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  • 第269号【じげもんに聞くちょっと昔の長崎】

     お生まれが昭和ひとけたの方は、現在70~80才。おじいちゃんやおばあちゃんと同居している家庭が少なくなった今では、この世代の方々と話をする機会も減っていると思います。昔の地域の様子や暮らしを知り、戦争など大きな時代の変化を生き抜いて来た方々のお話は、示唆に富みたいへん興味深いものです。今回は、長崎の昔のことを知りたくて脇口嘉子さん(75才)にお話をうかがいました。  長崎市在住の脇口さんは、生まれも育ちも長崎の「じげもん」(※「じげ」は地元、「もん」は「者(もの)」の意味らしい)です。数年前、主婦業と会社勤めを両立していた日々を卒業し、現在はさまざまなボランティア活動で忙しい日々を送っています。 脇口さんは幼少の頃、長崎くんちで知られる諏訪神社にほど近い「下西山町」で育ちました。長崎くんちで思い出に残っているのが晴れ着の話しです。「昔も今もくんちと聞いただけで気分がワクワクしますね。昔は、皆、晴れ着を着るのが常でした。ある年、紺地に赤い椿の振袖にかわいいお太鼓を付け、顔にもお化粧をしてもらって出かけようとしたら、急な雨で予定が流れたのです。くんちがなければ学校があるので、泣く泣く着替えて登校しましたね」。 「当時のくんちの賑わいは今以上だったかもしれません。戦前までは、見せ物小屋にコグレサーカスも毎年やって来て大賑わいでしたよ」。長崎駅の近くで行なわれていたというサーカス。初耳です。脇口さんがお生まれになった1931年(昭和6)は満州事変が起きた年。その後も中国と日本の間では不穏な空気が流れていましたが、1941年(昭和16)に大平洋戦争がはじまるまでは、生活に支障はなく、物資も豊かだったそうです。 「私が通っていた幼稚園の園長先生が、金髪で青い目をした女性の方で、『サヤモンド先生』と呼んでいたのを憶えています。子供というのは本当に不思議なもので、先生が「スタンド アップ」とおっしゃれば立つし、「シャット ア ウインドウ」だと、誰かが立って窓を閉めに行くのです。特別に英語を教えてもらったわけでもないのに、なぜか、わかるのですね」。英語の歌もごく普通にいろいろ歌っていたとか。当時、外国人の存在がめずらしくなかったいかにも長崎らしさを感じる話です。 しかし、間もなく戦争がはじまると状況は一変します。「6才下の弟も同じ幼稚園でしたが、英語は禁止。先生は日本人に変わり、歌も軍歌に変わりました」。そして、それまで街のケーキ屋さんの店頭に並んでいたショートケーキやシュークリームがあっという間に姿を消したそうです。「海外からの輸入が途絶えて、材量が手に入らなくなったのです。バナナやパイナップルといった果物も見かけなくなりました」。 その後、戦中・戦後と食糧不足をのりきってきた脇口さんたちの世代。平和の大切さをどの世代よりご存知です。戦争がはじまる前までは、春には土井首(どいのくび)の砂浜でアサリ採り、西山高部水源地でお花見、夏には東望ノ浜(とうぼうのはま)でハマグリやミナ採り、秋は妙相寺(みょうそうじ)で紅葉見物など、長崎の人が良く知る海や山、名所を家族で楽しんでいたと懐かしそうに語ります。「四季の行事を楽しみ、季節に応じた暮らし方をすることはとても大切なこと。また、それは平和でなければできないことなのよ」。年長者の重みのある言葉が心に残りました。

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  • 第268号【長崎のくんち料理】

     今年も大勢の人出で賑わった長崎くんち。じげもん(※生まれも育ちも長崎の人)の家庭では、昔から伝わる「くんち料理」が食卓を飾ったようです。こういった行事食は、祭りの気分を高め、季節の移り変わりも感じられて、いいものですね。四季折々に行事食を作る家庭は、ひと昔前に比べるとずいぶん減っているようですが、ぜひ、見直したいものです。 長崎の庶民の間で食べ継がれてきた「くんち料理」とは、「小豆ご飯」、「どじょう汁」、「煮しめ」、「ざくろなます」、そして「甘酒」です。あなたの街の秋祭りの料理と比べて、いかがですか?品揃えが全く違うという地域もあることでしょう。共通しているのは、地元でとれる食材を利用していること、その街の成り立ちの影響を受けていることなどでしょうか。 「くんち料理」の「小豆ご飯」は、おこわではなく、普通のごはんに小豆を入れて炊いたものです。「どじょう汁」は、白味噌仕立てで作りますが、今ではすっかり馴染みが薄くなっています。どじょうで思いだすのは、水郷として知られる福岡県柳川の「柳川なべ」ですが、くんち料理の「どじょう汁」はその柳川に由来があるようです。 長崎の歴史に詳しい方によると、江戸時代初期の頃より、筑後川の川港を擁した柳川からは、長崎にも物資を運んでいて、その方面からの移住者も多かったそうです。くんちの踊り町のひとつに榎津(えのきづ)町がありますが、榎津は柳川の川港の地名です。「どじょう汁」は、そうした移住者たちにより、くんち料理の定番になっていったのかもしれません。 「煮しめ」の材料は、さといも、れんこん、ごぼう、にんじん、こんにゃく、干ししいたけなど。季節の野菜がたっぷり入ります。70代のじげもんさんによると、煮しめに用いるさといもは、「赤さといも」だそうです。赤さといもは各地にあるようですが、長崎でも昔から作られている野菜のひとつだそうです。地元の八百屋さんによると、白さといもより煮くずれがしやすいが、甘くておいしいそうです。今は、地元より京都の料亭などによく出ていると言っていました。 「ざくろなます」はだいこんのなますに、ざくろの実を混ぜたものです。長崎では毎年、ざくろがくんち前から出回りますが、「今年は台風13号の被害で、地元のざくろがほとんどなかった」と果物屋さんは言います。だからか、今年はアメリカ産の大きなざくろを店頭でよく見かけました。その実は、地元産より大きく、赤みも甘味もありますが、ざくろ独特の甘酸っぱさもその分強い感じ。 あるご家庭の伝統で、3日間繰り広げられる長崎くんちの初日は「ざくろなます」、中日は「柿なます」、3日目は「しそなます」と、毎日変えるというところもありました。くんち料理を家庭ごとに調べれば、ユニークなルールやバリエーションが他にもいろいろあるかもしれません。 「甘酒」は、今頃は母親が手作りするか、酒屋や和菓子屋で購入するところが多いようです。ひと昔前、じいちゃん、ばあちゃんと一緒に暮らした時代は、甘酒作りはお年寄りの役目でした。おいしい甘酒を作るには、温度や寝かせ方のあんばいなど、経験が必要だということなのでしょうか。お屠蘇も家長が作るものだそうですが、その習わしと関係があるのかもしれません。いずれにしても、かつて長崎の街では、「今年の甘酒はどがんやった?」「良かったばい」などと家族で、ご近所で会話が弾んでいたようです。そんな和やかな風景のある長崎は、ほんとに素敵だったことでしょう。

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  • 第267号【2006年の長崎くんち情報】

     長崎の初秋の夜。耳を澄ませば、どこからともなくドラや太鼓、そして威勢のいい男たちのかけ声が聴こえてきます。これは今年の踊り町が「長崎くんち」の練習に励む音。10月7、8、9日の本番に向けていよいよ追い込みの段階です。 寛永11年(1634)にはじまった諏訪神社の秋の大祭・長崎くんちは、今年で372年目を迎えます。今年、奉納踊りを担当する「踊り町」は、桶屋町(おけやまち)、万屋町(よろずやまち)、栄町(さかえまち)、本石灰町(もとしっくいまち)、船大工町(ふなだいくまち)、丸山町(まるやままち)の全部で6ケ町。華麗かつ勇壮な出し物で、7年に1回めぐってきた大役を果たします。 長崎くんちは、知れば知るほど興味深く、見る側の楽しみも増すものです。そこで、ぜひ、訪れてほしいのが「シーボルト記念館」で開催する『シーボルトと長崎くんち展』(9/28~10/15迄)です。長崎くんちを神事として幕府が奨励した証の「御朱印状」や江戸時代にくんちの神事能で使用した能面など諏訪神社の貴重な収蔵品をはじめ、「鯨引き」、「コッコデショ」などシーボルトが描かせた江戸時代の出し物の絵、また、昭和11年や20年代の各踊り町の写真も展示されます。初めて公開される写真もあり、長崎くんちファンには本当に見逃せない内容になっています。 それでは、今年の踊り町の出し物をご紹介します。まず、桶屋町の「本踊り」。歌舞伎の創始者として知られる「出雲の阿国(いずものおくに)」をモチーフにした踊りが披露されます。町内の子供たちや藤間流の美しい踊子さんたちが、お祭りの喜びあふれる演技を見せてくれるそうです。 万屋町は「鯨の潮吹き」。大きな鯨を引き回す様子や鯨の背中から天高く潮が吹き出すさまが見ものです。また、踊り町のシンボルの傘鉾(かさぼこ)のたれは、180年前、伝統の長崎刺繍を施した「魚づくし」と呼ばれる貴重なもの(市有形文化財)。次回、7年後には新調されるそうなので今年が見納め。見逃せません。 栄町の「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」は、花柳流の方の指導によるもので、かわいい唐子に扮した子供たちや阿蘭陀万才を演じる二人のかけあいなどが見どころのようです。三味線など地方(じかた)の粋な演奏も楽しみです。 本石灰町は「御朱印船」。あざやかな朱色の船を、屈強な根曳衆(ねびきしゅう)が、豪快に船を引き回すさまは、まさに大海の荒波を行くようです。この出し物のストーリーは、安土桃山~江戸時代初期に実在した長崎の貿易商「荒木宗太郎」が安南(ベトナム)のお姫さま「アニオーさん」を花嫁として長崎港へ連れて帰ってきた様子を再現したもの。荒木宗太郎役とアニオー役を演じる子供の家では、本番の数カ月前に、ちゃんと結納をかわします。町の人々の思い入れが伝わる徹底ぶりです。 船大工町は「川船」。江戸時代に船大工が住む町として栄えたこの町の歴史にちなんだ出し物です。男の子が演じる船頭の「網打ち」シーンで魚を一網打尽にする姿が見どころのひとつ。波の紋様の衣装に身を包んだ根引き衆の姿も勇ましく、引き回しも見事です。 丸山町は「本踊り」を奉納。41年ぶりに長崎くんちに復活します。踊りは、長崎検番の芸子さんたち。花街の歴史を担って待望の登場です。そして、もちろん傘鉾も41年前と同じもの。当時を知る80代の男性の方は、「丸山の傘鉾のたれが、陽を浴びながら空気をはらんでパーッと広がるとき、何ともいえない美しさ、色っぽさがある」とおっしゃっていました。期待が高まります。 くんちを間近に控えた各踊り町の練習は、くんちを支える町の人々と共に、早くも熱気を帯びていました。練習を見守っていた本石灰町の60代の女性の話が印象に残りました。「とにかく子供たちが練習に行きたがるんです。兄弟が少ない時代にあって、ここに来れば兄ちゃんや姉ちゃんがいるし、根曳き衆の男たちもかわいがってくれるから、うれしいんでしょう。そこには町ぐるみの連帯感や絆があるんですね。これこそが長崎くんちの伝統なんですよ」。◎取材協力/シーボルト記念館(長崎市鳴滝2―7―40)      TEL(095)823―0707

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  • 第266号【長崎を愛した孤高の版画家・田川憲(たがわけん)】

     残暑の中にも、秋の気配が感じられるこの頃。季節は変わっても私たちの日常は、さまざまな用事にあふれ相変わらず気忙しいものですが、だからこそ、食欲の秋や芸術の秋を満喫する時間を大切に過ごしたいものですね。 この秋も各地では「芸術の秋」にふさわしくさまざな展覧会が催されるようです。もちろん長崎でも魅力的な展覧会が目白押しです。その中から今回は、長崎ならではのものとして、長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町)で開催中の「田川憲生誕100周年記念展」(平成18年9月3日~9月27日迄)をご紹介します。 田川憲氏(1906~1967)は、長崎を代表する版画家です。主に1930年代から1960代にかけて、長崎港や南山手の洋館、唐寺をはじめ長崎の各地の風景などを描き残しています。版画家としての技量と作風は当時、「東に棟方志巧、西に田川憲」と評する人もいるほど素晴らしいものでした。その作品は、氏が亡くなって39年経った今でも長崎の公共施設の一室に飾られたり、地元銀行のカレンダーになるなどして、長崎の日常の中に溶け込んでいます。 田川氏が残した作品の中の長崎は、多くの外国人が行き交った居留地時代(幕末~明治期)の面影がまだ色濃く残る昭和初期から高度成長期の頃まで。その作品からは、版画独特の素朴な味わいとともに、作者のある思いが伝わってきます。それは、日本の貴重な歴史を刻む故郷・長崎への愛情で、しだいに風化していく長崎独自の景観を危惧する思いでした。 田川氏と同時代を生き、交流のあった長崎の歌人、秦美穂(はた みほ)氏は、「彼は風化など美しいひびきのある言葉ではなく、まさに滅び去ろうとする長崎を、必死に、すがりつくように、また憑かれたようにして描き、かつ板に刻(ほ)り起こした画家である。」〈~没後十年の田川憲版画展に寄せた一文より~〉と記しています。  10代の頃から金子光晴など長崎に来た作家たちと交流をもち、20才の頃、画家を志して上京。そこで版画にめざめ、恩師や友人など人生に大きな影響を及ぼす人々と出会いました。その時代は、戦争の混乱期とも重なっています。折にふれ長崎に帰郷し、版画家として活動を続ける中、従軍画家も経験(昭和13~15年)。上海にも数年在住し、版画を通じて中国の人と交流を深めています。 この展覧会では、そういった氏の激動の経歴を知ることができます。また、彫刻刀や硯、バレン、下絵、版木など愛用の道具をはじめ、氏に近しい方々が所蔵していた作品など、これまで公にされなかった作品なども多数展示されています。 コンクリートのビルが乱立する直前の「異国情緒・長崎」を作品に残した田川憲氏。そこには、これからの長崎の街づくりへの大きなヒントが秘められているようでもありました。ぜひ、ご覧ください。◎取材協力/長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町7―8)      TEL095―847―9245

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  • 第265号【長崎・夏の食のよもやま話】

     旅に出た時の楽しみのひとつが、商店街やスーパーの食品売り場を見て回ること。その土地ならではの食材やお惣菜に初めて出会うと、「まだまだ知らないものがあるんだなあ」、「日本って広いなあ」と、何だかうれしい気分になります。 長崎のスーパーでは普通に売っているけれど、他ではほとんど見かけないもののひとつに、赤や緑の棒状のはんぺんがあります。それを短冊状に刻んで、ちゃんぽんや皿うどん、野菜炒めなどの具材として使います。このはんぺんを入れるだけで彩り豊かなおいしさに。長崎人の食卓には欠かせないものです。 長崎から横浜へ引っ越した親戚のおばさんは、このかまぼこを探し回ったけど、なかなか見当たらないとボヤきます。ようやく大きなデパートの長崎物産のコーナーで見つけたそうですが、「長崎じゃ、すぐ手に入るのに…」と残念そうです。 他の地域から長崎に移り住んだ方たちも、やはりこのはんぺんをめずらしがります。そしてこの他にも、日常の長崎の食に少なからずカルチャーショックを受けるのです。 子供の頃、東京から引っ越して来た友人は、今でも忘れられない出来事があります。夏、長崎のおばあちゃんちで、おそうめんをいただいた時のこと。大皿に盛られた「そうめん」を各人が適量を取り、つけづゆにつけて食べはじめたのは良かったのですが、そのつけづゆというのが、砂糖で甘辛く仕上げたゴマダレなのです。ほうれん草のおひたしなどで使うアレです。「こんな甘いのをつけるの!?」かつおだしでみりんと醤油で味付けした薄茶色のつけじるしか知らなかった友人は、一瞬唖然としたそうです。 ゴマダレを適宜おそうめんにかけていただく。長崎の全ての家庭がそうだとはいいませんが、「うちはそうやって食べるわよ」という方を何人も知っています。 夏の食卓といえば、長崎は海産物が豊富ですから、県内各地から水揚げされたミナ(貝)やサザエ、アワビも店頭をにぎわします。「本当にいいものは東京の築地に行ってしまう」と聞いたことがありますが、それでも、新鮮でおいしい魚介類は豊富にあり、気軽に手に入ります。ありがたいことです。 先日、お盆休みを利用して実家のある五島列島に帰省した友人に電話を入れたところ「今、サザエ採りに行ってますよ」とおうちの方。近くの海岸の岩場で素潜りで採っているとか。後で聞けば、その日のメニューは、サザエごはん、サザエの刺身、サザエの壺焼きとサザエづくしだったそうです。ああ、うらやましい!  大村湾でとれる「タイワンカザミ」という種類のカニも長崎の夏のおいしいもののひとつです。名前はタイワンですが、もともと日本にいる種類だとか。タラバガニなどに比べれば小ぶりですが、身もミソも上品なおいしさ。ズワイガニやタラバガニよりこっちがおいしいという人もいるほど。お味噌汁でいただくと格別です。 今回は、長崎の夏のおいしいものをいくつかご紹介しましたが、あなたのお住まいの町にも、おいしいものがいろいろあるはず。見慣れた食材が、意外にもその町独特のものだった、ということもあるかもしれません。ちょっと気にして見てみませんか?

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  • 第264号【長崎半島・三和町の貴重な自然】

     暑中お見舞い申し上げます。冷房のきいた部屋で長く過ごすと、体調をくずしがちです。野菜や魚介類がたっぷり入った熱々のちゃんぽんを食べれば、汗をいっぱいかいて、スカッとします!ぜひ、お召し上がりください。  今回は、夏休み中ということで、長崎の路線バスで気軽に行けるネイチャースポットをご紹介します。場所は長崎市三和町川原(かわら)地区。三和町は昨年1月に長崎市と合併したばかりの町です。長崎市の市街地から、南西に伸びた長崎半島の中間くらいに位置しています。 路線バスで、長崎駅から長崎港沿いを行き、女神大橋の巨大な足もとをくぐり抜け、山あいの風景を楽しみながら目的地まで約40分。目の前に天草灘が広がるのどかなロケーションの川原地区に到着。降り立った「川原公園前」のバス停では、潮の香がまじる心地よい風が吹いていました。 バス停から徒歩で2~3分ほどのところに、ひとつめのネイチャースポット、淡水湖「川原大池」があります。広さ13ヘクタール、周囲は約1.9キロメートル、最も水深の深いところは9メートルあり、周囲は樹木におおわれています。湖畔には木の歩道が整備され、美しく静かな風景を眺めながら歩けば、まるで高原の避暑地に来たかのような気分です。 森を思わせるほど豊かな樹木はクス、ハマボウ、そして貴重されるハマナツメなど。「川原大池」一帯は、県指定天然記念物の樹林地帯になっていて、その自然はしっかり守られていました。あたりにはアゲハチョウやトンボが飛び回り、池の中では、数種類の淡水魚たちがのびのび泳いで気持ちよさそうです。 周囲はたいへん静かで、聴こえてくるのは、隣接する海の波の音と、鳥の鳴き声だけ。ここでは、カワセミやマガモ、そして環境庁のレドデータブックにも載っているミサゴなど80余りの野鳥が確認されているそうです。この「川原大池」を含む周囲は公園として整備されていてキャンプも楽しめます。そばには海水浴場もあり、夏のレジャーにはうってつけの場所です。 さて、川原地区ふたつめのネイチャースポットは、「川原大池」からほど近いところにある、「蛇紋岩の円礫浜(じゃもんがんのえんれきはま)」です。何だかとてもむずかしい名前です。蛇紋岩とは「かんらん岩」が水を含んで変質してできた岩だそうで、その礫(石ころ)が、浜辺を形成しているのです。石の大きさは手のひらサイズ。色は緑がかった濃紺で、波にもまれたせいか、だ円形でとてもツヤがあります。このような浜辺は日本で珍しく貴重なものだそうです。 地元の方によると、昔はこの地域の海岸一帯に広がっていたけれど、護岸工事で整備されるうちに、範囲が狭くなったとか。このような浜が、長崎半島の中で、この地域にだけ見られる理由は、全くわからないということでした。また、蛇紋岩の石ころは太陽の熱を吸収して、火傷しそうなほど熱くなるので、泳ぐ時は、みんな石の上を急いで走り抜けて海に入ったものだと、懐かしそうに話をしてくれました。 「蛇紋岩の円礫浜」は、波が引くたびにコロコロととても心地いい音がします。それにしても、なぜ、この地域にだけ、このような石の浜ができたのでしょうか。夏休みの宿題ができたなあと思いながら、帰路に着いたのでありました。

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  • 第263号【なつかしの長崎港内交通船展(長崎市歴史民俗資料館)】

     夏休みがはじまりました。これから長崎へ帰省する、旅行されるという方もいらっしゃることでしょう。長崎でいろいろと行ってみたい場所はあると思いますが、『なつかしの長崎港内交通船展』を開催中の「長崎市歴史民俗資料館」(平野町)にも、足を運んでみませんか。 「なつかしの長崎港内交通船展」は、特に50代以上の方々におすすめの小さな企画展です。大正から昭和40年代半ばくらいまでの長崎港や港内交通船の写真パネルを中心とした展示内容で、当時の長崎は知らないという方でも、モノクロの写真がかもす雰囲気に、心ひかれるものがあるかもしれません。 長崎港内交通船とは、かつて長崎市内の陸路がまだ不便だった頃、長崎港内の各地域を結び、人々の生活の足として活躍した船のことです。その歴史は、明治期にまでさかのぼるといいます。当時、出島にほど近い長崎市中心部と、対岸に点在する数カ所の地区を結んだのは「一銭渡し」と呼ばれた6人乗りの小さな舟。船賃がひとり一銭だったから付いた呼び名ですが、これは、中国語で小舟を意味する「サンパン」という舟で、明治18年に長崎を訪れたフランス人ピエル・ロチが書いた小説「お菊さん」の中にも「サンパン」の名は登場します。 この「一銭渡し」は、今のタクシーなどのように、乗り込めばすぐに目的地に運んでくれるものではなく、個々にやってきた乗客が6人になるのを待って、漕ぎ出したとか。のんびりとした時代が感じられる話です。 その後、「一銭渡し」に代わり、民間の蒸気船が出るようになり、さらに長崎港内にあった三菱長崎造船所も従業員の通勤のための会社専属の船を出すようになりました。大正時代に入ると、路面電車の会社である「長崎電気軌道株式会社」も港内交通船業に進出し、電鉄丸」を就航させました。その後、民間の港内交通船の会社から、長崎市がその経営をゆずりうけ、大正13年「市営交通船」の運航がはじまったのです。この頃は、長崎~上海航路の船も行き交っており、長崎港は大小さまざまな船の往来で、たいへん賑わっていたようです。 ところで、港内交通船の形は、人を多く乗せることが目的で、波静かな港内専用ということからか、横波に弱そうな、けしてスマートとは呼べない形をしています。その姿から、「ぞうり虫」とも呼ばれたそうです。 展示会場には、市営交通船や波止場、乗客の様子など約200点に及ぶ写真パネルの他、電鉄丸の模型や長崎三菱造船所の通勤船・諏訪丸の資料なども展示。また、昭和44年に市営交通船が廃止されるにあたって制作されたビデオでは、市営交通船での通勤の様子や、バスガイドさんが同乗した路線バスなど、高度成長期の真只中で変化していく時代の様子を垣間見ることができます。 この『なつかしの長崎港内交通船展』は8月31日まで開催。「長崎市歴史民俗資料館」は入場料無料です。「長崎さるく博」が開催中の今年10月31日までは無休で、9時から17時まで開館しています。常設展として、江戸時代の長崎港や街の様子を描いた南蛮屏風や川原慶賀が描いた江戸時代の年中行事の絵をパネルで紹介したコーナーもあり、長崎初心者の方にもおすすめのスポットです。 ◎取材協力/長崎市歴史民俗資料館◎参考にした本/市制65年史(長崎市)

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  • 第262号【涼を求めて、雪浦へ】

     暑さをしのぐなら、やっぱりクーラーよりも自然の涼しさの方がいいですよね。ということで今回訪れたのは、長崎県西海市雪浦です。雪浦は、西彼杵半島の西側の海岸を行く国道202号沿いにある地域。「つがね落としの滝」や「岩背戸渓谷(いわせとけいこく)など避暑にぴったりのスポットがあることで知られています。 ちなみに国道202号は、通称「サンセットオーシャン202」と呼ばれ、夕日が美しいことで知られる人気のドライブコース。東シナ海、五島灘をのぞむ美しい景色を満喫しながら、雪浦に到着しました(長崎市から車で約1時間)。 雪浦は、青松白砂の海岸、渓谷や滝を擁する山、そして長さ約16キロメートルの大河・雪浦川など、豊かな自然に恵まれた地域です。家々は雪浦川の流域に軒を連ね、海岸近くに小さな集落を形成しています。「つがね落としの滝」は、そこから車で7分ほど山あいへ入ったところにあります。 「つがね落としの滝」の「つがね」とはカニのことで、このあたりで育ったつがねが滝に落ちることからこの名が付いたとか。滝の高さは約20メートル。しぶきをあげて勢い良く落ちる水の爽快さといったらありません。夏場、家族連れが多く訪れ、ソーメン流しなどで賑わうそうです。 「つがね落としの滝」のすぐ上流にある「岩背戸渓谷」も気持ちの良いところでした。木製の吊り橋を渡り、うっそうと茂る森林の合間に降りると、手付かずの渓流がありました。ゴツゴツとした岩場や石ころの上を流れる生まれたての水。その清らかな感触に夢中になっていると、煩雑な日常を忘れ、体中の細胞が目覚めるようです。 雪浦地区を囲むようにしてある山々には、この他、長崎市の水がめ・雪浦ダムもあります。そのダム湖の上流は公園が整備され、夏場はキャンプや水遊びに訪れる人が多いそうです。 雪浦には、その美しい自然をいつくしみながら、野菜づくりをしたり、創作活動をするなど、エコ&スローに生きる人々がいました。毎年、ゴールデンウィークの頃に開催されるイベント「雪浦ウィーク」は、そういった方々との出会いを楽しめる催しで、郷土料理や野菜、陶芸・絵画、環境に優しい製品の製造・販売など、多彩な分野で活動している方々とじかにふれあい交流ができるそうです。 たとえば、「雪浦ウィーク」の事務局で画家のタナカタケシさんは、10年ほど前、この地の自然や温かな人情が気に入り、引っ越して来た方。築100年の民家にアトリエを構えてお住まいです。竹炭工房「雪炭窯」の浅田洋子さんはご主人と共に、繁殖力が強い地元の孟宗竹を伐採し、手間ひまをかけて上質の竹炭や竹酢液などをつくっています。 九州にあって、「雪浦」という涼し気な地名の由来は定かではないようですが、ウミガメが産卵をするという広々とした砂浜は、雪のような白さです。もしや、これが地名の由来では?と思ったのでした。◎取材協力/雪浦ウィーク事務局(タナカタケシ様)、竹炭工房「雪炭窯」◎参考にした本/大瀬戸町郷土誌(大瀬戸町)

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  • 第261号【世界でも珍しい南有馬リソサニウム礁】

     島原半島の南東部に位置する南島原市南有馬町。ここに、世界でも三ケ所しか確認されていないという珍しい白州(しらす)があります。今回は、島原半島の活性化をめざす民間団体「NPO法人がまだすネット」主催のイベント、『白州への上陸』に参加。自然の不思議にふれる体験をしてきました。 南有馬町は、「島原の乱」の舞台となった原城跡がある町として知られています。原城跡は有明海に面した小高い丘の上にあり、白州はその丘の海岸から300メートルほど沖合いに見られるといいます。  5月の大潮の日に行なわれた『白州への上陸』。あいにくの雨天にもかかわらず、長崎県内各地から8名の参加者が集まり、南有馬の漁港から、船で沖へ向かいました。ふりしきる雨の中、慣れない船にしがみつく参加者は、さながらネイチャーアドベンチャー。港を出ると右手には緑におおわれた原城跡の丘が見え、左手には海原が広がっています。この海上のどこかに白州があるなんて誰も想像ができません。 船はどんどん沖合いへ。7~8分ほど経ったでしょうか、目をこらして周囲を眺めると、うっすらと土色をした海面が見えてきました。「まさか!」「ここは、海の上よ!」などと参加者が驚いているうちに、船はおもむろにエンジンを止め、案内役の船頭さんが下船。足首くらいまで海水に浸かっていますが、そこには確かに白い砂浜のような景色が広がっているのです! 日本をはじめ世界各地に、干潮時になると潮が引いて島などへ歩いて渡れる場所があると聞いたことがありますが、この白州もそんな場所のひとつ。陸とは続いていませんが、干潮時に突如として海上に現れるのです。特に毎年5月頃にあたる旧暦3月の大潮の時は、干満の差が激しく上陸もしやすいといいます。かつて最干潮時には長さ800メートル、幅100メートルほどのひょうたんのような形の白州が現れていたとか。その形は海流の変化に応じて年々変化しているそうです。 世界でも珍しいと言われるのは、その白州の正体です。白やうす紫色をした小さな物体がたくさん集まって浅瀬を形成していたのですが、これは、リソサニウムという珊瑚によく似た水中植物で、ふつうは海底に見られるものだとか。大きいもので卓球ボールくらいでしょうか。この浅瀬(リソサニウム礁)を地元では古くから「白州の真砂(まさご)」と呼んでいるそうです。 リソサニウムをひとつひとつ見ると、形状は、まいたけ、しめじ、ブロッコリーを思わせます。地元の漁師さんでもある船頭さんによると、白いのは乾燥して死んでいるもの。うす紫色のはまだ生きているとか。海底から波の力で打ち寄せられているとおっしゃっていました。ちなみに、この一帯は、アラカブ(カサゴ)をはじめおいしい魚が豊富にとれるのですが、漁師さんの間では、この白州が安全な産卵場所になっているおかげだと、古くから言われているそうです。 白州に上陸した参加者はしばらく浅瀬を歩き回りました。小魚や小さなウニ、ヒトデ、ウミウシを確認。波が、陸側と沖側から打ち寄せているのもわかりました。わずか1時間ほどのネイチャーアドベンチャーでしたが、地球の息吹きを感じる楽しいひとときでした。◎取材協力 NPO法人がまだすネット事務局

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  • 第260号【アジサイの季節は、シーボルト記念館へ】

     雨の季節を代表する花、アジサイ。 TVニュースでは、見頃を迎えた各地のアジサイ園の様子が流れています。東北の方では、6月下旬から7月にかけて見頃を迎えると聞きましたが、長崎の見頃はそれよりも一ヶ月くらい早く、アジサイの季節はそろそろ終わりに近づいています。  それにしても、雨にぬれるアジサイの美しさといったらありません。思わず立ち止まり、見入ってしまいます。ブルー系のアジサイを見ていると気分がスッキリとして落ち着き、ピンク系なら不思議と明るい気分に。そんなふうに日本人の琴線にふれるのは、アジサイが日本原産であることに関係しているのかもしれません。 そして、この季節になると必ず思い出し、訪れたくなる場所があります。長崎市鳴滝にある「シーボルト記念館」です。ここは、出島のオランダ商館医師、フランツ・フォン・シーボルトに関する資料を展示した施設。シーボルトは、かつてアジサイに魅せられ、その苗を西洋に持ち帰り、広めた人物です。 シーボルトは1823年27才の時、来日。それから1829年までの約6年間、日本に滞在しました。医学はもちろん動物学、植物学、地理学、民俗学にも精通し、奉行所の許可を得て、長崎・鳴滝に「鳴滝塾」を開きました。そこで、全国から集まった塾生に西洋医学を教える一方、彼らの力を借りて密かに日本の植物や風景、風俗、習慣などあらゆる分野の調査を行いました。そして、いよいよ帰国という時、国外持ち出し禁止の品々が発覚。世に有名なシーボルト事件が起き、彼は国外追放となったのでした。 シーボルトが帰国後に著した「日本植物誌」には、川原慶賀など日本人絵師らによる美しく精密なボタニカルアート(植物画)が収められ、多くの日本の植物が紹介されています。そこにはアジサイが数種類あり、その中のブルーの色合いが美しい玉のようなアジサイに、シーボルトは、「Hydrager otakusa(ヒドランゲア・オタクサ)」と命名しました。Otakusaとは、シーボルトが愛した女性で、「おタキさん」と呼ばれた楠本滝さんのことです。 愛する女性の名を美しいアジサイに託したシーボルト。彼の思いは、とても深かったようです。それは、国外追放から約30年後、ふたたび来日し再会を果たしたことからもうかがえます。この時、シーボルトは、かつておタキさんから贈られた、オタキさんと娘のイネの姿を描いた螺鈿(らでん)細工のタバコ入れを持参していたそうです。 シーボルトとおタキさんとのロマンスは、長崎では有名な話です。それに由来して、アジサイは長崎の市花としても親しまれています。そして、「シーボルト記念館」では、この季節に合わせて「シーボルトとオタクサ展」を開催しています(~6/30迄)。日本植物誌に残された当時の日本のアジサイや「Otaxa」の文字が記されたシーボルト自筆の論文原稿など、アジサイとシーボルトにまつわる計50点の資料が展示されています。 西洋の広範な知識を通じて、日本の近代化に大きな貢献をしたシーボルト。シーボルト記念館に隣接する鳴滝塾跡には、数種類のアジサイが、シーボルトの胸像を囲んで咲き誇っています。その鮮明な美しさは、おタキさんをこよなく愛した若き日のシーボルトの思いと重なるかのようです。◎取材協力 シーボルト記念館 長崎市鳴滝2-7-40               TEL095-823-0707◎参考にした資料/「シーボルトのみたニッポン」(シーボルト記念館)、「日本植物誌」(八坂書房)

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  • 第259号【キビナゴ料理を作りませんか】

     ひと昔前までは、よく食卓にあがっていたのに、そういえば、最近あまり作らないなあと思う料理はありませんか?今回ご紹介するキビナゴ料理などは、そんなひとつではないでしょうか。 ウルメイワシ科のキビナゴは、体長約7~9センチの小さな青魚。細く透きとおった身体に銀色の縞が入っているのが特長です。水産県・長崎では、一年を通して店頭で見かける大衆魚ですが、あたたかな海域に分布する魚なので、寒い地方では、馴染みがうすいかもしれません。旬は春から夏にかけて。産卵期を迎えたキビナゴが、外洋から大群で海岸の方へやってくる時期です。 キビナゴの大群は、まるで全員が申し合わせたかのように隙間なく群れ、もうスピードで泳ぎながら一匹の巨大魚のような影をつくります。銀色の縞もいっせいにギラリと光って迫力満点。そうすることで、外敵から身を守っているのだという話を聞いたことがあります。 五島列島の漁師さんによると、キビナゴは主に、海中に目のこまかい網を張って固定する「刺し網(さしあみ)」という漁法で捕るとか。キビナゴは、泳いできた勢いで網に刺さったり、からんだりして捕らえられます。 長崎市内の魚屋さんをめぐってみると、長崎県内でも特にキビナゴの産地として有名な五島列島・福江島産を多く見かけます。お値段は、もちろんその日の漁獲量に応じてまちまち。旬のこの時期は、割合安く手に入ります。先日、買い求めた時は100グラム(15~20匹程度)70円でした。 キビナゴは傷みやすいので新鮮なうちに調理して食べるのが原則です。刺身などは、淡白でクセのないおいしさ。最近では料理屋さんなどでしか食べる機会がありません。でも、家でも簡単に作れます。包丁は使わず、手で頭をとり、指で腹を開きます。中骨も尾から頭に向かって引くときれいにとれます。銀の縞を表にして身をくるりとまるめてお皿へ。さしみ醤油や酢みそなどでいただきます。 以前、おばあちゃんの家でよく食べていた、キビナゴの煮付けを作ってみました。1.キビナゴ(200~300グラム:2~3人前)を洗って水気をきる。ショウガ(適量)をせん切りに。2.砂糖、醤油、酒(各適量)で味付けした煮汁を作り、キビナゴとショウガを入れて煮ます。キビナゴは小さいので、火が通るのも味が染みるのも早いです。シンプルで懐かしい一品のできあがりです。 おばあちゃんの家では、冬場、地元で「いりやき」と呼ばれるキビナゴ鍋もいただきました。材料は、キビナゴ、豆腐、白菜、大根、ネギなどを適宜。鍋に、醤油でうすく味付けした煮汁を沸騰させ、野菜を適量いれて煮る中、キビナゴを数匹づつ入れながらいただきます。ちょっと火がとおって色が少し変わった程度ですくうのがおいしい。骨もきれいにはずれます。 他にはキビナゴの南蛮漬や、地元のお惣菜屋などでよく見かける長崎天ぷらもおすすめです。食卓を懐かしい空気で包むキビナゴ料理。新鮮なキビナゴが手に入ったら、作ってみませんか?◎参考にした資料/「大日本百科事典5」(小学館)

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  • 第258号【移転オープン、長崎市歴史民俗資料館!】

     歴史好きの人々が、初めての町や村に出かけた時、まず訪れるのがその土地の風俗・歴史資料がぎゅっとつまった資料館です。遠い昔の黄ばんだ資料がかもす、簡素でひなびた雰囲気はどこも似ていますが、その土地にしかない文化の匂いが感じとられ、面白いものです。 長崎市には、「長崎市歴史民俗資料館」というところがあります。昭和53年(1978年)に長崎港そばの松が枝町に開設して以来、数カ所の移転を経て、この春、「長崎原爆資料館」(平野町)隣の平和会館内へ引っ越してきました。これまでよりもわかりやすく、交通の便が良くなったため、市民や観光客の方々にも好評のようです。 同資料館では今、移転記念と長崎さるく博の特別展として、「崎陽亀山焼展(きようかめやまやきてん)」と「若杉家と茶道展」を開催中です。「崎陽亀山焼展」は、焼き物に興味のある方なら、見逃せません。タイトルの「崎陽」とは「長崎」のこと。「亀山焼」は、幕末の長崎に生まれ、約60年で途絶えた窯です。 「亀山焼」は、文化元年(1804年)頃、オランダ船に売るための水甕(みずがめ)をつくるために、長崎の伊良林というところに窯が設けられました。「亀山焼」の名称は、この水甕の「かめ」に由来しているといわれているそうです。窯の経営は、長崎の裕福な町人、大神甚五平ら4人によって行われましたが、ちょうどその頃、ヨーロッパのナポレオン戦争の影響で、オランダ船の来航が長く途絶え、経営は失敗。その後、大神甚五平ひとりが経営に乗り出し、製品を陶器から白磁や青磁に切り替えたことが成功。数々の名品を世に送り出しました。 今回、展示されている作品は、経営再建後につくられた白磁が中心です。ケーキをかたどった器やオランダ船の絵が入ったティーポットなど海外向けと思われる製品もありました。染付の絵柄は、山水や亀などをモチーフにした中国風や、貝殻などをデザインした西洋風、そして長崎の木下逸雲(きのしたいつうん)や大分の田能村竹田(たのむらちくでん)など、当時の著名な文人や南画家たちが描いたものなど、とにかく多彩です。絵付けをした人々のいきいきとした筆使いや魅力的なものをつくろうとするチャレンジ精神が伝わってくるようです。 白磁の陶土は天草から取り寄せ、美しい青を生み出す染付の呉須(ごす)は中国の上質のものを使用。また中国の蘇州の土で青磁をつくるなど、素材を海外に求めているところなどに、貿易港・長崎ならでは感性がうかがえます。 その後、「亀山焼」は幕末の混乱の中で衰退。慶応元年(1865年)に廃窯になりました。余談ですが、この翌年、亀山焼の窯跡の近くに、坂本龍馬は貿易商社の亀山社中を結成しています。 「若杉家と茶道展」は、長崎の地役人で茶人でもあった若杉家と裏千家の交流を物語る企画展です。「利休之像」や由緒ある茶道具など、貴重な資料が14点展示されています。やはり、会場には茶道をたしなむ方々が絶えないそうです。  「崎陽亀山焼展」と「若杉家と茶道展」は、2006年5月末まで開催中です。ぜひ、足をお運びください。◎参考にした資料/「崎陽亀山焼展」(長崎市歴史民俗資料館)◎取材協力/長崎市歴史民俗資料館

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  • 第257号【出島の暮らしが見えて来た!】

     この春の長崎は、観光面での話題がとっても豊富です。3月には、長崎の歴史や文化など多彩なジャンルの知識に挑戦する、「長崎検定(長崎歴史文化観光検定)」が行われ、市民をおおいにまきこんで故郷・長崎への関心が高まりました。また、この4月1日から、日本ではじめてのまち歩き博覧会「長崎さるく博‘06」がスタート。10月29日までの7ケ月間の催しで、長崎の各所を楽しく歩き回れるメニューがたくさん用意されています。観光スポットをめぐるだけでは気が付かない普段着の長崎に出会えるとあって、参加者にも好評のようです。 そして、さらに、長崎観光の中心的存在のひとつである、出島にもうれしいニュースがありました。出島ではかねてより19世紀初頭の姿をめざして復元事業が進められ、すでに「ヘトル部屋」(※ヘトルとは、オランダ商館長次席のこと)や「料理部屋」など5棟が復元されていましたが、この4月1日、あらたに「カピタン部屋」、「乙名(おとな)部屋」、「拝礼筆者蘭人(はいれいひっしゃらんじん)部屋」。「三番蔵」、「水門」の5棟が完成し、一般公開されたのです。 復元された建物が並ぶ通りを歩けば、そこからオランダ商館員やチョンマゲの地役人がひょいと出てきそうで、ちょっとドキドキします。今まで、あまり知る機会のなかった出島での日本人の姿をはじめ、オランダ商館員たちの暮らしぶりも具体的に見えて来て、とても面白いのです。展示物も充実しており、その歴史の奥深さと魅力にふれていると、何度でも通いたくなってきます。  さて、パワーアップした出島で、今回特にご紹介するのは、「カピタン部屋」です。建物の正面に設けられた鮮やかなライトグリーンの階段が目印です。ここは、カピタンと呼ばれたオランダ商館長の事務所や住居とされたところで、出島の中でもっとも大きな建物です。1階は、出島の歴史や生活に関する資料を展示したガイダンス的な場所。出島に行ったら最初に訪れるといいと思います。 「カピタン部屋」の2階は、当時の生活空間が復元されています。商館員らが事務を行い、地役人と商談などをしたと思われる部屋や、朝夕の2回、商館員らが集まって食事をしたり、大名などが接待を受けたという35畳の大広間などがあります。細部まで気を配った和洋折衷の部屋の造りやオランダで買い付けたという絨毯、食器、家具などの調度品。当時さながらの臨場感あふれる空間に、出島の住人の表情までもが見えて来るようです。また、カピタン部屋は特にバリアフリーの工夫が施されており、車椅子の方もスムーズに見学ができるのはうれしいところです。  「カピタン部屋」の裏手の狭い通りを隔てたところに建つ「乙名部屋」も興味深い建物です。乙名は、出島を監視する地役人で、出島に出入りする人や壊れたものをチェックすることなどが仕事でした。彼らが拠点としたこの建物は、長崎の町屋を参考にしたもので、純和風。まさに、時代劇で十手持ちなどが出入りする番所で、それらしき帳面や書類棚が設けられています。突然、そこに地役人が現れても、「ご苦労さまです」などと何の違和感もなく挨拶を交わせてしまいそうなほど、どっぷりと空間にひたれます。 「乙名部屋」の2階の格子戸からは、カピタン部屋をのぞくこともできそうです。この近さなら、いろいろと通じ合うことも多かったのではないかとも思え、当時の出島の情景が、生身の人間を感じられるくらいに想像できます。ぜひ、お出かけください。

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  • 第256号【風光明美な大村湾を渡る】

     先日、高速船で大村湾をクルージング。大村湾は、県外の方々には「長崎空港」があることで知られています。まるで湖のように、穏やかな波をたたえるこの湾の広さは320キロ平方メートル。琵琶湖の半分くらいといわれています。湾内では、ナマコ漁や牡蠣の養殖が盛ん。温暖な気候にも恵まれ、周囲の地域は伊木力みかんなど、おいしい農作物の産地にもなっています。 大村湾は、長崎県本土のほぼ中央に位置し、5市4町(長崎市、佐世保市、大村市、諫早市、西海市、川棚町、東彼杵町、長与町、時津町)に面しています。地図で見ると、袋状をした湾の北部に佐世保港に通じる細い湾口があり、外洋へは直接通じていない閉鎖的な地形であることが、よくわかります。 長崎県環境政策課の方によると、大村湾のように閉鎖性が強い海域は、海水の交換が十分でないため、水質がいったん悪化すると改善するのが容易ではないとのこと。そのため大村湾流域では、生活排水対策重点地域として、環境保全に特に力を入れているそうです。  さて、今回のクルージングは、湾奥の時津港を出で、いっきに北上し湾口の針尾瀬戸を抜けて外洋へ出るというルート。ちなみに、時津港は400年以上も昔、西坂の丘で殉教した26聖人が、京都や大坂で捕らえられ、長崎へ護送される際、大村湾を渡って上陸した港として知られています。 今回の大村湾でいちばん楽しみにしていたのは、スナメリとの出会いです。スナメリはクジラやイルカの仲間で、体長は約1.5メートル。絶滅の恐れがある生物として近年注目され、地元のニュースでもたびたび話題に上がっています。以前、水族館で見たことがあるのですが、ずんどう気味の体形と丸い顔がかわいらしく、子どもたちの人気者でした。 高速船のスタッフに話を聞いてみると、大村湾にはイルカもいて、航行中に数頭のスナメリやイルカの群れを見かけることがあるそうです。スナメリにはイルカのような背ビレがないので、すぐに見分けがつくとか。この日は、残念ながらスナメリの姿は確認できませんでした。  もうひとつの楽しみが針尾瀬戸に架かる「新西海橋(しんさいかいばし)」です。佐世保市と西海市をつなぐこの橋は、先月5日に開通したばかり。日本初の有料橋として1955年に開通した「西海橋」の約300メートル隣に並んで架かっています。約半世紀前、東洋一とまでいわれ注目を浴びた「西海橋」。当時の開通の賑わいを知る方々の中には、新たな橋の登場に特別な思いを寄せる方もいらっしゃるのではないでしょうか。 爽やかな空色をした「新西海橋」は、周囲の町の観光面での活性化に大きな期待が寄せられているとか。この日、名物のうず潮は、ゆるやかな流れ。新旧の橋の下を、減速した船でゆっくりくぐりながら、時の流れに思いを馳せたのでありました。◎参考にした本や資料/「大村湾環境学習プログラム」(長崎県環境政策課)

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  • 第255号【トマトってこんなにおいしい!高島フルーティトマト】

     長崎港沖に浮かぶ高島(長崎市高島町)は、かつて炭鉱の町として栄えたところ。周囲6、4kmほどのこの小さな島は、現在、釣り公園や海水浴場、キャンプ場、温浴施設など美しい海を活かした施設が設けられ、リゾートの島に生まれ変わっています。 そんな高島の特産品として、注目を浴びているのが、「高島フルーティトマト」です。糖度が高く、香りもいい。まるでフルーツのような味わいなのです。お尻がツンととがった形が愛らしく、手にとるとズッシリとした重量感があります。「果肉がきっしり詰まっているんです。だから、水の中に入れると底へ沈みますよ」と、高島トマト事業部の元田矯(もとだ つよし)さん。高島でこの事業がはじまった17年前から、この土地に合うおいしいトマト栽培の研究を続けている方です。 「高島トマトは、永田農法で知られる永田照喜治(ながた てるきち)さんの指導の下ではじめられました。永田農法はスパルタ農法ともいわれ、植物が本来持つ力を最大限に引き出すために、最小限の水と肥料で育てます。この方法だと、栄養価の高い本当においしいトマトができるのです」。そこに元田さんの研究に基づく工夫や改良が加わり、よりおいしいトマトができるようになりました。 「トマト本来の味を引き出すために、ハウス内は、昼と夜の寒暖の差が激しいトマトの原産地、ペルーのアンデス高原の環境に近付けています」という元田さん。おいしいトマトを栽培するためには、この他、水やりや施肥など、細やかな配慮が必要です。 冬でも温暖で、日照の多い高島。トマトの収穫時期は、毎年1月から5月です。糖度は、冬場に収穫する初もので、9度を示すものもあります。通常のトマトの糖度が、4~5度ですから、だんぜん甘いことがわかります。そして、温かくなるにつれ、糖度はさらに増してメロン並みになるそうです。 高島のトマト栽培は、1989年度、第三セクターの事業として取り組まれたのが最初です。そして、昨年の高島町と長崎市との合併後には、市がこの事業を引き継ぎ、まもなく民間会社、「崎永海運株式会社」の「高島トマト事業部」が、市から農地と施設を借り受けて事業を引き継ぎ、現在に至っています。 さまざまな状況を乗越えて存続してきた高島トマト。やはり、それだけの価値と魅力があったということなのでしょう。これまでは、県外の企業経由の流通だったため、地元長崎の店頭で見かけることは少なかったのですが、今シーズンからは、地元の百貨店やスーパーにもお目見え。地産地消で、地域の活性化もめざしているそうです。 収穫のこの時期、高島の直売所では、毎週火、木、土曜日の朝に販売していますが、すぐに売り切れてしまうとか。今年は寒さが厳しかったため例年より一ヶ月半ほど収穫が遅れているそうですが、すでに事務所には、全国各地から寄せられた注文伝票が山積みで、収穫を待っている状態です。  全31棟のビニールハウス(約3、100坪)で、元田さんそして8名の従業員の皆さんが手間ひまをかけて育てた「高島フルーティトマト」。選果作業場で収穫したばかりの完熟のトマトを、ひとつひとつ丁寧に扱っている姿が印象的でした。◎取材協力/たかしま農園

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