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  • 第29号【観光バスに乗ろう!】

     最近、県外ナンバーが目立ちはじめた長崎の街。今年も春の観光シーズンのはじまり、はじまり!ということで今回は、長崎をもっともお手軽に見て回れる観光バスについてご紹介します。\(^.^\) 観光バスの発着場所は長崎駅の構内にあり、ここから朝9時~昼15時まで1時間毎に1本、そして夕方からは18時、19時の2本、合計9本が毎日運行しています。所要時間は出発する時刻(コース)によって違いますが、だいたい3時間~4時間15分。夕方からの便を除くコースはすべてグラバー園、大浦天主堂、平和公園、原爆資料館等の主要観光スポットを網羅しているので、半日位しか時間がない時や、無駄なくいろんな場所を巡りたいという人には、特におすすめします。^^)good!▲長崎駅前で出発を待つバス参加者9人はちょっと寂しかった 料金は、たとえば10時発(4時間15分コース)は、昼食付きで、大人4260円、小人2060円。昼食のメニューはチャンポンや皿うどん等長崎名物を味わうことができます。また15時発(3時間コース)は大人2150円、小人1020円。いずれも施設入場料金含みで、かなりお得です。(・▽・)リーズナブル! 試しにと今回、私が乗ったのは夕方6時発の「むらさきの夜遊覧」コース。所要時間3時間20分で、〈平和公園~べっ甲資料館、めがね橋~長崎港近くのホテルで夕食~稲佐山(いなさやま)ロープウェイ〉という内容。食事は和食か洋食のいずれかを選べます。観光案内所で料金の4930円を支払い、目の前に止まっている観光バスに乗り込むと、悠々50名は乗れるようなバスに、参加者はわずか9名。この少なさは、たまたまその日が休み明けの平日だったからとか。乗客はみな県外からの観光客のようで、親子や夫婦、サラリーマン等。夕方からのこの便は出張中のサラリーマンが、せっかく観光地に来たのだからと利用されるみたいです。【“】長崎らしいね。▲うっすらと暗くなってきた平和記念像の前で 観光バスのいいところは、やはりバスガイドさん。ゆっくりとした口調で話す歴史やエピソードは、もう何十年も同じような文面が使われているのだろうと思われ、少々レトロな雰囲気が漂ってなかなか味わいがあります。「長崎の鐘」、「長崎の夜はむらさき」といった昔のヒット曲も飛び出して、隣の座席に座っていた老夫婦は感慨深い表情で、一生懸命拍手をしていました。(∧〇∧)♪こよなく晴れた青空を~ ホテルでの夕食は、和風のカウンター席で。今回は偶然にも全員が和食を選んでいたらしく、9つの膳が並べられていました。新鮮なアジの姿造りや豚の角煮、揚げ物、茶わん蒸しなど、長崎の郷土料理・卓袱料理風の品々がズラリ。お隣に座っていた新潟のミセスも「こんなお食事が付いて、お得ですよね」と満足げ。最後にロープウェイで稲佐山に登って見たむらさき色の長崎の夜景は、とてもきれいでしたよ。(※・。・※)ロマンチックやわ~▲稲佐山から見た1000万$の夜景はため息が出るほどきれいでしたよ

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  • 第28号【お江戸の春の風物詩、江戸参府!】

     ご近所の庭先から風が運んで来る沈丁花(じんちょうげ)の香り。この時期、いろいろな場所で新しい季節の変化が見られます。あなたはどんなことに春を感じていますか?(∪_∪)お日さまと眠気かな…。 今回は江戸の春を賑わしたカピタン(オランダ商館長)の江戸参府のお話です。江戸時代、各藩の大名が参勤交代で定期的に江戸へ上がったように、カピタンも江戸へ出向く義務がありました。これはオランダが幕府に貿易を許可されていることに対して謝意をあらわすのが目的で、将軍にご挨拶をし、西洋の珍品を献上するという習わしになっていました。(“)カピタンの参勤交代?▲カピタンの江戸参府の行列シーボルト著「日本」より カピタンの江戸参府は1609年にはじまり、18世紀の半ば頃、5年に1度に改められるまで、ほぼ毎年行われています。カピタン率いる江戸参府のメンバーは、医者や書記、阿蘭陀通詞、そして長崎奉行所の役人など。出発はだいたいお正月の頃(旧暦)、冬の最中に長崎を旅立ったのでした。 一行はまず長崎街道に入り下関へ。そこから兵庫まで海路を利用。兵庫からは大阪、京都を経て東海道を行く陸路を辿っていたとか。そうして江戸に到着するのが、毎年春頃だったのです。(・〇・)長い旅路だねえ…▲長崎街道の石碑(長崎市桜馬場) さて花のお江戸に到着した一行は日本橋本国町にある定宿「長崎屋」に宿泊。商館医ツュンベリーの記述によると、『長崎屋の通りに面した部屋の外には見物人が集まり、中には塀をのぼって覗き込む者もいて、チラリとでも異人を見ると大きな歓声を上げていた』そうです。物見高いは江戸の常。好奇心旺盛な江戸庶民で賑わう長崎屋の様子をあの葛飾北斎が描き残しています。また芭蕉の『紅毛も 花に来にけり 馬の鞍(くら)』『かぴたんも つくばいにけり 江戸の春』という句を詠んでいることからも伺えるように、カピタンらをとりまく騒ぎはまさに江戸の春の風物詩だったようです。[□□]ホウ、北斎も、芭蕉も…。▲江戸城で将軍に拝謁の図「ケンペル江戸参府紀行」より 長崎屋での彼等は、旅の疲れを癒す間もなく多忙な日々を送っていました。江戸の蘭学者や医者、文化人たちが西洋の知識を得ようと次々にやって来ていたからです。日本の学者らがあまりにいろんな質問をして来るものだから、『煩わしい訪問者』と記述したカピタンもいるほどです。しかしこれは一部の話で、総じてオランダと日本の両国がお互いを親しく観察できるいい機会になっていたと推測されています。余談ですが杉田玄白、前野蘭化が訳した「解体新書」の原本はこの長崎屋で譲り受けられた書物だそうです。長崎屋は、西洋への唯一の窓口だった長崎の“出窓“として重要な役割を担っていたのですね。

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  • 第27号【日本初の営業カメラマン!(上野彦馬)】

     3月に入り、巷では卒業式や人事異動などさまざまな別れと出会いが繰り広げられています。その"記念に"と撮った一枚の写真は、何年経っても見る度にいろいろな思い出があふれて来ます。写真には思いを凝縮する不思議な力があるのですね。(。U_U。)ナツカシカア…。この季節は、ビデオやカメラが一番売れる時期だとか。メカ音痴の私は日頃、オートフォーカスカメラのお世話になっているのですが、なぜ写るのかという話になると全くのチンプンカンプン。でもこういうものは簡単に使えれば使えるほど、きっと高いレベルの専門技術が搭載されていると思うのです。( ̄。 ̄;)?ソウニチガイナイ さてそんなカメラの日本での歴史をたどってみるとその源流に長崎人・上野彦馬(うえのひこま)という人物がいました。彼はわが国の写真術の開祖といわれ、日本で初めて天体写真を撮影、また西南の役で戦跡を撮影し、いわゆる日本初の報道カメラマンとしてもその名を残しています。▲日本写真界の始祖上野彦馬の胸像(長崎市立山) 彦馬は、幕末の1839年、長崎の銀屋町(現:古川町)に生まれました。父・俊之丞(しゅんのじょう)は長崎奉行所の御用時計師で、商人でもあり、さらにシーボルトに学んだ蘭学者としても知られていた人で、日本で初めて写真機材を輸入した張本人。この写真機は薩摩・島津侯に献上され、俊之丞によって撮影が行われています。ちなみにこの話が現在、「6月1日・写真の日」制定の由縁になっているそうです。 つわものの父を14才で亡くした彦馬は、まさに写真術の祖となるべく道を歩みはじめます。オランダの軍医として長崎に着任していたポンペに師事し写真術を研究。それはガラス板に感光液を塗り、湿っているうちに撮影する、湿版写真といわれる技法で、当時は使用する薬品から自らの手で作り出さなければならないという状況でした。例えばアンモニアは、生肉が付着している牛の骨一頭分を土に埋め、腐りはじめた頃に掘り出して(゜0゜;)コワ・・、大釜で煎じて作ったのですが、牛肉を食しないその当時、周囲は彦馬の行動を正気の沙汰と思えず、さらには余りの異臭を放つので長崎奉行所に訴えられたりしています。▲彦馬撮影の坂本龍馬日本大学芸術学部蔵初めて人物を写した時も、少しでも明るく写るようにと被写体の顔に白い粉をべったりと塗り、陽の光がよく当たるようにと寺の屋根瓦の上に立たせたため、その被写体は道行く人々に鬼瓦と間違われたといいます。( ’o’)ナンバシヨット? そんな苦労の果て、中島川の近くに上野撮影局を創設(1862年)。長崎にやって来ていた幕末の有名人、坂本龍馬、勝海舟、榎本武揚など数々の肖像写真を撮っています。彦馬が残したそれらの写真は、撮影の技術そのものは未熟なものの写真の評価は高く、人物全体や手の配置、視線、そして照明の扱いにも優れているといわれています。撮影が人の手や心によるところが大きかったことが、かえって被写体の人間性をより生き生きと引き出したのでしょう。実は、上野家は代々、肖像画を描く画家の家系でもありました。幼少時から知らず知らず培った絵心が写真の構図に影響を与えていたかもしれません。▲上野彦馬宅跡長崎市伊勢町

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  • 第26号【江戸の仇を長崎が打っちゃった!】

     『江戸の仇を長崎で打つ!』。意外な場所や筋違いな事で、昔の仕返しをするという意味ですが、今ではめったに耳にしないことわざです。ところで、このことわざの由来をあなたはご存じですか?(・_・?)ハテ?。 じつは長崎のガラス細工、ビードロ、ギヤマンに関係があるのです。▲ことわざになるほど美しかった長崎硝子(右2つは輸入品) 話は江戸時代にさかのぼります。当時、庶民の楽しみのひとつだった「見世物」で、大阪の籠細工が江戸の見世物を圧倒していました。江戸っ子たちが意気消沈していたところ、長崎のガラス細工が大阪の見世物をしのぐ人気で成功を収めたことから、江戸の仇を長崎が打ってくれたということで生まれたことわざなのだそうです。それほど長崎のガラス細工は美しく珍しいものだったのでしょう。(☆o☆)キラキラ~ 何を隠そう長崎は、近代ガラス産業発祥の地。江戸時代、オランダ船が大量にガラス製品を出島に運び込み、いつしかそれは庶民の手の届くものとなります。そして美しく輝くガラスに魅せられた者たちが、舶来のガラス製品を手本にオランダ人や中国人に製造技術を学びながらさまざまなガラスの器を作り出し、ガラス職人としての腕を磨いていったのでした。(・◇・)ヘエ…▲どこかのコンピュータのようなカラーバリエーションです ちなみに「ビードロ」は、ポルトガル語でガラスを意味するVidroから来た言葉で、一般的に吹きガラスをいいます。「ギヤマン」はオランダ語でダイヤモンドを意味するDiamantから来た言葉で、切り子といわれるようなカットを施されたガラス製品をいいます。当時、長崎に輸入されたヨーロッパのガラス製品は、実用的な瓶から芸術的なデザインのグラスや水さしなど、多彩なアイテムがありました。日本までの長い航海中、この「コワレモノ」たちは、木箱に入れられ、器と器の間にはクローバーが詰められていたそうです。日本ではクローバーを「白詰草(しろつめくさ)」ともいいますが、こういう由縁があったからなのですね。長崎で育まれたガラス細工の職人技は、後に大阪、京都、江戸、薩摩などに渡り、それぞれの地で新しいガラスの歴史を刻むことになります。▲硝子で出来た珍しい「櫛」でも、使うのがちょっと怖い!? さて長崎でのガラス製造発祥の時期を裏付ける資料が数少ない中で、面白いものがありました。長崎奉行所の財産没収記録です。そこには1676年、長崎代官、末次平蔵政直の孫による密貿易が発覚した際に、没収された末次家の財産が記されていて、その中に『日本ものびいどろ釣花入れ一ツ』と書かれた項がありました。ということは長崎では少なくともこの事件以前からガラス器が作られていたことになります。代官の孫による悪さの記録が、後世、長崎のガラス製造発祥の証になるとは。何が効を奏するかわかりませんね。(^-^ゞ※各資料とも長崎市立博物館蔵

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  • 第25号【春うららのハウステンボス】

     ひと雨ごとに春の気配が増して来るこの季節。風が強いと、もしや春一番?と思ったり、周囲の風景の中に知らず知らず春探しをしてしまうのは人間の本能なのかしらん? ハウステンボス行きの高速バスの中でそんなことを思いながら外を眺めると、冬枯れした樹木や草の間で新緑が芽吹きはじめているのが見え、ああ、今年もちゃんと春が来るんだ、、、なんてあたりまえの事に、ちょっと感動したりして。{・おセンチだなあ。 でも小さい春を見つけた時って、なんだかうれしい気分になりません? さてこの日は『山沿いでは粉雪が降るでしょう』というお天気。青空はのぞいているけれど、風がとても冷たい。ハウステンボスでは「チューリップ祭」を開催中らしいけど、果たしてチューリップは元気に咲いているのだろうか?などといらぬ心配までしてしまいます。 長崎市内からハウステンボスまでは高速バスでわずか1時間。あっという間に到着です。(^▽^)ヒガエリ派ダナ。▲チューリップ祭り開催中のハウステンボスは春満開! カップルや団体の観光客と一緒にゾロゾロと入国。すると目の前にチューリップ畑が絵のような美しさで広がり、街はしっかり春の装い。こちらも思わず気分が春めいて、ルンルンしながら運河を航行するクルーザーへ乗り込みました。ヾ(@⌒▽⌒@) Go Go !▲ハウステンボス内の運河をゆっくりと航行するクルーザー 自然石で造られた護岸の浅瀬には新緑の藻が気持ち良さそうに揺れ、魚たちの新しい生命を密かに育んでいる様子。いくつかの橋の下をくぐる時はまるで映画のワンシーン。古き良きヨーロッパの街並を再現したこの街のお洒落な雰囲気が気分をさらに盛り上げます。ほどなくして街の中心部ユトレヒトへ到着。 街の広場ではイングリッシュガーデンをはじめいろいろなスタイルの庭が設えられ、世界各国のガーデニンググッズも販売。ガーデナーならぬ自称ベランダーの私はもう興味津々。と、そこへ花で装飾された馬車や愉快なパフォーマーたちがやって来て、賑やかなカーニバルがはじまりました。軽快な音楽と踊りは春の訪れを祝うかのよう。観客も一緒になって盛り上がり、とても楽しそうでしたよ。♪【,◇,】┏[^▽^]┛〈⌒∪⌒〉Yハルガキタ! ところでハウステンボスの街中には250種類100万本ものチューリップが植えられているとか。それで今回私がぜひとも見ておきたかったのが、「ハウステンボス」という名の新種のチューリップ。ハウステンボス美術館の前で見つけました。白地にピンクのフリンジで縁取られた愛らしい姿のそのチューリップは、よく見ると冷たい風から身を守るかのように花びらはキュッと内側に締まっていました。もう間もなくすればお日さまの力で優しい笑みを浮かべてくれるはず。その頃にまた、会いに来るからね。(^。^゛ゝ)▲その名も「ハウステンボス」つぼみ姿でも可愛いのです

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  • 第24号【春告げお菓子、桃カステラ】

     今日はバレンタインデー。最近では景気を反映してか義理チョコがめっきり減り、本命だけに贈るという人が多いのだそう。私はというと父、近所のおじいさん、将棋を教えてくれた仕事先の人など、日頃、お世話になっている方々に感謝チョコを贈るつもりです。[“]┌ホンメイ、ナシ! さて暦では立春が過ぎました。さすがにコートは手放せないものの、毎日少しずつ寒さがゆるんでいくのが感じられます。春はすぐそこに来ているんですね。この時期になると長崎の街角には、桃カステラの「御予約承り中」という看板が出はじめます。長崎では桃の節句に「桃カステラ」をいただく習慣があるのです。(*'-'*)Peach Castella !?▲桃カステラはとても愛らしいお菓子なのです 桃カステラは、その昔、南蛮貿易で栄えた頃に伝わった「カステラ」と、中国で不老長寿の果物として珍重された「桃」が、異国情緒という長崎独自の風土の中でアレンジされて生まれ、生活に溶け込んでいったものです。カステラの上に桃を描いたフォンダン(砂糖)を載せたその姿はとても愛らしく、また昔懐かしい素朴な甘さで、今も長崎を代表するお菓子として親しまれています。▲ランタンフェスティバルで桃を使われたオブジェ それにしても桃のぽってりと優しい姿形、そして良い縁起を担いだ桃カステラは、子供の健やかな成長を願う桃の節句にはぴったりです。桃の節句だけでなくさまざまなお祝い事でも贈ったり贈られたりしています。(^▽^)エンギモノ。 ところで桃カステラは、洋菓子、和菓子、中華菓子のどれになるのでしょう?う~ん、わかりません。でもその無所属の力強さで、地元ではケーキ専門店でも和菓子専門店でも作られています。(・_・?)和洋中、ドレカシラ? さてさて長崎ではこの季節、「桃かまぼこ」なるものもお目見えします。日本でも有数の漁獲量を誇る長崎はかまぼこも特産品のひとつ。桃かまぼこがあっても不思議ではありません。これもやはり桃の節句の、祝いの膳を飾るものとして作られているようです。他にも探せば「桃○○○」なんていうものがいろいろ見つかるかも知れません。(^.^)モモヅクシノマチ?▲「桃かまぼこ」発見!こちらも可愛く、一口サイズ 私の近所のおじいさんは、ハートの形を桃の形と表現します。最初聞いた時は??だったけれど、確かにハートとも言えなくはありません。よし、今日は、チョコレートではなく、桃カステラをあげよう!柔らかくて食べやすいし、おじいさんにはもってこいですもんね。それに不老長寿の縁起ものでもあるし…。

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  • 第23号【すごいぞ!生月鯨太左衛門】

     コラムのタイトルを見て、???という人も多いと思います。今回のお話は読者からのリクエスト。その方はお相撲が大好きで、江戸時代の力士、生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)について詳しい話を知りたいということでした。(\∪∪/)リクエストありがとうございます。▲生月みやげ、鯨太左衛門のれん(販売元:生月町博物館・島の館) 生月鯨太左衛門(本名:要作)は身長2m27cm、体重168kg、手のひら32cmという巨体で、江戸時代末期の相撲界で一大ブームを巻き起こした男です。出身は長崎県の北部、平戸島の隣にある生月島。平戸領だったこの島は江戸時代、捕鯨で栄えていました。これが鯨太左衛門の名前の由来です。この日本人離れした巨体。勝手に推測するならば、平戸はかつてオランダとの交流があったところ。もしかして世界一身長が高いといわれるオランダ人の血が要作に混じっていたからかもしれません。(``)?ソウカナ▲生月島(朱色部分)は長崎の北西部にあります。 さて要作は生まれた時、とり上げた産婆さんが度胆を抜くほど大きく、通常の2倍はあったといわれています。幼少の頃は大きすぎて、漁師をしていた父の漁船に乗せてもらえず、出漁の時、船に積んだ網を離さず駄々をこね、あげくの果てには網をひっぱり船を陸へ引き上げてしまったこともあるとか。心優しいこの息子は、巨体を活かして大人顔負けの働きぶりを見せ、父の船がもどると1人で船を引き上げ、いとも簡単に船をひっくり返して、船内に残った海水を流していたそうです。(,,)感心、感心 「鯨の生まれ変わりのような巨童がいる」の噂は平戸のお殿さまにも伝わり、また大阪、京都、江戸の相撲界からも差し出してくれとの願い出がありましたが、15才の要作と父は、その話に全く応じません。本人はやる気がなく、そして父は息子が見せ物にされるのを危惧したからです。しかし後に、執拗な勧誘を受け入れることになり、大阪へ上がります。(“)サテ、ドウナルコトカ 激しく厳しい稽古を積み要作が大阪場所に登場したのは18才の時。番付には「前頭」として名が記されました。巨体が繰り出す技は豪快で、張り手と突っ張りはたいへんな威力だったそうです。そうして大阪の街で人気者になり、翌年には望まれて江戸相撲へ送り込まれます。大阪で鍛えられ成長した鯨太左衛門の顔だちは、色白で鼻が高く、ちょっといい男風だったようです。▲鯨太左衛門のテレカ松浦史料博物館蔵-生月評判絵詞より- さて、江戸でも大阪と同じようにその巨体が話題を呼び人気者になり、多くの浮世絵が描かれるほどでした。しかし江戸では土俵入りには出ていたものの、相撲を取ったのは1度きりだったようです。相撲を取らずとも名を連ねた番付。そこには他の力士にはない身長と体重まで書かれていました。(´`) その後、鯨太左衛門は24才の若さで病を得て亡くなっています。もし島で漁師として働き続けていたら、と思うと惜しまれますが、生月島では今も鯨太左衛門の伝説が大切に語り継がれているようです。

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  • 第22号【ランタンフェスティバル好評開催中!】

     この冬は雪が降らないなあと思っていたら、今月中旬、突然の雪。しかも34年ぶりの大雪になってしまいました。その日は朝から交通網が麻痺。あちらこちらの会社では早めに仕事を切り上げたり、学校は休校になったり、カー用品のお店ではチェーンの売り切れ続出で、もうみんなてんてこ舞い。わずか2日ほどの積雪でしたが、ちょっとした騒動だったのです。そして雪が解けるのを待っていたかのように「長崎ランタンフェスティバル(1/24~2/7迄開催)」の準備は、はじまったのでした。\(⌒◆⌒)▲龍も飛ぶ!? メイン会場の湊公園は人もランタンもPower Upしていました このコラムでも12月に一度ご紹介した「長崎ランタンフェスティバル」。これは「春節祭(しゅんせつさい)」といわれる中国の旧正月にちなんだイベントで新地中華街を中心に近隣商店街も一緒になって旧正月の新年を祝います。そして24日にはじまってからというもの、夕方近くになるとどこからともなく大勢の人々がランタンの灯りの下へ集まって来て、熱く盛り上がっているのです。(‘〇‘)スゴイヨ 新地中華街横にある湊(みなと)公園にはステージが設けられ、中国雑技、龍踊り、中国獅子舞等で毎日賑わっています。特に中国雑技は、本場ならではのアクロバットな演技が次々に披露され、会場内は「ホォー」、「ハァー」w( ゜o゜)wと感動のためいきの連続。ここには点心や中華菓子の屋台も出ていて、肩車された子供がホカホカの中華まんをほおばっている姿をよく見かけました。( ¨)オイシソウ…▲龍踊りや中国雑技で盛り上がる特設ステージ(湊公園) 湊公園の拍手の渦を後にして、ランタンの灯りを頼りに唐人屋敷跡へ行くと、今しがたまでの賑わいとは打って変わってしっとり静かな風情が漂っています。道行く人々の手には赤いロウソク。唐人屋敷跡にある4つのお堂を巡っているのです。何でもこれらのお堂を全部巡って赤いロウソクをお供えすると良縁に恵まれるという話。さっきから若いカップルが多いなと思っていたら、そのせいだったのですね。(・З・イイナア… さてこのお祭りの期間中、ぜひ足を運んで欲しいのが長崎唐四寺に数えられる崇福寺(そうふくじ)と興福寺(こうふくじ)(他は福済寺・聖福寺)です。崇福寺は朱色の御堂や珍しい彫刻など、中国洋式の贅を尽した建造物で、1629年に建立されたもの。国宝や国の重要文化財が揃っていて見応えがあります。また興福寺は、長崎の唐寺の中で最も古いお寺で、1620年に建立。ここには大雄宝殿(だいおうほうでん)といわれる大陸的風格を感じる建造物や二対の魚板など珍しいものを見ることができます。▲あでやかなランタンでライトアップされた崇福寺 いずれのお寺もランタンフェスティバル開催中は17時以降入場無料(21時閉館)。この機会に長崎の唐寺を堪能してみませんか。 ヾ(^V^)そして旧正月の新年で、気分一新!

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  • 第21号【海を渡った日本の磁器】

     数年前、デパートのギャラリーで出会った柿右衛門(かきえもん)の器。磁器の世界にうとい私でも、乳白色の美しい肌とそれを引き立てるような赤、青、緑色等で描かれた絵に、しばし見とれてしまった経験があります。磁器に興味を抱くようになったのは、その時から。直後、伊万里焼(いまりやき)・古伊万里(こいまり)と称されるものが有田焼(ありたやき)であることを知ったのですが、これは笑われてもしようがないですね(><)ハズカシイ!▲伊万里焼赤絵鉢(長崎市立博物館蔵) そういうこともあり有田焼の歴史を調べてみました。すると長崎・出島との深い関わりがあることが分かったのです。 出島を拠点に日本・オランダの貿易が繁栄を極めていた17世紀中頃。オランダ東インド会社は東南アジア各地にも貿易の中継点を持ち、取り引きを行っていました。ちょうどその頃、高値で取り引きされていた中国製の磁器が政治的な問題で輸出が困難になります。それに代わってオランダ側が目を向けたのが有田焼だったのです。 長崎に近い場所にある有田の里では17世紀初期(1616年)より染付や青磁などの生産が行われていました。ときのオランダ商館長ワーヘナールは、有田の磁器の受注・生産・輸出のために奔走し、その技量の良さを証明するために、見本を作らせたり、自らヨーロッパ人の趣向に合わせたデザインを考えたりもしています。 そうして有田の磁器の大量生産に成功。柿右衛門をはじめ白地に鮮やかな絵付けが施された豪華絢爛な有田の磁器はヨーロッパの人々を魅了しました。特に薄く独特の透明感を持つ白い肌がもてはやされ、王侯貴族たちに愛用されたと言われています。またヨーロッパの窯業にも影響を及ぼすほどで、柿右衛門様式のデザインが盛んにコピーされたそうです。現在も当時の品々が、イギリスの大英博物館やフランスのルーブル美術館などヨーロッパ各地の美術館に大切に所蔵されています。(“)見ました?▲伊万里焼蓋付壺(高さ19cm/長崎市立博物館蔵) ちなみになぜ有田焼が伊万里焼と呼ばれたのかというと、有田は山里で、磁器を輸出する際に、そこから北へ十数キロの場所にある伊万里の港から日本各地、そして出島を経て世界へと運ばれたことに由来しています。また伊万里焼の中で古伊万里と呼ばれる品というのは、おおまかに言えば江戸時代に作られた有田焼の事を指すのだそうです。(‘‐’)磁器の基礎知識。▲「日本の想い出・出島の大通り」輸出する日本の陶器(右下)が積まれている(リンデン刊/長崎市立博物館蔵) ときどき美術館などで当時の磁器を見かけると、緻密な技工に感心するだけでなく、日本人の美意識や職人の熱い思いまで伝わって来ます。しかもその磁器には、どんな形であれ長い年月を生き抜いて来た生命力が感じられます。マニアの方々が夢中になるのはもっともだなと思うのでした。【‥】フム。。

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  • 第20号【江戸時代の長崎みやげ】

     誰が言い出したのか、“日本人は旅が好き”。今年もお正月休みを利用してたくさんの人が海外旅行や故郷旅行!?に出かけましたね。旅好きの国民性は一説によると江戸時代からあらわれたようで、北は奥州(現在の青森・岩手・宮城・福島)、南は九州まで大勢の庶民が日本の中を行き交っていたそうです。最も旅行者が多かったのは三都と呼ばれた東京・京都・大阪(都へ憧れるのは今も昔も変わらないですね)。考えてみれば参勤交代で各地の街道も整備され、当然お宿もござる。道筋の要所では旅人の休憩所として茶屋も営まれ、テレビの時代劇でよく見かける風景が本当にあったようです。(・・)水戸黄門の世界ダ! さて日本の西の果てにあった長崎にも大勢の旅人がやって来ています。特に西洋の知識や文化に興味を抱く学者や野心家の若者達に人気のスポットでした。それで旅といえばお土産でして、長崎には日本の中の異国らしいさまざまな品が売られていました。ちなみに江戸時代に書かれた「長崎夜話集」という本に、長崎土産が列挙されていて、眼鏡細工、天文道具、外科道具、南蛮菓子など全39種類の品々が記されています。▲グラバー園に続く道沿いにはおみやげ屋さんがたくさん 中でも当時の旅人に人気があったのは「長崎版画」でした。 長崎港に来航したオランダ船や唐船、オランダ人や西洋の婦人など、異国情緒が感じられるものをテーマに作られた版画です。単なる風景画でないところに版画を作った人の商魂が見え隠れしますが、旅人が何を求めているのかをきちんと把握していたのですね。 この時の版画は現在も絵葉書に使われていて長崎のお土産屋さんで手に入れることができますよ。またビードロやギヤマンといったガラス製品も人気商品でした。 出島には大量の西洋のガラス製品が輸入されていたのです。当時の西洋かぶれの人々は、得意げに西洋のグラスについだブドウ酒を飲んだそうです。∀(*^¬^* )ウマカァ▲長崎版画の絵はがきは今も人気があります 人気土産はまだあります。「古賀人形」です。古賀(こが)とは長崎郊外にある地名で、当時、街道筋にあったその村に住んでいた小川家で製作されはじめた素焼きの人形です。独創的な型と色合いが特長の素朴な人形で、人や動物などさまざまな型があります。当時人気を呼んだのは、「紅毛夫人(こうもうふじん)」と題した、西洋の女性とその傍らに子どもが寄り添ったものです。このモデルとなったのは出島のオランダ商館長夫人。出島にある新商館長が赴任する際、単身赴任という規則を破って夫人・子どもを連れて来日。当時、西洋の女性はたいへん珍しかったことから人形のモデルとされ注目を浴びたのでした(結局、夫人らは幕府の許可がおりず、長崎を離れています)。 古賀人形の伝統は現在、小川家18代目の方に受け継がれています。▲古賀人形/おみやげ品店「想い出」にて撮影 それにしても江戸時代のこれらの土産品で驚くのは、数世紀を越えた今も明治期に生まれたちゃんぽんと並んで、しっかり現代の長崎を代表するお土産品であり続けているということ。これってものすごいことだと思いませんか?オミヤゲ ( ^_^)/由  \(●~▽~●)/ワーイ

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  • 第19号【長崎ことはじめ(遊技・スポーツ)】

     この冬、長崎は比較的温かい日が続いています。粉雪も散らつかないし、ちょっとつまんないなという気分です。例年、長崎ではめったに大雪というのはありませんが、ひと冬に2、3回は、朝起きたら何だか辺りがシーンとしていて、窓を明けたら山や家々の屋根が真っ白になっている、というような日があります。その雪はお昼頃には溶けてしまい、とても儚いのだけど、そこがまた良くって、私は雪が大好きなのでした。(”)┌ユキ、マダカナ… さて今回は「長崎ことはじめ」として日本初の遊びやスポーツをご紹介します。まずビリヤード。16世紀にフランスで考案されたこの遊技が長崎に初めてやって来たのは18世紀の終わり頃。出島の商館員らのレクリエーションのひとつとして持ち込まれたのがはじまりでした。ビリヤード台は出島内の遊女部屋におかれ、商館員らは貿易業務がひと段落する秋から、次に船が入る翌年の夏までの間、時には奉行所の役人やオランダ通詞らも交えながら玉突きに興じていたそうです。(“)ヘエ?、オヤクニンサンマデ。▲川原慶賀「唐蘭館絵巻」より(長崎市立博物館蔵) 商館員らが楽しんだ本邦初のものといったら、ゴルフもそうです。たぶん出島の庭などで遊んでいたのでしょう、当時使用されていた木製のクラブと、鉄のかたまりみたいなボールが出島史料館に展示されています。ゴルフというよりゲートボールに近いような感じです。余談ですが日本初のパブリックゴルフ場が造られたのも長崎の雲仙。大正2年のことです。【“】フウーン▲出島史料館の中にはお宝がいっぱい 出島内の通りでは日本の羽子板に似た遊びも行われていました。バトミントンです。今ではスポーツとして世界的に普及していますが、その起源はインドで行われていた「羽根つき」で、世界に知られるようになったのは19世紀の半ば頃だそうです。でも日本ではすでに江戸時代に、オランダ人の従事として働いていたインドネシアの人たちがバトミントンを楽しんでいたのです。 長崎初はまだあります。ボーリングです。安政の開国(1859)後、すぐに西洋から伝えられ、1861年には日本で初めてのボウリング場が外国人居留地だった南山手に開設されました。その名も「インターナショナルボーリングサロン」。サロンというにふさわしく、ゲームの合間にはワインやビールを飲み談笑する光景も見られ、当時の重要な社交の場として利用されていました。また居留地に住む外国人たちによる国別対抗ゲームも行われていたとか。一体どんなゲーム展開だったのでしょう、何だかとても気になります。[“]ボウリングがウマイクニハ ドコダ?。▲ボーリング発祥の地(碑)グラバー園下(南山手町)

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  • 第18号【長崎雑煮】

     あけましておめでとうございます。健やかな新世紀・新年になりますよう、皆様のご多幸を心からお祈りいたします。\(^^\)(/^^)/オメデトウ! さて、お正月も3日となりましたが、もうお雑煮は食べられましたか? お雑煮はだし汁や具に、それぞれの土地ならではの風土や伝統がぎゅっと詰まっていて、しかも家庭によって微妙に違うから面白いですよね。そう、お雑煮は故郷&家庭の味。 ちなみに私の家では、焼きアゴの出し汁(アゴ:飛び魚を長崎地方ではこう呼びます)を使ったすまし仕立てで、具は焼いた丸餅、鶏肉、かまぼこ、白菜、ニンジン、生しいたけ、春菊など。▲豪華で具だくさん「長崎雑煮」上品な風味の焼きアゴのだし汁は、他の地域では珍しいと思いますが長崎ではメジャーなんです。だけどちょっと高級品なので、普段はカツオやイリコだしを使う家庭が多く、我が家もお正月とかおめでたい日にしか使いません。 アナタノオウチハ、ドンナオゾウニ?(^O^ゞ)▲焼きアゴはそのまま食べてもオイシイです それでは長崎の伝統的なお雑煮をご紹介しましょう。具は焼いた丸餅、唐人菜、魚(ブリ、タイ、アラなど)、トリだんご(ツルやキジの肉)、紅白のカマボコ、エビカマボコ、干しナマコ、シイタケ、結びコンブ、サトイモ、タケノコ、クワイなど、たいへん豪華な品数です。正式にはこの中から7品、9品、11品の具が入り、うるう年ともなると13品も入ります。だし汁はカツオブシ、コンブ、シイタケのうま味が効いたすまし仕立て。金蒔絵(きんまきえ)の雑煮椀に盛り付けられます。この一杯の長崎雑煮には中国やオランダとの貿易で潤っていた頃の長崎の贅沢さや、海の幸、山の幸に恵まれた土地柄が映し出されています。 長崎では今もこの伝統を汲む雑煮が多いようです。(^ウ^=)オゾウニ、ダイスキ! ところで昔、長崎に限らず全国各地のお正月で見られたものとして「幸木(さいわいぎ)」というものがあります。地方によっては「しゃちぎ」、「さちぎ」、「さいぎ」とも呼ばれているようです。これはお正月用の飾り木で、魚や野菜など、お正月に食べるものを吊るしておく、長さ一間(約1.8m)ほどの棒のことです。この棒に飾り縄をゆわえ(平年は12本、うるう年には13本)、野菜やブリ、タイ、スルメ、カツオブシなどを吊るし、お正月の来客にはこれらを料理して出したそうです。江戸時代の長崎では幸木につるす品々をお歳暮として贈る風習があり、地役人や商人の家では幸木が1本や2本では足りないところもあったそうです。当時の長崎の裕福さが伝わるエピソードですね。 (※^▽^※)コトシモ、ドウゾヨロシク。▲「幸木」は門松のように飾っていました

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  • 第17号【長崎のお正月(江戸時代)】

     ♪もういくつ寝るとお正月♪ 新世紀を迎えると思うと、ちょっと感慨深いものがありますね。21世紀、そして新年は、夢や希望を持って迎えたいものです。さあ、元気を出していきましょう!┗(⌒-⌒)┛ ところで、皆さんは毎年どんなお正月を過されますか? 季節の節目のいろんな行事がなおざりにされつつある昨今、せめて新年のはじまりくらいは、日本の伝統を意識して過したいものですね。(・・)おせち食べたり、初詣に行ったり…。▲おくんちで有名な「諏訪神社」は初詣も賑わいます それで長崎の江戸時代のお正月はどんな風だったのかなと思い立ち、郷土史をひもといてみました。するとそこには、いかにも長崎らしい新年の風景があったのでした。(^▽^) まず鏡餅。一般的な家々の鏡餅は京風で、平たい円形の餅が二段、三段に重ねられ、一番上には長生きを願ったエビに、代々家が栄えるようにと橙(だいだい)の実を抱かせて飾られました。当時の鏡餅は親族や分家、門下や弟子たちが贈るものだったそうで、その数が多いほど名誉とされていました。ちなみに奉行所は江戸風で、菱形の餅も使います。 長崎の律儀な地役人の中にはあえて江戸風に飾る者もいたそうです。(゜O゜)ホウ おや、どこからか、ちゃるめらの音色が聞こえて来ます。 ちゃるめらとは唐のラッパのこと(※おくんちの龍踊りの際に使われる楽器。某インスタントラーメンのCMでもお馴染みのあの音)。その「ちゃるめら吹(ふき)」の男が、鉦(しょう:銅製の打楽器)と太鼓を持った少年を従えて家々を回り、祝いの囃子(はやし)を吹き立てているのです。あらあら御祝儀もしっかり受け取っています。 このちゃるめらはもともと中国人が長崎の人に教えたもの。中国人は結婚式や養子縁組など、事あるごとにちゃるめらを吹いていました。▲袴姿でピーヒャララそれでお正月ともなると、普段は野菜や魚を行商している町人が慣れないハカマで正装し、ちゃるめらで商売をしたのでした。ほっぺを膨らまして吹く様子や、ちょっと不格好なハカマ姿が愛嬌ものだったようです。(‘▽‘)ゞタノシソウ♪ さて町の子供たちはコマ、手マリ、羽子板などに夢中です。その中に長崎独自の遊びがありました。「ねんがら」と呼ばれる、数人がクギのようなものを土に打ち込んで勝負する遊びです。先に打ち込まれたクギを倒すのを競う他、いろんなルールがあったようです。この遊び、元をたどれば出島の阿蘭陀人の従事たちの遊びだったもの。現在は見かけませんが私も子供の頃、男の子達とやってました! お正月は、久しぶりに幼な馴染みと勝負しようかな…。皆さん、どうぞ、よいお年を。\(⌒◆⌒)▲「ねんがら」と呼ばれた長崎独自の遊び

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  • 第16号【ランタンで、あったまろ♪】

     めきめき寒さが増して来ましたね。北風が身にしみるこんな日は、ちゃんぽんがほんとにオイシイ! 具だくさんのスタミナ料理だし、温かいし、ネ。子供の頃、鼻水垂らしながら大人と同じ量のちゃんぽんをスープまできれいに飲み干していた私をちょっと呆れ顔で眺めていた母親。そんな記憶も甦ったりして、冬のちゃんぽんは、身も心もひときわホットにしてくれるのです。\(⌒◆⌒) 心がじんわり温かくなる、そういうものが長崎の冬にはもうひとつあります。それは「長崎ランタンフェスティバル」。これは「春節祭(しゅんせつさい)」といわれる中国の旧正月にちなんだお祭りで、ランタン(中国風提灯)のふんわりとした朱色の灯りが街中を埋め尽くします。▲新地中華もともとは長崎在住の華僑の人々が新地中華街だけでこじんまりと「春節祭」をお祝いしていたのですが、数年前から行政も一緒になってフェスティバルとして盛り上げ、規模も華やかさも増し、今ではすっかり長崎の冬の風物詩。 昨年の観客動員数は何と69万人という賑わいでした。 ランタンフェスティバルは毎年、旧暦の「正月」から「元宵節(げんしょうせつ)」まで行われます。だから2001年は1月24日から2月7日までの15日間。長きに渡るイベントなのです。メイン会場は新地中華街横にある湊公園。そして中華街や館内町の唐人屋敷跡周辺、そして浜町アーケード街までランタンの装飾がほどこされます。 夜の帳が降りる頃、1万2千個に及ぶランタンや、龍、鳳凰、獅子など中国古来の伝説の動物をかたどったオブジェが静かに輝き出す様子は、とてもロマンチック。中国の悠久の歴史を物語るかのような幻想的な雰囲気が漂い、長崎と中国の縁の深さもあらためて感じます。(∪▽∪)☆☆☆☆キレカー▲メイン会場「湊公園」を彩るオブジェ 期間中は毎日「龍踊り」、「中国獅子舞」、「中国雑技」があり、この他、市民参加の「皇帝パレード(1/27、2/3)」や「媽祖(まそ)行列(1/28、2/4)」など、中国にちなんだ催しがたくさん行われます。 私が大好きなのは「中国獅子舞」。アクロバットな演技も見事だけど、よーく見ると顔の表情がとってもかわいいのです。目が大きくてまつげがクルンとしてて…。ちなみにこの獅子には必ず赤・黄・黒・青・緑の5つの色が使われているそうで、正義や勇気、慈悲などといった5つの徳を表しているとか。ヾ(^V^)▲長崎の繁華街「浜ん町」もランタンで賑わいます ランタンの海に飲み込まれる人の波。とにかく人が多いですが、もしゆっくり中国情緒に浸りたいなら唐人屋敷跡(ちゃんぽんコラム第9号参照)が穴場ですよ。凸ヽ(^▽^)太鼓判!

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  • 第15号【チンチン電車が、大好きです】

     お鍋の季節ですね♪ 我が家の定番鍋料理は、安上がりでヘルシーなもつ鍋です。もつ鍋といえば数年前、福岡の鍋料理として全国的にもブームになりました。ニンニクと唐辛子の効いた醤油じたてのスープで、モツ、ニラ、キャベツを煮て食べる。そして最後に残ったスープには、ゴハンを入れておじやに…と思うでしょ? でも我が家ではここでちゃんぽん麺を入れるのです! 他県の人には珍しいでしょうが、長崎では、ごく当り前。まだ経験のない方は、ぜひ、お試しを! ちゃんぽん麺の世界がおいしく広がりますよ。\(^○^)イケマスヨ!みなさんのお宅のお鍋のしめくくりは何ですか? もつ鍋はちゃんぽん麺でしめくくる、そんな長崎ならではの話しは「食」に限らずたくさんあって、今回はその中のひとつ、チンチン電車のお話です。長崎市民だけでなく観光客の足としても活躍しているチンチン電車は「長崎電気軌道株式会社」(大正14年設立)という民間会社が経営しています。路面電車が走る街は、札幌をはじめ全国に十数カ所ある中で、長崎が他の都市とどこが違うのかというと、それは運賃。何と100円均一!\(◎o◎)/オオ!▲車庫で発車を待つ電車一度乗ったら、どこで降りようと100円なのです。これは1984年から変わりません。 その裏にはやはり、一生懸命な経営努力がありました。まず広告収入。今では珍しくありませんが、路面電車のボディを広告に使ったのは昭和39年、長崎が初めてのこと。また車両も中古車両を部分的に買い入れ少しでもコストダウンを図っています。一見、新しい電車と思いきや、台車の部分はどこかの街の電車のお下がりというのもたくさんあるのです。車内の両替えは機械ではなく運転士さんが手渡しだし、この他いろいろ、安全を第一に、社員みなさんが経費削減に汗して100円を維持しています。利用する市民の多くは下車する際、自然にありがとうと言ったり、ぺコっと頭を下げて降りています。▲大人100円(16年間値上なし)には頭が下がります安全に乗せてくれて、しかもこんなご時世に100円を維持してくれてることへの感謝の思いから、そういう光景が生まれているのだと思うのです。Very Thanks\(^^*) 私が子どもの頃、車の数が急激に増え、激しい渋滞が大問題になった時、「電車のせいだ」と悪者扱いされた時期がありました。でもそういう時代を乗り越えて、今ではクリーンエネルギーの乗り物として将来的にも大いに期待されています。未来への希望も託され、今日もたくさんの人々のいろんな思いを乗せて走ってる長崎のチンチン電車。ホントに、愛すべき電車なのです。(^^)v▲大浦海岸通を走りながら見た稲佐山はとてもきれいでした※参考文献「長崎のチンチン電車」(田栗優一・宮川浩一著/葦書房)

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