて江戸相撲へ送り込まれます。大阪で鍛えられ成長した鯨太左衛門の顔だちは、色白で鼻が高く、ちょっといい男風だったようです。▲鯨太左衛門のテレカ松浦史料博物館蔵-生月評判絵詞より- さて、江戸でも大阪と同じようにその巨体が話題を呼び人気者になり、多くの浮世絵が描かれるほどでした。しかし江戸では土俵入りには出ていたものの、相撲を取ったのは1度きりだったようです。相撲を取らずとも名を連ねた番付。そこには他の力士にはない身長と体重まで書かれていました。(´`) その後、鯨太左衛門は24才の若さで病を得て亡くなっています。もし島で漁師として働き続けていたら、と思うと惜しまれますが、生月島では今も鯨太左衛門の伝説が大切に語り継がれているようです。

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  • 第22号【ランタンフェスティバル好評開催中!】

     この冬は雪が降らないなあと思っていたら、今月中旬、突然の雪。しかも34年ぶりの大雪になってしまいました。その日は朝から交通網が麻痺。あちらこちらの会社では早めに仕事を切り上げたり、学校は休校になったり、カー用品のお店ではチェーンの売り切れ続出で、もうみんなてんてこ舞い。わずか2日ほどの積雪でしたが、ちょっとした騒動だったのです。そして雪が解けるのを待っていたかのように「長崎ランタンフェスティバル(1/24~2/7迄開催)」の準備は、はじまったのでした。\(⌒◆⌒)▲龍も飛ぶ!? メイン会場の湊公園は人もランタンもPower Upしていました このコラムでも12月に一度ご紹介した「長崎ランタンフェスティバル」。これは「春節祭(しゅんせつさい)」といわれる中国の旧正月にちなんだイベントで新地中華街を中心に近隣商店街も一緒になって旧正月の新年を祝います。そして24日にはじまってからというもの、夕方近くになるとどこからともなく大勢の人々がランタンの灯りの下へ集まって来て、熱く盛り上がっているのです。(‘〇‘)スゴイヨ 新地中華街横にある湊(みなと)公園にはステージが設けられ、中国雑技、龍踊り、中国獅子舞等で毎日賑わっています。特に中国雑技は、本場ならではのアクロバットな演技が次々に披露され、会場内は「ホォー」、「ハァー」w( ゜o゜)wと感動のためいきの連続。ここには点心や中華菓子の屋台も出ていて、肩車された子供がホカホカの中華まんをほおばっている姿をよく見かけました。( ¨)オイシソウ…▲龍踊りや中国雑技で盛り上がる特設ステージ(湊公園) 湊公園の拍手の渦を後にして、ランタンの灯りを頼りに唐人屋敷跡へ行くと、今しがたまでの賑わいとは打って変わってしっとり静かな風情が漂っています。道行く人々の手には赤いロウソク。唐人屋敷跡にある4つのお堂を巡っているのです。何でもこれらのお堂を全部巡って赤いロウソクをお供えすると良縁に恵まれるという話。さっきから若いカップルが多いなと思っていたら、そのせいだったのですね。(・З・イイナア… さてこのお祭りの期間中、ぜひ足を運んで欲しいのが長崎唐四寺に数えられる崇福寺(そうふくじ)と興福寺(こうふくじ)(他は福済寺・聖福寺)です。崇福寺は朱色の御堂や珍しい彫刻など、中国洋式の贅を尽した建造物で、1629年に建立されたもの。国宝や国の重要文化財が揃っていて見応えがあります。また興福寺は、長崎の唐寺の中で最も古いお寺で、1620年に建立。ここには大雄宝殿(だいおうほうでん)といわれる大陸的風格を感じる建造物や二対の魚板など珍しいものを見ることができます。▲あでやかなランタンでライトアップされた崇福寺 いずれのお寺もランタンフェスティバル開催中は17時以降入場無料(21時閉館)。この機会に長崎の唐寺を堪能してみませんか。 ヾ(^V^)そして旧正月の新年で、気分一新!

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  • 第21号【海を渡った日本の磁器】

     数年前、デパートのギャラリーで出会った柿右衛門(かきえもん)の器。磁器の世界にうとい私でも、乳白色の美しい肌とそれを引き立てるような赤、青、緑色等で描かれた絵に、しばし見とれてしまった経験があります。磁器に興味を抱くようになったのは、その時から。直後、伊万里焼(いまりやき)・古伊万里(こいまり)と称されるものが有田焼(ありたやき)であることを知ったのですが、これは笑われてもしようがないですね(><)ハズカシイ!▲伊万里焼赤絵鉢(長崎市立博物館蔵) そういうこともあり有田焼の歴史を調べてみました。すると長崎・出島との深い関わりがあることが分かったのです。 出島を拠点に日本・オランダの貿易が繁栄を極めていた17世紀中頃。オランダ東インド会社は東南アジア各地にも貿易の中継点を持ち、取り引きを行っていました。ちょうどその頃、高値で取り引きされていた中国製の磁器が政治的な問題で輸出が困難になります。それに代わってオランダ側が目を向けたのが有田焼だったのです。 長崎に近い場所にある有田の里では17世紀初期(1616年)より染付や青磁などの生産が行われていました。ときのオランダ商館長ワーヘナールは、有田の磁器の受注・生産・輸出のために奔走し、その技量の良さを証明するために、見本を作らせたり、自らヨーロッパ人の趣向に合わせたデザインを考えたりもしています。 そうして有田の磁器の大量生産に成功。柿右衛門をはじめ白地に鮮やかな絵付けが施された豪華絢爛な有田の磁器はヨーロッパの人々を魅了しました。特に薄く独特の透明感を持つ白い肌がもてはやされ、王侯貴族たちに愛用されたと言われています。またヨーロッパの窯業にも影響を及ぼすほどで、柿右衛門様式のデザインが盛んにコピーされたそうです。現在も当時の品々が、イギリスの大英博物館やフランスのルーブル美術館などヨーロッパ各地の美術館に大切に所蔵されています。(“)見ました?▲伊万里焼蓋付壺(高さ19cm/長崎市立博物館蔵) ちなみになぜ有田焼が伊万里焼と呼ばれたのかというと、有田は山里で、磁器を輸出する際に、そこから北へ十数キロの場所にある伊万里の港から日本各地、そして出島を経て世界へと運ばれたことに由来しています。また伊万里焼の中で古伊万里と呼ばれる品というのは、おおまかに言えば江戸時代に作られた有田焼の事を指すのだそうです。(‘‐’)磁器の基礎知識。▲「日本の想い出・出島の大通り」輸出する日本の陶器(右下)が積まれている(リンデン刊/長崎市立博物館蔵) ときどき美術館などで当時の磁器を見かけると、緻密な技工に感心するだけでなく、日本人の美意識や職人の熱い思いまで伝わって来ます。しかもその磁器には、どんな形であれ長い年月を生き抜いて来た生命力が感じられます。マニアの方々が夢中になるのはもっともだなと思うのでした。【‥】フム。。

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  • 第20号【江戸時代の長崎みやげ】

     誰が言い出したのか、“日本人は旅が好き”。今年もお正月休みを利用してたくさんの人が海外旅行や故郷旅行!?に出かけましたね。旅好きの国民性は一説によると江戸時代からあらわれたようで、北は奥州(現在の青森・岩手・宮城・福島)、南は九州まで大勢の庶民が日本の中を行き交っていたそうです。最も旅行者が多かったのは三都と呼ばれた東京・京都・大阪(都へ憧れるのは今も昔も変わらないですね)。考えてみれば参勤交代で各地の街道も整備され、当然お宿もござる。道筋の要所では旅人の休憩所として茶屋も営まれ、テレビの時代劇でよく見かける風景が本当にあったようです。(・・)水戸黄門の世界ダ! さて日本の西の果てにあった長崎にも大勢の旅人がやって来ています。特に西洋の知識や文化に興味を抱く学者や野心家の若者達に人気のスポットでした。それで旅といえばお土産でして、長崎には日本の中の異国らしいさまざまな品が売られていました。ちなみに江戸時代に書かれた「長崎夜話集」という本に、長崎土産が列挙されていて、眼鏡細工、天文道具、外科道具、南蛮菓子など全39種類の品々が記されています。▲グラバー園に続く道沿いにはおみやげ屋さんがたくさん 中でも当時の旅人に人気があったのは「長崎版画」でした。 長崎港に来航したオランダ船や唐船、オランダ人や西洋の婦人など、異国情緒が感じられるものをテーマに作られた版画です。単なる風景画でないところに版画を作った人の商魂が見え隠れしますが、旅人が何を求めているのかをきちんと把握していたのですね。 この時の版画は現在も絵葉書に使われていて長崎のお土産屋さんで手に入れることができますよ。またビードロやギヤマンといったガラス製品も人気商品でした。 出島には大量の西洋のガラス製品が輸入されていたのです。当時の西洋かぶれの人々は、得意げに西洋のグラスについだブドウ酒を飲んだそうです。∀(*^¬^* )ウマカァ▲長崎版画の絵はがきは今も人気があります 人気土産はまだあります。「古賀人形」です。古賀(こが)とは長崎郊外にある地名で、当時、街道筋にあったその村に住んでいた小川家で製作されはじめた素焼きの人形です。独創的な型と色合いが特長の素朴な人形で、人や動物などさまざまな型があります。当時人気を呼んだのは、「紅毛夫人(こうもうふじん)」と題した、西洋の女性とその傍らに子どもが寄り添ったものです。このモデルとなったのは出島のオランダ商館長夫人。出島にある新商館長が赴任する際、単身赴任という規則を破って夫人・子どもを連れて来日。当時、西洋の女性はたいへん珍しかったことから人形のモデルとされ注目を浴びたのでした(結局、夫人らは幕府の許可がおりず、長崎を離れています)。 古賀人形の伝統は現在、小川家18代目の方に受け継がれています。▲古賀人形/おみやげ品店「想い出」にて撮影 それにしても江戸時代のこれらの土産品で驚くのは、数世紀を越えた今も明治期に生まれたちゃんぽんと並んで、しっかり現代の長崎を代表するお土産品であり続けているということ。これってものすごいことだと思いませんか?オミヤゲ ( ^_^)/由  \(●~▽~●)/ワーイ

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  • 第19号【長崎ことはじめ(遊技・スポーツ)】

     この冬、長崎は比較的温かい日が続いています。粉雪も散らつかないし、ちょっとつまんないなという気分です。例年、長崎ではめったに大雪というのはありませんが、ひと冬に2、3回は、朝起きたら何だか辺りがシーンとしていて、窓を明けたら山や家々の屋根が真っ白になっている、というような日があります。その雪はお昼頃には溶けてしまい、とても儚いのだけど、そこがまた良くって、私は雪が大好きなのでした。(”)┌ユキ、マダカナ… さて今回は「長崎ことはじめ」として日本初の遊びやスポーツをご紹介します。まずビリヤード。16世紀にフランスで考案されたこの遊技が長崎に初めてやって来たのは18世紀の終わり頃。出島の商館員らのレクリエーションのひとつとして持ち込まれたのがはじまりでした。ビリヤード台は出島内の遊女部屋におかれ、商館員らは貿易業務がひと段落する秋から、次に船が入る翌年の夏までの間、時には奉行所の役人やオランダ通詞らも交えながら玉突きに興じていたそうです。(“)ヘエ?、オヤクニンサンマデ。▲川原慶賀「唐蘭館絵巻」より(長崎市立博物館蔵) 商館員らが楽しんだ本邦初のものといったら、ゴルフもそうです。たぶん出島の庭などで遊んでいたのでしょう、当時使用されていた木製のクラブと、鉄のかたまりみたいなボールが出島史料館に展示されています。ゴルフというよりゲートボールに近いような感じです。余談ですが日本初のパブリックゴルフ場が造られたのも長崎の雲仙。大正2年のことです。【“】フウーン▲出島史料館の中にはお宝がいっぱい 出島内の通りでは日本の羽子板に似た遊びも行われていました。バトミントンです。今ではスポーツとして世界的に普及していますが、その起源はインドで行われていた「羽根つき」で、世界に知られるようになったのは19世紀の半ば頃だそうです。でも日本ではすでに江戸時代に、オランダ人の従事として働いていたインドネシアの人たちがバトミントンを楽しんでいたのです。 長崎初はまだあります。ボーリングです。安政の開国(1859)後、すぐに西洋から伝えられ、1861年には日本で初めてのボウリング場が外国人居留地だった南山手に開設されました。その名も「インターナショナルボーリングサロン」。サロンというにふさわしく、ゲームの合間にはワインやビールを飲み談笑する光景も見られ、当時の重要な社交の場として利用されていました。また居留地に住む外国人たちによる国別対抗ゲームも行われていたとか。一体どんなゲーム展開だったのでしょう、何だかとても気になります。[“]ボウリングがウマイクニハ ドコダ?。▲ボーリング発祥の地(碑)グラバー園下(南山手町)

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  • 第18号【長崎雑煮】

     あけましておめでとうございます。健やかな新世紀・新年になりますよう、皆様のご多幸を心からお祈りいたします。\(^^\)(/^^)/オメデトウ! さて、お正月も3日となりましたが、もうお雑煮は食べられましたか? お雑煮はだし汁や具に、それぞれの土地ならではの風土や伝統がぎゅっと詰まっていて、しかも家庭によって微妙に違うから面白いですよね。そう、お雑煮は故郷&家庭の味。 ちなみに私の家では、焼きアゴの出し汁(アゴ:飛び魚を長崎地方ではこう呼びます)を使ったすまし仕立てで、具は焼いた丸餅、鶏肉、かまぼこ、白菜、ニンジン、生しいたけ、春菊など。▲豪華で具だくさん「長崎雑煮」上品な風味の焼きアゴのだし汁は、他の地域では珍しいと思いますが長崎ではメジャーなんです。だけどちょっと高級品なので、普段はカツオやイリコだしを使う家庭が多く、我が家もお正月とかおめでたい日にしか使いません。 アナタノオウチハ、ドンナオゾウニ?(^O^ゞ)▲焼きアゴはそのまま食べてもオイシイです それでは長崎の伝統的なお雑煮をご紹介しましょう。具は焼いた丸餅、唐人菜、魚(ブリ、タイ、アラなど)、トリだんご(ツルやキジの肉)、紅白のカマボコ、エビカマボコ、干しナマコ、シイタケ、結びコンブ、サトイモ、タケノコ、クワイなど、たいへん豪華な品数です。正式にはこの中から7品、9品、11品の具が入り、うるう年ともなると13品も入ります。だし汁はカツオブシ、コンブ、シイタケのうま味が効いたすまし仕立て。金蒔絵(きんまきえ)の雑煮椀に盛り付けられます。この一杯の長崎雑煮には中国やオランダとの貿易で潤っていた頃の長崎の贅沢さや、海の幸、山の幸に恵まれた土地柄が映し出されています。 長崎では今もこの伝統を汲む雑煮が多いようです。(^ウ^=)オゾウニ、ダイスキ! ところで昔、長崎に限らず全国各地のお正月で見られたものとして「幸木(さいわいぎ)」というものがあります。地方によっては「しゃちぎ」、「さちぎ」、「さいぎ」とも呼ばれているようです。これはお正月用の飾り木で、魚や野菜など、お正月に食べるものを吊るしておく、長さ一間(約1.8m)ほどの棒のことです。この棒に飾り縄をゆわえ(平年は12本、うるう年には13本)、野菜やブリ、タイ、スルメ、カツオブシなどを吊るし、お正月の来客にはこれらを料理して出したそうです。江戸時代の長崎では幸木につるす品々をお歳暮として贈る風習があり、地役人や商人の家では幸木が1本や2本では足りないところもあったそうです。当時の長崎の裕福さが伝わるエピソードですね。 (※^▽^※)コトシモ、ドウゾヨロシク。▲「幸木」は門松のように飾っていました

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  • 第17号【長崎のお正月(江戸時代)】

     ♪もういくつ寝るとお正月♪ 新世紀を迎えると思うと、ちょっと感慨深いものがありますね。21世紀、そして新年は、夢や希望を持って迎えたいものです。さあ、元気を出していきましょう!┗(⌒-⌒)┛ ところで、皆さんは毎年どんなお正月を過されますか? 季節の節目のいろんな行事がなおざりにされつつある昨今、せめて新年のはじまりくらいは、日本の伝統を意識して過したいものですね。(・・)おせち食べたり、初詣に行ったり…。▲おくんちで有名な「諏訪神社」は初詣も賑わいます それで長崎の江戸時代のお正月はどんな風だったのかなと思い立ち、郷土史をひもといてみました。するとそこには、いかにも長崎らしい新年の風景があったのでした。(^▽^) まず鏡餅。一般的な家々の鏡餅は京風で、平たい円形の餅が二段、三段に重ねられ、一番上には長生きを願ったエビに、代々家が栄えるようにと橙(だいだい)の実を抱かせて飾られました。当時の鏡餅は親族や分家、門下や弟子たちが贈るものだったそうで、その数が多いほど名誉とされていました。ちなみに奉行所は江戸風で、菱形の餅も使います。 長崎の律儀な地役人の中にはあえて江戸風に飾る者もいたそうです。(゜O゜)ホウ おや、どこからか、ちゃるめらの音色が聞こえて来ます。 ちゃるめらとは唐のラッパのこと(※おくんちの龍踊りの際に使われる楽器。某インスタントラーメンのCMでもお馴染みのあの音)。その「ちゃるめら吹(ふき)」の男が、鉦(しょう:銅製の打楽器)と太鼓を持った少年を従えて家々を回り、祝いの囃子(はやし)を吹き立てているのです。あらあら御祝儀もしっかり受け取っています。 このちゃるめらはもともと中国人が長崎の人に教えたもの。中国人は結婚式や養子縁組など、事あるごとにちゃるめらを吹いていました。▲袴姿でピーヒャララそれでお正月ともなると、普段は野菜や魚を行商している町人が慣れないハカマで正装し、ちゃるめらで商売をしたのでした。ほっぺを膨らまして吹く様子や、ちょっと不格好なハカマ姿が愛嬌ものだったようです。(‘▽‘)ゞタノシソウ♪ さて町の子供たちはコマ、手マリ、羽子板などに夢中です。その中に長崎独自の遊びがありました。「ねんがら」と呼ばれる、数人がクギのようなものを土に打ち込んで勝負する遊びです。先に打ち込まれたクギを倒すのを競う他、いろんなルールがあったようです。この遊び、元をたどれば出島の阿蘭陀人の従事たちの遊びだったもの。現在は見かけませんが私も子供の頃、男の子達とやってました! お正月は、久しぶりに幼な馴染みと勝負しようかな…。皆さん、どうぞ、よいお年を。\(⌒◆⌒)▲「ねんがら」と呼ばれた長崎独自の遊び

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  • 第16号【ランタンで、あったまろ♪】

     めきめき寒さが増して来ましたね。北風が身にしみるこんな日は、ちゃんぽんがほんとにオイシイ! 具だくさんのスタミナ料理だし、温かいし、ネ。子供の頃、鼻水垂らしながら大人と同じ量のちゃんぽんをスープまできれいに飲み干していた私をちょっと呆れ顔で眺めていた母親。そんな記憶も甦ったりして、冬のちゃんぽんは、身も心もひときわホットにしてくれるのです。\(⌒◆⌒) 心がじんわり温かくなる、そういうものが長崎の冬にはもうひとつあります。それは「長崎ランタンフェスティバル」。これは「春節祭(しゅんせつさい)」といわれる中国の旧正月にちなんだお祭りで、ランタン(中国風提灯)のふんわりとした朱色の灯りが街中を埋め尽くします。▲新地中華もともとは長崎在住の華僑の人々が新地中華街だけでこじんまりと「春節祭」をお祝いしていたのですが、数年前から行政も一緒になってフェスティバルとして盛り上げ、規模も華やかさも増し、今ではすっかり長崎の冬の風物詩。 昨年の観客動員数は何と69万人という賑わいでした。 ランタンフェスティバルは毎年、旧暦の「正月」から「元宵節(げんしょうせつ)」まで行われます。だから2001年は1月24日から2月7日までの15日間。長きに渡るイベントなのです。メイン会場は新地中華街横にある湊公園。そして中華街や館内町の唐人屋敷跡周辺、そして浜町アーケード街までランタンの装飾がほどこされます。 夜の帳が降りる頃、1万2千個に及ぶランタンや、龍、鳳凰、獅子など中国古来の伝説の動物をかたどったオブジェが静かに輝き出す様子は、とてもロマンチック。中国の悠久の歴史を物語るかのような幻想的な雰囲気が漂い、長崎と中国の縁の深さもあらためて感じます。(∪▽∪)☆☆☆☆キレカー▲メイン会場「湊公園」を彩るオブジェ 期間中は毎日「龍踊り」、「中国獅子舞」、「中国雑技」があり、この他、市民参加の「皇帝パレード(1/27、2/3)」や「媽祖(まそ)行列(1/28、2/4)」など、中国にちなんだ催しがたくさん行われます。 私が大好きなのは「中国獅子舞」。アクロバットな演技も見事だけど、よーく見ると顔の表情がとってもかわいいのです。目が大きくてまつげがクルンとしてて…。ちなみにこの獅子には必ず赤・黄・黒・青・緑の5つの色が使われているそうで、正義や勇気、慈悲などといった5つの徳を表しているとか。ヾ(^V^)▲長崎の繁華街「浜ん町」もランタンで賑わいます ランタンの海に飲み込まれる人の波。とにかく人が多いですが、もしゆっくり中国情緒に浸りたいなら唐人屋敷跡(ちゃんぽんコラム第9号参照)が穴場ですよ。凸ヽ(^▽^)太鼓判!

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  • 第15号【チンチン電車が、大好きです】

     お鍋の季節ですね♪ 我が家の定番鍋料理は、安上がりでヘルシーなもつ鍋です。もつ鍋といえば数年前、福岡の鍋料理として全国的にもブームになりました。ニンニクと唐辛子の効いた醤油じたてのスープで、モツ、ニラ、キャベツを煮て食べる。そして最後に残ったスープには、ゴハンを入れておじやに…と思うでしょ? でも我が家ではここでちゃんぽん麺を入れるのです! 他県の人には珍しいでしょうが、長崎では、ごく当り前。まだ経験のない方は、ぜひ、お試しを! ちゃんぽん麺の世界がおいしく広がりますよ。\(^○^)イケマスヨ!みなさんのお宅のお鍋のしめくくりは何ですか? もつ鍋はちゃんぽん麺でしめくくる、そんな長崎ならではの話しは「食」に限らずたくさんあって、今回はその中のひとつ、チンチン電車のお話です。長崎市民だけでなく観光客の足としても活躍しているチンチン電車は「長崎電気軌道株式会社」(大正14年設立)という民間会社が経営しています。路面電車が走る街は、札幌をはじめ全国に十数カ所ある中で、長崎が他の都市とどこが違うのかというと、それは運賃。何と100円均一!\(◎o◎)/オオ!▲車庫で発車を待つ電車一度乗ったら、どこで降りようと100円なのです。これは1984年から変わりません。 その裏にはやはり、一生懸命な経営努力がありました。まず広告収入。今では珍しくありませんが、路面電車のボディを広告に使ったのは昭和39年、長崎が初めてのこと。また車両も中古車両を部分的に買い入れ少しでもコストダウンを図っています。一見、新しい電車と思いきや、台車の部分はどこかの街の電車のお下がりというのもたくさんあるのです。車内の両替えは機械ではなく運転士さんが手渡しだし、この他いろいろ、安全を第一に、社員みなさんが経費削減に汗して100円を維持しています。利用する市民の多くは下車する際、自然にありがとうと言ったり、ぺコっと頭を下げて降りています。▲大人100円(16年間値上なし)には頭が下がります安全に乗せてくれて、しかもこんなご時世に100円を維持してくれてることへの感謝の思いから、そういう光景が生まれているのだと思うのです。Very Thanks\(^^*) 私が子どもの頃、車の数が急激に増え、激しい渋滞が大問題になった時、「電車のせいだ」と悪者扱いされた時期がありました。でもそういう時代を乗り越えて、今ではクリーンエネルギーの乗り物として将来的にも大いに期待されています。未来への希望も託され、今日もたくさんの人々のいろんな思いを乗せて走ってる長崎のチンチン電車。ホントに、愛すべき電車なのです。(^^)v▲大浦海岸通を走りながら見た稲佐山はとてもきれいでした※参考文献「長崎のチンチン電車」(田栗優一・宮川浩一著/葦書房)

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  • 第14号【出島・クリスマスパーティーの謎】

     毎年12月に入ると親からお歳暮の手配を頼まれます。贈るのはもちろん我が社の「ちゃんぽん・皿うどん」。手前味噌ながら長崎を代表する味として地元、遠方を問わず喜ばれているようです。(・_ ;)ジーン。ウレシイ・・・。 そうして久しぶりに商店街やデパートをめぐれば、街はもうクリスマス一色!ロマンチックなイルミネーションのきらめきに寒さも忘れてホットな気分…。考えてみれば日本ではいつの間にか、キリストの誕生日のお祝いが、冬のひとときを楽しく過す口実に使われているようです。でもひとりでも多くの人が幸せな気分になれるなら、キリストも本望じゃないかなって思いません? ^^)vネッ!▲出島ワーフのクリスマスイルミネーション。 さてさて今回は出島のクリスマスのお話でしたね。出島の時代はキリスト教はご法度。激しい弾圧もあったりして、クリスマスのお祝いなんてできるはずがありません。しかし何と出島では盛大にパーティーが行われ、しかもそこには多くの日本人が招かれていたというから驚きです。そんな事がなぜ可能だったのか?謎を解き明かしてまいりましょう。 キーワードは「冬至」です。ハテ?(●●-)?▲出島の料理部屋ここでごちそうが作られた 毎年クリスマスに近い日にやってくる、1年で1番昼が短い「冬至」の日。中国の風習では大切な節句の日とされ、唐人屋敷内ではみな晴れ着に着替えて酒宴が行われていました。そして長崎の町民たちもぜんざいを作ったり野菜やお菓子を供えたりしてこの日を祝ったといいます。フム?(●●-) 出島のオランダ人は、そこに目をつけたのでした。出島での宗教的行事は一切禁止されていたとはいえ、キリスト教の信仰があった彼等。冬至の日を祝う周囲の賑わいをいいことに、「阿蘭陀冬至」と称して、ちゃっかりクリスマスを祝ったのです。そんなこととはつゆ知らず、招かれた奉行所の役人らは、ワイングラスをなごやかに傾け、アヒルの丸焼きやソーセージなど、珍しい西洋料理の数々に舌鼓を打ったのでした。オイオイ、ダマサレテルゾ…(●●-)▲出島での宴会風景 ばれたらたいへん! という嘘をついてまで、催していたクリスマスパーティー。故国を遠く離れ、小さな人工島・出島で退屈で窮屈な日々を過していた彼等の心情を思えば、クリスマスは家族や友人達とひとつの思いでつながる特別な日だったのでしょう。酔っぱらって大笑いしながら、心の中ではグスンなんて泣いちゃったりしてたかもしれませんね。ソウイウコトカ…(●●-)…(;;)グス。

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  • 第13号【活版印刷で西洋文化を伝達。(本木昌造)】

     来年のカレンダーが街に出回っています。実用派からアート派まで、どれも個性的で洒落ていて、見るだけでも面白くて、楽しい。だけど私、実はほとんど買ったことがありません。毎年、普段おつきあいのあるご近所のお店から頂くものを使っています。その中から自分用に選ぶのはコテコテの実用版(曜日の下に書き込みができるタイプ)で、「○○酒店」なんて大きく印刷されてるもの。以前はダサイとか思ってたけど、今ではこれも愛嬌よと思えるようになってきました・・・。(“)トシノセイ? きれいに印刷されたカレンダーを見ると、私はいつも「本木昌造」さんのことが頭の片隅に浮かびます。とはいっても彼を知る人は、とても少ないでしょう。本木昌造さんは「近代活版印刷の祖」といわれる人物。西洋伝来の活版術、鋳造活字づくりに成功し、明治3年(1870)に「新町活版所」(新町:現在の長崎市興善町)を創立。これが近代における印刷企業のはじまり、はじまりというわけです。▲本木昌造 西洋の活版機材は、江戸時代末期、オランダ船によって持ち込まれたのですが、本木さんはそれを復刻し日本版をつくるのに相当苦労したそうです。しかしその甲斐あって文明開化の幕開けと同時に急増した洋書の需要に対応できたのです。それまで日本は木版刷だったのですが、より早く、大量に印刷が可能になったというわけで、まさにジャスト・タイミングだったのですね。\(\^^)(^^/)/ しかし、どうして本木昌造さんはこの活版と出会ったのでしょう?実は昌造さんは長崎のオランダ通詞の名門「本木家」の6代目。(オランダ通詞とは出島でオランダ語の通訳をする地役人)。その本木家からは日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介した「本木良栄」や、日本初の英和辞書とフランス語の辞書の編集を手掛けた「本木正栄」など偉業を果たした人物が出ています。昌造さんも跡を継いでオランダ通詞になったのですが、彼が通詞として活躍してた頃の日本はペリー来航やら、ロシア使節の来航でたいへん混乱していた時期でした。幕府の外交交渉にもあたるなど数々の要職を担当。そんな通詞時代に、出島で西洋の印刷機と出会ったのです。▲興善町にある「新町活版所跡」 昌造さんはこれを長崎奉行所の許可を得て買い上げ、仲間と一緒にまずは蘭書の復刻を手掛けたそうです。“これさえあれば、西洋のさまざまな書物や訳書をより大勢の人に読んでもらえる。これからの日本に必要不可欠なものだ。” きっとそう思っていたに違いありません。ちなみに彼は、横浜毎日新聞の創刊も手掛けています。また印刷ではありませんが、明治維新後、長崎製鉄所の頭取になり現在の浜町アーケード入り口にある「くろがね橋」を造っています。これは日本初の鉄で造られた橋なのです。(“)スゴイヨネ!▲「本木昌造宅跡」を良く見ると活字(左右反対) 長崎には本木昌造さんのように偉業を成し遂げたけどあまり知られていない人がたくさんいます。これからも感謝の気持ちを込めて、このコラムでときどきそういった人々をご紹介していきたいと思います。 d=(^〇^)=bオタノシミニ!

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  • 第12号【長崎はわしの夢じゃけん!(龍馬と亀山社中)】

     私は坂本龍馬(1835~1867)についてあまり知らない。でも彼の事が大好き!という人が全国にたくさんいることは知っている。どうやら、ちょっと触れただけで深みにはまる、坂本龍馬はそんなキケン?な人物みたい。何かとハマリやすい私としては、少し距離をおいて彼が長崎に残した足跡をたどってみることにした…。(・・)┘▲風頭公園にある龍馬像 “幕末の風雲児”、“維新の原動力”。そんなキャッチフレーズとともに語られる龍馬が土佐藩を脱藩して長崎に来たのは、1864年。大政奉還はその3年後だから、まさに維新前夜ともいえる時期だった。その頃、龍馬と同じく新時代の到来を予感して多くの若者達が長崎に遊学。彼等にとって西洋の知識や文化があふれる長崎は、夢と自由の地だったのだ。長崎に海軍伝習所の頭取として派遣された勝海舟の門人でもあった龍馬は、勝の紹介で西郷隆盛と知り合い、薩摩藩の援助を得て、翌年、日本初の商社といわれる「社中」を設立。これは龍馬が現在の長崎市の繁華街、浜の町アーケードの入り口付近にあった「土佐商会」にいた時のこと。(そこには「土佐商会跡」の碑があります)。 いわゆる「亀山社中」と呼ばれるようになったのは、後に「社中」が長崎市の伊良林にある亀山と呼ばれる場所に移ってからなのです。 (¨)フム…。▲伊良林にある亀山社中 航海運輸業を営むこの亀山社中が、仲の悪い薩摩、長州両藩の同盟を成立させたのは有名な話で、龍馬は薩摩藩名義で武器や軍艦を購入し、長州に貸す。長州は米を薩摩に送るというギブアンドテイク方式で和解を図った。この時、亀山社中が、武器や軍艦の買い付けに走った先がグラバー商会。維新前夜で大揺れの世相の中、亀山社中も、薩摩・長州も、グラバーさんもみんな命がけだったに違いなく、まさに激動の歴史の裏舞台を見る感じ。長州はこうして手に入れた武器で、幕府軍に圧勝している。(“)メイジは、スグソコダ… 後に亀山社中は土佐藩の所属となり「海援隊」と改称。 隊員は諸藩の脱藩者たち。龍馬はその隊長となって指揮をとった。仕事は、引き続き薩長両藩のために洋式武器・船舶の購入にあたること。とはいえ藩に附随するのは名義だけで、独立して行動していたそうです。 さて龍馬の人と成りを伝えるエピソードは山ほどあって、ここでほんの少しだけ龍馬の人柄を伝える話をすると、彼には敵・味方問わず相手に心を開かせるような懐の深さがあったということ。またひとりで写真を撮る時は白い緒の高ゲタを、みんなで写真を撮る時はブーツを履いたといわれています。土佐の下級武士達は本当に貧乏で、藩からも“ゾウリを履け!”と言われていたそうで、高ゲタやブーツを履くのは龍馬自身の気負いもあっただろうし、自由の身であることの証明でもあったのでしょう。(〇^)ナンダカ、カワイイ▲亀山社中跡近くにある龍馬のブーツ さてさて私たちは21世紀という新時代を目前に控えながら、何だか未来への希望が見えない感じ。「現代に、龍馬はおらんとか!」と叫びたい心境ですね。

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  • 第11号【寺町で、しみじみ】

     気が付けば、もう11月も中旬!早いですね、今年もあと1ヶ月半だなんて…。こうなりゃ、部屋でじっとなんかしてられない。今世紀の素敵な思い出づくりに励まなきゃ! と、意気込んだわりには、かなり地味な「寺町」へ行ってみることに。この界隈には長年、気になっていたこともあったので…。(“)?▲見える屋根は全部お寺 寺町は、長崎のハタ揚げ処のひとつとして有名な風頭山(かざがしらやま)のふもとにある町。浜町や思案橋といった繁華街のすぐ近くにあるけれど、人通りは少なくて閑静な雰囲気が漂っている。 「寺町通り」と呼ばれる道筋には、晧台寺、長照寺、延命寺、興福寺、浄安寺、三宝寺、深崇寺、禅林寺と8つのお寺があり、両隣の町にも続く寺社群を合わせると全部で15寺1神社がずらり並んでる。これは全国的にも珍しい光景だそうで、その理由を調べてみると、そこにはキリシタン弾圧のための幕府の策略があったのです。鎖国令が発布される少し前、キリスト教禁止令を出した幕府は、それまであった11のキリスト教の寺院をすべて取り壊し、変わりに仏教寺院を建てまくったというわけです。(゜゜)ナルホド… 現在、お寺の裏手には山の傾斜に添って、お墓がびっしり建てられています。楠本イネさん(シーボルトの娘で、日本初の女医)のお墓や他にも有名な人のお墓があるとのこと。「長崎の一等地は、みんなお墓になっている」って聞いたことがあるけど、確かにここ寺町の墓地をはじめ、街を見渡す眺めのいい場所は、どこもかしこもお墓が多い。▲イネさんとおタキさんのお墓ご先祖様に気持ちよく眠ってもらい、また見守ってもらいたい、そんな長崎の人々の素朴な思いを感じて、ちょっぴりうれしい気持ちになったのでした。(^^″)ゞ  それはそうと、私がかねてから気になっていたことについて。それはこの界隈にある「へいふり坂」という坂段。初めてその名前を聞いた時は、不謹慎にも、思わず「おなら」が出てしまうほど、きつい坂なんだと思っていました。でも違ってたんですね。「へいふり坂」は「弊振坂」と書くんです。「弊」は、お坊さんや神主さんなどが祭壇などの前で用いる、紙のようなひらひらがついた棒のこと。当然ながら弊を振りながら坂段を昇り降りする光景がよく見かけられ、そこから「へいふり坂」という名が付いたらしいのです。それにしても初めての「へいふり坂」は、あまりの傾斜とその長さに結局最後まで上がりきれず、足をガクガクさせながら下ってしまったという、情けない結果になったのでした。(><;)シンドカッタヨ▲謎が解明 「弊振坂」

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  • 第10号【東山手・オランダ坂は、スニーカーで】

     私は、ハイヒールが大きらいだ。そうなってしまった大きな原因を、長崎の街が石畳の坂道や坂段、そしてレンガのようなものを敷き詰めた歩道が多いせいだと決めつけている。 たま~にハイヒールを履こうものなら、固い路面のせいですぐに足が疲れる。 敷石やレンガの目地にかかとをひっかけて転びそうになる。せっかくのお洒落も台無しって感じ。そんな経験を経て、今ではすっかりスニーカー派だ。パンプスもかかとが低くしっかりしたものを愛用してる。今回、東山手地区にあるオランダ坂へはさらに快適に歩けるウォーキングシューズで出かけた。└(ε´)┐ソレイケ!▲東山手洋館住宅 オランダ坂といえば、長崎の人も、観光で訪れた人もたいてい活水女子大学に通じる坂の通りを思い浮かべることでしょう。 でもオランダ坂はひとつだけではありません。幕末の開国後、外国人の居留地となり洋館郡が立ち並んだここ東山手地区のほとんどの坂道がオランダ坂と呼ばれていたのです。▲知名度・人気度No.1活水下のオランダ坂かつて長崎の人は出島のオランダ人を指す時のなごりで、イギリス人やアメリカ人など東洋人以外の外国人をすべて「オランダさん」と呼んでいました。それで彼等がしょっちゅう往来する坂道や坂段を東山手地区に限らず、「オランダ坂」と呼ぶようになったのです。(“)(‥)(”)ソウナンダ▲こちらもオランダ坂すごい傾斜・・・(分かる?) 風情ある石畳の坂道や通りをどんどん進めば、かつてフランス領事館だった「東山手十三番館」や旧プロシヤ領事館で後にアメリカ領事館になった「東山手十二番館」など、居留地時代のエキゾチックな面影を残す建物が次々に目の前に現われます。 気分はもうエトランゼ ^^〃) そして極め付けは外国人専用のアパート群。これは今から110年ほど前に日本人貿易商が建てた7棟の洋館群で、暖炉やベランダの他、お風呂場や 料理部屋、メイドさんの部屋として利用された小屋もあって、日本との生活様式の違いを目の当たりにすることができました。この洋館アパート群は現在、古写真資料館や埋蔵資料館等、長崎の歴史を知る資料館として利用されています。さらにその中の1棟は、長崎の国際交流の拠点として「地球館」というレストランになっていて日替わりで世界各国の料理を味わえます。このレストラン、長崎在住の40ヶ国に及ぶ人々が利用していると聞いてびっくり!お食事しながら気軽に国際交流を楽しめるとっておきのスポットです。(^^)/☆\(^^)かんぱ~い

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  • 第9号【中華街の向こうがわの、もうひとつの中国】

     秋は修学旅行シーズン。長崎の街では今、あちこちで関西弁や関東弁!?でおしゃべりしてる高校生グループを見かけます。私はなぜか彼等に「長崎駅には、何番の電車に乗ったらええの?」なんて、よく道を訪ねられるのですが、その日も、同じ電車に乗り合わせた修学旅行生に「中華街へ行きたいんやけど」と声をかけられ、「新地」の電停で一緒に降り、彼等はそこから徒歩1分の中華街へ。私はそれよりちょっと先にある「唐人屋敷」へ向かったのでした。▲唐人屋敷跡(現:館内町)後方に見えるのは「土神堂」 1688年につくられた「唐人屋敷」はオランダ人を居住させた「出島」のようなもので、中国人をそこに住まわせる事で、貿易の管理をしたところです。もともと長崎では、出島でオランダと貿易をする前から中国との貿易が盛んに行われていて、街中には多くの唐人たちが自由に住んでいました。でも密貿易をする悪いやつらが増え、幕府はその対策のため、唐人屋敷を造ったというわけ。(“)(”)フムフム ちなみに密貿易の犯人は捕まると、たたき、入れ墨、鼻そぎの罰を受け、もっと重罪になると、はりつけ、獄門などの極刑に処せられたとか。(><;)コワイヨー。 ところで「唐人屋敷」と聞けば、大きなお屋敷を思うかも知れないけれど。実はお屋敷というより「街」といった方がいい。だって広さは約9400坪。東京ドームの約2/3倍。(‘〇゜)ゞワオ! その敷地内には二階建ての瓦葺き屋根の長家が十数棟あり、常時2千人から3千人くらいの唐人が居住していたそうです。(すごい人口密度ダ・・・) 敷地は、塀で囲まれ、さらに外側には「掘り」、「竹垣」の二重の囲いがされてたというから、かなり厳重。中に入れる日本人は唯一遊女だけだったとか…。それにしてもここで中国の人たちはどんな風に生活していたんだろう…。残念なことに今では、当時の面影を残す建物は「土神堂」、「天后堂」など中国の帝や神様を祀ったいくつかのお堂くらいしか見る事ができません。それでも町中にふっと現われるそういった中国の建物は、いかにも異国情緒・長崎らしい風情を醸し出して、なかなかいい雰囲気。(^^)ホントヨ。▲媽祖神をまつる唐寺「天后堂」 唐人屋敷がある館内町は現在、市場や商店街が密集。またこの町は石畳の階段や路地がたいへん入り組んでいて、まるで迷路のよう。行き当たりばったりで歩けば、いい味だしてる明治~昭和期の石橋や建物にも出会えます。中華街へ寄ったらぜひ、足を延ばしてみて下さい。▲この付近の地主が作った明治期の石橋

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