第335号【この夏、体験!軍艦島クルーズ】

 明治期より炭鉱で栄え、1974年の閉山後、長く無人島になっていた端島(通称、軍艦島/長崎市高島町)。いま、この島が、近年の廃虚ブームや、世界遺産の候補として今年、暫定登録された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産のひとつとして、大きな注目を浴びています。




 長崎港から南西約19キロの沖合いに位置する軍艦島。いま島内は、見学通路が整備され、この春から35年ぶりに一般公開されています。先日、初めて軍艦島に上陸できる長崎港(大波止)発着のクルーズ(やまさ海運/要予約)に乗船しました。定員200人というクルーズ船は満席状態で、乗客は小学生からお年寄りまで幅広く、特に若い女性が多いのには驚きました。




 この日の天候は曇り。少し波がありましたが、船が揺れるほどではありません。観光案内の船内アナウンスが流れる中、クルーズ船は女神大橋をくぐって外洋へ。伊王島、高島、中ノ島と小さな島々を通り過ぎ、約40分で軍艦島のそばまで近付きました。


 空は青空が広がりはじめたものの、海上は風があり、少し白波が立っている状態。クルーズ船は、船を着ける「ドルフィン桟橋」付近の波を確認し、間もなく、波の様子が上陸可能な規定を超えているため、今回は上陸できないというアナウンスを流しました。参加者はみな落胆しながらも、状況によっては、そういう場合もあると前もって伝えられていたため、軍艦島の周囲をゆっくり一周しはじめた船上から食い入るように廃虚の島を眺めました。




 軍艦島は、周囲わずか1.2キロの小さな島です。最盛期の昭和30年代前半には約5300人の島民が暮らし、その人口密度は当時の東京の9倍だったと言われています。学校、病院、商店、映画館、パチンコホール、そして神社やお寺もあり、子供たちの元気な声が絶えない賑やかな島でした。しかし、いまでは主人を無くした建物たちが、無言で朽ちて行く姿をさらけ出しています。コンクリートの荒野と化したこの光景は、日本が近代化に向けて走り抜いた夢の跡のよう。それをどう受け止めたらいいのかわからず、いろいろな思いをめぐらせました。




 島内の建物が肉眼でしっかり見える近さで、島の周囲を回るクルーズ船。「ドルフィン桟橋」がある島の南東側は主に鉱業地区で、炭鉱関係の遺構が多く見られました。北東部には、7階建ての端島小・中学校や端島病院などの建物が残っていました。続いて北西部へ回ると、クルーズ船は少し島から離れて島全体が見える位置へ移動。戦艦土佐に似ているといわれる軍艦島の姿を一望しました。ここ北西部は主に鉱員さんたちの居住地区で、コンクリート造りのアパートが所せましと建っていました。その中には、日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートといわれる7階建ての建物もありました。夜には各家庭や炭鉱施設の電気が煌々と照らされ、さながら不夜城のようだったと伝えられています。




 今回、上陸はかなわなかったものの海上から十分に堪能できた軍艦島。帰路では、何メートルも低空飛行するトビウオを見ることができました。近代産業の歴史を振り返りながら、爽快な海上の景色も楽しめる「軍艦島クルーズ」。この夏、お出かけになりませんか。



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