第34号【出島は、なぜ扇型なの?】

 美しい扇形で知られる長崎の出島。江戸時代に描かれた長崎港湾の絵には、みな自然の海岸線とは明らかに違う、扇形がくっきりと描かれています。そう、出島は埋め立てで造られた人工の島なのです。では、なぜ扇形に造られたのでしょうか? 先に答えを言ってしまうと、実はその真相は闇の中なのです。期待させたのならゴメンナサイ。現在はいくつかの有力な説はあるものの、その内のどれともいいきれない状況なのです。それにしても人工の島ならば他の形もありえたかもしれず、また歴史上重要な役割を担った島なのに、その形の由来がはっきりしてないのはちょっと残念な話です。(-ρ-)ムネン



▲1820年頃の長崎港と出島

(絵葉書「長崎コレクション」より)


 さて扇形の有力な説をご紹介する前に、まず出島が造られたきっかけについて簡単におさらいします。そもそも出島はポルトガル人によるキリスト教の布教を阻止する為に江戸時代の初め1636年に造られたもの。長崎の街はそれ以前の安土・桃山時代からポルトガルとの貿易(南蛮貿易)や中国との貿易で栄えていて、幕府は、その頃から市中で自由に暮していたポルトガル人を、新しく造るこの島に強制的に住まわせることで、国を揺るがす恐れのある布教活動を取り締まると同時に南蛮貿易も掌握しようとしたのでした。(・△・)強引ダナ


 そうして長崎の町人(豪商)の出資で、埋め立て工事がはじまります。出資は民間でしたが、工事に直接手を下したのは当時の長崎奉行でした。奉行は大勢の人夫を雇い入れ、大々的に工事を進めたといいます。その甲斐あって、着工から2年後に広さ約1万5千m2の人工島を完成させたのでした。



▲現在、復元中の出島にも

扇のカーブは残っています


 さて話をもとにもどして出島が扇形である説について。現在3つの説が有力とされています。1つ目は『将軍の扇説』です。徳川家3代目の将軍・徳川家光が、長崎で造る小さな島の形についてたずねられた時、自らの扇を与えて「これを見本にするように」と言ったという説です。これはシーボルトの著書「日本」の中に出てくる話ですが、根拠が不明なため作り話だという人もいます。しかし全くありえない話でもないそうです。ヾ(^^)


 2つ目は『波よけ説』です。海側をカーブにすると波の影響が少なくなるということで、なだらかな曲線を描く扇の形を採用したという説です。そして3つ目は『地形・地質説』です。出島はもともと中島川の河口に位置していたのですが、その河口にはすでに川から運ばれて来た土砂がたまり弧状の砂州(さす)が形成されていて、それを土台に埋め立てたのでないかという説です。その際に陸側は海岸線に沿って弧を描き、海側も埋め立て面積をできるだけ広くとるために弧を描いたので扇形になったのではないかといわれています。(・_・?)


 どの説をとっても、うなずけてしまうのですが、私はいろんな想像がふくらむ『将軍の扇説』が好きですね。あなたはどの説を支持しますか?それとも新たな説でも思いつきましたか?(^!^)



▲出島の周辺には元の形に沿って

目印の鋲が打たれています

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