第254号【福江島の福江城】

 一時的に寒さがもどる日はあるものの、長崎はメキメキと温かくなっています。まだ雪が残る豪雪地帯の方々にとって、春の到来は本当に待ち遠しいことでしょう。九州の温かさは、じきに北上。本格的な雪解けの日も、近いはずです。


 さて今回は、長崎港から春光にきらめく海を渡り、九州の最西端に位置する五島列島の福江島へ行ってきました。福江島は、古くは遣唐使船の最終寄港地として知られ、昔からこの地方の文化や交通の拠点として栄えたところです。現在も五島市(福江島、奈留島、久賀島など11の有人島と52の無人島により構成)の中心地です。


 この日は、高速船が発着する福江港周辺の市街地を中心に散策しました。この辺りは、かつて五島藩の城下町として栄えたところです。港から徒歩5~6分のところに、自然石を絶妙のバランスで積み上げた高い城壁が続いていました。日本で数少ない海城として知られる「福江城(石田城)」の跡です。





 

 「福江城」は、五島藩主の居城として、幕末に築かれたものです。その背景には江戸から明治にかけての時代の変革期に、揺れ動く幕府の思惑がからんでいました。


 五島藩の藩主、五島氏は、もともと江川城というお城に住んでいましたが、江戸時代初め(1614年)に焼失。その後、数回にわたり幕府に築城を嘆願しましたが、約1万2千石という小藩だったこともあり、築城は許されませんでした。


 そこで、五島藩のお殿さまは、陣屋を築いて藩政の拠点とし、長い間そこを住まいとしてましたが、幕末になって情勢は大きく変化。異国船が五島灘にたびたび出没するようになり、幕府は海防を目的に、ようやく五島藩の築城を許可したのです。


 そして、「福江城」は、1849年(嘉永2)の着工から、約15年の歳月をかけて完成。五島藩のお殿様は、約230年にも及んだ陣屋住まいから、ようやくお城の中の御殿へ移り住むことになりました。城郭は東西291メートル、周囲は2、246メートルで、城壁の三方が海に面していました。「福江城」が、海城と呼ばれる由縁です。


 築城にかかった15年という歳月について、ある城郭史研究家の方が、「通常、この規模のお城を築くのに、これほど長い期間はかかりません。遅延の理由として、築城のための石材が豊富に採れるのに、石垣技術に巧みな人材に恵まれなかったなどの理由があるようですが、実は五島藩は当時の日本の情勢から、幕府はいずれ倒れ、築城してもその役割を果たさないだろうと、先を読んでいたのではないでしょうか」というお話をしてくださいました。


 実際、完成した5年後には、明治維新を迎え、海防という使命を果たすことなくお城は解体されています。「五島藩士の中には幕府に対して、長い間、築城を許されなかったことへの反感や不快感もあったはずです」。そういう思いもからんで、築城は遅々として進まなかったのでしょうか。


 いろいろなことを想像させる福江城の跡。その敷地には現在、天守閣風の建物の「五島観光歴史資料館」があり、五島の歴史、文化、自然についてさまざまな資料を展示・紹介しています。五島の観光の際には、はずせない施設です。




 さらに近くには、江戸時代の武家屋敷通りがあり、当時の面影を残す石垣が約400メートルも続いています。石垣の上には「こぼれ石」と呼ばれる丸い石が積み上げられ、その両端は、かまぼこのような形の石で止められていました。このような石垣は全国的にもあまり例のないものだそうです。




 武家屋敷通りの一角には、民芸品の展示をはじめお土産や喫茶コーナーなどが設けられた「ふるさと館」があります。のどかな城下町の散策の途中、ひと息入れるのにちょうどいいスポットでした。



 

◎参考にした本/長崎県~ビジュアル版にっぽん再発見42~(同朋舎) 

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