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  • 第257号【出島の暮らしが見えて来た!】

     この春の長崎は、観光面での話題がとっても豊富です。3月には、長崎の歴史や文化など多彩なジャンルの知識に挑戦する、「長崎検定(長崎歴史文化観光検定)」が行われ、市民をおおいにまきこんで故郷・長崎への関心が高まりました。また、この4月1日から、日本ではじめてのまち歩き博覧会「長崎さるく博‘06」がスタート。10月29日までの7ケ月間の催しで、長崎の各所を楽しく歩き回れるメニューがたくさん用意されています。観光スポットをめぐるだけでは気が付かない普段着の長崎に出会えるとあって、参加者にも好評のようです。 そして、さらに、長崎観光の中心的存在のひとつである、出島にもうれしいニュースがありました。出島ではかねてより19世紀初頭の姿をめざして復元事業が進められ、すでに「ヘトル部屋」(※ヘトルとは、オランダ商館長次席のこと)や「料理部屋」など5棟が復元されていましたが、この4月1日、あらたに「カピタン部屋」、「乙名(おとな)部屋」、「拝礼筆者蘭人(はいれいひっしゃらんじん)部屋」。「三番蔵」、「水門」の5棟が完成し、一般公開されたのです。 復元された建物が並ぶ通りを歩けば、そこからオランダ商館員やチョンマゲの地役人がひょいと出てきそうで、ちょっとドキドキします。今まで、あまり知る機会のなかった出島での日本人の姿をはじめ、オランダ商館員たちの暮らしぶりも具体的に見えて来て、とても面白いのです。展示物も充実しており、その歴史の奥深さと魅力にふれていると、何度でも通いたくなってきます。  さて、パワーアップした出島で、今回特にご紹介するのは、「カピタン部屋」です。建物の正面に設けられた鮮やかなライトグリーンの階段が目印です。ここは、カピタンと呼ばれたオランダ商館長の事務所や住居とされたところで、出島の中でもっとも大きな建物です。1階は、出島の歴史や生活に関する資料を展示したガイダンス的な場所。出島に行ったら最初に訪れるといいと思います。 「カピタン部屋」の2階は、当時の生活空間が復元されています。商館員らが事務を行い、地役人と商談などをしたと思われる部屋や、朝夕の2回、商館員らが集まって食事をしたり、大名などが接待を受けたという35畳の大広間などがあります。細部まで気を配った和洋折衷の部屋の造りやオランダで買い付けたという絨毯、食器、家具などの調度品。当時さながらの臨場感あふれる空間に、出島の住人の表情までもが見えて来るようです。また、カピタン部屋は特にバリアフリーの工夫が施されており、車椅子の方もスムーズに見学ができるのはうれしいところです。  「カピタン部屋」の裏手の狭い通りを隔てたところに建つ「乙名部屋」も興味深い建物です。乙名は、出島を監視する地役人で、出島に出入りする人や壊れたものをチェックすることなどが仕事でした。彼らが拠点としたこの建物は、長崎の町屋を参考にしたもので、純和風。まさに、時代劇で十手持ちなどが出入りする番所で、それらしき帳面や書類棚が設けられています。突然、そこに地役人が現れても、「ご苦労さまです」などと何の違和感もなく挨拶を交わせてしまいそうなほど、どっぷりと空間にひたれます。 「乙名部屋」の2階の格子戸からは、カピタン部屋をのぞくこともできそうです。この近さなら、いろいろと通じ合うことも多かったのではないかとも思え、当時の出島の情景が、生身の人間を感じられるくらいに想像できます。ぜひ、お出かけください。

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  • 第256号【風光明美な大村湾を渡る】

     先日、高速船で大村湾をクルージング。大村湾は、県外の方々には「長崎空港」があることで知られています。まるで湖のように、穏やかな波をたたえるこの湾の広さは320キロ平方メートル。琵琶湖の半分くらいといわれています。湾内では、ナマコ漁や牡蠣の養殖が盛ん。温暖な気候にも恵まれ、周囲の地域は伊木力みかんなど、おいしい農作物の産地にもなっています。 大村湾は、長崎県本土のほぼ中央に位置し、5市4町(長崎市、佐世保市、大村市、諫早市、西海市、川棚町、東彼杵町、長与町、時津町)に面しています。地図で見ると、袋状をした湾の北部に佐世保港に通じる細い湾口があり、外洋へは直接通じていない閉鎖的な地形であることが、よくわかります。 長崎県環境政策課の方によると、大村湾のように閉鎖性が強い海域は、海水の交換が十分でないため、水質がいったん悪化すると改善するのが容易ではないとのこと。そのため大村湾流域では、生活排水対策重点地域として、環境保全に特に力を入れているそうです。  さて、今回のクルージングは、湾奥の時津港を出で、いっきに北上し湾口の針尾瀬戸を抜けて外洋へ出るというルート。ちなみに、時津港は400年以上も昔、西坂の丘で殉教した26聖人が、京都や大坂で捕らえられ、長崎へ護送される際、大村湾を渡って上陸した港として知られています。 今回の大村湾でいちばん楽しみにしていたのは、スナメリとの出会いです。スナメリはクジラやイルカの仲間で、体長は約1.5メートル。絶滅の恐れがある生物として近年注目され、地元のニュースでもたびたび話題に上がっています。以前、水族館で見たことがあるのですが、ずんどう気味の体形と丸い顔がかわいらしく、子どもたちの人気者でした。 高速船のスタッフに話を聞いてみると、大村湾にはイルカもいて、航行中に数頭のスナメリやイルカの群れを見かけることがあるそうです。スナメリにはイルカのような背ビレがないので、すぐに見分けがつくとか。この日は、残念ながらスナメリの姿は確認できませんでした。  もうひとつの楽しみが針尾瀬戸に架かる「新西海橋(しんさいかいばし)」です。佐世保市と西海市をつなぐこの橋は、先月5日に開通したばかり。日本初の有料橋として1955年に開通した「西海橋」の約300メートル隣に並んで架かっています。約半世紀前、東洋一とまでいわれ注目を浴びた「西海橋」。当時の開通の賑わいを知る方々の中には、新たな橋の登場に特別な思いを寄せる方もいらっしゃるのではないでしょうか。 爽やかな空色をした「新西海橋」は、周囲の町の観光面での活性化に大きな期待が寄せられているとか。この日、名物のうず潮は、ゆるやかな流れ。新旧の橋の下を、減速した船でゆっくりくぐりながら、時の流れに思いを馳せたのでありました。◎参考にした本や資料/「大村湾環境学習プログラム」(長崎県環境政策課)

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  • 第255号【トマトってこんなにおいしい!高島フルーティトマト】

     長崎港沖に浮かぶ高島(長崎市高島町)は、かつて炭鉱の町として栄えたところ。周囲6、4kmほどのこの小さな島は、現在、釣り公園や海水浴場、キャンプ場、温浴施設など美しい海を活かした施設が設けられ、リゾートの島に生まれ変わっています。 そんな高島の特産品として、注目を浴びているのが、「高島フルーティトマト」です。糖度が高く、香りもいい。まるでフルーツのような味わいなのです。お尻がツンととがった形が愛らしく、手にとるとズッシリとした重量感があります。「果肉がきっしり詰まっているんです。だから、水の中に入れると底へ沈みますよ」と、高島トマト事業部の元田矯(もとだ つよし)さん。高島でこの事業がはじまった17年前から、この土地に合うおいしいトマト栽培の研究を続けている方です。 「高島トマトは、永田農法で知られる永田照喜治(ながた てるきち)さんの指導の下ではじめられました。永田農法はスパルタ農法ともいわれ、植物が本来持つ力を最大限に引き出すために、最小限の水と肥料で育てます。この方法だと、栄養価の高い本当においしいトマトができるのです」。そこに元田さんの研究に基づく工夫や改良が加わり、よりおいしいトマトができるようになりました。 「トマト本来の味を引き出すために、ハウス内は、昼と夜の寒暖の差が激しいトマトの原産地、ペルーのアンデス高原の環境に近付けています」という元田さん。おいしいトマトを栽培するためには、この他、水やりや施肥など、細やかな配慮が必要です。 冬でも温暖で、日照の多い高島。トマトの収穫時期は、毎年1月から5月です。糖度は、冬場に収穫する初もので、9度を示すものもあります。通常のトマトの糖度が、4~5度ですから、だんぜん甘いことがわかります。そして、温かくなるにつれ、糖度はさらに増してメロン並みになるそうです。 高島のトマト栽培は、1989年度、第三セクターの事業として取り組まれたのが最初です。そして、昨年の高島町と長崎市との合併後には、市がこの事業を引き継ぎ、まもなく民間会社、「崎永海運株式会社」の「高島トマト事業部」が、市から農地と施設を借り受けて事業を引き継ぎ、現在に至っています。 さまざまな状況を乗越えて存続してきた高島トマト。やはり、それだけの価値と魅力があったということなのでしょう。これまでは、県外の企業経由の流通だったため、地元長崎の店頭で見かけることは少なかったのですが、今シーズンからは、地元の百貨店やスーパーにもお目見え。地産地消で、地域の活性化もめざしているそうです。 収穫のこの時期、高島の直売所では、毎週火、木、土曜日の朝に販売していますが、すぐに売り切れてしまうとか。今年は寒さが厳しかったため例年より一ヶ月半ほど収穫が遅れているそうですが、すでに事務所には、全国各地から寄せられた注文伝票が山積みで、収穫を待っている状態です。  全31棟のビニールハウス(約3、100坪)で、元田さんそして8名の従業員の皆さんが手間ひまをかけて育てた「高島フルーティトマト」。選果作業場で収穫したばかりの完熟のトマトを、ひとつひとつ丁寧に扱っている姿が印象的でした。◎取材協力/たかしま農園

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  • 第254号【福江島の福江城】

     一時的に寒さがもどる日はあるものの、長崎はメキメキと温かくなっています。まだ雪が残る豪雪地帯の方々にとって、春の到来は本当に待ち遠しいことでしょう。九州の温かさは、じきに北上。本格的な雪解けの日も、近いはずです。 さて今回は、長崎港から春光にきらめく海を渡り、九州の最西端に位置する五島列島の福江島へ行ってきました。福江島は、古くは遣唐使船の最終寄港地として知られ、昔からこの地方の文化や交通の拠点として栄えたところです。現在も五島市(福江島、奈留島、久賀島など11の有人島と52の無人島により構成)の中心地です。 この日は、高速船が発着する福江港周辺の市街地を中心に散策しました。この辺りは、かつて五島藩の城下町として栄えたところです。港から徒歩5~6分のところに、自然石を絶妙のバランスで積み上げた高い城壁が続いていました。日本で数少ない海城として知られる「福江城(石田城)」の跡です。  「福江城」は、五島藩主の居城として、幕末に築かれたものです。その背景には江戸から明治にかけての時代の変革期に、揺れ動く幕府の思惑がからんでいました。 五島藩の藩主、五島氏は、もともと江川城というお城に住んでいましたが、江戸時代初め(1614年)に焼失。その後、数回にわたり幕府に築城を嘆願しましたが、約1万2千石という小藩だったこともあり、築城は許されませんでした。 そこで、五島藩のお殿さまは、陣屋を築いて藩政の拠点とし、長い間そこを住まいとしてましたが、幕末になって情勢は大きく変化。異国船が五島灘にたびたび出没するようになり、幕府は海防を目的に、ようやく五島藩の築城を許可したのです。 そして、「福江城」は、1849年(嘉永2)の着工から、約15年の歳月をかけて完成。五島藩のお殿様は、約230年にも及んだ陣屋住まいから、ようやくお城の中の御殿へ移り住むことになりました。城郭は東西291メートル、周囲は2、246メートルで、城壁の三方が海に面していました。「福江城」が、海城と呼ばれる由縁です。 築城にかかった15年という歳月について、ある城郭史研究家の方が、「通常、この規模のお城を築くのに、これほど長い期間はかかりません。遅延の理由として、築城のための石材が豊富に採れるのに、石垣技術に巧みな人材に恵まれなかったなどの理由があるようですが、実は五島藩は当時の日本の情勢から、幕府はいずれ倒れ、築城してもその役割を果たさないだろうと、先を読んでいたのではないでしょうか」というお話をしてくださいました。 実際、完成した5年後には、明治維新を迎え、海防という使命を果たすことなくお城は解体されています。「五島藩士の中には幕府に対して、長い間、築城を許されなかったことへの反感や不快感もあったはずです」。そういう思いもからんで、築城は遅々として進まなかったのでしょうか。 いろいろなことを想像させる福江城の跡。その敷地には現在、天守閣風の建物の「五島観光歴史資料館」があり、五島の歴史、文化、自然についてさまざまな資料を展示・紹介しています。五島の観光の際には、はずせない施設です。 さらに近くには、江戸時代の武家屋敷通りがあり、当時の面影を残す石垣が約400メートルも続いています。石垣の上には「こぼれ石」と呼ばれる丸い石が積み上げられ、その両端は、かまぼこのような形の石で止められていました。このような石垣は全国的にもあまり例のないものだそうです。 武家屋敷通りの一角には、民芸品の展示をはじめお土産や喫茶コーナーなどが設けられた「ふるさと館」があります。のどかな城下町の散策の途中、ひと息入れるのにちょうどいいスポットでした。 ◎参考にした本/長崎県~ビジュアル版にっぽん再発見42~(同朋舎) 

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  • 第253号【諌早の名橋・眼鏡橋を訪ねて】

     風はまだ冷たいですが、あたたかな日射しやツボミをふくらませた植物たちが、「春は、もうすぐそこですよ」と告げています。今回は、爽やかな早春を満喫しようと、散策の足を伸ばして長崎駅から快速電車で約20分のところにある諫早市へ出かけました。  長崎県のほぼ真ん中にある諫早市は、人口約14万5千人。東に、ムツゴロウなどの生息で知られる有明海、西に、長崎空港(大村市)を擁する波静かな大村湾、南に、豊かな漁場で知られる橘湾(たちばなわん)と三方を海に囲まれ、北には、地元の登山家に愛される緑豊かな多良岳が連なっています。  諫早市の中央部を流れているのは、一級河川の本明川です。サギやカワセミなどが生息する美しい川で、諌早市街地を通って有明海に注いでいます。その下流に広がる諌早平野は、長崎県最大の穀倉地帯として知られています。そんな諫早市の近年の大きな出来事といえば、昨年3月に隣接する5つの町(多良見町、森山町、飯盛町、高来町、小長井町)と合併したことでしょう。さらに広く、大きくなった諫早市の発展が期待されています。 長崎市から電車やバスで気軽な距離の諌早市ですが、土地柄はやはり違います。それを大きく感じるのは方言です。たとえば、「こちらへ、来なさい」は、長崎弁だと、「こっちへ、来(こ)んね」、諌早弁だと「こっちへ、来(き)んしゃい」となります。諌早独特の言葉は、「かつて佐賀藩だった影響が大きいのでは?」と諌早在住の友人は言います。 江戸時代、「佐賀藩諌早領」として栄えた諌早は、長崎街道が通るなど、交通の要地だったことで知られています。かつての街道沿いにあった久山茶屋(くやまちゃや)跡(諌早市久山町)には、旅の途中、龍馬やシーボルトなどが使ったといわれる井戸が今も残されています。 諌早ならではの史跡や見所もたくさんありますが、まず、見ていただきたいのが「眼鏡橋」です。眼鏡橋というと、長崎では中島川に架かる石橋群のひとつを思い出しますが、諌早の眼鏡橋は、長崎の眼鏡橋とは違った味わいがあります。 諌早市の石造りのアーチ橋、「眼鏡橋」は、諌早市街地の中心部にある諌早公園内の池に架けられています。しかし、もともとは、そのそばを流れる本明川にありました。水害のたびに橋が流されていた本明川に、けして流されない橋をという、領主・領民の願いから、1839年(天保10)に架けられたそうです。  眼鏡橋のたもとの説明板によると、長さ約45メートル、高さ6メートル、幅5メートル。石材は、近隣の山から切り出された砂岩で、全部で2、800個も使っています。1961年(昭和36)、本明川の幅を広げる工事の際、現在地に移築・復元されたそうです。 石橋としては大ぶりながら、欄干などのデザインも含め、全体的にとても美しい諌早の眼鏡橋。たいへん丈夫な橋だったので、昔は、人柱が立っているのではという噂もあったそうですが、移築の際にわかったのは、アーチの中央部分の基礎石の下に、有明海の潟が1メートルほど入っていて、それがクッションの役割を果たし、地震などの揺れを吸収していたそうです。 眼鏡橋のある諌早公園は、かつてお城があった山を利用したもの。その頂きへ登ると、遠く雲仙の平成新山から、多良岳も一望できます。そこには、樹齢800年ともいわれる大クスもそびえていました。遥かな歳月を生き抜いてきた巨木を見上げ、長崎市とはまた違った歴史の広がりに思いを馳せたひとときでした。

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  • 第252号【奇祭へトマトでヘトヘトになる】

     1月、2月は、新年にちなんだ神事や冬祭りが各地で催されていますが、その中には、まだあまり知られていない珍しい伝統行事も数多くあるようです。今回は長崎県で奇祭のひとつとして知られる「ヘトマト」をご紹介します。 五島列島・福江島の下崎山地区に古くから伝わる「ヘトマト」は、毎年1月16日に行われる小正月の祭りです。「相撲(すもう)」、「羽根つき」、「玉せせり」、「綱引き」、「大草履(おおぞうり)」といった数種類の行事を一度に行う珍しい祭りで、国の重要無形文化財にも指定されていますが、祭りの由来は定かではないそうです。 今年の「ヘトマト」も例年通り、午後1時頃から地元の白浜神社で、相撲の奉納からはじまりました。地元の小学校はこの祭りのため午後から休み。神社の境内には、ふんどしに着替えた子供たちや炊き出し役のお母さん方をはじめ、地域の内外から大勢の見物客が集い賑わいました。  地元の園児から青年団まで、延々と続く相撲の合間をぬって、炊き出しのぜんざいをいただきました。小豆と一緒に煮込まれたお団子の美味しさといったらありません。聞けば、この地域は小麦の産地。新鮮な地粉をこねてつくったお団子でした。 相撲が終わると、人々は神社を出て通りの方へ移動します。すると、身体にススを塗り付けたふんどし姿の男性たちが大勢現れました。手にはススが入ったバケツを持ち、見物客に走りよって相手の顔にススを塗り回っています。逃げる人もいますが、どちらかといえば、誰もが塗ってもらいたそうな様子。どうも、これは縁起もののよう。塗られたススは家に帰るまで落としてはいけないそうです。 一説には、このススを塗る行為が「ヘトマト」の名の由来だといわれています。ススは「ヘグラ」とも呼ばれ、五島では「ヘト」と呼ぶことがあるそうです。そして「マト」を「まとう」と解すれば、「ヘトマト」となるわけですそういうことも知らず、ヘトヘトになるほどきついお祭りだから?などと思っていました。 そうこうする内に、通りの向こうから、紋付袴姿の男性を先頭にした一行が、カーンカーンと「時の鉦(ときのかね)」を鳴らしながら歩いてきました。その後、通りの一角に用意された酒樽に、美しい着物姿の女性が乗り「羽根つき」がはじまりました。ちなみにこの女性は新婚さんに限るとか。羽根の打ち合いが途切れると、「羽根つき」を仕切る男性が、今年の豊作豊漁を占うような言葉を口にします。一見ユニークな形の羽根つきですが、これも神聖な行事なのです。 羽根つきが終わると、ふんどし姿でススまみれの青年たちが、ワラで作った玉の奪い合いをはじめました。「玉せせり」と言われる行事です。激しい動きで身体から湯気が立っています。いつの間にか勝敗が決まると、続いて大きな綱が持ち出され、「綱引き」がはじまりました。ふんどし姿の男性たちは、休む間もなく、身体を張って勝負を続けます。 「綱引き」が終わると、いよいよクライマックスの「大草履(おおぞうり)」の登場です。長さ約3メートルもある大きな草履を担ぎ、奉納する山城神社まで地域を練り歩きます。その道中、娘さんを見つけると、草履の中に放り入みます。これは、未婚の女性に限るそうです。 寒い中、夕方近くまで怒濤のごとく繰り広げられた「ヘトマト」。ひとつひとつの行事には、神様に奉納するための大切な意味があるのでしょう。終わってみると祭りの勢いに押され、ヘトヘトになりましたが、なぜか気分はスッキリ。今年もいい年でありますようにと、あらためて感じる祭りでした。◎ 参考にした資料や本/長崎歳時十二月(深潟久著)

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  • 第251号【長崎カオスひたる、ランタンフェスティバル!】

     長崎の冬の一大風物詩、「長崎ランタンフェスティバル」が、もうすぐはじまります!毎年、旧暦の元旦から約2週間に渡って行われるお祭りで、今年は1月29日(日)~2月12(日)まで開催。長崎市内の中心部が、1万5千個にも及ぶランタンの明かりに包まれます。 「長崎ランタンフェスティバル」は、もともと中国の旧正月(春節)を祝う行事として、長崎在住の華僑(かきょう)の人々によって行われていたものが、長崎市全体のお祭りに発展したものです。街いっぱいダイナミックに、華やかに飾られた極彩色の明かりは、訪れる人々を幻想的な世界へ誘います。それは、現在・過去・未来と悠久の時間の中をさまよう不思議な感覚です。東洋と西洋の国々との交流で彩られた長崎独特の混とんとした歴史、「長崎カオス」とも呼びたくなるその渦の中に迷い込んだようでもあります。 年々、全国的に知られていくと同時に、規模が広がり内容も充実している「長崎ランタンフェスティバル」。長崎新地中華街そばにある「湊公園(みなとこうえん)」をはじめ、「中央公園」、「唐人屋敷(とうじんやしき)」、「興福寺(こうふくじ)」、「浜んまち」、「鍛冶市(かじいち)」など市内中心部に設けられた6ケ所の会場では、龍踊りや中国獅子舞、中国雑技など、中国ゆかりの催しが連日行われ、観客を飽きさせません。いずれの会場も、徒歩圏内で結ばれています。会場から会場へ、ランタンの明かりの下を家族や友人たちとそぞろ歩けば、心も身体もポカポカと温まることでしょう。 今年の見どころをいくつかご紹介します。ひとつめは毎年「湊公園会場」に飾られる干支のオブジェです。犬年にちなんだ今回のオブジェのタイトルは、「旺旺・狗来富(ワンワン・ゴーライフー)」。『犬が来ると家業が栄える』という意味だそうで、ぜひ、一目見ておきたいものです。  ランタンと共に人々の目を楽しませてくれるのが、孫悟空(そんごくう)麒麟(きりん)、楊貴妃(ようきひ)など中国伝説の神々や動物、歴史上の人物のオブジェです。今年は、たっぷりの白ヒゲをたくわえ、桃のついた杖を持つ「月下老人(げっかろうじん)」というオブジェが新しく登場します。伝説によると「縁結びの神様」だとか。気になる方は、探してみませんか? そして、今年は眼鏡橋のある中島川沿いにも、足を延ばしましょう。幸せの黄色いランタンが優しい表情で連なっています。川面に映るロマンチックな明かりは必見です! さらに、開催期間限定販売の「ランタンオリジナルグッズ」も要チェックです。「福」の文字を逆さにしたキーホルダー(300円)は、福を逃がさないという意味がある縁起物。手に持って歩きたい小型ランタン(300円)などもお土産に最適です。どこか素朴で愛嬌のある中国のおもちゃなども一緒に湊公園会場などで販売されていますので、この機会にどうぞ。 さて、長崎ランタンフェスティバルと同時に楽しんでいただきたいのが、「長崎歴史文化博物館」(長崎市立山)で開催中の「北京故宮博物院展~清朝末期の宮廷芸術と文化~」(1月21日~3月5日迄)です。中国の歴史の奥深さに触れるすばらしい展覧会です。ランタンフェスティバル会場のひとつである唐寺「興福寺」の「瑠璃燈(るりとう)」も展示されています。これは、長崎市の文化財で、東洋一と呼ばれるランタンだそうです。こちらも、お見逃しなく。 ◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会(長崎市観光宣伝課内)

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  • 第250号【おいしいヒカドで、温まろう】

     今日は鏡開き。鏡もちをさげて、雑煮やぜんざいを作ったご家庭も多いことでしょう。お供物の鏡もちを食べることは、お正月の終わりを意味する大切な儀式といわれています。新しい年を佳い年にするためにも、鏡もちをいただいて力をつけたいものですね。 お正月が過ぎると、冬の寒さはさらに厳しくなります。今回は、そんな季節にぴったりの長崎の郷土料理、「ヒカド」をご紹介します。「ヒカド」をご存知の方は、けっこうな長崎通かもしれません。地元でも知らない人が意外に多く、知っていても作ったことはないという方がほとんどのようなのです。 「ヒカド」とは、ちょっと変わった名前です。それもそのはず、ポルトガル語の「picado」に由来する言葉で、その昔、南蛮人(ポルトガル人やスペイン人のこと)が長崎に伝えた料理の一つなのです。それでは一体どんな料理なのか。そのヒントもこの名前にありました。 ポルトガル語の辞書を引くと「picado」には、肉や魚肉のこま切れ料理という意味があると書いています。その通り、「ヒカド」は、1、5cmほどのさいの目切りに揃えた肉や魚肉、冬野菜などを煮込んだものです。味付けはとてもシンプルで、材料を煮込んだ後、酒、薄口醤油、塩で整える程度。調理の最後にサツマイモをすってトロミとコクを出したその味わいは、心身ともに温かくしてくれる素朴なおいしさです。 トロリとした味わいがシチューに似ているので、「長崎シチュー」とも呼びたくなる「ヒカド」。知人から聞いた材料(3~4人分)と作り方をご紹介します。1、マグロまたはブリの切り身1~2枚(約100g)、鶏モモ肉(50g)、サツマイモ(中1個)、ダイコン(1/2本)、ニンジン(1本)を各1、5cmのさいの目切りにします。干ししいたけ(2~3枚)はもどして、4等分に切ります。さいの目に切った魚肉は湯どうししておきます。(※材料はこの他、サツマイモやゴボウ、キクラゲなどを入れてもいい)。2、鍋に、だし汁800~1000cc(したけのもどし汁も加えて)と、サツマイモと魚肉以外の材料を入れて煮込みます。3、材料に火が通ったら、サツマイモと魚肉を入れて煮込み、酒(大1~2)、薄口醤油(小1~2)、塩(小1)で味を整え、サツマイモ(中1/2個)をすりおろして入れトロリとさせて出来上がり。器に盛ったら小ネギを散らします。 「ヒカド」は、けんちん汁や新潟の郷土料理として知られるのっぺい汁に、材料や調理法がよく似ています。大きな違いは、前者が材料をさいの目切りで揃えるのに対し、後者はいちょう切りや輪切りなど特に切り方を揃えていません。 さいの目に揃えたのには、どんな理由があったのでしょう。見た目や食べやすさのため?本当に、伝わった当初からそうだったのかしらん?滋味溢れる「ヒカド」のスープを飲んでいると、いろいろと想像がふくらみ、先人が残してくれた郷土の味を大切にしたいなあと、あらためて思うのでした。◎ 参考にした資料や本/長崎事典(長崎文献社)、ジャポニカ大日本百科事典4巻(小学館)、長崎卓袱料理(ナガサキインカラー)、長崎の郷土料理(長崎出版文化協会)

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  • 第249号【事始め ビール、ジン、ワイン】

     今年もあとわずか。長崎駅では、御用納めのこの日を境に、都会からの帰省客も増えはじめ、年の瀬ならでは混雑が見られるようになります。これから、帰省されるという方は、気を付けてお出かけくださいね。  帰省する方々がいちばん楽しみにしているのは、やはり故郷の味のようです。先日も、数年ぶりに東京から長崎に帰省することになった友人から、「早よ、そっちで、ちゃんぽんば、食べたかー」という電話がありました。「よかばい、作ってやるけん(わかった、作ってあげる)」と返事をすると、友人曰く、「ちゃんぽんは、長崎で食べるのがいちばん旨かもんね!」とうれしいことを言ってくれました。 さて、久しぶりに懐かしい笑顔が集う時、おいしい郷土料理とともに欠かせないのがアルコール飲料です。実は長崎は、いくつかの代表的なアルコール飲料の日本における歴史に深いゆかりがあります。たとえば、ビール。江戸時代にオランダ船によって出島に持ち込まれたのが最初だといわれています。 出島在住のオランダ商館員たちは、相当ビール好きだったようです。オランダ本国がフランス軍に占領されるなどの影響で、オランダ船が出島に長く入港しなかった時期があったのですが、輸入が途絶えたビールをどうしても飲みたくて、出島でビールを醸造したというエピソードもあるそうです。はてさて、出島ビールはおいしくできたのでしょうか? ジンフィズやマティーニなどカクテルづくりに欠かせないジンも、オランダから出島にもたらされたのが最初のようです。百科事典によると、もともとジンは、17世紀にオランダのライデン大学の教授によって発明されたお酒で、蒸留アルコールに、杜松(ねず)の実で香りをつけたもの。アルコール度が強いお酒ですが、オランダ人の口にあったようで、発明後またたくまに普及したそうです。 ワインも長崎ゆかりのお酒です。こちらはビールやジンより早く、16世紀頃、ポルトガル人との南蛮貿易の時代に長崎に伝えられといわれています。当時、赤ぶどう酒(ワイン)のことをポルトガル語に由来して「チンダ酒」(=珍陀酒)と呼んだそうで、その後、オランダ人との出島貿易の時代になっても、その名前が使われたそうです。 当時のオランダ商館員たちはどんなふうにお酒を飲んでいたのでしょう。19世紀初頭の姿を再現すべく現在、復元工事が進められている出島に行くと、すでに復元された「一番船船頭部屋」でその様子を想像することができました。 「一番船船頭部屋」と呼ばれる棟には、オランダ船の一番船船長や商館員たちが過ごした部屋があります。壁紙、椅子や机、小物など、当時の家具調度品がこまかく再現されたその部屋は、今見ても、和洋折衷のモダンなインテリアが洒落ています。部屋を見渡すと、畳の上にはワインやジンが入っていたという複数の瓶、戸棚には携帯用の酒ビンやジンやワインの各グラスが置いてあり、いつでも飲める状態になっていました。せまい出島での暮らしの中で、アルコール類は大切ななぐさめのひとつだったようです。 今年も当コラムを御愛読いただき、誠にありがとうございます。皆様、良い新年をお迎えください。◎ 参考にした資料や本/ながさきことはじめ(長崎文献社)、ジャポニカ大日本百科事典9巻(小学館)、よみがえる出島オランダ商館~19世紀初頭の町並みと暮らし~(長崎市教育委員会)◎撮影にご協力いただいた関係各所/長崎市観光企画課

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  • 第248号【稲佐の悟真寺と国際墓地】

     先日、三菱重工長崎造船所が建造した世界最大級の豪華客船「ダイアモンド・プリンセス」(約116、000トン)が長崎に里帰りしました。同船は、今年10~11月にかけて5回ほど入港。港内に接岸されたその姿を見る度に、一夜にして巨大ビルが生まれたような驚きがあります。ずっと見ていても飽きない、気品ある船体。造船マンの方々の熱意と技術のすごさを感じます。 長崎港にこういった客船が入港した時、地元の写真愛好家たちが必ず向かう場所のひとつが稲佐山(いなさやま:海抜333メートル)です。稲佐山は、客船が停泊する松ケ枝の対岸に位置する稲佐地区の背後にそびえる山。ロープウェイでその頂上へのぼり、長崎港を一望する展望台から見下ろすと、故郷・長崎の街に馴染んだダイアモンド・プリンセスの姿がありました。 ロープウェイを下り、ふもとの稲佐地区一帯を散策しながら、観光名所として知られる悟真寺(ごしんじ)と、稲佐悟真寺国際墓地を訪ねました。悟真寺は、16世紀末に開かれた長崎最古のお寺です。ちなみに、ここの境内付近に、南北朝時代の豪族、稲佐(伊奈佐)氏の居城があったことから、稲佐という地名になったといわれています。 少し高台に建つ同寺の下には、ビルや家々が建ち並ぶ風景が広がっていますが、その昔は海で、舟だまりになっていたそうです。現在は、昔の面影はないものの、ビルの向こう側に海が見え、当時は港を一望できる見晴しの良い場所であったことがうかがえます。 16世紀後半、長崎にはキリシタン全盛の時代がありました。悟真寺が建立された1598年には、すでにキリスト教の禁教令が出ていましたが、長崎でのキリシタンの勢いは衰えておらず、社寺が破壊される事件が相次ぎました。社寺破壊は、日本初のキリシタン大名の大村純忠が入信する際、神父に約束したことだったそうです。このお寺を開いた聖誉(せいよ)というお坊さんは、はじめは稲佐山にあった洞くつに隠れながら仏教の布教を行ったと伝えられています。 そのような時代背景の中、長崎におけるお寺再興の第一号となったのが悟真寺でした。稲佐一帯は、長崎が開港された1570年以後、来航した中国人たちが居住した地域です。寺の建立にも中国の商人が深く関わっており、悟真寺は、長崎在住の中国人の菩提寺となったのでした。 悟真寺の裏手に入ると、「稲佐悟真寺国際墓地」があります。なだらかな丘の斜面一帯には、江戸時代から造成されてきた唐人墓地、オランダ人墓地、ロシア人墓地など各区域があり、さらにポルトガル人やイギリス人、アメリカ人のお墓もあります。それぞれのお国柄が偲ばれる形の墓碑がたくさん建ち並ぶ光景は圧巻で、国際都市・長崎ならではです。 ところで、稲佐地区はロシアとの関係が深いところです。1854年の和親条約から約半世紀の間、帝政ロシア極東艦隊の滞在地のひとつだったのです。ロシア人の往来でおおいに賑わった稲佐地区は、ロシア村と呼ばれるほどだったとか。その関係の深さを物語るように、ロシア人墓地には、1891年、皇帝ニコライ2世が皇太子時代に訪れています。近年では、1991年にゴルバチョフ大統領も訪れ、話題になりました。 開港以来の長崎の国際的な歴史の中で、母国に帰ることなく亡くなった大勢の人々。中には、外国人である恋人のために日本人の遊女が建てたお墓もあります。樹木に囲まれ静かな佇まいをみせるこの国際墓地には、歴史の表舞台では語れない出来事もたくさん眠っているのでしょう。◎ 参考にした資料や本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、長崎県大百科事典(長崎新聞社)

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  • 第247号【長崎歴史文化博物館オープン!】

     長崎の諏訪神社にほど近い、緑あふれる閑静な一角に今月3日、「長崎歴史文化博物館」が開館しました。海外との交流で華やかに彩られた近世長崎の歴史・文化を中心とした資料約48、000点が一堂に集結。長崎の新しい観光スポットとして、また長崎学の研究や情報を発信する拠点として、大きな注目を浴びています。 石垣と美しい白壁に囲まれた風格ある和の外観と、屋根瓦の端正な表情が印象的なこの博物館の設計は、世界的に活躍する建築家、黒川紀章氏によるものです。鉄筋コンクリート3階建て、敷地面積約1万4000平方メートル。うち2階の一部は、瓦ぶきの旧長崎奉行所立山役所が当時の場所に復元されています。かつて長崎の行政、司法、外交など幅広い役割を果たしたこの奉行所は、江戸時代の絵図面や発掘された遺構などをもとに、できるだけ忠実に再現されていて、屋根瓦をはじめ障子や木戸、ふすまなど本格的な木造建築の美を堪能できます。 屋内には、奉行の応接間であった「書院」、オランダ商館長との接見や貿易品のあらためが行われたという「対面所」、そして当時、裁判が行われた「お白州(しらす)」なども復元されています。白木の匂いが漂う廊下を歩くと、ふすまの影から、今にも奉行所の役人が現れそうでドキドキします。まさに、江戸時代にタイムスリップしたような臨場感にあふれています。 2階の常設展示場は、「近世長崎の海外交流史」をテーマに、「大航海時代」や「朝鮮」、「中国」、「オランダ」との交流の歴史などが、豊富な資料で紹介されています。この博物館では、美術資料や古文書などの展示だけでなく、体験装置やデジタル映像、情報検索機器などを通して、楽しく、わかりやすく歴史と触れあえるのが魅力です。 たとえば、国認定重要美術品の屏風絵、「南蛮人来朝之図(なんばんじんらんちょうのず)」は、ガラス越しに展示されている実物の前に置かれたモニター画面で、肉眼では見えにくいところを拡大したり、描かれている内容について知ることができます。17世紀初期のものであるこの美術品が、モニターを通してぐっと身近に感じられ、新たな歴史への興味につながっていく感じがしました。 また、この展示室には江戸時代、長崎の町人が暮らした町家(まちや)の一部が再現されていて、当時の暮らしを垣間見ることができます。現在は、くんちの頃の暮らしを再現していますが、年に数回季節に応じた展示がされる予定だそうです。 3階では、開館記念特別展として「長崎大万華鏡~近世日蘭交流の華 長崎」を開催中です(~来年1/9迄)。長崎ガラスや青貝細工など長崎独自の美術工芸品や江戸時代にオランダ人によって収集され、海外に伝えられた日本を、長崎歴史文化博物館とオランダのライデン国立民族学博物館の所蔵資料約400点により紹介しています。門外不出といわれた「唐館図屏風」「蘭館図屏風」(いずれも個人蔵)が初めて公開されており、話題を呼んでいます。 また、開館記念特別展の第2弾として、「西太后とラストエンペラー展」が来年1月21日から開催予定です。北京故宮博物院所蔵の資料が海を渡り長崎へ。世界初公開となる文物もお目見えするそうなので、今から楽しみです。 さて、復元された奉行所の「お白州」では土・日・祝日に、当時行われていた裁判の様子が寸劇で再現されており、たいへん好評です。ちなみに、演じる役者さんはボランティアです。この博物館では、展示物の案内役をはじめ別棟に設けられた長崎の伝統工芸の体験工房などで、大勢のボランティアが活躍されています。「長崎歴史文化博物館」は、長崎を愛するそういった方々の思いに支えられて新しい一歩を踏み出しました。◎取材協力:長崎歴史文化博物館 ホームページアドレスhttp://www.nmhc.jp/     長崎市立山1丁目1番1号◎ 参考にした資料や本/Nagasaki Museum of History and Culture  長崎歴史文化博物館(同館発行)、広報ながさき2005年11月号、

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  • 第246号【懐かしのイモ団子を作る】

     先日、五島在住のご夫婦から「サツマイモ」が届きました。折々にとれたての魚や野菜を送ってくださるご主人は、定年退職後、小船でささやかに漁を営み、奥様は自宅そばの畑で野菜作りにいそしみながらスローライフを満喫されています。この時期は、かんころ餅の材料となるサツマイモの収穫でけっこう忙しいそうです。 かんころ餅は、「かんころ」(サツマイモを薄切りにして茹で、3~4日干して乾燥させたもの)に、もち米を加えて作ります。素朴なおいしさが人気のこの餅は、五島の特産品として知られていますが、島原半島や長崎市外海地区など、県内各地の家庭で今も作られているようです。 以前、サツマイモ畑のかたわらで大きな釜を焚き、「かんころ」を茹でる様子を見たことがありますが、湯気に混じるサツマイモの匂いに、思わず笑みがこぼれ、和やかな気分になりました。サツマイモは、かつて食糧が不足した時代、人々の食生活を大いに支えてくれました。そういう遠い記憶が、サツマイモに対する信頼感となって私たちのDNAに刻まれているのかもしれません。 今回は、かんころ餅と同じくサツマイモを使った昔懐かしいお団子をご紹介します。サツマイモを使った餅や郷土のお菓子は全国各地にあると思いますが、長崎のものは、「イモ粉」(サツマイモを乾燥させて粉にしたもの)で作り、濃いこげ茶色をしているのが大きな特長です。黒光りするその姿を初めて見た人は、驚きを隠せません。 地元では「イモ団子」、「かんころ団子」と呼ばれているこのお団子について、50~70代の方々は、「昔、おばあちゃんがよく作ってくれた」とおっしゃる方が多く、今ではほとんど作らなくなったそうです。やはり戦中、戦後の食料不足の時代に食べていたらしく、つらい時代を思い出すからキライという方も中にはいらっしゃいましたが、おおむね誰にとっても古き良き食べもののようです。 イモ団子は、材料も、作り方もとてもシンプルです。〈1〉サツマイモ(小1個)は皮をむき、五ミリくらいの輪切りか、さいの目に切り水につけてアクを抜きます。〈2〉イモ粉(100g)に砂糖(大さじ1~2)と塩少々を入れ、水(125ccくらい)を加えて練ります。〈3〉ココア色になった生地を10等分し、水気を切った〈1〉のサツマイモの輪切りを包んで丸い形に。さいの目のものは丸い生地に埋め込みます。〈4〉蒸し器で強火で10~15分ほど蒸せばでき上がりです。 母に聞いたレシピで、今回初めて作ってみましたが、失敗なくできました。サツマイモには、ビタミンCやEが多く含まれ、美肌に有効で、風邪、便秘、大腸ガンの予防にもつながるといわれています。「イモ団子」は、素朴なおいしさを楽しめて、健康にもうれしいも一品のようです。 かつて、限られた食糧の中で、少しでもおいしくお腹を膨らまそうと工夫し、食べ継がれてきた郷土の味。人の知恵と素材のおいしさが詰まったこのようなスローフードを見直したいものですね。◎参考にした資料や本/からだによく効く食べもの事典(池田書店)

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  • 第245号【南蛮船渡来の地、横瀬浦へ】

     長崎では10月中旬に入ってようやく秋らしくなりました。「天高く馬肥ゆる秋」。グルメや旅行など、この季節を満喫したいですね。 今回はプチ旅気分で、南蛮船渡来の地、西海市横瀬浦(よこせうら)を訪ねました。西彼杵半島の北端に位置し、佐世保市に近い横瀬浦へは、JRと高速船を利用します(JR長崎駅からJR佐世保駅まで約1時間30分。佐世保駅裏手の船着き場から横瀬浦港まで高速船で約15分)。小さな桟橋がある横瀬浦の入江は、穏やかな波をたたえる天然の良港。港を囲む小高い丘の合間を縫うように民家が建ち並んでいます。車も少なく、静かでのどかな土地柄のようです。 この地は、戦国時代末期の1562年、日本で最初のキリシタン大名として知られる大村藩の領主、大村純忠(おおむらすみただ)によって開港され、ポルトガル船との貿易やキリスト教の布教が行われたところです。ポルトガル船は以前は平戸に入港していましたが、トラブルなどがあり横瀬浦へ移ってきたのです。それまで一寒村に過ぎなかった横瀬浦には、各地から貿易商人が集まり、キリスト教徒やポルトガル人などでたいへん賑わったそうです。  土地の管理は宣教師にまかせ、商人には10年間免税をするなど、貿易港として繁栄していった横瀬浦でしたが、ある日、大村藩の内乱により一夜にして焦土と化し、わずか1年余りで南蛮貿易港としての歴史は閉ざされました。その後、ポルトガル船の入港地は、福田浦(長崎市の西海岸)、そして1571年、長崎へと移ったのです。 現在、横瀬浦港の入り口に浮かぶ八ノ子島(はちのこじま)の頂きには、当時、ポルトガル人宣教師が建てたといわれる十字架が復元されています。港のすぐそばには、キリスト教徒の集落だったという「上町」、「下町」の跡もありました。 横瀬浦の港や地域全体を見渡す丘の上には、横瀬浦公園が整備されていました。眺めのいいこの場所には当時、天主堂があったそうです。公園内には、開港当時の様子について書かれた『街道をゆく』の一節を記した「司馬遼太郎の碑」も建っています。近くには大村純忠が教会に通うために建てたといわれる「大村館」の跡もありました。  あちこちに当時の名残が点在する中、ちょっと驚かされたのは、長崎市内にある「思案橋」や「丸山」と同じ名称があったことです。遊廓があったといわれる横瀬浦の「丸山」は、「上町・下町」の集落から西側に続く丘の上にありました。そこへ向かう途中の小川に「思案橋」が架けられていたそうです。案内版によると、長崎と同じく「丸山」を前にして思案したから「思案橋」なのだそうです。 大村氏の家臣で、当時、長崎をおさめていた長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)も、横瀬浦で純忠とともに洗礼を受けたといわれています。後に秀吉のキリシタン禁教令で長崎を没収された後、筑後柳川藩に一時仕え、その後、また横瀬浦へ戻っています。彼の居宅跡の碑が横瀬浦のコミュニティセンターの前に建っていました。 地元の方の話によると、当時、キリスト教の布教が盛んに行われた土地ですが、現在、信者の方はひとりもいないそうです。この地の歴史を振り返ると、もし、内乱が起こらず横瀬浦の港が存続したら、長崎開港はなかったかも…などと、想像がふくらみます。歴史のロマンと面白さを感じさせる横瀬浦でした。◎参考にした資料や本/横瀬浦南蛮浪漫(横瀬浦公園リーフレット)、長崎県の歴史散歩(長崎県高等学校教育研究会社会科部会)

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  • 第244号【ミニチュアでつくる長崎、伊東山直美さん】

     キャラメルのおまけについていたミニチュアのおもちゃ。小さい頃、夢中になって集めた方も多いはず。男の子なら車や怪獣、ロボット、女の子ならキッチングッズやテーブル&チェアなど。子供の手のひらにすっぽりおさまる小さな世界は、見るだけで楽しい気分になります。 ミニチュアといえば、生活空間のいろいろなものを縮小サイズで表現したヨーロッパのドールハウスが有名です。日本にも、職人の道具や暮らしの用具、家屋などをミニチュアで表現する工芸がありますが、身近なところでは、ミニカーや洋酒のミニボトル、映画やアニメの登場人物をリアルに表現したフィギュアなど。マニアでなくても、そのかわいさ、リアルさに心を動かされ、つい買ってしまったという方もいらっしゃることでしょう。 「人は、小さくてかわいいものに無条件にひかれてしまうところがあると思うんです」と話すのは、長崎在住のミニチュア粘土作家、伊東山直美さん。卓袱料理、桃カステラ、皿うどんなどの食べものから、長崎くんちの庭見せ、コッコデショの山車など長崎独自の風土や風習にこだわった作品を制作し、長崎を愛する人々やミニチュアファンに注目されています。 「本物の質感や、線の美しさにこだわります」という伊東山さん。その指先から生まれる「長崎もの」の世界は、女性ならではの繊細な表現が特長で、その色、形にはどこか郷愁を誘うものがあります。「子供の頃、遊びに行った父の故郷、伊王島(長崎港の沖合いに浮かぶ小さな島)の風景が今も忘れられません。街のようにゴチャゴチャとしていない素朴な風景。その島だけ、時計が止まっているようでした」。自然の美しさや古き良き日本の風景に強くひかれるという独自の感性が作品に反映されているようです。 ミニチュアの制作に用いる樹脂粘土は、固め、薄くよく伸びる、過熱すると膨らむタイプなど、性質の違う種類がたくさんあります。伊東山さんはそれぞれの特徴を熟知して、適度な割合で組み合わせ、リアルな質感に近づけます。色づけのためのアクリル絵の具を練り込んだひとつまみほどの粘土を、手のひらで丸めたり、指先でかたどったりしながらパーツがつくられます。細部は、つまようじや綿棒、筆、糸などを用いたさまざまな技法で色や模様がつけられます。 子供の頃から、何かを表現したいという思いがあったという伊東山さん。10代でデザインの基礎を学び、結婚後も墨画、油絵、パステル画、創作人形などさまざまなアートにチャレンジしました。そして8年前、有名なミニチュア粘土作家の作品に感銘を受けたのがきっかけでこの世界へ。「それまでに学んだいろいろな分野のさまざまな技法が、ミニチュアづくりにとても役立っています」。 伊東山さんの作品には、地元の方々からさまざまな意見や感想が寄せられます。「とても勉強になります。もっといいものをつくって、みなさんの故郷への熱い思いにこたえたいですね」。感動する気持ちがものづくりの基本だという伊東山さん。今後もそのひとつひとつを形にしながらマイペースで制作を続けていくそうです。◎ 伊東山直美さんの作品は、長崎新聞社から今年7月発行された「長崎料理~百花撩乱ふるさとの味」(脇山順子著)の挿し絵として掲載されています。また、〈伊東山家のホームページ http://www1.cncm.ne.jp/~itoyama/mama.html〉でもご覧いただけます。

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  • 第243号【もうすぐ、長崎くんち!】

      国の重要無形民俗文化財、「長崎くんち」がいよいよ来週、10月7、8、9日の3日間行われます。寛永11年(1634)年にはじまったとされるこの祭りは、日本の伝統的なスタイルに、中国風、南蛮風が豪華絢爛に入り交じり、まさに長崎ならではの異国情緒あふれる秋の大祭です。 諏訪神社に踊りを奉納する「踊り町」は、現在、約40町ほどあり、その内5~7町が7年に1回のサイクルで伝統の出し物を披露します。今年の「踊り町」は、今博多町(いまはかたまち)、玉園町(たまぞのまち)、魚の町(うおのまち)、江戸町(えどまち)、籠町(かごまち)の5つの町。本番を目前に控え、各町とも出し物の練習は仕上げの段階にです。今回はその見所などをご紹介します。 今博多町が奉納するのは、「本踊り」です。「本踊り」とは、「長崎くんち本来の踊り」という意味。諏訪神社で最初に奉納踊りを舞ったのは、今博多町出身の女性と伝えられ、この町は奉納踊りのルーツといわれています。今回は、花柳流のお師匠さんの指導を受けた女性たちによる「鶴の舞」が披露されます。この演目はとても評判が良く、優美な舞が期待されます。鶴の声を笛の音で表現したという鳴り物も楽しみです。  玉園町は、「獅子踊り」を奉納します。昔から「筑後獅子」と言われるこの踊りは、5頭の獅子と子供たちが演じる唐子(からこ)たちとの絡みが見所です。獅子に乗ったり、はやしたりなど微笑ましい光景が見られそうです。また、2人の獅子使いが上半身と下半身に分かれて担当する獅子の動きにも注目。蚊を追ったり、耳を掻いたりするユニークなしぐさやダイナミックに回転する動きなど、気合いと迫力のある踊りは見逃せません。 魚の町は、「川船」を奉納。1600年頃、中島川の一角に形成されたというこの町には魚市場があったことから「魚町」という町名になったとか。その名にちなんだ「川船」は、屈強な男たちによる勇壮な曳きまわしが魅力です。男の子が演じる船頭さんによる網打ちは、上手く魚を捕らえられるかも気になるところです。さらに、見逃せないのはこの町の傘ぼこの飾(だし)です。1830年頃に作られたというビードロ細工が配されいます。市の文化財にも指定されている貴重なもの。必見です。 籠町は、1790年頃から奉納しているという「龍踊り」です。この町の近くに唐人屋敷があり、唐人たちから習ったのがきっかけだとか。唐楽器を使って男の子たちが蛇囃子(じゃばやし)を打つ中、大人の男たちが龍をダイナミックに操ります。どこかジャズのようでもある軽快な長ラッパの響きが、龍踊りを盛り上げます。「吹くのは、とてもむずかしい。奏者は口の中が切れて血まみれになるんですよ。」と籠町の龍踊りを長年見続けてきた方がおっしゃっていました。「そろそろ仕上げの段階ですね」と話しかけると、「いや、くんちが終わった頃、ようやく仕上がるものですよ」という答え。伝統の演技に対する町の人の厳しい目が籠町の龍踊りに磨きをかけているようです。 出島の門前町、江戸町は、「オランダ船」を奉納します。目にも鮮やかなマリンブルーの船体の上でひるがえるのは、日本国旗、オランダ国旗、そしてかつてオランダ商館長が江戸町に贈った紋章「たこのまくら」の旗(※コラム239号参照)です。男たちによる豪快で勇壮なオランダ船の曳きまわしと、かわいい子供たちのオランダ小船が見物です。 長崎くんちをもっと知りたい、楽しみたいという方は、「長崎市歴史民俗資料館」(長崎市上銭座町)で開催中の「長崎くんち資料展」(~10/30日迄)も見逃せません。昭和初期の頃のくんちの写真やくんち菓子などが展示されています。◎ 参考にした本や資料:ながさきの空278号(長崎歴史文化協会研究室)、長崎くんち(ナガサキインカラー)

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