ブログ

  • 第8号【城下町そして普賢岳の町、島原】

     こんにちわ、みろくやです。今回は、長崎から電車で島原へ行って来ました。途中乗り継いだ電車は島原半島の足、「島原鉄道」。一両編成で、ガタンゴトンとゆっくり走る小さな電車です。車窓から、稲刈りに精を出している人や、小船が浮かぶ有明海など、のどかな景色が続いて、ついウトウト。ああ、気持ちいいと思っているうちに島原駅に到着。屋根瓦の駅舎に、さすが松平七万石の城下町!なんて妙に感心しながら、さっそく町の中へGo!┌(“)┘ 島原の観光の名所といえば島原城。1625年に7年の歳月を費やして築かれたお城です。江戸時代には島原の乱(1638年)や眉山大崩壊(1792年)などの難を逃れたものの、明治に入って廃城。その後、荒れ果ててしまったお城は、昭和39年にきれいに復元され、めでたく往時の面影が甦りました。▲島原のシンボル「島原城」小高い丘に建つ堂々としたお城とそれを取り巻く町の雰囲気は、お侍さんが現われても不思議ではない気配がする。頭の中で、時代劇のテーマソングが何度もリピートされ、気分はお城の若姫様。「じい、何度見ても、いいお城よのぅ」?(”)? 島原は、城下町特有の碁盤の目のように整備された小さな町で古くから水の都ともいわれています。なるほど町のいたるところで湧き水が豊富に出ていました。その水を飲んでみると、私が普段飲んでいる水は何なんだ!と思っちゃうほど、おいしい。水路では鯉が気持ち良さそうに泳いでいる。町内は武家屋敷跡をはじめ古くて味わいのある佇まいが多い。島原は独自の歴史や風土がきちんと受け継がれている町なんだなあと、またまた感心。~~\(⌒▽⌒)▲鯉が泳ぐ水路 さてこの地を語る時に、忘れてはならないのが、10年前の雲仙普賢岳の噴火。ニュースを通じての被災の様子は今でも強烈な印象として残っています。噴火は‘95年におさまり、現在、大きな被害を受けた水無川の下流には、日本最大規模の道の駅「みずなし本陣ふかえ」という憩いの施設が設けられていました。郷土料理を味わえるレストランや島原半島の特産品がいっぱいのお土産屋さん、そして露天風呂まであって、ドライブがてらに寄るには最高!すぐ隣には「土石流被災家屋保存公園」があり、土石流に埋まった家屋の生々しい姿を見て来ました。言葉を失うほどの衝撃的な現実。見上げれば火山灰に覆われた普賢岳がすぐそこに。自然の脅威を感じずにはいられない迫力でした。\(◎◇◎)/▲被害にあった家屋(後方は普賢岳)

    もっと読む
  • 第7号【シーボルト記念館を訪ねて】

     おくんちが終わり長崎は本格的な秋に入りました。読書の秋、芸術の秋、食欲の秋といわれる中、私は毎年“食欲”だけを謳歌。そんな色気のないことではいけないと、今年は郷土の歴史を振り返る勉学の秋にすることに……なあんて、実はこのコラムのネタ探し。そこでまずは近場から攻めていこうと、我が家から歩いていける「シーボルト記念館」へ行ってみることに。 新大工~桜馬場~鳴滝と続く「シーボルト通り」と呼ばれる石畳の道の先に記念館はあるんだけれど、この通りは当時シーボルトが、出島~鳴滝塾を往来した道筋だとか。記念館は中島川の支流、鳴滝川添いの緩やかな坂道の途中にあって、館内には当時シーボルトが使ったいろんな医療器具が展示され、中には大工道具じゃない【・・?】と思うようなものまでありましたよ。▲レンガ造りのシーボルト記念館 出島の商館医として1823年に来日したシーボルト。日本の近代医学の進歩に重要な役割を果たしたことは有名。来日する前から出島の事情について先人から学び、日本での生活術をしっかり心得ていた彼は、出島に出入りする奉行所の役人らとも上手におつきあい。それが効を奏してか出島の外で医学の教室(鳴滝塾)を開くことを許可されます。鳴滝塾には全国の俊英達が集まり西洋の医術を学び、また全国に広げていきました。ヽ^〇^歴史デ習ッタヨネ!▲記念館の庭には銅像が シーボルトが日本に寄せる興味には並々ならぬものがあったようで、宗教、法律、政治、動植物など多岐に渡る研究を行い、塾生らにもその手助けをさせています。国外への日本の情報持ち出しは大罪だったその頃、日本研究という大きな野望をひた隠しながら、それを巧みに実行。カピタン(オランダ商館長)に同行して江戸参府に行く時も、日本各地を観察できるとあって、大喜び。旅道中、役人らの目を盗んでは、植物を採取したり、理由をつけては駕篭から下りて歩き風景や人々の暮しを観察。体調をくずして駕篭から出られない時でもしっかり外の様子を見ていたそうです。ヽ(゜O゜)ホウ!▲足窓(右下)が付いた特別製の駕籠だけど日本での任期を終え、帰国目前という時に、とうとう野望が発覚。国外追放となってヨーロッパに戻ったシーボルトは「日本」、「日本植物誌」、「日本動物誌」等大作を著します。川原慶賀の挿し絵をふんだんに用い、細やかに記述されたこれらの本は、日本研究の集大成。これほどの江戸時代の史料は、国内にもあまりなく、貴重な史料として現代でも大いに活かされています。  ところで、むやみに日本の様子を知られないためにか、出島から鳴滝に行く時も、江戸に行く時も、駕篭に担がれて移動していたシーボルト。せまい駕篭は慣れない外国人にとって結構ハードな乗り物だったんじゃないかな…。

    もっと読む
  • 第6号【港町長崎を満喫できる新スポット】

     いつも通る街角にあった古いビルが解体。跡地にはマンション&コンビニができるとか。 それにしても突然広がった新しい視界に、見慣れた通りが何だか知らない場所に思えた…。 こんな経験、あなたにもありませんか? 考えてみればこういうことは、どこの街でも頻繁に起きている。 親しんだ街並が消えるのはとても寂しいことだけど、街が時代に応じて変化するのは仕方のない事で、むしろそれが自然なことなのかも…と、柄にもなくもの思いにふけってしまった(´`)ウーム。 街の変化といえば今年、長崎では劇的な動きがありました。ひとつは長崎港周辺の「出島エリア」。ここには春、新しい市民の憩いの場として「出島ワーフ」が誕生。ロマンチックな長崎港の景色と、ショッピングやお食事が同時に楽しめるスポットで、観光客はもちろん市民にも好評。平日も休日も親子連れや恋人達(うらやましいぞ!)の姿が跡を絶ちません。 しかもすぐお隣には同じ頃にオープンした「夢彩都(ゆめさいと)」があります。ここには生活雑貨から高級ブランド品までいろんなショップが入っていて、レストランや喫茶店も充実。出島ワーフとともに、長崎の海際を賑やかにしています。(⌒▽⌒)vタノシイヨ♪▲出島ワーフ 実はほんの10年前、私はこの出島エリアの近くに住んでいました。当時は海がこんなに近場にあって、「港町長崎」とまで呼ばれているのに、何だか人々の暮らしと長崎港の間に、目に見えない一線があった感じ。その頃、港の一部は古びた倉庫群にさえぎられ、市民が気軽に海際を楽しめる場所はありませんでした。(・・ソウソウ そんな時代を経て生まれた「出島ワーフ」、「夢彩都」。ようやく長崎港が人々の日常に入り込んで来てきたような気がします。長崎港周辺は、まだまだいろんな建物が計画されているとかで、今後も目が離せないスポットになりそうですよ。 さて出島エリアから徒歩8分の場所にある(ちなみに私はとても早足)JR長崎駅は、先月リニューアルして「アミュプラザ長崎」がオープン。 ここには8スクリーンもある映画館をはじめファッション、インテリア雑貨、レストランなど、長崎初進出のブランドやショップが多数お目見え。長崎駅といえば以前は「三角屋根の時計台」で知られていましたが、現在はなくなり、その変わりに大きな龍が出迎えてくれてます。▲長崎駅そう、この龍が新しい長崎駅のシンボルなのです。 出島エリアや新しいJR長崎駅の誕生で、長崎は近年にない人の流れの変化が起きています。それに伴う賛否両論はあるだろうけど、変化があるのは生きてる証拠!新しい長崎らしさは今も生まれている! と楽天家の私は思うのでした。

    もっと読む
  • 第5号【長崎くんちが、派手やかなワケ】

     風がちょっぴり冷んやり感を帯びて来て、季節は、秋本番へ向かってひた走ってる。なのに長崎の街には静かな熱気が漂っていて、人々の様子も何だかソワソワ。もうすぐはじまる「長崎くんち」のせいだ! 今年の演し物は、五島町の「龍踊」(じゃおどり)、銀屋町の「鯱太鼓」(しゃちだいこ)、麹屋町の「川船」(かわぶね)など全部で7ヶ町。▲無料特等席?「長坂」いずれも豪華絢爛、異国情緒たっぷり! くんち好きの私は今から「モッテコーイ」の気分なのです。(●⌒▽⌒●)/わーい ところで秋は長崎くんちに限らず、全国各地で大小たくさんの祭がありますよね。そんな中で366年の歴史を持ち、日本のどこにもない不思議な雰囲気で異彩を放つ「長崎くんち」。その超個性的で豪華な理由は、皆さんよーくご存じのとおり、かつてこの街が日本で唯一開かれた西洋への窓口だったから。祭りは、さまざまな異国の文化が入り交じったものになり、出島貿易の恩恵で、お金も充分かけることができた…。そしてさらに、もうひとつ、あまり知られていない理由があるのです…。(^。^3ナニナニ?▲資料館で展示中の龍 話が遠回りになってしまうけれど、当時の長崎は、唯一の海外貿易港の街であると同時に、日本の要塞的存在でもあったのです。だから鎖国・日本の国情を知られるような情報は絶対に流しちゃダメ(><;) ということで、出島への出入りや外国人との接触は厳しく制限されてたし、地理的な情報モレにつながる恐れがあるからと、勝手に長崎の風景画を描くのも×だったんです。その上、幕府直轄の天領ということで、喧嘩も御法度。(天領の民を傷つけることは、上様を傷つけることと同じなんですって)。血の気の多い若者たちにとっては、迷惑な話。(ε´)ブーブー 町中には常に厳しい取り締まりの目。長崎の人々は、そんなこんなの規制を受けて暮らしてた。▲練習中の鯱太鼓だから表向き裕福そうでも、目に見えない息苦しさはあったんだと思うな。もともと日本のお祭りには、閉鎖的な社会でたまったストレスを発散させる役割もあったそうで、となるとダメダメづくしのこの街で、長崎くんちはそのうっぷんを、堂々と健全に晴らせる絶好のチャンス!だったわけ。 ここぞとばかりにお金も気力も体力も使い果たす怒濤の3日間。人々の中で、灰色に渦巻いていた思いは、天高く澄みきった秋空へ、気持ちよく昇華していったに違いありません。v(●^∪^●)

    もっと読む
  • 第4号【中島川の石橋のたもとで】

     9月も下旬。小春日和のようなお天気に誘われて、お気に入りの散歩コース、中島川へ。上流にある桃溪橋(ももたにばし:小さな石橋だけど情緒たっぷり)をイソイソと渡り、川沿いの通りへ出ると鮮やかなオレンジ色のコスモスが満開。(^∪^)▲中島川の石橋群ルンルン♪気分になりながら先に進むと、眼鏡橋のたもとで網棒を持った男の子が何やら奮闘中! エビ採りに夢中になっていたこの子は、どうやら中島川の常連さん。 アヒルやスッポン、カメ、さらには“シーマン”と呼ばれる人面魚(鯉)がいることまで教えてくれました。ドモドモ\(^‐^)。▲噂のシーマン!? 川のそばには小さな古美術商が何軒もあって、散歩がてらにのぞくのも愉しみのひとつ。そういうお店が多いのは江戸時代、唐船が中島川の上流まで来て、たくさんの貿易品を荷おろしていた名残りなんだそうです。 さて中島川の石橋群は上流から、大井出橋(おおいで)、編笠橋(あみがさ)、古町橋(ふるまち)、一覧橋(いちらん)、芋原橋(すすきはら)、東新橋(ひがししん)、眼鏡橋(めがね)、袋橋(ふくろ)の8つあり、さらに上流の支流には阿弥陀橋(あみだ)、桃溪橋があります。これらの橋はいくつものお寺が立ち並ぶ寺町へ通じる門前橋として、今も昔も長崎の人々の生活に欠かせません。江戸時代には、膨大な費用がかかるというのに、多い時で合計20も架けられていたとか。当時の長崎は本当に裕福だったんですね。(゜゜;) (;。。)ソウソウ数は減ったけれど、これほどの石橋群は世界的にも珍しいんですって。 特に有名な眼鏡橋(1634年建造)は、日本石橋文化のルーツ!完成当時は、宙づりされたような半円形の姿に、皆 ))))(゜O゜;)/仰天!▲眼鏡橋と少年木造で川底に柱を何本も立てた橋しか知らなかったから、驚くのも無理はない。落ちるんじゃない?って心配したのも、わかるような気がする。 面白いのは、この橋が中国の僧侶の指導で架けられたのに、その造りは欧州型だということ。(石橋には中国型もあり、石の積み方が違うらしい。)アーチの長さも出島の西洋人が、当時の日本では誰も知らない円周率πを使って出している。それにしても西洋の技術を、中国の僧侶のもとで、日本人の石工が形造る。何とも国際色あふれる長崎らしい話だと思いませんか。

    もっと読む
  • 第3号【青い目のサムライ、グラバーへ思いを馳せる秋】

     グングン秋めいてきましたね。私はこの時季、必ず出かけるお気に入りの場所があるんです♪ それは何を隠そう「グラバー園」。▲リッパなお髭のMr.グラバー 数年前、夏から秋にかけて夜間解放されるようになったのがきっかけで、秋晴れの休日ともなると、観光客がグンと少なくなる夕方を待って、ひとりで繰り出します。テクテク∨(⌒-⌒)∨。 幕末~明治期に建てられた洋館のクラシカルな雰囲気は、しっとりとした秋の風情と大人の私(?)にぴったり。長崎港と街の夕暮れの景色もVery Good ! それに樹齢百年は超えてるような大木が何本もあって、空を覆うほどのたっぷりとした枝葉をゆさゆさと気持ちよさそうに風に揺らしてる。これはもう、ちょっとした森林浴。グラバー園は癒し系の観光スポットなんだと思うな。(¨)(‥)ウン。▲ご存じ、グラバー邸 それはそうと、今年は園内のどこかにあると噂されていた「ハート・ストーン」を発見! 汗水流して自力で見つけた時は、思わず合掌。いつか運命の人に出会えますように…なあんて願い事をしちゃったけど、どうだかなぁ…。▲発見!ハートストーン そして秋の虫たちの演奏をBGMに思いを馳せるのは、やはりトーマス・グラバーのこと。彼は文明開化の立役者なのに、あまり知られてないのが残念! 幕末の1859年、21才で長崎にやって来たグラバーは貿易商人として大活躍。日本で初めて洋式採炭法を取り入れたのをはじめ、これも日本で初めて蒸気機関車を長崎で走らせているんです! さらに現在の麒麟麦酒株式会社の前身、「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の設立にも力を注いでいて、今もその会社のビールのラベルに描かれている麒麟の絵は、グラバーに敬意を表して彼の口ひげをたくわえた風貌を反映したものなんですって!ヾ(@◇@)☆オオ▲明治頃の麒麟ラベルこちらもリッパなお髭です ところでグラバーは、薩摩藩や長州藩など倒幕派の若いサムライたちの情熱に共感し、密航の手助けや資金面での援助もしています。いくら大金持ちとはいえ発覚したらたいへんな事。(●●-;)メッ 大胆で勇気ある行動ですよね。サムライたちの姿と、若き日に大きな野心を持って日本にやって来た自分がオーバーラップしたのかなあ。グラバー自身、頑固で高い志を持つサムライ気質みたいなものを持っていたのかも…などと、ロマンチックにライトアップされたグラバー邸を眺めながらいろんな思いを巡らすのでした。

    もっと読む
  • 第2号【気ままがいちばん、丸山ぶらぶら節】

     いきなりですが、今、長崎ではある映画が大きな話題になってます!それは9月15日、全国一斉公開される「長崎ぶらぶら節」! 何でも大正から昭和にかけての長崎での実話に基づくストーリーとかで、しかも吉永小百合、渡哲也という超豪華なキャスティング\(☆O◎)/wao! 地元では“長崎の宣伝になるばい”と、ものすごく期待されています。 数カ月前、長崎でロケがあった時も大騒ぎで、長崎市民全面協力体制で撮影が行われたのです。何を隠そう私もエキストラとしてちゃっかり参加。おくんちのシーンで、人垣づくりに協力しました! 映画初出演にして、ニ大スターと初競演!エキストラとはいえ、ありがたい体験。人垣の一番後ろの方だったので、まず映ってないでしょうけど、吉永さん、渡さんをたっぷり見る事ができたので、大満足ヾ(*^O^*)ノ …… 人生のイイ思い出として小さな胸にしまっておきます。そこで今回はこの映画の舞台となった「丸山」界隈についてちょいとご紹介。 「丸山」といえば、男の人が遊びにいくところ。江戸時代は、全国的に名を馳せるほどの繁盛ぶりだったのです。丸山へ通じる「思案橋」は、魅惑的な丸山遊女もとへ「行こうか、戻ろうか」と思案に暮れてしまったところから付いた名前。さらにその先にもうひとつ「思い切り橋」というのがあって、ここで「よし、行くぞ」と決意して渡ったというから、遊びに行くのもよほどの覚悟が必要だったみたい。 とはいっても・・・ ┐(´‐`;)┌ それでも行っちゃうのよね…。 さて丸山には当時の名残りを残す料亭「花月」があって、幕末には坂本竜馬や高杉晋作など当時の著名人がいっぱい通ってたとか。その一室の柱には竜馬が酔狂でつけたといわれる刀傷・・・「竜馬殿、なしてこがん場所で、刀ば振り回したと?」と、謎は深まるばかり。▲料亭花月そんな花月を後にして、芸者さんたちが所属する置屋をまとめた「長崎検番」、そして花月と並ぶ遊び処「中の茶屋」へ。いずれも古い木造建で、味わい深いものがありました。←(”#)ジ~!▲長崎検番 気ままに歩いた私の丸山ぶらぶら節。映画「長崎ぶらぶら節」を見ても、見なくても、結構楽しめる大人の観光スポットですわよ。(^.^)オホホホ。

    もっと読む
  • 創刊号【甦った出島で、江戸時代へタイムトラベル!】

     長崎の観光名所としてよーく知られる「出島」。でも実は、少し前まで地元の人間には不人気のスポットだったのです。私自身も何度か訪れましたが「江戸時代、日本で唯一、西洋に開かれた窓」といわれるものの、扇形といわれる姿は明治以降の埋め立てでその形を失っているし、オランダとの貿易やシーボルトに関するさまざまな史跡を見ても、その地味で質素な姿に(?・_・?)。何だか拍子抜けしたような気分になったものです。 そんな出島が、あらためて注目されるようになったのはここ数年のことで、出島の石蔵が復元されたり、出島史料館の展示内容が充実されるなど、今世紀半ば頃から行われてきた地道な復元整備事業が次々に形を現すようになってから。地元の見学者も増えて来たというウワサo(^o^)o……。▲復元整備が進む出島 そこで、さっそく足を運びました。まず興味を持ったのが、出島の護岸石垣。それまで道路だったところが当時の輪郭に合わせて掘られ、江戸時代初期の工法で石垣を再現。なだらかな曲線を描く扇形の一部が見えてきた感じです。 さらに出島史料館本館・分館には当時の貿易や日本と世界の情勢を知る資料、発掘された食器類、調理器具、コンプラ瓶、伊万里焼などが展示。さらにオランダ商館員らが愛用したといわれるクレーパイプなどがあり、当時の出島の様子がぐっと身近に感じられました。(°°)(。 。 )ウンウン。 出島の西側の通りは、この春復元された江戸期の建造物5棟が軒を連ね、まるで江戸時代にいる気分に。オランダ商館員やオランダ通詞らが同じ場所を歩いたと思うと、とても不思議な感じに。復元された一番船船頭部屋(オランダ船の船長の部屋)を覗いてみると、畳の部屋に舶来の調度品が並べられていました。面白かったのはベッドのサイズ。子ども用くらいの大きさで、このベッドでオランダ人が寝起きしたとは思えない大きさなのです。(・・? 聞けば、足を放り出して寝ていたとか…。ちゃんと眠れたのかしらん?▲一番船船頭部屋と小さなベッド ということで甦った現在の出島は、見どころ満載!本当に地元おすすめの観光スポットになりました! めでたし、めでたし V(●⌒▽⌒●)V

    もっと読む

検索