第27号【日本初の営業カメラマン!(上野彦馬)】
3月に入り、巷では卒業式や人事異動などさまざまな別れと出会いが繰り広げられています。その"記念に"と撮った一枚の写真は、何年経っても見る度にいろいろな思い出があふれて来ます。写真には思いを凝縮する不思議な力があるのですね。(。U_U。)ナツカシカア…。
この季節は、ビデオやカメラが一番売れる時期だとか。メカ音痴の私は日頃、オートフォーカスカメラのお世話になっているのですが、なぜ写るのかという話になると全くのチンプンカンプン。でもこういうものは簡単に使えれば使えるほど、きっと高いレベルの専門技術が搭載されていると思うのです。( ̄。 ̄;)?ソウニチガイナイ
さてそんなカメラの日本での歴史をたどってみるとその源流に長崎人・上野彦馬(うえのひこま)という人物がいました。彼はわが国の写真術の開祖といわれ、日本で初めて天体写真を撮影、また西南の役で戦跡を撮影し、いわゆる日本初の報道カメラマンとしてもその名を残しています。
▲日本写真界の始祖
上野彦馬の胸像(長崎市立山)
彦馬は、幕末の1839年、長崎の銀屋町(現:古川町)に生まれました。父・俊之丞(しゅんのじょう)は長崎奉行所の御用時計師で、商人でもあり、さらにシーボルトに学んだ蘭学者としても知られていた人で、日本で初めて写真機材を輸入した張本人。この写真機は薩摩・島津侯に献上され、俊之丞によって撮影が行われています。ちなみにこの話が現在、「6月1日・写真の日」制定の由縁になっているそうです。
つわものの父を14才で亡くした彦馬は、まさに写真術の祖となるべく道を歩みはじめます。オランダの軍医として長崎に着任していたポンペに師事し写真術を研究。それはガラス板に感光液を塗り、湿っているうちに撮影する、湿版写真といわれる技法で、当時は使用する薬品から自らの手で作り出さなければならないという状況でした。例えばアンモニアは、生肉が付着している牛の骨一頭分を土に埋め、腐りはじめた頃に掘り出して(゜0゜;)コワ・・、大釜で煎じて作ったのですが、牛肉を食しないその当時、周囲は彦馬の行動を正気の沙汰と思えず、さらには余りの異臭を放つので長崎奉行所に訴えられたりしています。
▲彦馬撮影の坂本龍馬
日本大学芸術学部蔵
初めて人物を写した時も、少しでも明るく写るようにと被写体の顔に白い粉をべったりと塗り、陽の光がよく当たるようにと寺の屋根瓦の上に立たせたため、その被写体は道行く人々に鬼瓦と間違われたといいます。( ’o’)ナンバシヨット?
そんな苦労の果て、中島川の近くに上野撮影局を創設(1862年)。長崎にやって来ていた幕末の有名人、坂本龍馬、勝海舟、榎本武揚など数々の肖像写真を撮っています。彦馬が残したそれらの写真は、撮影の技術そのものは未熟なものの写真の評価は高く、人物全体や手の配置、視線、そして照明の扱いにも優れているといわれています。撮影が人の手や心によるところが大きかったことが、かえって被写体の人間性をより生き生きと引き出したのでしょう。実は、上野家は代々、肖像画を描く画家の家系でもありました。幼少時から知らず知らず培った絵心が写真の構図に影響を与えていたかもしれません。
▲上野彦馬宅跡
長崎市伊勢町