第72号【金平糖のヒミツ】
先日、加賀百万石の基礎を築いた夫婦の物語を描いたNHKの大河ドラマ、『利家とまつ』を見ていたら、まつの宝物としてビードロ瓶に入った金平糖が出てきました。それは利家からのプレゼントで、利家が主君・信長に仕官を願い出た際にもらったもの。ドラマでは金平糖はめでたい時に蒔くものとされ、まつと利家が結婚を誓いあった時、空に向かって蒔かれるシーンがありました。☆・:*゜★,。 ・:*:・゜\(^^(‐^っ
▲メルヘンチックな金平糖
織田信長が南蛮文化に傾倒していたのは有名な話です。信長は1569年に宣教師のルイス・フロイスから金平糖を献上されました。そのことはフロイスの報告書『耶蘇会士日本通信』に記されていて、これが日本で初めて金平糖の名が記されたものになるのだそうです。当時、砂糖は一般の人々には手の届かない貴重なものでしたから、砂糖の固まりである金平糖がめでたいお菓子として使われたというのは想像に難くありませんね。
金平糖はカステラ、ボーロ、有平糖(あるへいとう)、ビスケットなどと同じく16世紀にポルトガル人によって長崎に伝来した南蛮菓子のひとつです。その語源はポルトガル語のConfeito(コンフェイト/砂糖で包まれた菓子の意)から来ています。方々にツノのあるユニークな形をした珍しいこのお菓子を日本で初めて作ったのはやはり長崎で、当時の菓子職人らはその製法をあみだすのに相当苦労したようです。江戸時代の浮世絵草子の作者として知られる井原西鶴の『日本永代蔵』によると、「~外国の人もよきことは秘すとみえたり。」と金平糖の作り方をなかなか教えてくれなかったということや、やがて苦心して金平糖の作り方をあみだした長崎の町人が大儲けしたことなどが記されています。 L(@^▽^@)」 金平糖成金?
▲日本永代蔵(井原西鶴作)
ところで金平糖のあの形は、どうやって作られるかご存じですか? 調べてみると、江戸時代には、芯にケシの実やゴマなどを使いそれに煮詰めておいた砂糖を少しずつかけては掻き回すという作業を何度も繰り返して、ツノのある形を作っていったそうです。機械化が進んだ現代でも作り方の原形ほとんど変わらず、芯には白ザラメを用い、グラニュー糖の液を1週間ほど回しかける作業を続けて、ようやく商品として出せる大きさになるのだそうです。けっこう手間ひまのかかるものだったんですね。しかもあのツノは、火加減や砂糖のかけ方、鍋の傾斜角度などの微妙な加減で生まれるそうなのですが、なぜツノができるのかよく解明されていないそうです。意外ですよね。(;-_-;) ムム、奥深シ、金平糖!
スーパーやコンビニで見る現代のお菓子の世界は、種類が豊富でひんぱんに新製品が生まれては消えています。そんな中で、今なお店頭に並べられロングセラーのひとつとして人々に親しまれている金平糖。その息の長さのヒミツはどこにあるのでしょうか。よく見れば星のような夢のある形をしていること。素材がザラメやグラニュー糖などの砂糖だけで味わいがシンプルなこと。その単純で素朴なところがますます郷愁を誘うこと、などが挙げられるのではないでしょうか。皆さんはどう思われますか? (⌒┐⌒)可愛イクテオイシイネ
※参考資料/長崎文献社発行「ながさきことはじめ」、岩波書店発行「日本永代蔵」