第13号【活版印刷で西洋文化を伝達。(本木昌造)】
来年のカレンダーが街に出回っています。実用派からアート派まで、どれも個性的で洒落ていて、見るだけでも面白くて、楽しい。だけど私、実はほとんど買ったことがありません。毎年、普段おつきあいのあるご近所のお店から頂くものを使っています。その中から自分用に選ぶのはコテコテの実用版(曜日の下に書き込みができるタイプ)で、「○○酒店」なんて大きく印刷されてるもの。以前はダサイとか思ってたけど、今ではこれも愛嬌よと思えるようになってきました・・・。(“)トシノセイ?
きれいに印刷されたカレンダーを見ると、私はいつも「本木昌造」さんのことが頭の片隅に浮かびます。とはいっても彼を知る人は、とても少ないでしょう。本木昌造さんは「近代活版印刷の祖」といわれる人物。西洋伝来の活版術、鋳造活字づくりに成功し、明治3年(1870)に「新町活版所」(新町:現在の長崎市興善町)を創立。これが近代における印刷企業のはじまり、はじまりというわけです。
▲本木昌造
西洋の活版機材は、江戸時代末期、オランダ船によって持ち込まれたのですが、本木さんはそれを復刻し日本版をつくるのに相当苦労したそうです。しかしその甲斐あって文明開化の幕開けと同時に急増した洋書の需要に対応できたのです。それまで日本は木版刷だったのですが、より早く、大量に印刷が可能になったというわけで、まさにジャスト・タイミングだったのですね。\(\^^)(^^/)/
しかし、どうして本木昌造さんはこの活版と出会ったのでしょう?実は昌造さんは長崎のオランダ通詞の名門「本木家」の6代目。(オランダ通詞とは出島でオランダ語の通訳をする地役人)。その本木家からは日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介した「本木良栄」や、日本初の英和辞書とフランス語の辞書の編集を手掛けた「本木正栄」など偉業を果たした人物が出ています。昌造さんも跡を継いでオランダ通詞になったのですが、彼が通詞として活躍してた頃の日本はペリー来航やら、ロシア使節の来航でたいへん混乱していた時期でした。幕府の外交交渉にもあたるなど数々の要職を担当。そんな通詞時代に、出島で西洋の印刷機と出会ったのです。
▲興善町にある「新町活版所跡」
昌造さんはこれを長崎奉行所の許可を得て買い上げ、仲間と一緒にまずは蘭書の復刻を手掛けたそうです。“これさえあれば、西洋のさまざまな書物や訳書をより大勢の人に読んでもらえる。これからの日本に必要不可欠なものだ。” きっとそう思っていたに違いありません。ちなみに彼は、横浜毎日新聞の創刊も手掛けています。また印刷ではありませんが、明治維新後、長崎製鉄所の頭取になり現在の浜町アーケード入り口にある「くろがね橋」を造っています。これは日本初の鉄で造られた橋なのです。(“)スゴイヨネ!
▲「本木昌造宅跡」を良く
見ると活字(左右反対)
長崎には本木昌造さんのように偉業を成し遂げたけどあまり知られていない人がたくさんいます。これからも感謝の気持ちを込めて、このコラムでときどきそういった人々をご紹介していきたいと思います。 d=(^〇^)=bオタノシミニ!