第545号【緑まぶしい行楽シーズン!】
さわやかな陽気のなか、風が若葉の香りを運んできます。長崎港をかこむ山々は、すっかりまぶしい緑に包まれました。長崎では大型連休を前に「長崎帆船まつり」(4/19〜23)が行われ、ロシアの「パラダ」(全長約110m)、日本の「みらいへ」(全長約52m)、そして長崎港に停泊している「観光丸」(全長約65.8m)が出島岸壁に集いました。帆を広げた帆船の姿は勇壮で、感動的。期間中の土日には花火も打ち上げられ、長崎港はおおいに賑わいました。
5月5日端午の節句も近づいて、あちらこちらで鯉のぼりを見かけます。長崎歴史文化博物館(長崎市立山)の広場には、今年も「長崎式鯉のぼり」が立てられていました。江戸時代にさかのぼるというその形式は、杉の木を支柱に、強くしなる笹の旗竿を斜めにかかげたもので、風を受けたとき旗竿がぐるりと動いて、鯉も気持ち良さげに空中を泳ぎます。そして、支柱にはもうひとつ、中国由来の魔除けの神さま「鍾馗(しょうき)」を描いた幟(のぼり)もかかげられていました。ちなみに、同博物館の幟の「鍾馗」は、江戸時代後期の長崎の南画家、三浦梧門の「鍾馗図」をもとに描いたものだそうです。
江戸時代の日本庭園と茶室が残る「心田庵」(長崎市片淵)も春の一般公開が行われています(4/20〜5/8迄)。茅葺屋根の佇まいに和む心田庵。庭に向かって開かれた和室から庭園を一望すると、青葉のうるおいに心まで満たされるよう。和室のテーブルに映り込むもみじも美しく、日々の雑務をしばし忘れさせます。庭の奥にはかなりの樹齢と思われるマツやマキノキ、クスノキがみられます。いろいろな時代をくぐりぬけてきたこの庭園の生き証人たちです。
心田庵は、寛文8年(1668)頃、何 兆晋(が ちょうしん:?〜1686)という人物の別荘として建てられたもの。兆晋の父は福建省出身の帰化唐人で、寛永5年(1628)に長崎に来て中国との貿易で財をなした大富豪。石橋(賑橋)の寄進をはじめその長男であった兆晋とともに清水寺本堂(長崎市鍛冶屋町)を建立するなど、当時の長崎のまちづくりに尽力した人物でした。
兆晋は、10年ほど勤めた唐通事を退役し、心田庵で風雅な生活を送るようになりました。七弦琴の名手でもあった兆晋には、さまざまな文化人との交流があったようです。そのひとりに長崎出身の儒学者、高
玄岱(こう げんたい:1649〜1722)がいます。玄岱は、当時の心田庵の様子や兆晋の人柄などが偲ばれる漢詩「心田菴記」を書き残しています。
玄岱はもともと唐通事でしたが、儒学や医学を学び、書家としても知られていて、宝永6年(1709)新井白石の推挙で江戸幕府の儒官になった人物です。心田庵とは別の話になりますが、今年、玄岱直筆の巻物が約100年ぶりに確認されています。それは、かつて聖福寺(長崎市玉園町)界隈にあったとされる「鏜山(とうざん)」という広大な庭園についた記したもので、巻物のタイトルは『鏜山游記』。「鏜山」は、江戸時代にまとめられた『長崎名勝図絵』のなかでも紹介されるほどの名園でしたが、『鏜山游記』の行方が分からなくなっていたこともあり、現在では、研究者以外で、その存在を知る人はほとんどいなかったようです。『鏜山游記』は、「鏜山」の名前の由来や庭園の様子などが記されていて、当時の長崎の様子がうかがえるたいへん貴重な史料だそう。玄岱の書は、端正で品のある崩し文字。研究者の解読、解説が待たれるところです。