第23号【すごいぞ!生月鯨太左衛門】

 コラムのタイトルを見て、???という人も多いと思います。今回のお話は読者からのリクエスト。その方はお相撲が大好きで、江戸時代の力士、生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)について詳しい話を知りたいということでした。(\∪∪/)リクエストありがとうございます。



▲生月みやげ、鯨太左衛門のれん

(販売元:生月町博物館・島の館)


 生月鯨太左衛門(本名:要作)は身長2m27cm、体重168kg、手のひら32cmという巨体で、江戸時代末期の相撲界で一大ブームを巻き起こした男です。出身は長崎県の北部、平戸島の隣にある生月島。平戸領だったこの島は江戸時代、捕鯨で栄えていました。これが鯨太左衛門の名前の由来です。この日本人離れした巨体。勝手に推測するならば、平戸はかつてオランダとの交流があったところ。もしかして世界一身長が高いといわれるオランダ人の血が要作に混じっていたからかもしれません。(``)?ソウカナ



▲生月島(朱色部分)は

長崎の北西部にあります。


 さて要作は生まれた時、とり上げた産婆さんが度胆を抜くほど大きく、通常の2倍はあったといわれています。幼少の頃は大きすぎて、漁師をしていた父の漁船に乗せてもらえず、出漁の時、船に積んだ網を離さず駄々をこね、あげくの果てには網をひっぱり船を陸へ引き上げてしまったこともあるとか。心優しいこの息子は、巨体を活かして大人顔負けの働きぶりを見せ、父の船がもどると1人で船を引き上げ、いとも簡単に船をひっくり返して、船内に残った海水を流していたそうです。(,,)感心、感心


 「鯨の生まれ変わりのような巨童がいる」の噂は平戸のお殿さまにも伝わり、また大阪、京都、江戸の相撲界からも差し出してくれとの願い出がありましたが、15才の要作と父は、その話に全く応じません。


本人はやる気がなく、そして父は息子が見せ物にされるのを危惧したからです。しかし後に、執拗な勧誘を受け入れることになり、大阪へ上がります。(“)サテ、ドウナルコトカ


 激しく厳しい稽古を積み要作が大阪場所に登場したのは18才の時。番付には「前頭」として名が記されました。巨体が繰り出す技は豪快で、張り手と突っ張りはたいへんな威力だったそうです。そうして大阪の街で人気者になり、翌年には望まれて江戸相撲へ送り込まれます。大阪で鍛えられ成長した鯨太左衛門の顔だちは、色白で鼻が高く、ちょっといい男風だったようです。



▲鯨太左衛門のテレカ

松浦史料博物館蔵

-生月評判絵詞より-


 さて、江戸でも大阪と同じようにその巨体が話題を呼び人気者になり、多くの浮世絵が描かれるほどでした。しかし江戸では土俵入りには出ていたものの、相撲を取ったのは1度きりだったようです。相撲を取らずとも名を連ねた番付。そこには他の力士にはない身長と体重まで書かれていました。(´`)


 その後、鯨太左衛門は24才の若さで病を得て亡くなっています。もし島で漁師として働き続けていたら、と思うと惜しまれますが、生月島では今も鯨太左衛門の伝説が大切に語り継がれているようです。

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