第7号【シーボルト記念館を訪ねて】

 おくんちが終わり長崎は本格的な秋に入りました。読書の秋、芸術の秋、食欲の秋といわれる中、私は毎年“食欲”だけを謳歌。そんな色気のないことではいけないと、今年は郷土の歴史を振り返る勉学の秋にすることに……なあんて、実はこのコラムのネタ探し。そこでまずは近場から攻めていこうと、我が家から歩いていける「シーボルト記念館」へ行ってみることに。 新大工~桜馬場~鳴滝と続く「シーボルト通り」と呼ばれる石畳の道の先に記念館はあるんだけれど、この通りは当時シーボルトが、出島~鳴滝塾を往来した道筋だとか。記念館は中島川の支流、鳴滝川添いの緩やかな坂道の途中にあって、館内には当時シーボルトが使ったいろんな医療器具が展示され、中には大工道具じゃない【・・?】と思うようなものまでありましたよ。



▲レンガ造りのシーボルト記念館


 出島の商館医として1823年に来日したシーボルト。日本の近代医学の進歩に重要な役割を果たしたことは有名。来日する前から出島の事情について先人から学び、日本での生活術をしっかり心得ていた彼は、出島に出入りする奉行所の役人らとも上手におつきあい。それが効を奏してか出島の外で医学の教室(鳴滝塾)を開くことを許可されます。鳴滝塾には全国の俊英達が集まり西洋の医術を学び、また全国に広げていきました。ヽ^〇^歴史デ習ッタヨネ!



▲記念館の庭には銅像が


 シーボルトが日本に寄せる興味には並々ならぬものがあったようで、宗教、法律、政治、動植物など多岐に渡る研究を行い、塾生らにもその手助けをさせています。国外への日本の情報持ち出しは大罪だったその頃、日本研究という大きな野望をひた隠しながら、それを巧みに実行。カピタン(オランダ商館長)に同行して江戸参府に行く時も、日本各地を観察できるとあって、大喜び。旅道中、役人らの目を盗んでは、植物を採取したり、理由をつけては駕篭から下りて歩き風景や人々の暮しを観察。体調をくずして駕篭から出られない時でもしっかり外の様子を見ていたそうです。ヽ(゜O゜)ホウ!



▲足窓(右下)が付いた

特別製の駕籠


だけど日本での任期を終え、帰国目前という時に、とうとう野望が発覚。国外追放となってヨーロッパに戻ったシーボルトは「日本」、「日本植物誌」、「日本動物誌」等大作を著します。川原慶賀の挿し絵をふんだんに用い、細やかに記述されたこれらの本は、日本研究の集大成。これほどの江戸時代の史料は、国内にもあまりなく、貴重な史料として現代でも大いに活かされています。

  ところで、むやみに日本の様子を知られないためにか、出島から鳴滝に行く時も、江戸に行く時も、駕篭に担がれて移動していたシーボルト。せまい駕篭は慣れない外国人にとって結構ハードな乗り物だったんじゃないかな…。

検索