第269号【じげもんに聞くちょっと昔の長崎】

 お生まれが昭和ひとけたの方は、現在70~80才。おじいちゃんやおばあちゃんと同居している家庭が少なくなった今では、この世代の方々と話をする機会も減っていると思います。昔の地域の様子や暮らしを知り、戦争など大きな時代の変化を生き抜いて来た方々のお話は、示唆に富みたいへん興味深いものです。今回は、長崎の昔のことを知りたくて脇口嘉子さん(75才)にお話をうかがいました。



 

 長崎市在住の脇口さんは、生まれも育ちも長崎の「じげもん」(※「じげ」は地元、「もん」は「者(もの)」の意味らしい)です。数年前、主婦業と会社勤めを両立していた日々を卒業し、現在はさまざまなボランティア活動で忙しい日々を送っています。


 脇口さんは幼少の頃、長崎くんちで知られる諏訪神社にほど近い「下西山町」で育ちました。長崎くんちで思い出に残っているのが晴れ着の話しです。「昔も今もくんちと聞いただけで気分がワクワクしますね。昔は、皆、晴れ着を着るのが常でした。ある年、紺地に赤い椿の振袖にかわいいお太鼓を付け、顔にもお化粧をしてもらって出かけようとしたら、急な雨で予定が流れたのです。くんちがなければ学校があるので、泣く泣く着替えて登校しましたね」。




 「当時のくんちの賑わいは今以上だったかもしれません。戦前までは、見せ物小屋にコグレサーカスも毎年やって来て大賑わいでしたよ」。長崎駅の近くで行なわれていたというサーカス。初耳です。脇口さんがお生まれになった1931年(昭和6)は満州事変が起きた年。その後も中国と日本の間では不穏な空気が流れていましたが、1941年(昭和16)に大平洋戦争がはじまるまでは、生活に支障はなく、物資も豊かだったそうです。




 「私が通っていた幼稚園の園長先生が、金髪で青い目をした女性の方で、『サヤモンド先生』と呼んでいたのを憶えています。子供というのは本当に不思議なもので、先生が「スタンド アップ」とおっしゃれば立つし、「シャット ア ウインドウ」だと、誰かが立って窓を閉めに行くのです。特別に英語を教えてもらったわけでもないのに、なぜか、わかるのですね」。英語の歌もごく普通にいろいろ歌っていたとか。当時、外国人の存在がめずらしくなかったいかにも長崎らしさを感じる話です。




 しかし、間もなく戦争がはじまると状況は一変します。「6才下の弟も同じ幼稚園でしたが、英語は禁止。先生は日本人に変わり、歌も軍歌に変わりました」。そして、それまで街のケーキ屋さんの店頭に並んでいたショートケーキやシュークリームがあっという間に姿を消したそうです。「海外からの輸入が途絶えて、材量が手に入らなくなったのです。バナナやパイナップルといった果物も見かけなくなりました」。




 その後、戦中・戦後と食糧不足をのりきってきた脇口さんたちの世代。平和の大切さをどの世代よりご存知です。戦争がはじまる前までは、春には土井首(どいのくび)の砂浜でアサリ採り、西山高部水源地でお花見、夏には東望ノ浜(とうぼうのはま)でハマグリやミナ採り、秋は妙相寺(みょうそうじ)で紅葉見物など、長崎の人が良く知る海や山、名所を家族で楽しんでいたと懐かしそうに語ります。「四季の行事を楽しみ、季節に応じた暮らし方をすることはとても大切なこと。また、それは平和でなければできないことなのよ」。年長者の重みのある言葉が心に残りました。

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