第334号【亀山社中の志士らが闊歩した通り】
沖縄地方は一足先に夏を迎えました。長崎など九州北部地方の梅雨明けは、夏休みがはじまる直前になるパターンが多いのですが、今年はどうなのでしょう?入道雲がまぶしい季節が待ち遠しいものです。
梅雨の晴れ間を利用して、長崎の市街地の一角にある「若宮通り」、「寺町通り」を散策しました。この二つの通りは、坂本龍馬が慶応2年(1866)に長崎で結成した「亀山社中」跡に通じ、幕末、長崎に集まった若き志士たちが闊歩したであろうと想像されるところです。
「亀山社中」跡は、「伊良林」という長崎市街地を見渡す高台にあります。そこから右手に下れば「若宮通り」、左手に下れば「寺町通り」に出ます。二つの通りはつながっていて、その道筋には江戸時代に創建された10数の社寺が建ち並んでいます。人通りの少ない静かな界隈で、寄り道せずに歩けば15分ほどで通りぬけられる距離です。それぞれのお寺には、文化財や江戸時代の著名人のお墓などがあるので、時間があるときゆっくり訪ね歩くのもおすすめです。
ところで、長崎市街地の地図をみると、長崎港にそそぐ中島川の流れに平行する通りと、そこに直角に交わる通りが複数あり、碁盤の目のように町がつくられているのがわかります。たとえば、「寺町通り」は中島川にほぼ平行するようにあり、その間には、同じく平行して「中通り」(現在の中通り商店街)があります。それらの通りを横切るように、中島川にかかる石橋から「寺町通り」の各お寺に通じる道筋がきれいに整っているのです。
長崎歴史文化協会の古老によると、このように長崎の町が整備されたのは、江戸前期、寛文の大火(長崎の市中の50数カ町を焼き付くした)のあと、まちの復興の総指揮をとった当時の長崎奉行、牛込忠左衛門によるものだとか。学問や詩学に秀でた牛込氏は京都趣味だったそうで、都のつくりにならったのだろうということでした。
また古老は、亀山社中の若者たちは、「若宮通り」にある「光源寺」の横に出る道をよく利用したのではないかとおっしゃっていました。そこから中島川沿いの八幡町に出て、「中通り」を通っていたと考えられるそうです。
八幡町の界隈には「大井出橋」があります。現在はコンクリート橋になっていますが、江戸時代には風情ある石橋でした。古老は、この橋にまつわる宇和島藩士の二宮又兵衛綱宏のエピソードを教えてくれました。二宮氏は、1867年3月京都で龍馬が暗殺された後、亀山社中を運営した人物。しかし、同年8月には、不正を叱った相手に逆恨みされ、「大井出橋」付近で襲撃を受け亡くなったそうです。
享年29才。二宮氏のお墓は、光源寺にあります。よく学び、剣術にも長け、得がたい人物としてたいへん惜しまれという二宮又兵衛綱宏。彼はシーボルトの門下生のひとりとして知られる二宮敬作の甥でもありました。
◎取材協力/長崎歴史文化協会