第333号【福沢諭吉が過ごした長崎】
[福沢諭吉の「何にしようか」~100年目の晩ごはんレシピ集~](ワニマガジン社/2001年発行)というユニークな本があります。内容は、福沢諭吉が創設した「時事新報社」が発行した新聞「時事新報」に掲載された料理のレシピを、復刻料理として写真付きで紹介したものです。新聞掲載時は、日本の食卓に諸外国の味付けが広く取り入れられはじめた頃と思われ、近代化をめざして急激に世の中が変化していた当時の様子が、食の面からうかがえます。
そのレシピの中で特に気になったのは、明治26年10月21日付けで掲載された「土耳其めし」です。「土耳其」は「トルコ」と読みます。鶏肉(または牛肉)のスープで炊きあげたバターライスのことです。実は長崎には戦後、誕生したとされるローカル・フード「トルコライス」がありますが、その発祥は諸説あって定かではありません。この「土耳其めし」なるものが長崎のトルコライスのルーツの解明につながるかもしれません。
冒頭からちょっと回り道をしてしまいましたが、今回は、トルコライスではなく、福沢諭吉の話です。慶応義塾の創立者で知られる諭吉もまた、幕末、志に燃え長崎で学んだ若者のひとりでした。
中津(大分)藩士の次男だった諭吉は、1854年(安政1)、19才のときに長崎へやって来ました。同じ中津藩家老の子であった奥平壱岐(おくだいら いき)の世話で、光永寺(長崎市桶屋町)に約半年過ごし、その後、さらに砲術家として知られる高島秋帆門下の山本物次郎の家に半年過ごして蘭学を学んでいます。
長崎での滞在はわずか1年ちょっとではありますが、のちに「福翁自伝」(福沢諭吉の自伝で、山本物次郎の家の食客になったことを「私の生来活動の始まり。」と記し、そのほか長崎遊学時のエピソードをつぶさに語っています。また、諭吉はお酒がとても好きだったそうですが、長崎滞在中は自粛。勉学に励み、客人を相手にするとき以外は飲まなかったとも伝えられています。老年になった諭吉にとって、長崎で過ごした若き日々は間違いなくまぶしい青春の1ページだったようです。
長崎滞在中の諭吉の足跡をたどってみました。まずは、最初に過ごした光永寺。眼鏡橋より少し上流の中島川沿いにあります。そこから、徒歩3分ほど離れたところに山本物次郎の家があったようです。現在、その辺り(出来大工町)は、当時は町司(ちょうじ)と呼ばれた長崎奉行直属の下級地役人らが住んだ長屋があったところで、町司町(ちょうじまち)とか町司長屋と呼ばれていたそうです。諭吉が使用したと伝えられる井戸が残っています。「福翁自伝」には、諭吉がこの井戸端で、水を汲み、担いで一歩を踏み出そうとした瞬間、ガタガタと地震(安政の大地震)の揺れに合ったという記述が残されています。
かつての町司町から長崎奉行所立山役所跡(現在、長崎歴史文化博物館)まで徒歩2~3分。そこからさらに徒歩2分のところに諏訪神社があり、参道には諭吉の銅像が建てられています。長崎での諭吉は、いずれも徒歩2~3分でつながるこの界隈で多くの時間を過ごしたと思われます。ちなみに、長崎奉行所立山役所跡と諏訪神社の間には、1万円のユキチさんの産みの親である日本銀行の、長崎支店があります。こじつけではありますが、何だか不思議なご縁を感じるのでありました。