第9号【中華街の向こうがわの、もうひとつの中国】
秋は修学旅行シーズン。長崎の街では今、あちこちで関西弁や関東弁!?でおしゃべりしてる高校生グループを見かけます。私はなぜか彼等に「長崎駅には、何番の電車に乗ったらええの?」なんて、よく道を訪ねられるのですが、その日も、同じ電車に乗り合わせた修学旅行生に「中華街へ行きたいんやけど」と声をかけられ、「新地」の電停で一緒に降り、彼等はそこから徒歩1分の中華街へ。私はそれよりちょっと先にある「唐人屋敷」へ向かったのでした。
▲唐人屋敷跡(現:館内町)
後方に見えるのは「土神堂」
1688年につくられた「唐人屋敷」はオランダ人を居住させた「出島」のようなもので、中国人をそこに住まわせる事で、貿易の管理をしたところです。もともと長崎では、出島でオランダと貿易をする前から中国との貿易が盛んに行われていて、街中には多くの唐人たちが自由に住んでいました。
でも密貿易をする悪いやつらが増え、幕府はその対策のため、唐人屋敷を造ったというわけ。(“)(”)フムフム
ちなみに密貿易の犯人は捕まると、たたき、入れ墨、鼻そぎの罰を受け、もっと重罪になると、はりつけ、獄門などの極刑に処せられたとか。(><;)コワイヨー。
ところで「唐人屋敷」と聞けば、大きなお屋敷を思うかも知れないけれど。実はお屋敷というより「街」といった方がいい。だって広さは約9400坪。東京ドームの約2/3倍。(‘〇゜)ゞワオ!
その敷地内には二階建ての瓦葺き屋根の長家が十数棟あり、常時2千人から3千人くらいの唐人が居住していたそうです。(すごい人口密度ダ・・・) 敷地は、塀で囲まれ、さらに外側には「掘り」、「竹垣」の二重の囲いがされてたというから、かなり厳重。中に入れる日本人は唯一遊女だけだったとか…。それにしてもここで中国の人たちはどんな風に生活していたんだろう…。
残念なことに今では、当時の面影を残す建物は「土神堂」、「天后堂」など中国の帝や神様を祀ったいくつかのお堂くらいしか見る事ができません。それでも町中にふっと現われるそういった中国の建物は、いかにも異国情緒・長崎らしい風情を醸し出して、なかなかいい雰囲気。(^^)ホントヨ。
▲媽祖神をまつる
唐寺「天后堂」
唐人屋敷がある館内町は現在、市場や商店街が密集。またこの町は石畳の階段や路地がたいへん入り組んでいて、まるで迷路のよう。行き当たりばったりで歩けば、いい味だしてる明治~昭和期の石橋や建物にも出会えます。中華街へ寄ったらぜひ、足を延ばしてみて下さい。
▲この付近の地主が作った
明治期の石橋