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  • 第541号【古き良き極彩色の異国情緒】

     磯に春の訪れを告げるアオサ。有明海産のものが手に入り味噌汁を作りました。新鮮な磯の香りにほっとします。一年中手に入る乾燥アオサもいいですが、やはりこの時期の摘みたてがおいしい。全国の海岸で見かけるこの海藻は、日本人には馴染み深い食材です。きっと今頃、各地の海端の家々の食卓に上がっているのでしょう。  それにしても今年の冬は寒かったですね。九州・長崎ではようやく10度を超える日が続くようになりましたが、北陸や東北、北海道の天気図にはまだ「雪」のマークが見えます。これから「三寒四温」で本格的な春に向かうわけですが、今年は寒暖の差が激しい。長崎の人も厚手のコートをしまうのは、もう少し待ったほうがいいかもしれません。  さて、長崎はいま、2月中旬からはじまった「長崎ランタンフェスティバル」が、後半の賑わいをみせています(3月4日まで)。長崎港にはアジア各国のお客様を乗せた大型クルーズ船が連日のように入港。船が停泊する「松が枝」に近い長崎新地中華街や唐人屋敷跡、孔子廟などは、クルーズ船から降り立った人々が大勢繰り出し、ランタンを見上げながら歩いていました。人々の弾けるような笑顔とともに飛び交っていたのは、いろいろな国々の言葉。そんな光景がまったく違和感がないのは、やはり歴史的に中国をはじめとするアジアの国々の影響をたくさん受けてきたこのまちならではの風土なのでしょう。  なかでも「長崎ランタンフェステイバル」は長崎と長くて深い交流のある中国の影響をくっきりと浮かび上がらせます。たとえば、唐人屋敷跡。いま、土神堂や観音堂といった朱色の建物がランタンに彩られとてもきれいです。  唐人屋敷は、貿易でやってくる中国人を居住させるため元禄2年(1689)に造られました。当初の敷地は約8,015坪(のちに約9373坪まで拡大)。唐人屋敷が造られた理由は、密貿易を防止するためでした。幕府は、出島に貿易相手のオランダ人を住まわせたように、中国人もまた限られた場所に集めて貿易の統制を図ったのです。  市中の一角にあった唐人屋敷は、練塀と竹矢来(たけやらい)で二重に囲まれてはいたものの、長崎の人々にとっては海に囲まれた出島よりは身近な存在。敷地内には二階建ての長屋が20棟もあったそうで、2千から3千人を収容可能だったといいます。唐人屋敷内には、役人や遊女など限られた人しか出入りできませんでしたが、いろいろな機会を通じて中国の人々と市中の人々の間で交流があったことは想像に難くありません。いまも長崎の年中行事として継承されているハタ揚げ、ペーロン、精霊流し、長崎くんちは、その頃に伝わった中国文化の影響が色濃く残っています。   唐人屋敷跡から徒歩約15分。長崎市大浦町にある孔子廟は、明治期に設けられました。中国の宮廷を彷彿させる極彩色の建物は、いかにも長崎の中の異国といった感じです。このまちのあちらこちらで目にする極彩色の異国情緒は、古き良き長崎らしさでもありました。

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  • 第540号【春は、もうすぐ!】

     相次ぐ大雪や寒波でたいへんな思いをしている方が多い、この冬。とにかく早く春が来てほしいものです。ここ九州・長崎も先月からたびたび強い寒気に見舞われました。前号でご紹介した西山神社(長崎市西山町)の緋寒桜は、三週間前と比べほんの少し開花したくらいで、まだ三分咲き。今年の冬がいかに寒くて長いかということを物語っています。満開を楽しみに来た参拝の方々は、ちょっぴり残念そうでした。  寒いといいながらも、日差しが少しずつ明るくなっているのを感じます。自然界はすでに春に向かって動き出しているようで、活発に餌を求める小鳥の姿を見かけます。中島川ではカワセミ、ハクセキレイ、キセキレイ、ジョウビタキ。そして、鳴滝の山林では、日本で越冬するというシロハラの姿が今年もありました。ジョウビタキ、シロハラは、春になると大陸へ渡るそう。旅立ちを前に、しっかり餌を食べて体力をつけているところなのでしょう。  小さな春の気配を感じるなか、いよいよあさって、2月16日から「長崎ランタンフェスティバル」がはじまります。今年は3月4日(日)までの17日間開催。「春節」(旧暦の元旦)を祝うこの催しは、すっかり長崎の冬の風物詩。もともとは長崎新地中華街で行われていた行事を、1994年(平成6)から規模を大きくし長崎市の中心部一帯で行うようになりました。それから早くも干支が二回り。20年くらい前の写真と見比べると、規模や内容の充実ぶりがはっきりわかります。  中国ランタンや中国の故事にちなんださまざまなオブジェがまち中に飾られ、幻想的な雰囲気をつくりだす「長崎ランタンフェスティバル」。どんなに寒くても、毎年、県内外、国内外から、大勢の方々が来て楽しんでくれます。特に旧正月を大切な節目とするアジア圏の方々にとっては、自国と似ているけど、ちょっと違う長崎らしい雰囲気のなかで新年を祝えるのがうれしいようです。  連日行われる催しも当初に比べるととても充実しました。徒歩圏内でつながる7つの会場(新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場)では、中国獅子舞、龍踊り、中国雑技、中国変面ショー、そして、二胡や胡弓の演奏など中国ゆかりの華やかな催しが展開(※会場によって催しの内容・スケジュールは変わります)。なかでも、新地中華街会場、中央公園会場、孔子廟会場では、期間中は毎日欠かさず多彩なショーが行われているので、ぜひ、足を運んでみてください、   眼鏡橋がかかる中島川では、目にも温かな黄色いランタンがお出迎え。この風景もすっかり「長崎ランタンフェスティバル」の定番となりましたが、当初はありませんでした。それにしても、約2週間の期間中、風雪に耐えて美しい光を灯し続けるランタンやオブジェの装飾の丈夫さには感心します。いろいろな人々が「長崎ランタンフェスティバル」を支え、創り出しているのです。そうした人々の熱い思いが「長崎ランタンフェスティバル」の魅力となって、多くの来場者に感動を与えているのでしょう。

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  • 第539号【天文学者 盧 草拙と西山神社】

     西山神社(長崎市西山町)の寒桜がそろそろ見頃だと思い、出かけましたが、咲いていたのはほんの数輪。神社の方によると、例年通り12月中旬には花が開らきはじめたものの、1月に入ってから気温の低い日が続き開花が進まなかったそうです。今月末には満開になるでしょうとのことでした。  諏訪神社から北へ徒歩10数分。斜面地の高台にある西山神社(長崎市西山町)。この神社は、江戸時代の長崎の天文学者、盧 草拙(ろ そうせつ:1675-1729)ゆかりの神社です。草拙は若いころから、北極星・北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰していて、それを祀るために、長崎奉行に願い出て、自らが所有する土地に妙見社(のちの西山神社)を建てたと伝えられています。  地元では「西山妙見社」、「妙見さま」などと呼ばれ親しまれている西山神社。本殿前の鳥居の額束には、めずらしい円形の額が掲げられていますが、これは、星や天体を表しているといわれています。また、本殿の屋根などに施された社紋の九曜紋(星紋のひとつ)など、星にちなんだあれこれが、星好きな人の心をくすぐります。  社殿を建てた草拙は、『長崎先民伝』(1819年刊)を息子の千里とともに著したことで知られています。この本は、近世前期に長崎の地に生き活躍した人物や長崎を訪れた学者や文人など、総勢147人について漢文体で記したものです。記述が長いものもあれば、短いものもあり、また名前のみあげられたものなどいろいろですが、多様なジャンルの人物のさまざまな逸話が記されていて当時を知る貴重な史料のひとつとして利用されています。ちなみに一昨年、この本にわかりやすい解説を加えた『長崎先民伝 注解 〜近世長崎の文苑と学芸〜』(若木太一・高橋昌彦・川平敏文 編/勉誠出版)が出ています。漢文が苦手な人も、注釈付きの書き下し文で内容を理解することができます。  同著によれば、長崎に生まれ育った渡来人三世の草拙は、両親を早くに失い、祖母のもとで育てられたとのこと。体が弱く、病気がち。読書を好み、独学で博識を広げ、苦労のなか、若いうちに多くの弟子をとって生計をたてたそうです。その後、長崎聖堂の学頭も勤めており、天文学者としては江戸へも参上して褒美をもらうなどしています。  仕事柄、草拙は、幾度となく長崎の星空を見上げたに違いありません。この時期だったら、オリオン座も眺めたことでしょう。もちろん、江戸時代ですから、「オリオン座」ではなく、和名の「鼓星(つつみほし)」として見ていたかも。星々をつなぐと和楽器の鼓(つつみ)に似ていることから来た名称です。今夜も晴れたら、南の空に見える「鼓星」。江戸時代の人も同じ星を見上げたかもと思うと、不思議な感じがします。   西山神社からの帰路、中島川ではイソシギを初めて見かけました。お腹の真っ白な毛がきれいで、つぶらな目がかわいい。イソシギは全国各地の水辺で見られる野鳥ですが、越冬のため、より暖かな九州へ渡ってきた可能性もあります。とはいえ、九州もまだまだ寒い日が続きます。みなさん、体調に気をつけてお過ごしくださいね。

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  • 第538号【睦月長崎ネイチャー歳時記】

     長崎の三箇日は天候にめぐまれ、神社仏閣は初詣での人々でにぎわいました。大晦日から元旦にかけての夜空には、新年を寿ぐような丸いお月さま。神社の境内で行列をなす人々を月光がやさしく包んでいました。この日が満月かと思いきや、実際は、翌日の2日。しかも、2018年の満月のなかで、もっとも大きく見えるというスーパームーンでした。  空気が乾燥する(大気をかすませる水蒸気が少ない)冬は、月がいちだんと美しく見えます。星の観察にもおすすめの季節です。この時期、南の空に輝く「冬の大三角」が確認できたら、すぐそばに冬の星座を代表するオリオン座が見えるはず。ところで、いま環境省は大気汚染や環境保全への関心を高めてもらおうと、冬の星空観察を推進しているそうです。凍てつく夜空の星の瞬きは格別ですが、寒さが厳しい時期でもあります。しっかり防寒対策をしてお楽しみください。  寒さが極まるなか、長崎市野母崎からこころ弾む花の便りです。「のもざき水仙まつり」が1月7日からはじまっています(平成30年1月28日まで)。野母崎は長崎市中心部から南にのびた長崎半島の先端に位置する地域。水仙は、沖合に軍艦島をのぞむ小高い丘に咲き誇っていました(長崎市野母崎総合運動公園内)。  約1000万本の水仙を楽しめる「のもざき水仙まつり」。潮風が吹き抜けると、いっせいに揺れて、あたりにさわやかな香りを漂わせます。潮風とまじりあうその独特の香りは、環境省の「かおり風景100選の地」にも選ばれています。水仙の種類は、クリーム色の花弁の真ん中に黄色を配したベーシックな姿のニホンスイセン。もともとこの地区に群生していたものを地元の方が大切に手入れをし、増やしたと聞いています。  ここの水仙は、1本の茎にたくさんの花をつけるのが特長だそうで、園内のあちらこちらで数を確認してみると、6つくらいが多く、少なくて3つ、多いものだと8つの花をつけたものもありました。園内数カ所の展望台をめぐりながら、水仙の丘をゆっくりのぼりくだりすると、海側では潮騒の音が聞こえてきます。ジョウビタキ、ヤマガラ、メジロなど野鳥たちのさえずりも心地よく、年末年始のいそがしさを忘れ、ほんとうにのんびりできました。  水仙の花々の合間には、同じく開花の時期を迎えた椿もいろいろな種類が見られました。野母崎町には、もともとたくさんのヤブツバキが自生していますが、そのなかに、同町内の権現山で発見された「陽の岬(ひのみさき)」という貴重な一種があります。  権現山は、標高198メートル。日本最西南端に位置し、その展望台からは、東に天草灘、西に五島灘、南に東シナ海を一望することができます。緑豊かな山にはヤブツバキが1万数千本も自生。そのなかから、わずか1本だけ「陽の岬」の原木が見つかったそうです。小ぶりの白い花を咲かせるという「陽の岬」。今回は見る機会はありませんでしたが、椿の季節(1〜3月)のうちにあらためて野母崎町・権現山へ出かけてみようと思いました。   本年も、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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  • 第537号【歴史的な〝いま〟をご一緒に】

     ふりかえれば、あの頃が時代の転換期だった、と誰もが思う、それが、たぶんいまなのでしょう。世界も、日本も、そして長崎という小さなまちも、大きな時代のうねりの真っ只中。そんなときだからこそ、日々のささやかな暮らしを楽しみ、身近な人々と笑顔を分かち合いたいものです。というわけで、「お昼をうちに食べに来ない?」と女ともだちを誘い、皿うどんをちゃちゃっと作ってテーブルに出せば、みんな<^▽^>こんな顔になって、おしゃべりも弾みます。最近、我が家の皿うどんは、「皿うどんサラダ」の麺を使っているのですが、「サクサクして食べやすい」と、女性や高齢の方に好評です。どうぞ、お試しください。  いまが時代の変わり目。長崎にとってその象徴的な出来事のひとつが「長崎県庁舎」の移転です。新庁舎は、この秋、長崎駅近くに完成(長崎市尾上町)。そこは、かつて長崎魚市があったところで、長崎港にそそぐ浦上川の河口の一角。同敷地内に建設された長崎県警察本部新庁舎とともに、港湾や市街地の景観になじむ端正な佇まいをみせています。ここで働く人たちの移転も順次進められていて、多くの部署の業務が年明けから新庁舎ではじまるそうです。  移転前の県庁舎(江戸町)の場所は、1571年に長崎が開港して以来、長崎にとって常に時代を象徴する建物があった特別なスポットでした。南蛮貿易時代にはイエズス会本部もかねた岬の教会、江戸時代には長崎奉行所西役所、幕末には海軍伝習所、医学伝習所、そして明治時代に県庁舎が建てられました。その後、県庁舎は台風や原爆などで倒壊・消失を経験して何度か建て替えられ、現在、建っているのは戦後1953年(昭和28)に完成したものです。  開港によってまちが整備される前、県庁舎(江戸町)の場所は、樹木におおわれた岬の突端でした。その頃の長崎のまちは、岬より奥まった所(現在の長崎市桜馬場)にあり、岬の先端をふくむ海側の土地は、領主・長崎氏の支配の手も薄かったのではないかともいわれています。そんな折、長崎氏を配下とした大村純忠の決断で、ポルトガル船が入港することになったとき、この岬の丘からくだった海岸に小さな波止場が設けられました。ポルトガル船や唐船の荷揚げのほか、天正少年使節の出港・帰港、さらには、のちのキリスト教の禁教令で高山右近らが国外に追放されたのも、この波止場からでありました。  名もなき寒村であった長崎を、間もなく国際貿易都市として国内外に知らしめ、発展させる転機であった岬の小さな波止場。江戸町「県庁前」のバス停そばには、その歴史を記した、「南蛮船来航の波止場跡」の碑が建っています。  さて、開港以来、シンボリックな建物があった岬の突端ですが、実は約半世紀ほどの空白の時間があります。それは、江戸幕府のキリスト教の禁教令で1614年に岬の教会が破壊されてから、1663年に長崎奉行所が置かれる(移転)までのことです。その間に岬の目の前に出島が築造され、あらたにヨーロッパとの貿易がはじまるなど時代は大きく変わりましたが、そうした動きをよそに、この場所だけ教会の破壊という嵐のあとの静けさが続いていたのでしょうか。そして、いま約350年ぶりに空白の時間がはじまろうとしている岬の突端。時代はどんな答えを出すのでしょうか。  遠くから、近くから、歴史を眺めてみると、思いがけないことに気付かされてハッとすることもあります。「もしかして、いまって、ターニングポイント?」「それにしても、この一年もあっという間だったわね」などと、皿うどんをほおばりながら、うなずき合う私たち。激動の時代にあって、何はともあれ、おいしいものを自由に食べられるしあわせに感謝した師走の皿うどん女子会でありました。   本年もご愛読いただき、誠にありがとうございました。

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  • 第536号【滋養たっぷりの汁もので温まろう】

     ナンキンハゼの落ち葉をサクサクと踏みながら歩く長崎のまち。前回、ご紹介した光永寺(長崎市桶屋町)のイチョウもすっかり葉を落としましたが、幹と枝だけの姿も古木の風格が漂って美しい。今年は紅葉にとってちょうどいい気温が続いたのか、いつもより美しく、長く楽しめたような気がします。先週には、例年より11日、昨年より1カ月以上も早い初雪。日に日に寒さが本格的になっていき、師走らしくなってきました。  そんななか、今年も五島の知人からかんころもちが届きました。かんころもちは、サツマイモを薄くスライスし、茹でたものを寒風で乾燥させた「かんころ(干しイモ)」が主原料。つきたてのかんころもちは、そのままでもおいいしいのですが、我が家では、1〜2センチくらいの厚さにスライスして冷凍庫に保存。トースターでチンしていただいています。  さて、寒さが身にしみるこの季節、あたたかい汁ものが恋しいですよね。おいしい汁ものといえば、やはり、ちゃんぽん。豚骨と鶏ガラ、そして魚介の旨味とコクが渾然一体となったちゃんぽんスープは、具材の野菜や麺の味も溶け込んで滋養もたっぷり。寒さでかじかんだ心と身体をほぐしじんわりと温めてくれます。  来週は冬至ですが、冬至に食べる風習がある「カボチャ」を使ったおすすめの汁ものといえば、京都府の伝統料理「いとこ汁」でしょうか。小豆とカボチャが入ったみそ汁(白みそ)で、お祭りのときに供される精進料理です。小豆は、デトックス作用があり疲労回復や便秘、二日酔いなどにいいといわれています。カボチャは、カロテンを豊富に含み粘膜を丈夫にするので風邪の予防にもつながります。  冬至は「一陽来復」の日。江戸時代の長崎の商家では、座敷に設けた壇に、関羽、張飛などの絵を飾り、野菜やお菓子、そして善財餅(「ぜんざい」のこと)を供えたそうです。そして出島では、「阿蘭陀冬至」と呼ばれた祝宴が開かれました。キリスト教が禁じられていた当時の日本。キリストの降誕を祝うクリスマスが、冬至の日に近いことから、出島のオランダ人たちは、「冬至を祝う」という名目で祝っていたそうです。  このときの祝宴ではどんな汁ものが出されたのでしょう。冬至の節の11日目に催された「阿蘭陀正月」の祝宴のメニューをみると、牛肉を油で揚げたものやソーセージ、チーズなどの洋食にまじり、みそ汁や魚を煮たものなどの和食らしきものもみられます。当時のオランダ人たちは、みそ汁をどんな気持ちで味わっていたのでしょうか。   ところで、長崎の郷土料理には、出島時代の前の南蛮貿易時代に伝わったとされる「ヒカド」という汁ものがあります。ブリ、鶏肉、そしてダイコン、ニンジン、サツマイモをさいの目に切って煮込んだもので、調味料は塩と薄口しょうゆだけのあっさりとしたもの。仕上げにサツマイモをすってとろみを出します。「ヒカド」の名はポルトガル語で、「細かく切る」を意味する「picado」に由来。見た目はシチューのようでもあり、ちゃんぽんと並んで、真冬にもうれしい長崎の汁ものであります。

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  • 第535号【黄金色に染まる晩秋】

     北国では早くも積雪。西日本の各地からは初雪のニュースが次々に聞かれるようになりました。長崎の初雪は平年だと12月中旬。しかし、このところの急な冷え込みからすると、今年の初雪はもっと早くなりそう…。晩秋がかけ足で過ぎて行こうとしています。眼鏡橋の上流にある光永寺(長崎市桶屋町)へ足を運ぶと、境内の真ん中にあるイチョウの木がきれいに色づいていました。茶色の山門からのぞく黄金色のイチョウの葉。その美しさに、お寺の前を通りがかる人たちもつい足を止めます。  光永寺は、福沢諭吉ゆかりのお寺です。福沢は19歳のとき蘭学を学ぶため長崎へ来ていますが、最初にこのお寺を頼って来ており、一時居候。福沢が自らの人生を語った「福翁自伝」にもそのときのことが記されています。山門前には、「福沢先生留学趾」と記された碑がありました。  光永寺のそばにかかる古町橋のたもとに目をやると、「松壽軒(しょうじゅけん)跡」と記された碑が建っています。松壽軒は、虚無僧寺。時代劇などで、顔を隠すように笠を深くかぶり、尺八を吹いて歩く僧侶の姿を見たことがあると思いますが、それは、虚無僧と呼ばれる人たちで、江戸時代の普化宗の僧侶です。彼らは、尺八を吹いて全国を行脚修行していました。ちなみに長崎は、幕末に関西を中心に活躍した尺八奏者・近藤宗悦の出身地であり、宗悦は松壽軒と関わりがあったといわれています。  長崎と尺八。出島がらみで語られがちな当時の長崎のまた違った一面が見えてきました。虚無僧らが尺八を吹きながら往来したであろう古町橋を渡り、寺町通りの一角にある大音寺(長崎市鍛冶屋町)へ。ここには、樹齢300年を超える大イチョウがあって市の天然記念物になっています。樹高は20メートルほど。すっかり黄金に色づいたイチョウの葉が枝ごと風に揺れる姿はどこか野性的。大音寺の後山でひときわ目立っていました。  黄金といえば、先日、「特別展 新・桃山展 大航海時代の日本美術」を開催中の九州国立博物館へ行った際、豊臣秀吉が造らせたという「黄金の茶室(復元)」が出入り口付近に公開展示されていました。移動可能な組み立て式のコンパクトな茶室は壁や天井、柱、そして障子の腰にも金が張られ、茶道具もみな金色。畳の表は赤い毛織物で、障子紙の部分も赤。侘び寂びの対局にあるような秀吉の発想に驚かされました。   この特別展では、信長・秀吉・家康の時代、ヨーロッパやアジア諸国の影響を受けた日本の美術品が多数展示され、長崎ゆかりの品々も少なくありませんでした。群雄割拠の戦国の世に、南蛮貿易港として開港した当時の長崎は異彩を放つ存在。しかし、よくよく歴史を見てみると、長崎を開港させた大村純忠には、周囲の豪族から領地を守りたいといった、戦国時代ならではの胸のうちがあったよう。歴史には見とれるほど光り輝く面がある一方で、あまり表沙汰にはならない影の部分も同じだけある。そんなことを思わせる秋の黄金色でありました。

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  • 第534号【現代と江戸時代をつなぐ出島表門橋】

     秋の行楽シーズンたけなわ。路面電車が走る長崎のまちでは、観光客の方々や修学旅行生が笑顔で行き交う姿が目立ちます。そんな賑わいから少し離れて、山里の風情が残る鳴滝へ足を運ぶと、木立ダリアが長い茎の先にうすむらさきの花をつけ、ススキとセイタカアワダチソウが競うように生い茂っていました。  こんな秋らしい風景に出会うと思い出すのが、向井去来の「君が手もまじるなるべし花すすき」という句です。元禄2年(1689)一時帰郷した去来が長崎を離れる際、日見峠で詠んだもの。見送りに来た親戚の人はよほど別れがたかったのでしょう。長崎街道をいく旅人は、長崎市中にほど近い蛍茶屋で見送られるのが通常でしたが、そこからもう少し離れた山あいの峠まで付き添いました。  いよいよお別れとなったとき、去来が振り返るたびに、すすきの合間から手を振り続ける親戚の姿があり、しだいに見えなくなっていく、そんな情景が浮かびます。句には長崎滞在中、皆によくしてもらったという去来の感謝の念も込められているのでしょう。時代は変わっても、二度と会えないかもしれない別れの心情はきっと同じ。ちょっとせつなくなります。  日見峠の別れのシーンから、再び賑わう街中へ。この秋、長崎を代表する観光スポット、「出島」がいつも以上に注目を浴びています。というのも出島と対岸の江戸町をつなぐ出島表門橋が架けられ、平成29年11月25日(土)から、江戸時代のように橋を渡って出島に入れるようになるのです。以前かかっていた石橋が取り払われてから約130年ぶりの架橋。洗練されたデザインで、ひとつ下流のたまえ橋から見ると、周囲になじんでしまってわかりづらいのですが、現代の橋の技術を駆使しながらも、さりげない表情がいいなあと思います。  鎖国時代、唯一ヨーロッパに開かれた窓口だった出島。かつて出島と長崎市中を結んだ一本の橋は、さまざまな人や貿易品が行き交った歴史的ルートともいえます。現在、出島内ではヘトル部屋、料理部屋、乙名部屋、銅蔵など全部で16棟の建物が復元されており、出島表門橋の上にたたずめば、往時の様子がよりリアルに感じられるかもしれません。出島表門橋は、夜間にはライトアップされ、ひとつ上流にかかる出島橋(明治時代に架けられた日本最古の現役の鉄製道路橋)とともに、美しい夜景を楽しめるそうです。  出島表門橋のたもとから後ろを振り返れば、そこは県庁裏門。そばには紅毛外科楢林流の始祖、楢林鎮山(ならばやしちんざん/1648〜1711)宅跡の碑があります。オランダ通詞だった鎮山は、職務のかたわらオランダ商館医に付いて医学を学んだそうです。出島の目と鼻の先に自宅があったという点で、さまざまな人の出入りがあり、史料には残されていないこぼれ話がたくさんあるのだろうと想像されます。   長崎県庁裏門も、長崎駅近くの新しい県庁舎がこの秋完成し、その後の移転が済めば撤去されることになるのでしょう。表玄関とくらべ地味な存在でしたが、この界隈を知る人にとっては、なじみのある風景。いまのうちに目に焼き付けておきたいと思いました。

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  • 第533号【茶処・東彼杵町のおいしいもの】

     超大型台風21号の被害に合われた方々に心よりお見舞い申し上げます。  暦を見ると、2週間後は立冬。刻々と深まる季節のなか、体は冬ごもりの準備がはじまっているのか、食欲は増すばかり。所用で出かけた東彼杵町(ひがしそのぎ・ちょう)で、おいしい出会いを満喫してきました。  JR長崎駅から、快速シーサイドライナーで彼杵駅(東彼杵町)まで約1時間。東彼杵町は、長崎県一のお茶の生産量をほこる茶処で、蒸し製玉緑茶の「そのぎ茶」の産地として知られています。「そのぎ茶」は、隣接する嬉野市を中心に生産される「嬉野茶」として出荷されていた経緯がありますが、近年、「そのぎ茶」のおいしさとともに、ブランド名も広く知られるようになってきました。今年9月に開催されたお茶の日本一を決める「全国茶品評会」では、「蒸し製玉緑茶」の部門で、産地賞(1位)を受賞。さらに、個人でも「そのぎ茶」の茶農家の方が農林水産大臣賞を受賞し、「そのぎ茶」のおいしさを改めて全国に知らしめました。  山あいに広がる茶畑の景色は、東彼杵町の原風景です。この時期のお茶の樹はツバキに似た白い花をつけるのですが、手入れが行き届いた茶園では、おいしい茶葉を育むため、つぼみのうちに摘んでしまうそうです。お茶の花は小ぶりでふっくらとして、うつむき加減に咲くきれいな花です。茶畑のそばを通りがかると、摘みそびれたお茶の花が数輪、秋雨に濡れていました。  東彼杵町へ出かけたとき、必ず立ち寄るのが国道205号沿いにある道の駅「彼杵の荘(そのぎのしょう)」です。食事処では、定番の鯨肉入りの団子汁と炊込みご飯のセット(680円)をいただきました。波静かな大村湾に面した東彼杵町は、江戸時代、近海でとれた鯨の集積地として発展した歴史があります。鯨肉を使った食文化がいまも息づく土地柄なのです。道の駅では、鯨肉も売られていました。  自然が豊かで農業が盛んな東彼杵。道の駅の商品は、おまんじゅうやもなかをはじめ、ソフトクリームや焼酎など、地元産の緑茶を使ったお菓子や飲料が目立ちます。また農業が盛んなまちとあって、季節の農作物も豊富。そのなかで、最近ではめずらしい「小栗(ささぐり)」を見つけました。小さな栗の実で、「柴栗(しばぐり)」と呼ぶ地域もあります。70歳前後の方たちが、口を揃えて、「小さい頃、食べてたわ」「山によく採りに行ってたのよ」と懐かしがります。店頭で「小栗」を買おうか悩んでいると、「通常の栗より、私は小栗のほうがおいしかと思うよ」と高齢の女性がすすめてくれました。湯がき終わりの頃に塩を入れるのが、おいしくなるコツだそうです。   くいしんぼうな現代人を満足させる道の駅「彼杵の荘」。そのすぐ隣には、5世紀につくられたという前方後円墳の「ひさご塚古墳」があります。「ひさご」とは「ひょうたん」のことで、古墳は文字通りひょうたんを思わせる形をしています。ほかにも一万年以上も前の旧石器時代の遺跡も見つかるなど、東彼杵町は太古の昔から人間が暮らしやすい土地であったことを物語ります。そんな自然豊かな土地で育まれた飾らない町の雰囲気、人の優しさが、秋の心にしみる東彼杵町でありました。

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  • 第532号【秋、大切なものを探して】

     10月の長崎は華やかでうれしい催しが続いています。新地中華街で行われた「中秋節」(9月30日〜10月4日)では今年も黄色の灯ろうが飾られ、龍踊りや中国獅子舞などでにぎわいました。「中秋節」はアットホームな雰囲気を楽しめる催しです。家族や友人たちとそぞろ歩く人々は、お月さまを見上げたり、二胡の演奏に聴き入ったりしながら、秋の夜長をのんびりと過ごしていました。 10月3日は、約380年の伝統がある「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)の「庭見せ」でした。「庭見せ」とは、奉納踊を担当する踊町が、本番で使用する傘ぼこや衣装、小道具、そして贈られたお祝いの品々などを飾ってお披露目するもの。踊町が点在する長崎市中心部は、庭見せがはじまる夕方から夜10時頃まで、観光客や家族連れ、仕事帰りの人々で大にぎわい。くんち本番への期待感が高まった夜でした。  10月5日夜、カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞のニュース速報は、長崎の人々にとってうれしい驚きでした。長崎ゆかりの小説家であるイシグロ氏は、『日の名残り』や『わたしを離さないで』などで知られる世界的なベストセラー作家ですが、今回メディア関係者が予想した受賞者の上位には入ってなかったそうです。  イシグロ氏は、1954年長崎生まれ。長崎市新中川町に暮らしていました。長崎海洋気象台(現・長崎地方気象台)に勤務していた父親の仕事の関係で、5歳のとき渡英。以来、英国に暮らし、その後、英国籍を取得されたそうです。イシグロ氏が幼き日を過ごした長崎は、ちょうど戦後復興の最中で、原爆投下の記憶もまだ生々しく残る時代です。彼のなかに残る日本・長崎の記憶とはどのようなものだったでしょうか。デビュー作の『遠い山なみの光』には、イシグロ氏の生い立ちとどこか重なる女性が登場。遠い日の長崎の記憶が想像を交えながら描き出されています。  10月7・8・9日は、待ちに待った長崎くんちの本番。秋晴れのなか、諏訪神社での奉納踊や、「庭先回り」(まちをめぐって演し物を披露すること)が行われました。毎年くんち見物に出るという80代の男性は、「やっぱり、くんちは良かよ。シャギリの音が聞こえたらソワソワするけんね」と、笑顔でおっしゃっていました。  今年の踊町は5カ町で、馬町の本踊以外は、八坂町の川船、築町の御座船・本踊、東濵町の竜宮船、銅座町の南蛮船と、それぞれ個性的で異国情緒あふれる勇壮な引きものでした。どの踊町も子供から大人まで協力し合い、猛烈に暑かった夏の練習をのりこえてこの日に挑みました。踊り場では観客たちを感動の渦に巻き込み、「もってこーい」の歓声が響いていました。   世代や時代を超えて人と人との絆を生む伝統のお祭り。こうした催しには、さまざまな人と心意気、熱意、思いやり、優しさといった心情を分かち合う機会があります。イシグロ氏が2015年に来日したときの新聞のインタビュー記事のなかに、「人生は思うより短いもの。そのなかで、本当に大切なものは何なのかを考えてほしい」といった内容のコメントをふと思い出しました。

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  • 第531号【秋の風景とむかし話〜横向地蔵〜】

     秋彼岸のときに合わせ、毎年きちんと咲いてくるヒガンバナ。その正確さには感心させられるばかりです。先週土曜日は秋分の日で彼岸の中日でした。長崎市の寺町界隈へ出向くと、お墓参りに訪れた人々を見守るようにヒガンバナがやさしく風に揺れていました。  秋の花といえば、万葉集でもっとも多く歌われた植物として知られるハギが代表的。また、さりげなく咲いて秋らしい風景を彩る野菊も美しい。淡い黄色の花をたくさんつけるアキノノゲシや、白く細い花びらが可憐なシロヨメナ、淡い青紫色の花びらのノコンギクなど、ひと口に野菊と言っても種類も多くそれぞれ個性的です。名前を覚えると、親しみがわいて楽しいもの。ポケットサイズの図鑑が手放せません。  秋の花咲く風景は、どこか郷愁を誘います。素朴で懐かしいものに心がひかれ、地元に伝わるむかし話や言い伝えにも自然と耳を傾けたくなります。長崎市の矢の平地区で語り継がれるユニークなお地蔵さまの話をひとつご紹介します。矢の平地区には寛政3年(1791)に設けられたという地蔵堂があり、大切に祀られているお地蔵さまは、顔を横にそむけためずらしいお姿をしています。  言い伝えのあらすじです。『むかし、まちで泥棒をはたらいた男が、まちはずれの矢の平でひと休みしながら、盗んだ品々の品定めをしていました。男がふと、顔を上げると、ほこらがありお地蔵さまが立っていました。驚いた男が、「お地蔵さま、許してくだされ。誰にも言わないと約束してくだされ。」と頼むと、お地蔵さまは、「一度だけは見逃してやろう。お前も人にしゃべるなよ」と言い、顔を横にそむけました。  それから何事もないまま3年が経ち、男がほこらへ来てみると、顔をそむけたままのお地蔵さまがいらっしゃる。驚いた男は、ほこらにお参りに来ていた人をつかまえて、「このお地蔵さまはお頼みしたことは必ず聞き入れてくださる。実は、昔のことですが…」と、あの日の出来事を全部喋ってしまいました。  すると、男の話を聞かされていた人の顔色が変わり、「3年前、うちの大事な品々を盗んだのは貴様だったのか!」。図らずも悪行を自らばらした男は、奉行所に突き出されました。お地蔵さまはこうなることを初めからお見通しだったというわけで、以来「横向地蔵」と呼ばれ、人々にますます尊ばれるようになりました。』  プイと顔をそむけた横向地蔵の表情が、「わしゃ、知らんよ。自業自得だな」と言っているよう。どこかユーモアのあるお地蔵さまでありました。   横向地蔵の帰り道、道路脇でイシガケチョウ(石崖蝶または石垣蝶)を見つけました。イシガケチョウは、石崖や石垣のような模様の翅(はね)が名前の由来。緯度と経度を記した地球儀のようにも見えます。また、ウラギンシジミ(裏銀蜆)も道の真ん中で翅を広げていました。ウラギンシジミは、その名のとおり、翅の裏が銀色です。表はオレンジ色とこげ茶色で、鮮やかな色彩が目を引きます。温かい地域に分布するこうしたチョウたちも、今夏は暑すぎたのかあまり見かけませんでした。過ごしやすい季節になったいま、のびのびと飛び回っているようです。

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  • 第530号【残暑の初秋、郷土食で養生】

     猛暑をのりこえて、ほっとひと息。朝夕の涼しい風がとてもうれしいですね。しかし、九州の日中は夏にもどったような暑さがまだ続いています。そんな気候に身体がついていかず、体調をくずしている方も多いことでしょう。そんなときにおすすめなのが「トウガのおつゆ」です。  「トウガ」とは長崎での呼び名で「冬瓜(とうがん)」のこと。地元では8月16日の精進落ちに「トウガのおつゆ」を食べる習わしがあります。トウガは、盛夏の食材のイメージが強いのですが、初秋も旬は続いています。90%以上が水分で、ビタミンCも多めに含まれるトウガは、薬膳では、利尿作用がある食材として知られています。味は淡白で、生のまま食べるとスイカの皮(白い部分)に似た味がします。絞り汁は、発熱時や暑気あたり、食あたりに効果があるといわれています。  「トウガのおつゆ」は、高タンパクで低カロリーの鶏肉や肺の乾燥を潤し空咳やのどの渇きにいいとされるキクラゲも加えて煮ます。素材の旨味をいかしたあっさりとしたスープに、トロリとやわらかく煮えたトウガ。冷めてもおいしいおつゆです。  夏バテなのか、熱がこもったような身体には、ナスを使った料理もおすすめです。身体のほてりやむくみをとり、血圧を下げるなどの薬効があるといわれています。ナスは代表的な夏野菜のひとつですが、収穫時期は梅雨の頃から秋までと、けっこう長く楽しめる野菜です。  長崎には古くから栽培されてきた伝統野菜・地域野菜として、「長崎長ナス」、「枝折れナス」という品種があります。「長崎長ナス」はその名のとおり、細長いナス。「枝折れナス」は、枝が折れるくらい実がたくさんなるところから付けられた名称だそうです。  農業の盛んな長崎県諫早地区を中心とした地域では、「ナスの味噌ころ」が昔ながらの惣菜のひとつ。一口大に切ったナス、タマネギ、厚揚げを油で炒め、野菜がしんなりしたところで麦味噌と砂糖少々を加え、炒め煮したもの。麦味噌の風味が素朴なおふくろの味です。  店頭では、そろそろサトイモも出回るようになりました。サトイモは独特のぬめりに薬効があって、血中のコレストロールを取り除き、胃や腸壁の潰瘍予防にもいいといわれています。ですから、調理の際はぬめりを落としすぎないのがコツです。  サトイモは、秋祭りや中秋の名月(十五夜)など、豊作を感謝する行事の際によく供えられます。中秋の名月が「芋名月」とも呼ばれる由縁です。長崎県島原地方などでは、家の外に醤油がめなどを置いていた時代には、ホクホクに煮付けた初物のサトイモを深皿に盛って、醤油がめの上に置き、名月へのお供えとしていたそうです。自然に感謝する当時の人々の素朴な姿や風景が目に浮かびます。   旬の素材で作る昔ながらの日常的な料理には、季節ごとに変化する身体をいたわる力があるようです。秋の夜長にゆっくり味わいたいものですね。

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  • 第529号【江戸時代の将棋指しのお墓】

     きょうは処暑。暑さがようやく収まって、朝夕の風が少しずつ涼しくなっていく頃です。今年の西日本の夏は、連日30度超えが続き、いつも以上に秋の到来がまちどおしい。食事や睡眠などに気を付けて、のりきりましょう。  子どもたちの夏休みも終わりが近づくなか、観光客で賑わう出島へ足を運びました。出島内の東側にあるシーボルトゆかりの植物が植えられた庭園では、ぶどう棚に果実がたくさん実っていました。その隣に植えられた柿の木にも青い実がたくさん。秋の果実の姿にめぐる季節を感じて何だかホッとしました。  同園内では、甲子園球場の外壁にもあるナツヅタが青い葉を絡ませていました。気温が低くなると紅葉となるナツヅタ。ブドウ科だけあってブドウに似た実もつけます。そばには翼の形をした果実で知られるイロハモミジもありました。これらの植物は、その昔、シーボルトが日本からオランダへ送った約260種にもおよぶ植物のなかから、近年、日本へ里帰りしたもの。大海原を渡ったり、空を飛んだりしながら国を行き来し、世代を超えて生き延びてきたたくましい植物たちでありました。  自由研究なのか、出島ではノートをとっている子どもたちがいました。興味のあることに夢中になっているその姿を見てふと思い出したのが、この夏、将棋の最年少プロ藤井聡太四段(15)の影響で、将棋をはじめるお子さんが増えたという話です。加藤一二三九段を下したデビュー戦をかわきりに公式戦では29連勝の新記録を樹立。中学生にして快挙を成し遂げた藤井四段の姿は、将棋を指す大人だけでなく、子どもたちの心も動かしたようです。  古代インドにさかのぼるといわれる将棋のルーツ。日本への伝来は諸説あり、6世紀頃ともいわれています。江戸時代には囲碁とともに幕府公認となり、将棋指しの家元三家(大橋家、大橋分家、伊藤家)には俸禄が支払われたそうです。将棋が庶民のゲームとして広く各地で親しまれるようになったのもこの時代。そうした歴史のなごりを感じられるお墓が長崎に残されていました。  かつての長崎街道沿いの一角にたつ、江戸時代の将棋の名手、大橋宗銀のお墓(長崎市本河内)です。宗銀は武蔵国出身で、当時の家元のひとつ大橋家の流れをくむと思われる人物です。長崎見物をかねて、将棋を指しにきたのでしょうか。長崎に来た理由も、亡くなった理由も不明ですが、天保10年(1839)、この地で没したことが墓石に刻まれています。   大橋宗銀のお墓の近くには、江戸期の長崎で囲碁を広めたとされる、南京房義圓(なんきんぼうぎえん)のお墓があります。ケヤキの大木のたもとにあり、墓石はお坊さんのお墓に共通する頭部の丸いものです。蓮華座下の台石は碁盤になっていて、その前に設けた花筒は碁笥(ごけ:碁石入れ)をかたどっています。いまもひっそりと花をたむけられている、江戸期の将棋や囲碁の名人のお墓。その技能は愛好家たちの間で脈々と受け継がれているのでしょう。

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  • 第528号【長崎半島先端・野母崎町の浜辺散策】

     きょう8月9日は、72回目の長崎・原爆の日。人類が同じあやまちをくりかえさないことを願いたい。おおきな犠牲をはらって、いまの平和な暮らしがあることをあらためて心に刻みたいと思います。  さて、今回は、夏休み中の子どもたちといっしょに楽しめる浜辺散策がテーマです。波や風の跡を刻みながら表情を変える浜辺は、出かけるたびに新しい発見があります。貝殻や海藻、流木、石ころなどの漂着物には、それぞれのストーリーがあり、海の向こうの国を思ったり、地球のダイナミックな鼓動を感じることもできます。  散策したのは、長崎半島の先端にある長崎市野母崎町の脇岬海水浴場です。東シナ海に面した長さ約2キロにわたる白い砂浜とコバルトブルーの海の色がとても美しい脇岬海水浴場は、環境省の「日本の水浴場88選」にも選定されています。また、この浜辺の端のほうには、県の天然記念物であるビーチロック(棚瀬)があることで知られています。ビーチロックとは、小石や砂が石灰質により固められた岩場のことで、満潮時には水面下にありますが、干潮時に扇型に層をなした自然の造形美が現れます。訪れたときは、潮がひきかけた頃で、ビーチロックは少しだけ顔をのぞかせていました。  風紋を刻んだ砂浜の片隅に目をやると、色とりどりの貝殻が打ち寄せられていました。こうした貝殻の多くは遠くからの漂着物ではなく、近場に生息していた可能性が高いといわれています。見つかる貝の種類で、その浜辺の環境の特色がわかるそうですが、詳しいことを知らなくても、いろいろな姿形をした貝との出会いは楽しいものです。  波打ち際を歩くと、平べったい小石が目立ちます。石は川から流れてくるときは、全体の角がとれて丸くなります。砂浜では、寄せては返す波に水平に動かされるので、すり減って平べったくなるのです。それにしてもいろいろな色合い、質感の石があるものです。長崎半島は古代の地層があらわになったところが各所にあるので、小石を通して地質・地層のことを学べそうです。  近年、長崎半島の地層からは恐竜や翼竜の化石が見つかり話題になりました。恐竜の化石は、半島西側の海岸から沖合に見える軍艦島(端島)や高島にまたがる地域に点在する、中生代白亜紀にできたもっとも古い地層、「三ツ瀬層」から発見されたものです。   半島西側海岸にある田の子地区へ行ってみました。干潮時には地続きになる田の子島があるところで、沖合に軍艦島、高島が見えます。このあたりの海岸は、脇岬より小石が多く、石の表情もより個性的なものが多いよう。ちなみに、田の子地区には2022年をめどに長崎市の恐竜博物館がつくられる予定です。長崎半島は、古生物学者や地質学者はもちろん、恐竜や地層などに興味のある人には目が離せないスポットでありました。

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  • 第527号【長崎南画家、蟹の八百叟】

     暑中お見舞い申し上げます。長崎では先週の梅雨明けに合わせるかのように、サルスベリが開花。フリルのような花びらが夏の青空に映えてとてもきれいです。  今回は、江戸後期に生まれ、明治・大正を生きた八百叟(やおそう)こと伊藤惣右衛門(いとう そうえもん)(1835〜1917)という長崎南画の名手をご紹介します。八百叟とは雅号で、ほかにも、玉椿軒(ぎょくちんけん)、蔬香(そこう)とも称しました。とくに蟹の画を得意としたことから、「蟹の八百叟」と呼ばれ、そのユニークな人柄とともにいくつかのエピソードが語り継がれています。  八百叟の家は立山の長崎奉行所にほど近い今博多町にありました。代々、野菜や乾物などをあつかう商家で、長崎奉行所の御用も務めました。八百叟は五代目として家業を継ぎ、そのかたわらで趣味人として南画を描いたようです。  ところで、長崎南画は、江戸時代に中国から伝わったもので、長崎三筆と称される南画家、鉄翁祖門(1791〜1871)、木下逸雲(1799〜1866)、三浦悟門(1808〜1860)によって大成されました。その画法を学ぼうと、長崎には各地から人々が集い、また長崎から全国へ広まりました。長崎南画がもっとも盛んな時代に生まれた八百叟は、鉄翁祖門や木下逸雲に学び、南画を描く中国人とも交流があったと伝えられています。  なぜ、八百叟は蟹画を得意としたのか。はっきりした理由はわかっていませんが、とにかく幼い頃から蟹をよく描いていたそうです。すでに南画の大家であった鉄翁祖門には、蟹をよく観察して描くようアドバイスを受けたこともあったとか。また、八百叟と鉄翁との間には次のようなエピソードも伝えられています。当時、春徳寺の住職だった鉄翁。八百叟がそこへ出向くのは、いつもお昼近くで、たいがい蕎麦を持参しました。蕎麦は鉄翁の好物。気を良くした鉄翁は、毎回お礼に自分の作品を八百叟に与えたそうです。商人でもあった八百叟のちゃっかりとした面がうかがえます。  もうひとりの師・木下逸雲とは、生死を分けるエピソードが残されています。中島川をはさんだ隣町の八幡町に住んでいた逸雲とは、親しい交流があったようで、慶応2年(1866)、逸雲が江戸に旅した時に八百叟も同行しています。しかし、帰路の船で逸雲は遭難。八百叟はたまたま船に乗り遅れ難を逃れました。また、明治5年(1872)、長崎への明治天皇行幸の際、八百叟は、天皇が使用した白木の箸や食べ残しのご飯の下賜を願い、保管しました。大胆にそのようなことを願い出るところがユニークです。そのときの箸とご飯が、現在も長崎市立桜町小学校の地域・学校交流センター内に展示されていることは、あまり知られていません。  かつて八百叟の家の隣で海産物商を営んでいたというお宅のご子孫が大切に所蔵している八百叟60歳のときの蟹画を見せていただきました。11匹の蟹がイキイキと楽しそうに描かれています。また、八百叟の描いた蟹画は、桜馬場天満宮の天井絵にも残されています。   サワガニにしても、ワタリガニにしても、甲羅からかわいく突き出た目、1対のハサミ、そして4対の脚で横歩きするその姿は、子ども心をくすぐります。八百叟は、そんな童心を生涯持ち続けたのかもしれません。大正6年(1917)84才で亡くなった八百叟。ちょうど没100年にあたります。大音寺後山(長崎市鍛冶屋町)にある墓碑には、雅号を連ね「玉椿軒八百叟蔬香之墓」と刻まれていました。

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