第270号【オランダ人の出立所・桜馬場天満宮】

 長距離ウォーキングを楽しむ人にとって、おそらく興味をそそると思われるのが旧街道の踏破です。江戸時代、西洋の文物を求めて大勢の商人や文人墨客が往来した長崎~江戸を結ぶルート(旧長崎街道、旧山陽道、旧東海道)には、特に魅力を感じるのではないでしょうか。


 現在、長崎~東京間は飛行機で一時間ちょっと。日帰りで用事を済ませることもめずらしくありません。しかし、江戸時代はどうだったでしょう。昨年、当時の宿場町をたどりながら長崎~江戸の旧街道ウォーキングに挑戦した方の話によると、毎日約40キロメートルを歩き、33日間かかったそうです。


 江戸時代、飛脚や早馬といった急ぎの便は別として、自らの足でたどる旅は、天候の悪化による足止めなども考えると、やはり1ヶ月前後かかったと思われます。そんな長崎~江戸の長旅を毎年の恒例行事として往来した人たちがいました。出島のオランダ商館長の江戸参府です。


 彼らが江戸へ旅立った長崎街道のスタート地点は、長崎市の桜馬場と呼ばれるかつて長崎村の庄屋が住んでいた地区です。この界隈は、長崎くんちで知られる諏訪神社の参道を下って、東にまっすぐ延びるゆるやかな登り坂の途中にあります。坂道の一角には「長崎街道ここにはじまる」と記された碑がたっています。




 碑から旧街道筋に入るとすぐ左手に、民家に囲まれ静かな佇まいをみせる「桜馬場天満宮」があります。桜馬場天満宮の世話役をつとめている方のお話によると、江戸参府の際には、必ずこの天満宮の境内に一行が勢揃いをして送り出されたので「オランダ人の出立所」と呼ばれていたそうです。そのためか、江戸末期までこの天満宮にはオランダ人からの寄付が続きました。





 ちなみに、オランダ商館長の江戸参府は、出発した後、江戸で将軍さまに拝謁するという大事な義務を果たしてもどって来るまで、おおむね3ヶ月を要したと言われています。


 桜馬場天満宮を出て街道筋を東に進むと、長崎村の庄屋跡があります。現在は市立桜馬場中学校になっていて、その校門に続く街道筋の古びた石垣は、江戸時代の昔からあったと伝えられています。そこから、さらに少し行くと左手に鳴滝へつながる脇道があります。シーボルトが開いた鳴滝塾跡があるところです。




 シーボルトやその門下生たちは、桜馬場天満宮の前を通り、庄屋の石垣の前を闊歩し、鳴滝塾へと通ったのでしょう。一方、長崎をあとにした旅人たちは、最初の難所、日見峠に向かったのでした。当時とまったく変わらぬ場所にある長崎街道はじまりの道筋。当時の名残りをたどりながら歩けば、昔の人の面影が蘇ってくるようです。




 ところで先の桜馬場天満宮のはじまりは、1607年(慶長)にさかのぼります。当時は、キリシタンの勢いが強く、長崎の市中には神社仏閣の陰もないほどだったそうです。そんな中、天満宮の尊像が祀られ、最初の社殿は今とは別の場所に建立されました。その社殿もキリシタンに瓦礫を投じられるなどの迫害を受けたといいます。その後、キリスト教が禁制となり、1621年、現在の場所に社殿ができました。桜馬場天満宮は、キリスト教が長崎に渡来して以来、初めて復興された長崎市で最古の神社だったのです。




参考にした本や資料

長崎事典~歴史編~(長崎文献社)

出島かわら版(長崎市教育委員会出島復元整備室)

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