第12号【長崎はわしの夢じゃけん!(龍馬と亀山社中)】

 私は坂本龍馬(1835~1867)についてあまり知らない。でも彼の事が大好き!という人が全国にたくさんいることは知っている。どうやら、ちょっと触れただけで深みにはまる、坂本龍馬はそんなキケン?な人物みたい。


何かとハマリやすい私としては、少し距離をおいて彼が長崎に残した足跡をたどってみることにした…。(・・)┘



▲風頭公園にある龍馬像


 “幕末の風雲児”、“維新の原動力”。そんなキャッチフレーズとともに語られる龍馬が土佐藩を脱藩して長崎に来たのは、1864年。大政奉還はその3年後だから、まさに維新前夜ともいえる時期だった。その頃、龍馬と同じく新時代の到来を予感して多くの若者達が長崎に遊学。彼等にとって西洋の知識や文化があふれる長崎は、夢と自由の地だったのだ。長崎に海軍伝習所の頭取として派遣された勝海舟の門人でもあった龍馬は、勝の紹介で西郷隆盛と知り合い、薩摩藩の援助を得て、翌年、日本初の商社といわれる「社中」を設立。


これは龍馬が現在の長崎市の繁華街、浜の町アーケードの入り口付近にあった「土佐商会」にいた時のこと。(そこには「土佐商会跡」の碑があります)。


 いわゆる「亀山社中」と呼ばれるようになったのは、後に「社中」が長崎市の伊良林にある亀山と呼ばれる場所に移ってからなのです。 (¨)フム…。



▲伊良林にある亀山社中


 航海運輸業を営むこの亀山社中が、仲の悪い薩摩、長州両藩の同盟を成立させたのは有名な話で、龍馬は薩摩藩名義で武器や軍艦を購入し、長州に貸す。長州は米を薩摩に送るというギブアンドテイク方式で和解を図った。この時、亀山社中が、武器や軍艦の買い付けに走った先がグラバー商会。維新前夜で大揺れの世相の中、亀山社中も、薩摩・長州も、グラバーさんもみんな命がけだったに違いなく、まさに激動の歴史の裏舞台を見る感じ。長州はこうして手に入れた武器で、幕府軍に圧勝している。(“)メイジは、スグソコダ…


 後に亀山社中は土佐藩の所属となり「海援隊」と改称。 隊員は諸藩の脱藩者たち。龍馬はその隊長となって指揮をとった。仕事は、引き続き薩長両藩のために洋式武器・船舶の購入にあたること。とはいえ藩に附随するのは名義だけで、独立して行動していたそうです。


 さて龍馬の人と成りを伝えるエピソードは山ほどあって、ここでほんの少しだけ龍馬の人柄を伝える話をすると、彼には敵・味方問わず相手に心を開かせるような懐の深さがあったということ。またひとりで写真を撮る時は白い緒の高ゲタを、みんなで写真を撮る時はブーツを履いたといわれています。土佐の下級武士達は本当に貧乏で、藩からも“ゾウリを履け!”と言われていたそうで、高ゲタやブーツを履くのは龍馬自身の気負いもあっただろうし、自由の身であることの証明でもあったのでしょう。(〇^)ナンダカ、カワイイ



▲亀山社中跡近くにある

龍馬のブーツ


 さてさて私たちは21世紀という新時代を目前に控えながら、何だか未来への希望が見えない感じ。「現代に、龍馬はおらんとか!」と叫びたい心境ですね。

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