第36号【江戸時代の通訳者、阿蘭陀通詞】

 Can you speak English? いきなりですが、どうですか?今の時代は海外へ行ったり、教室へ通ったり、教材を手に入れたりなど、その気さえあれば英会話を学ぶ機会はいろいろあって、いくらでも勉強できる、そんなありがたい環境です。でも、江戸時代ならどうだったでしょう?( ̄エ ̄;)??


 鎖国中の日本で、西洋の言葉といえば、出島を窓口に貿易をしていたオランダの言葉でした。そのオランダ語を日本語に訳していたのが出島に勤務する地役人・阿蘭陀通詞です。彼等の主な仕事は、オランダ船がもたらした風説書(オランダ商館長が幕府に提出した海外の情報書)や乗船員名簿、積荷目録などの翻訳をはじめ、入札や荷渡しといった貿易業務における通訳などで、業務が忙しい時期は夜も泊まり込みで仕事をしていたそうです。 )゜O゜(キツー



▲出島で重要な存在だった阿蘭陀通詞

「蘭館図(一部)」/石崎融思筆

(長崎県立美術博物館蔵)


 江戸前期、総勢150人はいたといわれる阿蘭陀通詞たちは「通詞仲間」と呼ばれる団体をなしていて、その基本構成は経験と実力によって上位から大通詞(おおつうじ)、小通詞(こつうじ)、そして稽古通詞(けいこつうじ)の3つの段階に分けられ、さらに各段階でこまかく諸々の役職が設けられていました。


今集覧名勝図絵

(長崎市立博物館蔵)


また阿蘭陀通詞は世襲制の職業で、たずさわる家々は40家以上に及び、特に石橋、西、吉雄、馬田、本木といった家は優秀な人材を輩出することから名門といわれていました。(“)ホウ


 阿蘭陀通詞は西洋の医学書や天文学といった書物を翻訳するのも仕事です。そういった西洋の知識を目の当たりにできる環境と、語学の才能に恵まれた通詞の中には新しい医術の開拓者となり医師として活躍する者もいました。その者の下には語学や医学の知識を得ようとする遊学者たちが全国から集ったといいます。吉雄耕牛(よしおごうぎゅう/1724~1800)はそんな優秀な阿蘭陀通詞を代表する人物です。彼は25才の若さで大通詞に昇進するほどの逸材で日本の蘭学の基礎を築きます。蘭方医としての名声も高くその門弟は600人に及んだそうです。江戸蘭学の祖といわれる前野良沢、杉田玄白の師でもあり、彼等が翻訳した「解体新書」の序文は耕牛によるものです。おそらく師の教えに感謝して序文を依頼したと考えられます。



▲吉雄耕牛宅跡にあった

レリーフ(長崎市万才町)


 さて鎖国下の少ない情報の中、現代のようにまともな辞書もない時代に、通詞たちはどのようにして通訳・翻訳の仕事をこなしていたのでしょうか。残念ながらその辺の様子にふれる資料は見つけられませんでした。しかし彼等の苦労は相当なものだったに違いなく、それこそ身ぶり手ぶりからはじめたのではないかと想像できます。


 西洋と日本の媒介人という重要な役割を担いながら、その多くは名も無い地役人として生涯を過した阿蘭陀通詞たち。歴史に名を残した当時の蘭学者らの成功の影には常に彼等がいて、日本の学術の発展に大きな貢献をしたことをここに書き留めておきたいと思います。(._. )ゴクロウサマデシタ

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