第21号【海を渡った日本の磁器】
数年前、デパートのギャラリーで出会った柿右衛門(かきえもん)の器。磁器の世界にうとい私でも、乳白色の美しい肌とそれを引き立てるような赤、青、緑色等で描かれた絵に、しばし見とれてしまった経験があります。磁器に興味を抱くようになったのは、その時から。直後、伊万里焼(いまりやき)・古伊万里(こいまり)と称されるものが有田焼(ありたやき)であることを知ったのですが、これは笑われてもしようがないですね(><)ハズカシイ!
▲伊万里焼赤絵鉢
(長崎市立博物館蔵)
そういうこともあり有田焼の歴史を調べてみました。すると長崎・出島との深い関わりがあることが分かったのです。
出島を拠点に日本・オランダの貿易が繁栄を極めていた17世紀中頃。オランダ東インド会社は東南アジア各地にも貿易の中継点を持ち、取り引きを行っていました。ちょうどその頃、高値で取り引きされていた中国製の磁器が政治的な問題で輸出が困難になります。それに代わってオランダ側が目を向けたのが有田焼だったのです。
長崎に近い場所にある有田の里では17世紀初期(1616年)より染付や青磁などの生産が行われていました。ときのオランダ商館長ワーヘナールは、有田の磁器の受注・生産・輸出のために奔走し、その技量の良さを証明するために、見本を作らせたり、自らヨーロッパ人の趣向に合わせたデザインを考えたりもしています。
そうして有田の磁器の大量生産に成功。柿右衛門をはじめ白地に鮮やかな絵付けが施された豪華絢爛な有田の磁器はヨーロッパの人々を魅了しました。特に薄く独特の透明感を持つ白い肌がもてはやされ、王侯貴族たちに愛用されたと言われています。またヨーロッパの窯業にも影響を及ぼすほどで、柿右衛門様式のデザインが盛んにコピーされたそうです。現在も当時の品々が、イギリスの大英博物館やフランスのルーブル美術館などヨーロッパ各地の美術館に大切に所蔵されています。(“)見ました?
▲伊万里焼蓋付壺
(高さ19cm/長崎市立博物館蔵)
ちなみになぜ有田焼が伊万里焼と呼ばれたのかというと、有田は山里で、磁器を輸出する際に、そこから北へ十数キロの場所にある伊万里の港から日本各地、そして出島を経て世界へと運ばれたことに由来しています。また伊万里焼の中で古伊万里と呼ばれる品というのは、おおまかに言えば江戸時代に作られた有田焼の事を指すのだそうです。(‘‐’)磁器の基礎知識。
▲「日本の想い出・出島の大通り」
輸出する日本の陶器(右下)が積まれている
(リンデン刊/長崎市立博物館蔵)
ときどき美術館などで当時の磁器を見かけると、緻密な技工に感心するだけでなく、日本人の美意識や職人の熱い思いまで伝わって来ます。しかもその磁器には、どんな形であれ長い年月を生き抜いて来た生命力が感じられます。マニアの方々が夢中になるのはもっともだなと思うのでした。【‥】フム。。