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  • 第332号【おいしさを科学的に追求、長崎本舗のカステラ】

     長崎のカステラが大好きな東北在住の知人がいます。その方は「カステラは近場でも手に入るけれど、本場・長崎の味は別格だ」と言うのです。そんなことを言われると、こちらもうれしいもの。全国的に知られる老舗だけでなく、あまり知られていないメーカーのものなども送って、カステラ自慢。知人は、本場の味の奥の深さを感じているようでした。 今回ご紹介するのは、「(有)長崎本舗」という小さなカステラ屋さんです。こちらは、伝統を誇る老舗ではありませんが、カステラの本場長崎で切磋琢磨して独自の味を見い出した、地元でも知る人ぞ知るカステラ屋さんです。 「お客様には、口当たりがサッパリとしておいしい、とてもしっとりしてる、といったお誉めの言葉をいただきます」と話す草野保徳社長。そのおいしさは、先代社長の浅田要三氏のこだわりから生まれたものでした。「九州大学農学部の研究室を訪ねたり、地元の学者が発表したカステラに関する科学的なデータを参考にし、共同して改良を重ね、軽やかな甘さで、なおかつ、しっとりと焼き上がる独自のレシピを開発したのです」。 南蛮時代に長崎に伝わって以来、職人たちの手によって長い年月をかけて改良を重ねられてきたカステラ。その「甘さと、しっとり感」はカステラのゆるぎない個性として、多くの人々に長く愛され続けてきました。しかし、一方で消費者は「甘さ離れ」の傾向に。先代社長は、卵、砂糖、小麦粉、水飴、ザラメ糖というカステラの原材料の配合や、焼き方などさまざまなデータを試し10年以上の試行錯誤を続けました。そして、本来のカステラらしさを保ちつつ、現代の消費者が求めるおいしさの科学的結論を出したのでした。 「実は先代社長は、根っからの数学好き。社長職を退いた後も毎日数時間むずかしい問題を解くのが日課だったほどです」。若い頃は医師を志し、地元の医学部にも合格した経験もあるという浅田氏。「しかし、当時は戦争で混乱した時代です。事情があったのでしょう、医学部をあきらめ、陸軍士官学校に行き、数学を必要とする砲兵を希望したと聞いています」。 浅田氏は戦後、長崎でパン屋を立ち上げ、のちにカステラに事業を切り替えました。ちなみにパン屋時代は、いま近代産業遺産のひとつとして注目を浴びる軍艦島や高島に卸していて、おおいに繁盛したとか。この高島炭鉱の閉山が、パンからカステラへ移行した大きなきっかけだったそうです。 浅田氏が苦慮して見い出したカステラのレシピ。「それを間違いなく継承していくのが、私の仕事です」と草野社長。原材料へのこだわりは言うまでもありませんが、その中でも特に浅田氏が「オレが死んでも絶対に変えてくれるな」と言っていたのが、水飴の種類です。通常、カステラに使用されるのは米水飴が多いそうですが、こちらの会社では、サツマイモを使った「麦芽水飴」を使用しています。これが、しっとり感やコクに大きな影響を与えるのだそうです。 現在、長崎市畝刈町にあるカステラ工場を見学させていただきました。計量から焼き上げまで、1枚のカステラを1人の職人さんが責任をもって作っています。その手際の良さ、ムダのない動きがとても印象的。科学的な根拠に基づいた配合や作り方は、そんな熟練の職人さんだからこそ、活かすことができるのかもしれません。

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  • 第331号【中島川の生物~サギ~】

     眼鏡橋をはじめとする石橋群で知られる中島川。長崎市民にも観光客にも親しまれているこの川には、いろいろな生物が生息しています。散歩がてらの観察で見かける魚類、鳥類、昆虫類は、名前がわからないものまで含めると、数え切れないほど。その中から今回は、川沿いを通るたびについつい姿を探してしまう、サギ(鷺)をご紹介します。 中島川でいつも見かけるサギは、大きい順からアオサギ(青鷺)、コサギ(小鷺)、ゴイサギ(五位鷺)の3匹(種)です。袋橋(眼鏡橋のひとつ下流にかかる石橋)から上流に向って9つめにかかる桃谷橋までの間(徒歩約10分の距離)のどこかにいて、それぞれ単独で行動しています。 サギは、広く世界に分布し(特に熱帯~亜熱帯)、種類も100を超えるとか。そのうち日本には10数種類いるようです。田んぼや沼地、川、海岸などに生息し、魚やカエル、昆虫などをとって食べます。中島川にいる3匹は、本州、四国、九州ではほぼ一年中見られるメジャーなタイプのようです。  俳句では、サギは夏の季語です。季語集には、シロサギ(白鷺/白いサギの総称)をはじめ、アオサギ、ヨシゴイ(葭五位)、ササゴイ(笹五位)、ミゾゴイ(溝五位)など仲間の名がありました。シロサギ、アオサギは日本で一年中見かけますが、それ以外は夏に南方から渡来してきます。いずれも夏が繁殖期なことから、季語になっているそうです。 「夕風や水青鷺の臑(すね)をうつ」は蕪村の句。中島川で見かけるたびに、美しいなあと思うのはこの句にも詠まれたアオサギです。70cmくらいの大きさで、長い頸(くび)の下には、青というより、灰色っぽい羽根が付いています。大きくなると90cmを超えるという日本最大のサギで、ツルと間違える人もいるとか。羽を広げるとさすがに大きく、石橋の上をさっそうと飛んで行く姿は迫力があります。 眼鏡橋そばのハートストーンがはめ込まれた護岸あたりでよく見かけるのが、コサギです。その名の通り小さなサギで、足の指が黄色いのが特長です。飛び石の上でじっと魚をねらっているかと思うと、周囲を歩き回ってみたり、他の2匹と比べると落ち着きがないタイプです。繁殖期にだけ生えるという白い2本の冠羽(かんう/後頭部の長い羽毛)がチャーミングです。 桃谷橋の近くでよく見かけるのが、ゴイサギです。背は濃紺、羽根はグレー、胸からお腹あたりは白。首は短くずんぐりとして、小型のペンギンのようなかわいらしさがあります。石の上にチョコンと乗り、ひたすらエサが近付くのを待ちます。しかし、このゴイサギは基本的には夜行性で、昼間は水辺の木で眠っていると、図鑑にはありました。日中見かける中島川のゴイサギは、エサを待つふりをしながら、昼寝をしているのかもしれません。泣き声はコァッ、コァッ。めったに聞くことはありません。 人間にこびない野生を残しながら街の中の環境に順応し、たくましく生きている中島川のサギ。あなたのお住まいの地域にもこんなサギ、いませんか?◎ 参考にした本/日本動物大百科~鳥類?(平凡社)、日本大歳時記(講談社)、バードウオッチング入門図鑑~はじめに覚える33種~(河出書房新社)

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  • 第330号【浦上街道を歩く(1)(西坂~緑町)】

     長崎の街角では紫陽花たちが固いつぼみを見せはじめました。もう半月ほど経てば、梅雨の訪れとともに満開の季節を迎えます。シーボルトゆかりのこの花は、長崎市民にたいへん親しまれ、あちらこちらに植えられています。紫陽花が咲き誇る長崎へ、お出かけの計画を立ててみませんか? さて、薫風が吹き抜ける5月の休日、浦上街道の散策を楽しんできました。長崎駅にほど近い場所にスタート地点があるこの街道は、約440年前(室町時代末期)、長崎がポルトガルとの貿易港として開港した頃に整備されたとか。長崎から浦上~時津~彼杵(そのぎ)を結ぶ街道で、長崎と江戸や大阪などを結ぶ長崎街道の一部をなす最も古いコースだといわれています。 そもそも長崎街道といえば、長崎から東に出て日見峠を越え、矢上、諫早、大村、松原、彼杵、そして嬉野へ…と続くコースがよく知られています。しかし、これは江戸時代中期頃から主流になったコース。それまでは、浦上街道が主に利用されていたそうです。その道のりは長崎から北上し、時津の港まで3里(約12km)、そこから舟で大村湾を7里(約28km)渡って彼杵へ。そして、お隣の佐賀領へ入ったのです。 大村湾という海の道を行くのが浦上街道の大きな特徴です。しかし、舟の運行は天候に左右されやすく、旅の予定にも大きく影響するため、しだいに陸路の日見峠のコースが主流になっていったのだそうです。 浦上街道の散策は、日本二十六聖人殉教地(西坂公園)のそばにある「長崎浦上街道ここに始まる」の碑の前からスタートし、西坂町~御船蔵町~天神町~銭座町~緑町と5つの町を横断する街道筋をゆっくり1時間ほどかけて歩きました。普通に歩けば30分ほどで行ける距離です。 街道は少し高台にあり、左手を見下ろすと路面電車が走る幹線道路がほぼ平行に通っています。道幅は1~2メートルほどで街道沿いには家々が軒を連ねていました。小さな起伏を繰り返しながらさらに高台へと続く道のり。運動不足の人には少しきついかもしれません。 遠くに稲佐山、そして市街地も見渡す街道筋。いまは建物にさえぎられていますが、かつては相当景色が良かったはず。この辺りは、明治以降の埋め立てですっかり景色が変っています。江戸時代は近くまで海が迫っていたそうです。街道筋には、海際で見られるような岩肌が、ところどころであらわになっていました。 今回は、のんびりとした散策だからこそ気付いた景色や歴史がいろいろありました。昭和天皇お手植えのクスノキ(西坂公園の端)、筒抜けになった西坂教会の入り口から見える福済寺の大きな観音様、街道筋ならではの供養塔やお地蔵さま、眼病にご利益があるといわれる生目神社、浦上街道に面した位置に建つ聖徳寺(江戸時代、浦上地区の住民を檀家としていたが浦上4番くずれで約600戸余りの檀家を失ったという)…。 かつて多くの旅人が往来した浦上街道。キリスト教の弾圧がはじまった秀吉の時代には26聖人(1597年)が通りました。また、江戸時代には出島のオランダ商館医ケンペルが江戸参府の際に利用し、また蘭学者で洋画家でもある司馬紅漢もこの街道から長崎入りしたといわれています。 今回、緑町まで歩いた浦上街道は、このあと浦上地区へ入ります。そのレポートは夏頃お届けします。◎ 参考にした本/長崎の史跡・北部編、長崎の史跡・街道(長崎市立博物館)

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  • 第329号【400年前、もうひとつの教会群】

     新緑がまぶしい季節、いかがお過ごしですか。長崎では陽射しも風もすっかり初夏の装い。不況のことはさておき、爽やかなこの季節を楽しみたいものですね。 ゴールデンウィークには、長崎観光に訪れる方も多いことでしょう。ここ数年、特に増えてる気がするのが長崎の教会めぐりを楽しむ人々です。いま長崎県では、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の「世界遺産」の登録をめざしていることもあり、多くの人々に注目されているようです。この遺産を構成する五島列島周辺や長崎市内などに点在する明治初期から昭和初期にかけて建造された教会群などは、たいへん見応えがあります。ぜひ、お出かけください。 ところで「世界遺産」をめざす現存する教会群とは別に、長崎には約400年前にわずかな期間で取り壊されてしまったもうひとつの教会群があったことは、あまり知られていないようです。その場所は中心市街地の一角で、長崎県庁(長崎市江戸町)から長崎市役所(長崎市桜町)を結ぶ高台を中心とした一帯です。 このあたりはその昔、長崎港に突き出た緑豊かな岬でした。1570年(元亀1)南蛮貿易港として長崎が開港したとき、この岬に新しく6つの町が造られ、町は発展していきます。つまり、この一帯は長崎が歴史の表舞台に登場することとなった最初の重要なエリアなのです。ちなみにそれ以前の長崎の中心地は、この岬から北東に2キロメートルほど離れたところ(いまの桜馬場、夫婦川町)にあり、人口1500人ほどで、素朴な城下町を形成していたそうです。 長崎開港の翌年、岬の突端には「岬の教会」とも称されたサン・パウロ教会が建立されました。この教会はのちに、当時の長崎で一番大きい「被昇天の聖母教会」に建て直され、イエズス会本部も置かれました。ここにはコレジオ(教育機関)もあり、ラテン語、水彩画、油絵、銅版画、声楽、オルガンなどを教えていたそうです。そうして長崎の町は日本におけるキリスト教の本拠地としても発展していったのです。  岬に新しく生まれた6つの町は、1580年(天正8)にキリシタン大名大村純忠によってイエズス会に寄進され、1588年に豊臣秀吉が長崎を公領とするまでの間、教会の領地でした。それは10年に満たない期間でしたが、全国からキリシタンが集まり、宣教師をはじめとするポルトガル人も市中に住み、毎日、定刻に教会の鐘が鳴り響き、街角ではパンを焼く匂いが漂い、ときにはキリスト教の祭礼らしき行列が行われるなど、「日本における小ローマ」の様子を呈していたと伝えられています。  しかし、この岬の町が自由で平穏な空気に満ちていたのはほんのわずかで、しだいにキリスト教弾圧の時代へ突入。1597年(慶長1)には西坂の丘で26聖人が殉教します。そのような中でも、この岬の一帯には、新しい教会や教会の福祉施設などが建てられ(サン・アウグスチノ教会、サン・ティアゴ病院附属教会、サン・フランシスコ教会などその数は10いくつともいわれる)、人口も江戸時代初めには5万人にふくれあがっていたそうです。 弾圧はさらに強まり、それらの教会は、1614年(慶長19)のキリシタン禁教令によってほとんど破壊されました。そんな姿なき教会群の歴史をひもときながら、この界隈を歩くと当時の教会跡の碑があちらこちらに点在していることに気付きます。しかし、小ローマの雰囲気はどこにも残っておらず、本や美術館で見る「南蛮屏風」から当時を想像するしかなかったのでした。◎ 参考にした本/近世長崎のあけぼの(長崎県立美術博物館/昭和62発行)、長崎県の歴史(外山幹夫/河出書房新社)

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  • 第328号【♪さくら、さくら♪】

     桜前線は東北あたりを北上中。今年は桜の開花が全国的に早まったとはいえ、さすがに青森以北の開花はまだちょっと先。中部、関東、東北の一部では見頃を楽しんでいる地域も多いことでしょう。日本の西端に位置する長崎の桜は、平年より4日早い3月21日に開花、3月の終わり頃に満開の時期を迎えました。開花後は、気温の低い日が続いたため花もちが良く、長崎市街地にほど近い立山公園、風頭公園といった花見の名所では、今日、明日あたりまで桜祭りが行われているようです。 満開の桜の下で、ごちそうを詰めた重箱を広げ、お酒にほろ酔い、春のひとときを楽しむ。「花見」は多くの日本人が毎年楽しみにしている行事ですね。もともと日本人には、暖かな春を迎えると、野や山、海辺に出て終日遊ぶ、いわゆる野遊びの習わしが古くからあり、いまの「花見」は現代まで残った野遊びのひとつなのだそうです。長い年月の中で日本人のDNAに刻まれた風習ならば、毎年、桜の開花日を今か、今かと待ちわびる理由に納得がいくような気がします。 「花見」と称して庶民の間で広く行われるようになったのは、江戸時代とも言われています。長崎の郷土史家によると、江戸時代の長崎には清水寺、興福寺、日見など各所に花見処があったとか。そもそも長崎のお花見は、お江戸で行われていたその習わしが伝えられたのであろうということでした。 江戸時代の長崎の名所をはじめ風俗や行事、外国人を挿し絵風に描いたものをまとめた「長崎古今集覧名勝図絵」という本があります。描いたのは、江戸末期の唐絵目利きで、長崎派洋風画家の石崎融思(1767~1846)です。その本の中にも花見の様子を描いたものがありました。「日見櫻」と題した絵で、中国人と地役人らしき日本人が、当時の長崎の桜の名所ひとつ、「日見櫻」(日見峠を越えた先にあったという)の下で酒を酌み交わしている光景です。 この本の注解を著した越中哲也先生の記述によると、融思がこの絵を描いた頃には、すでに日見櫻は何らかの理由でなくなっていたそうで、中国人と日本人を一緒に描いた「日見櫻」の絵は融思の創作であろうとのこと。しかし、こうした光景が、全くありえなかったともいえないと思わせる話を別途、越中先生からうかがいました。 当時、長崎にいた中国人は「唐人屋敷」、オランダ商館の外国人は「出島」での居住が定められ、許可なく市中へ出ることは禁止されていました。しかし、「いつも同じところに居ては息が詰まるでしょう。ですから、中国人もオランダ商館の外国人も、航海安全などの祈願を目的とした社寺へのお参りなどを口実に、ときどき外出していたようです」とのこと。実際、当時の中国人は、日見の先にあった社寺へ航海安全祈願のために出かけていたそうです。それが桜の季節ならば、「日見櫻」を、付き添いの日本の役人らとともに愛でたことがあったかもしれません。 花を愛でる気持は世界共通。遠い江戸時代の長崎の春に、外出先でのわずかな時間とはいえ、中国人と日本人、もしくはオランダ人、ドイツ人、インドネシア人などと一緒に美しい桜を眺めたことがあったかもしれない…。実際のところはわかりませんが、いかにも長崎らしい想像であります。◎取材協力/長崎歴史文化協会 越中哲也氏◎ 参考にした本/日本大歳時記~春~(講談社)、「長崎古今集覧名勝図絵」(長崎文献社)

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  • 第327号【春の味覚、つわぶき】

     ふき、わらび、新タマネギ、春キャベツ…。いま、店先を賑わせている旬の食材たち。その香り、風味、味わいは、冬の寒さをくぐりぬけたものらしく生命力にあふれ、とてもおいしいですよね。栄養価もGoodで、大量に出回るから安いのもうれしいところ。きょうはどれをいただこうかしらと迷えるなんて、本当にありがたいことです。 今回はそんな旬の食材の中から、つわぶきをご紹介します。キク科の常緑多年草で、日本では九州、四国、本州(中部)あたりまでの暖かい地域の海岸近くに自生する植物です。ですから、寒い地域の方にとっては馴染みがなく、つわぶきを長崎で初めていただいたという声もときおり耳にします。 つわぶきは同じ春の味覚である、ふき(蕗)と混同してしまう人もいるようです。実際、つわぶきという和名はふきに似ていることから付けられたとか。たしかに、長い茎の先に大きな丸い葉を付けた形は似ています。しかし、見比べたらその違いは歴然。ふきの葉はライトグリーンなのに対し、つわぶきは深みのあるグリーンでツヤがあります。 長崎地方では単に「つわ」と呼ばれることが多いつわぶき。早春から春にかけて、山野に自生しているものなどを採取して食用にしますが、街の中でも歩道脇の土手など身近なところによく生えているので、そこから摘んできて食卓にあげるという方もいらっしゃるようです。 つわぶきは、煮しめや味噌漬など、ふきと似たメニューに仕上げられますが、それぞれ独特のほろ苦さがあり、やはり違う味わいです。この時期、長崎の料亭や和食のお店では、旬のワカメ、タケノコと一緒に煮た「若竹煮」が春らしい一品として出されます。それぞれの家庭では、干し大根、こんにゃく、油揚げなどと煮たり、きんぴらやつくだ煮、おつゆの具などにしていただいています。 毎年、庭のつわぶきを摘んで食べているという料理上手の友人から、お茶漬け用の塩昆布(適量)と煮るだけのとても簡単でおいしいつわぶきメニューを教えてもらいました(みりんや醤油で好みの味に調整してください)。ぜひ、お試しください。 観賞用としても多く用いられ、多くは庭の立ち木の根締めに利用されているつわぶき。春は産毛を着た初々しい茎と葉、梅雨どきになると葉はよりつややかさを増し、さらに、晩秋から初冬にかけてあざやかな黄色の花を咲かせて楽しませてくれます。 つわぶきを調理するときは、ふきと同じく茎の皮をむいたり、水にしばらくつけてアクを抜くなどしなければなりません。忙しい現代人は、そのひと手間を敬遠しがちです。でも、子供の頃、家族の誰かと1本ずつ皮をむいた経験のある人は、指先をその渋みで黒くしながら、独特の香りに包まれたそのシーンをほのぼのと思い出されることでしょう。それは、子供にとって家族や自然の恵みとふれあういい機会でもありました。あらためて、ひと手間を惜しんではいけないなあと思うのでした。◎ 参考にした本/大日本百科事典12巻(小学館)

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  • 第326号【出島に漂うコーヒーの香り】

     やはり今年は、全国的に桜の開花が早まるらしいですね。近所にある桜の前を通るたびに、つぼみの様子を観察している人も多いのではないでしょうか。ここ数年、長崎では3月下旬に開花、見頃を迎えることも多くなったような気がします。これから先、九州のように温かな地域では、桜は入学式ではなく卒業式シーズンの花になりつつあるのかもしれません。 さて、今回は見目麗しい桜ではなく、香り高きコーヒーのお話です。コーヒーが日本に伝えられたのは江戸時代(おそらく元禄期の1700年前後)、オランダ人によって出島に持ち込まれたのが最初であろうと言われています。出島のカピタン(オランダ商館長)と仕事柄、接触のあったオランダ通詞(通訳)は、ときおりコーヒーをいただいて飲んでいたそうです。 現在、出島は、19世紀初頭の建物や室内が復元されていますが、商館員らが過ごしたという部屋を見てまわると、必ず部屋の小さなテーブルにカップ&ソーサー、そしてポットが置いてあります。当時のオランダ人たちがどれくらいの頻度でコーヒーを飲んでいたのかわかりませんが、その調度品や器を見る限り、日常的にいれたてのコーヒーなり、お茶を楽しんでいたのだろうと想像します。その器類は、たいへん洗練されたデザインで、彼らがコーヒーブレイク(またはティータイム)を大切にしていたことが伝わってくるようです。 ずいぶん前、地元の美術館で、司馬江漢(しばこうかん)が作ったというコーヒーミルを見たことがあります。たしか「阿蘭陀茶臼」と紹介してあり、現在の手回し式のミルとほとんど変わらない姿でした。司馬江漢は江戸後期の洋風画家。18世紀も終わり頃、知り合いのオランダ通詞宅にあったコーヒーミルをまねしてつくったものなのだそうです。 江戸時代のコーヒーにまつわる話でよく語られるのは、文化元年(1804)、長崎奉行所の勘定役として江戸から赴任した太田南畝(おおたなんぽ)のエピソードです。彼は当時の狂歌師、蜀山人としても知られる人物。彼が著した「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」に、長崎でコーヒーを飲んだ際の感想が次のように述べられています。[紅毛船にて「カウヒイというものを勧む」豆を黒く炒りて粉にし白糖を和したるもの也。焦げくさくして味ふに堪ず]。子どもの頃、大人たちのカップから初めてブラックコーヒーを飲み、蜀山人と同じ思いをした人もいらっしゃるのではないでしょうか。 ところで、コーヒーはアフリカのエチオピアが原産地といわれていますが、人間がどんなきっかけで、いつ頃飲みはじめたのかは諸説あり定かではありません。10世紀頃には、アラビア人たちの間で民間薬として飲まれていたそうで、その後、イスラム教諸国を経て、17世紀にヨーロッパ各地に広がっています。オランダ東インド会社(出島のオランダ人らが所属する会社)は、17世紀末には、ジャワ島などへコーヒーの移植栽培を成功させており、日本にコーヒーを伝えたとされる時期とも重なります。日本では、当初薬用として一部の人の間で飲まれるだけでした。一般に広く飲まれるようになったのは明治に入ってからだそうです。◎ 参考にした本/長崎の西洋料理~洋食のあけぼの~(越中哲也)、コーヒーの歴史(マーク・ペンダーグラスト)、コーヒー~最高の一杯COFFEE BOOK~(嘉茂明宏)

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  • 第325号【幕末の志士らの足跡をたどる~勝海舟編~】

     ご近所の庭では、早春を告げるミモザが満開。これから三寒四温を経て、本格的な春へと向かいますが、暖かい日が続くと、つい厚手のコートやセーターを1枚2枚とタンスの奥に仕舞い込んだり、クリーニングに出すなどして、あとで後悔することも。季節の変わり目です。体調と衣服の管理にはどうぞ、お気をつけください。 さて、実はいま長崎では、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の2010年の放映が決まり、その舞台のひとつになるとあって、幕末ゆかりの人物や場所などがにわかに注目を浴びています。また、幕末といえば、坂本龍馬や勝海舟をはじめ吉田松陰、福沢諭吉、榎本武揚、伊藤博文、高杉晋作、大隈重信など、多くの著名人が遊学の志に燃え、長崎を訪れた時代です。あれから130年ほどが経ち、新たな時代の転換期を迎えようとしている現代にあって、彼らの志や思いに触れることは、何か意味があるのかもしれません。 江戸から明治へ、大きく時代を動かした男たちの中のひとり、勝海舟(1823~1899)。幕府側代表として西郷隆盛と話し合い、江戸城の明渡しの任を果たしたエピソードはあまりにも有名です。 勝海舟が幕府の命を受け、長崎にやって来たのは33才のとき。ペリー来航から2年後の安政2年(1855)のことで、長崎奉行所西役所に設けられた海軍伝習所の伝習生頭役として4年間学びました。当時、海舟の宿泊先となったのが、現在、長崎駅前の筑後通りの一角にある本蓮寺(ほんれんじ)です。海舟は、この寺の境内にあった大乗院に寝泊まりしたそうです。 海舟は、長崎でお久さん(本名:梶クマ)という女性と恋に落ち、一男一女をもうけています。本蓮寺のすぐ隣にある聖無動寺(しょうむどうじ)の梶家墓地内には、お久さんのお墓があります。聖無動寺の方によると、いまもときおり、勝海舟の足跡をたどって、お久さんのお墓をたずねてくる方がいらっしゃるとか。お久さんが静かに眠るその墓地は、長崎の街や港を見渡す高台にあります。お墓に手を合わせ、そこからの景色を眺めていると、海舟とお久さんの恋が確かにこの街で育まれたことを強く感じるのでした。  ところで、聖無動寺は、出島のオランダ人とは非常に関わりのあるお寺で、オランダ船の航海安全の祈祷をしたり、江戸参府の際には、一行のために海陸の安全を祈願した守り札を贈るなどしていました。また、出島の火災時には、オランダ人の避難場所でもありました。のちに原爆で大きな被害を受けており、当時の面影は参道の階段、そして安全祈願の石灯篭などに残されているようです。 海舟は、万延1年(1860)に、咸臨丸艦長としてアメリカに渡りました。そして、万治1年(1864)には、四国(イギリス、アメリカ、フランス、オランダ)連合艦隊による砲撃を阻止するために、各国公使との談判の命を帯びて、再び長崎を訪れています。このとき、海舟に同行した門下生の中に坂本龍馬がいたのです。このときの宿泊先は海舟の日記によると福済寺。聖無動寺のお隣の寺です。どうやら筑後通り界隈は、海舟にとてもご縁のある通りのようです。◎取材協力/聖無動寺(長崎市筑後町)

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  • 第324号【幕末の志士らの足跡をたどる~龍馬編~】

     日中の気温が15度(3月中旬並)を超える日もあるなど、にわかに春めいてきた長崎。日本気象協会の予想によると今年は全国的に暖かな春で、桜の開花も早まるのだとか。長崎の市街地に近い桜の名所の山々を眺めると、樹皮の下で開花の準備が着々と進んでいるのか、桜の幹や枝がほのかに赤く染まって見えます。 そんな長崎の桜の名所のひとつに風頭山(かざがしらやま)があります。長崎の街や港を見下ろすその山には、坂本龍馬(1835~1867)の像があることでも知られています。日本の洋々たる未来へ思いを馳せるかのように外洋を見つめるその姿は、等身大の龍馬を彷佛させ、幕末の風雲児の底知れぬ魅力も伝わってくるようです。今回は、この像を出発点にして、龍馬の長崎での足跡をたどってみたいと思います。 龍馬が初めて長崎にやって来たのは、天保6年(1864)のこと。勝海舟(当時、幕府軍艦奉行並)の長崎出張の同行で、1カ月ちょっと滞在したと伝えられています。このときは長崎奉行所、長崎製鉄所、大浦の居留地にあった外国領事館などを訪ねたそうです。龍馬にとって初めての長崎は、相当なインパクトを与えたはず。このとき、近代日本の未来像を明確に頭の中に描いたのかもしれません。その後、はからずも晩年となった約4年の間に、龍馬は断続的に長崎を訪れ、特異な足跡を残すことになるのです。 風頭山を少し下ると伊良林(いらばやし)という地区に出ます。ここには、土佐藩を脱藩した龍馬とその同志らが設立した日本初の商社「亀山社中」(のちの海援隊)の跡があります。ここで海運・貿易を行いながら、倒幕運動にも参画。龍馬は維新の原動力としての大役を果たし、近代日本のはじまりに貢献していくのでした。 「亀山社中」跡から寺町通りへ下る階段は、社中のメンバーが往来したということで、「龍馬通り」と称され、親しまれています。その傾斜も急な長い坂段の途中には、「龍馬の片腕」といわれた近藤長次郎をはじめ陸奥宗光、沢村惣之丞、長岡譲吉、中島信之など亀山社中、海援隊で行動を共にした男たちに関する説明版が掲げられてます。幕末当時、同じ坂段を彼らはどんな思いで登り降りしたのでしょう。 「龍馬通り」のある寺町の近所には、幕末当時、龍馬をはじめ長崎を訪れた著名人らを撮影した上野彦馬(日本初の商業写真家)の撮影局跡もあります。場所は、中島川上流の阿弥陀橋にほど近いところ。ということは、この中島川界隈も龍馬をはじめ長崎を訪れた幕末の志士たちが闊歩したエリアであると想像できます。 長崎駅からほど近い五島町は、江戸時代、各藩の蔵屋敷が軒を連ねたエリアです。そのエリアにほど近いところに土佐藩士で藩政に関与していた後藤象二郎の仮住まいの跡があります。後藤象二郎は、慶応3年(1867)龍馬と長崎で会談。意見が一致し海援隊が組織され、土佐藩を倒幕派へと導きました。 長崎を歩けば、近代日本の夜明けに奔走した男たちの姿があちらこちらに見えかくれするから面白い。次回は、勝海舟を中心とした史跡をご紹介します。

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  • 第323号【2009長崎ランタンフェスティバル好評開催中】

     長崎の冬の風物詩、「長崎ランタンフェスティバル」が開幕しました。中心市街地は、朱色、桃色、黄色のランタンに埋めつくされ、アジアンチックなオブジェがあちらこちらでお出迎え。ランタンの幻想的でやさしい灯りに導かれるようにして歩けば、どこか架空の国に迷い込んだかのよう。いつの間にか煩雑な日常を忘れ、明るい気分になってくるから不思議です。 旧暦のお正月を祝う、「長崎ランタンフェスティバル」。今年は1月26日(月)から2月9日(月)まで開催されます。中心市街地に点在する会場6カ所(湊公園・中央公園・唐人屋敷・興福寺・浜んまち・鍛冶市)では、今年も中国獅子舞、中国雑技、龍踊り、二胡の演奏など中国色豊かな催しが毎日、行われます。各催しはだいたい夕方近くからはじまりますが、各所で配付されている「長崎ランタンフェスティバル」のチラシやインターネットなどでイベントスケジュールをチェックしてお出かけになれば、見逃すこともありません。 毎年、大勢の来場者が楽しみにしているのが、メイン会場の湊公園に設けられる干支の巨大オブジェです。丑年の今年は、「富みの牛」を意味する「金牛(キンギュウ)」のオブジェが飾られています。激流を登る鯉と、金牛に乗った中国の貴士の姿をあらわした吉祥図の構成で、その貴士は昔、中国にあった「科挙」という高級官僚登用試験で、厳しい競争を勝ち抜き、筆頭合格した人物だとか。受験シーズンでもあるこの時期、高さ8.4mもあるこの縁起のいいオブジェを見上げれば、受験を勝ちぬく勇気が湧いてくるかもしれませんね。 ちなみに、干支の巨大オブジェが作られるようになったのは12年前の虎年から。今年で12支が揃ったことになります。昨年子年のオブジェは浜市アーケードの出口の鉄橋に、亥年のオブジェは長崎市役所前にと、各所に設けられているようです。ご自分の干支を探してみてるのも楽しいかもしれません。 ところで、全部で1万5千個ものランタンを使用する「長崎ランタンフェスティバル」。今年からエコな取り組みも少しずつはじまっています。新地中華街に飾られる朱色のランタンの内500個が、白熱灯から省エネ型の電球型蛍光ランプに取り替えられたのです。明るさはほとんど変わらず、消費電力は少なくなって排出CO2を削減、電球の寿命も長くなりました。これは地元企業の三菱電機オスラム株式会社、三菱電機住環境システムズ株式会社から提供されたものだそうです。新地中華街へお越しの際は、ぜひ、エコなランタンのことを思い出してください。 カップルに人気の縁結びの神様「月下老人」のオブジェ(浜市アーケード・浜屋百貨店前)をはじめ、歴史ある唐人屋敷での「ロウソク祈願四堂巡り」、土日に開催される「皇帝パレード」や「媽祖行列」、そして眼鏡橋界隈の黄色いランタン飾りなど、今年も見どころ満載です。一番星が輝きはじめる頃、灯りはじめるランタンの景色は、本当に美しいものです。ぜひ、長崎へ足をお運びください。◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会

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  • 第322号【長崎ことはじめ(東山手~南山手)】

     1月15日を中心としたこの時期は「小正月」と呼ばれ、1年の邪気を払う行事として小豆粥を食べる地域もあります。江戸時代の長崎でも、小豆と供えていた餅を割り入れた粥を炊いて食べていたようですが、現代、そうした家庭はずいぶん少なくなったようです。小豆もお餅も食べると不思議に力がわきます。小豆粥は、もっとも寒いこの時期を乗り切るための先人達の知恵だったのでしょう。 さて、今年最初のテーマはお正月らしく「ことはじめ」にちなんだ記念碑をご紹介します。これまで当コラムでもずいぶん取り上げてきましたが、長崎には「日本で最初」といったものがたくさんあります。街角にはそういった記念碑が各所に設けられているのですが、意外に見過ごされているようです。無言でひっそりと建つ「碑」そのものは地味ですが、観光地におけるゆるぎない記念撮影スポットであることに変わりありません。訪ね歩けば、「あら、こんなところに!」「やっと見つけた!」といった小さな感動ももれなく付いてきます。 今回は、観光客の皆さんがよく訪れる東山手、南山手界隈からピックアップしました。ひとつめは「近代塗装伝来の碑」。新地中華街そば湊公園内の一角にあります。碑文には、「わが国における本格的なペイント塗装は幕末より明治初年にかけて導入された洋風建築にはじまっているが、長崎出島のオランダ屋敷内では18世紀中頃すでに一部の建物にペイント塗装が行われていた。…」とあります。碑を建立したのは日本塗装工業会九州支部連合会とあります。なるほど、この碑は知る人ぞ知る、けっこうマニアックな碑といえるかもしれません。 湊公園からほど近い「大浦海岸通り」一帯は、かつて外国人居留地だったこともあり、「日本初」に限らず、近代日本の歴史を刻んだ碑が特に多い地域といえます。「我が国鉄道発祥の地」と刻まれた碑もそのひとつです。慶応元年(1865、英国人貿易商トーマス・グラバーが、この海岸沿いに数百メートルのレールを敷き蒸気機関車を試走させたことを記念した碑で、碑文によると、このアイアン・デューク(鉄の公爵)号という英国製の蒸気機関車は、日本の近代化まで牽引したとありました。機関車ファンならずとも、日本ではじめてレールが敷かれたこの海岸沿いを一度は訪れてほしいです。 この「大浦海岸通り」から徒歩数分でグラバー園のふもとへ出ます。お土産屋さんが連なる坂の下にある「ホテル」の前に、「わが国ボウリング発祥の地」という比較的新しい碑が建っています。ボウリングのピンとボールが型抜きになったおしゃれな碑で、平成15年(2003)に日本ボウリング場協会によって建立されたものです。説明文によると、日本最古のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が幕末の文久元年(1861)6月22日にここ大浦に開業されたとありました。当時、新装開店を告げる新聞広告も、日本で初めての英字新聞「ザ・ナガサキ・リスト・アンド・アドバタイザー」に掲載されたそうです。 ちなみにボウリング発祥の碑は、いつ頃からのものかわかりませんが、もうひとつ古いタイプが、「ホテル」横の坂道のお土産屋さんの一角に残っています。この「ホテル」の前には、ほかにも「国際電信発祥の地」「長崎電信創業の地」といった、ことはじめの碑が建立されています。幕末・明治期、この一帯はある意味、磁場のような存在となって、時代のうねりを生み出していたのかもしれません。 本年もいろんな視点で長崎の魅力を発信したいと思っています。どうぞよろしくお願い申し上げます。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第321号【家族の絆を深める雑煮】

     きょうはクリスマス・イヴ。気のおけない友人や家族と和やかなひとときを過ごせたらいいですね。クリスマスが過ぎるといよいよお正月の準備も大詰め。店頭はどこも、お正月関連の品々でいっぱいです。八百屋などでは長崎の雑煮に欠かせない唐人菜(長崎白菜)やくわいが待ってましたとばかりに店先に姿を現しました。 雑煮といえば、地方色が多彩なことで知られています。おおまかに分けると、東は角餅ですまし仕立て、西は丸餅で味噌仕立てとよく言われます。長崎は、丸餅ですまし仕立てなので、東西混合のパターンというべきなのでしょうか? 雑煮がお正月の定番になったのは、室町時代だといわれ、江戸時代の末期になると、多くの庶民が雑煮でお正月を祝っていたとか。前述の「東は角餅で…、西は丸餅…」というのも、江戸時代中期には、すでにそういうスタイルであったことが当時の関西人、関東人によって記されているそうです。 雑煮に入れるお餅も地域や家庭によって、角餅や丸餅を、焼いたり、焼かずに煮るなどさまざまです。中でも珍しいのは四国の香川県で、小豆のあん餅を使います。あんが白味噌仕立ての汁によく合うのだそうです。また、北関東から東北地域にかけて、餅を入れない地域もあり、里いもや大根などの根菜類などを煮た雑煮を食すとか。雑煮にはその地域独自の風俗・風習が色濃く残っているようです。 さて、長崎の雑煮は具だくさんで知られています。ブリ、伝統野菜の唐人菜、丸餅を基本に、鶏肉、かまぼこ類(紅・白・昆布巻)、大根、にんじん、ごぼう、里いも、くわい、しいたけ、たけのこ、きんこ(乾燥ナマコ)、卵焼など多いところでは全部で13種くらいがお椀に入ります。それより少なくても、具材の数は祝いをあらわす奇数にするのが決まりです。 同じ長崎でも、やはり地域や家庭ごとに特色がありました。その昔、捕鯨が盛んだった長崎県北部出身の知人は、子どもの頃の雑煮には鯨肉が入っていたといいます。長崎の市街地でもそうしたお宅がありました。いまでは高価になった鯨肉ですが、お正月料理の食材として欠かせないお宅も多いようで、この時期、長崎の鮮魚店や精肉店などでは鯨肉が目立つ場所に並べられています。 全国には長崎のように具材が多い地域もあれば、シンプルにお餅と青菜だけという地域もあります。今回、参考にするために地元や県外の友人たちと電話やメールで雑煮の話をしました。餅の形や具材の種類の違いに驚かされたりしながら、おおげさにいうと、日本の食文化の奥深さをしみじみ感じました。 その中で、地元ではなくお祖母さんの出身地の雑煮をつくっているとか、嫁ぎ先の具材が実家と違っていてカルチャーショックを受けたとか、お嫁さんが来てからちょっと具材が変わったなどの話がありました。雑煮には、脈々と受け継がれる家族の歴史も込められているようです。年のはじめ、そんな雑煮を一緒に食べることは、家族の絆を大切にすることなのだとあらためて思いました。 今年もご愛読いただきありがとうございました。どうぞ佳い年をお迎えください。◎参考にした本/日本の「行事」と「食」のしきたり(新谷尚紀 監修/青春新書)、全集・日本の食文化第12巻~郷土と行事の食~(雄山閣出版)

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  • 第320号【天草のキリシタン文化を訪ねて(2)】

     赤と緑のクリスマスカラーが目立ちはじめた街角。忘年会やパーティーの季節ですね。自慢の手料理でいつも仲間をもてなしてくれる友人が、「人が集うときのいちばんのごちそうは、『会話』なのよ」と言っていました。この冬のみなさんのさまざまな集いが、温かく楽しいものでありますように。 さて、先週に引き続き「天草史跡見学会」の後編です。一行は、天草下島をさらに南下し、山あいにある大江天主堂(天草市天草町大江)を訪れました。大江はキリシタンの里のひとつで、人々は厳しい迫害の時代もひそかに信仰を守り続け、明治になって信仰の自由が得られると、いちはやく教会を建てました。現在の白い教会は、昭和8年にフランス人のガルニエ神父が私財を投じて建てたもの。五足の靴の一行は、天草弁を話すこの神父に温かく迎えられたといいます。大江天主堂のそばには、「天草ロザリオ館」があり、かつてのキリシタンの暮らしや信仰の様子を伝える遺品や資料が展示されていました。 大江をあとにして海沿いのルートを辿ると、ここもキリシタンの里である崎津に出ました。波静かな湾のほとりに建ち並ぶ民家。その路地裏を歩くと突如として、ゴシック様式の崎津天主堂(天草市河浦町崎津)が現れます。明治以降、教会は3度建て直されており、現在の教会は昭和9年に建造されました。禁教の時代、この場所には庄屋があり、毎年踏み絵が行われていたそうです。ちなみに、長崎の浦上天主堂も踏み絵が行われた庄屋跡に建てられています。 昼食は島の小さな旅館でいただきました。野菜や魚介類など新鮮な地元の食材を使い、手間ひまをかけて作ってくれたごちそうです。天草の郷土料理、「せんだご汁」もありました。これは、宣教師が伝えたといわれる料理で、野菜の旨味がたっぷりのコクのある汁に、モチモチとしたのジャガイモの団子が入っています。長崎にはありそうで、ない料理です。地元の海で採れる緋扇貝(ひおうぎがい)の刺身もいただきました。オレンジや黄、紫のカラフルな貝殻で、ホタテ貝のような味わいでした。 ところで前回、地理的にも近い天草と長崎は何かとゆかりがあるという話をしましたが、江戸時代初めに起きた天草・島原の乱以後、天草は天領になりますが、同じく天領であった長崎とは、往来がしやすかったという話を聞きました。また、天草はもともと肥後国(熊本)ですが、明治に入ると一時期、長崎府や長崎県の管轄に入ったこともあったそうです。 一行は「天草コレジオ館」(天草市河浦町)を訪れました。「コレジオ」とは英語で言う「カレッジ」のこと。16世紀末、宣教師養成を目的とした神学校の最高学府「天草コレジオ」が、この地にあったといわれ、印刷や音楽など当時のヨーロッパの進んだ技術や文化も伝えたそうです。天正遣欧使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンも、帰国後の数年間、ここで学んでいます。館内には、当時もたらされた印刷機や西洋楽器などが展示されていました。 このあと、天草市本渡地区へ移動し、天草四郎率いる一揆軍の軍旗として使用された「天草四郎陣中旗」(国の重要文化財)を展示した「天草切支丹館」、45脚もの角柱で支えられた珍しいアーチ型石橋「祇園橋」、勝海舟が二度訪れ、本堂の柱に落書きした跡が残っている「鎮道寺」なども見学。小さな島ですが、一日では巡れないほど見どころが多彩。長崎と似ているけどちょっと違う雰囲気を感じるキリシタンの歴史を振り返りながら、再び船に乗り帰路についたのでありました。

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  • 第319号【天草のキリシタン文化を訪ねて(1)】

     早いもので、あと数日で師走ですね。長崎では、先週あたりから急に冷え込んで、街行く人々は厚手のセーターやコートに身を包みはじめました。気温が低くなるほどに、ますます食べたくなるのが、温か~いちゃんぽんです。夕暮れの帰り道、木枯らしが運んでくる夕飯のちゃんぽんの匂いは、気持ちがなごむ幸せの匂い。今日も、長崎の街角に漂っています。 さて、今回は11月8日に行われた長崎日本ポルトガル協会・長崎歴史文化協会共催の「天草史跡見学会」を通して、キリシタンにまつわる天草の歴史風土をご紹介します。天草は、天草灘を隔てた長崎県の南東部に位置する熊本県の島です。正確には「天草諸島」といって、天草上島、天草下島、御所浦島などの島々で構成されています。今回の見学会では天草下島を巡りました。 天草は、距離的に近いこともあり、長崎とは何かとご縁があります。よく知られているのは、幕末の長崎の開港にともなう南山手や東山手の外国人居留地の造成にまつわる話です。石畳や護岸用の多くの石材は天草産が使用されているのです。石工も天草の方々が多く活躍したそうです。「天草史跡見学会」の参加者(約30人)は、長崎市の茂木港からフェリーで天草・富岡港へ渡りました(所要時間70分)。ちなみにこの茂木~富岡のルートは、今から約100年前の明治40年、世に言われる「南蛮ブーム」の先駆けとなった「五足の靴」と呼ばれる若き文豪たち(与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・木下杢太郎・平野万里)が、長崎から天草へ渡ったときと同じルートです。 富岡港からバスに乗り込み、島の西海岸沿いを南下。美しい海原やのどかな里山が連なる景色が続き、途中、何度も細く小さなトンネルを抜けて行きました。かつては、島内の隣の地区との往来も海路を利用したであろうと容易に想像できるほど、小さな山が入り組んでいます。「隠れキリシタンの里」と呼ばれる地域がこの先にあることがうなずけるような気がしました。参加者の中に、山登りが趣味という方がいらして、「天草の山は低くて簡単に登れそうに見えるけど、意外に難所が多いんですよ」とおっしゃっていました。 そんな天草に、キリスト教が伝えられたのは、ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えてから17年目の1566年(永禄9)のこと。ポルトガル人宣教師ルイス・アルメイダが、この天草下島の北部(富岡港を擁する苓北町あたり)を治める志岐氏に招かれて来たといいます。当時、天草は志岐氏を含む5人がそれぞれの領地を支配していましたが、中でも最も有力だったのが志岐氏でした。その領民500人は、またたく間にアルメイダの洗礼を受け、クリスチャンになったと伝えられいます。  一行が乗せたバスは、東シナ海に沈む夕日の絶景スポットとして知られる十三仏公園へ。国の名勝・天然記念物に指定された「妙見浦」と呼ばれる海岸の風景を楽しみました。公園内には、夕日を夫婦で堪能した与謝野夫妻の歌碑もありました。与謝野夫妻は昭和7年に子どもを伴ってこの地域の庄屋をつとめた上田家に宿泊しており、600坪の敷地に、7代目当主が1815年に建てたという日本家屋は文化材として大切に保存されていました。(次回に続きます)

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  • 第318号【フランスの家庭に伝わるケーキのお店「リトルエンジェ ルズ」】

     北の各地から初雪の便りが届きはじめています。南国・九州の長崎はまだ秋うららの過ごしやすい日が続き、街路樹も最近になってようやく本格的に色づきはじめたばかりです。秋の観光シーズン真只中ということもあり、きれいな紅葉が舞う石畳の街を、旅行者や修学旅行生たちが楽しそうに行き交っています。本当に美しい長崎の秋、あなたもぜひお出かけください。 今回は、長崎の小さなケーキ屋さん「リトル・エンジェルズ」をご紹介します。全国のスイーツファンの間では、つとに有名なお店で、中でもチーズケーキ「フロマージュ」と「クレームブリュレ」は、雑誌やTVでも紹介されるほどの人気商品。長崎の繁華街の一角にある「リトルエンジェルズ・万屋店」(長崎市万屋町)には、地元客はもちろん、観光客の方々や修学旅行中の学生さんなどの姿が後を絶ちません。 タルトやムース、クッキーなど多彩な洋菓子が揃った「リトル・エンジェルズ」。そのおいしさを生み出しているのは、パティシエのフランス人マダム、ベレニスさんです。15年前、長崎に嫁いで来たのをきっかけに、この街でケーキ屋さんを開店しました。「フランスの家庭には、祖母から母、そして子どもへと受け継がれるお菓子のレシピがあります。そんなフランスの豊かな食文化を日本の皆様へお伝えしたいと思ったのです」とベレニスさん。故郷ロワール地方で過ごしていた頃は、お母さんや妹さんたちと、新鮮な卵や牛乳、そして庭や近くの森から摘んできた季節のフルーツを使ってお菓子作りを楽しんでいたそうです。 「素材には徹底してこだわります」というベレニスさん。たとえば、人気商品のチーズケーキ「フロマージュ」も「クレームブリュレ」も、旭川産の牛乳と長崎の契約農家から届けられる新鮮な卵を使用。チーズケーキ「フロマージュ」は、直火でじっくり時間をかけて焼き上げられ、素材の風味豊かな上品でクリーミーな味わいです。「クレームブリュレ」は、香ばしく焼き上げた表面のキャラメルと、その下のなめらかなクリームが絶妙のバランス。バニラビーンズの甘い香りに思わずうっとりしてしまいます。 ベレニスさんのお菓子作りの思い出のひとつに、クリスマスケーキがあります。「クリスマスの一ヶ月前から、何度もケーキを作る練習をさせられました。そんなふうにして、いつの間にかケーキ作りのコツや勘を養っていたようです」。当時はクリスマスになると、親せきや友人など総勢40人近くが集まり、おおいに語らい賑やかに過ごしたとか。手作りのケーキと、フォアグラ、生カキ、エスカルゴなどおいしいメニューを囲んで過ごしたアットホームなひととき。深夜、教会から帰ると、ツリーの下には家族一人ひとりへのプレゼントがそっと置かれていたそうです。 クリスマスの夜は、毎年うれしさのあまりなかなか寝つけなかったというベレニスさん。そんな人との絆や愛があふれる思い出がつまったクリスマスケーキが、この冬も「リトルエンジェルズ」から期間限定で発売されます。新鮮な牛乳をたっぷり使った真っ白なムースに、木苺や苺をミックスをしたフルーティーな味わいが爽やかな「レーヌ・ブランシュ」と、甘さ控えめのチョコレートムースに香ばしいヘーゼルナッツやサクサクのフィヨンティーヌが入った「チョコレート・ムース・シャモニクス」の2タイプ。ケーキの上のサンタクロースやキノコなどの飾りは、買った方がご自分で好きなように飾れるという小さな楽しみがあります。 今年のクリスマス、洋菓子の本場フランスが香る「リトルエンジェルズ」のケーキを味わってみませんか?

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