第88号【時代の要請で生まれた英語伝習所】
最近、英語を勉強している人がますます増えているようです。旅行やインターネットなど国境を越えた交流の機会が増えたからでしょう。ちなみにインターネットの世界で使用されている言語の約80%は英語で、日本語はわずか1%くらいだとか。それにしても日本人はいつから英語を学ぶようになったのでしょう。そのひとつの答えのようなものが長崎にありました。(◎◇◎)Can you speak English?
時代は開国と倒幕の動きに世の中が揺れはじめた幕末。ペリー来航(1853)後、 長崎港にもロシアやイギリスなどの諸外国の船が通商を求めて入港するようになっていました。それまで中国語とオランダ語だけで間に合っていましたが、幕府は英語、フランス語、ロシア語の必要性を感じ、1857年長崎奉行所の西役所(現:長崎県庁)に「語学伝習所」を設けました。特に英語は世界の通用語として重要視され、「語学伝習所」は翌年には奉行支配組頭の永持享次郎宅(現:立山町)に移り「英語伝習所」と改称。これが日本における系統的な英語教育の最初となったのでした。
▲英語伝習所碑
(立山町:県立美術博物館前)
「英語伝習所」の教師にはオランダ人やイギリス人が雇われ、オランダ通詞や唐通詞、そして地役人の子など一般の有志たちが学びました。当時の授業風景を知る史料は見つけられませんでしたが、きっとチョンマゲ姿の若者たちは英語の文字の上にカナで読み方を入れ、何度も発音しながら学んだに違いありません。(‘▽’)アイ・シンク・ソォ
英語伝習所はその後、「語学所」、「洋学所」、「済美館」など何度も名称変更・移転が行われます。幕末を経て明治に入ると長崎府の管轄となって「広運館(こううんかん)」と改称。後に文部省の管轄となったこの「広運館」は西日本における洋学教育の中心だったそうです。
その間、宣教師フルベッキが英語の教鞭に立ち、のちの総理大臣・西園寺公望、大隈重信や副島種臣などもここで学ぶなど、明治維新後活躍する人々が大勢やって来ています。
▲西園寺公望が広運館に通った
時の仮住まい跡(玉園町)
「広運館」は、さらに改称・移転が続き「長崎外国語学校」となっていた明治19年には「公立長崎商業学校」に合併されました。ちなみにこの商業学校は現在、高校野球の古豪として有名な「長崎市立長崎商業高等学校」の前身です。(^^)みろくやスタッフには同校出身者多数!
「英語伝習所」の、特に幕末から明治期の短い期間に相次いだ改称・移転は、サムライの時代が終わり、世の中が急激に変ぼうしていくスピード感のようなものが感じられます。ところで“伝習所“といえば「海軍伝習所」、「医学伝習所」なども長崎にはありましたが、いずれも幕末に洋学を学ぶための公の機関です。まもなく明治維新を迎え近代教育が始まろうとする時、これらの“伝習所“は日本の近代教育の礎であり、準備期間だったといえるのかもしれません。(・・)ナルホド…。
※参考にした本/「長崎県文化百選~事始め編~」(長崎新聞社)
「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)