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  • 第449号【唐あくちまきと長崎港】

     4月の陽気に誘われてまちを歩けば、早くも鯉のぼりを立てているお宅がチラホラ。一緒にいた70代の女性が、「長崎の五月の節句といえば、唐あくちまきと柏餅。我が家でも以前は必ず作って供えていたのよ」。しかし、息子さんたちが進学や就職で親元を離れてからは、作ることもなくなったとか。そんな話の後、急に食べたくなって、おまんじゅう屋さんで「唐あくちまき」を買い求めたのでした。 さらしで作った棒状の袋入りで売られている「唐あくちまき」。端午の節句を前にした時期から特に需要が増えるようで、店頭でよく見かけるようになります。「唐あくちまき」は文字通り、ちゃんぽん麺にも欠かせない「唐あく」を使ったちまきです。「唐あく」を溶かした水を餅米に吸水させ、さらし袋に入れ、2時間ほどゆでて作ります。さらし袋から取り出した棒状のちまきは、糸を使って切り分け、きなこや砂糖などをかけていただきます。「唐あく」独特の風味と、飴色をした餅米のねばり。クセになるおいしさです。 「唐あくちまき」は中国にゆかりの深い長崎で、すでに江戸時代には食されていたことがわかっています。地元の料理研究家の方によると、「唐あく」はアルカリ性なので、肉食などで酸性に偏りがちなときに、唐あくを使った食品を食べると良いとか。また、唐あくは漢方薬のひとつであり、「身体の邪気を払う」ともいわれているそうです。  「唐あくちまき」の入った袋をぶら下げて、「長崎水辺の森公園」へ。長崎港に面したこの公園では、風のいい日にはハタ揚げを楽しむ光景が見られます。この日、大きなクルーズ客船の姿がありました。「セレブリティ・ミレニアム」という約91,000トンの船で、先月長崎に入港した「クイーン・エリザベス」にも匹敵する巨大さです。もうすぐやってくるゴールデンウィーク(4/26~5/6)中には、長崎港に計6隻のクルーズ客船が寄港する予定です。 ゴールデンウィークは、長崎港から目が離せません。この時期恒例の「長崎帆船まつり(4/27~5/1)」も開催され、「日本丸」ほか「パラダ」(ロシア)、「コリアナ」(韓国)などの美しい帆船が港に集い、関連イベントで賑わいます。 長崎港での催しを楽しむために「長崎水辺の森公園」を訪れたら、ぜひ対岸の造船所にも目を向けてみてください。世界遺産に推薦されている『明治日本の産業革命遺産』の構成資産のひとつである「ジャイアント・カンチレバークレーン」の姿が確認できます。これは、いまから100年以上も前に三菱長崎造船所に建設された日本で初めての電動クレーン(高さ61.7m)で、いまでも荷物を積む際に使われているそうです。 440年以上も前に遡る開港前までは、日本の津々浦々で見られるような何の変哲もない入り江のある村だった長崎。その後、中国、ポルトガル、オランダとの貿易が行われ、明治に入ると近代化に突き進む日本を象徴する造船所ができるなど歴史に残るさまざまな光景が繰り広げられてきました。「唐あくちまき」もこうした歴史のなかで、中国から伝わり長崎の食文化として根付いたのです。いまは、人々の笑顔が集うこの港で、潮風に吹かれながらめくるめく歴史を振り返ってみるのもいいかもしれません。 ◎参考にした本/「長崎の菓子~甘味のちゃんぽん文化~」(大坪藤代 著)、「広報ながさき759号」(長崎市)

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  • 第448号【長崎・春便り】

     いま東日本を北上中の桜前線。一方、3週間ほど前に開花した長崎は、4月に入る直前の春の嵐でソメイヨシノはいっきに花びらを落としはじめました。沿道の桜並木から舞い散る花びらのなかを、小さな路面電車がくぐりぬける様子はまるで映画のワンシーンのよう。春、ほんの数日しか出会えない風景です。  一足先に新しい季節がやってくる九州。日中の日差しは、早くも初夏の気配が漂い、長崎港を囲む山々の緑も日々まぶしくなっています。眼鏡橋がかかる中島川では、イソヒヨドリがさえずり、ムクドリが水浴びをするようになりました。ちなみに青色と赤褐色のコントラストが美しいイソヒヨドリは雄で、雌は全身が暗褐色の地味な姿をしています。全国の海岸などに繁殖し、長崎でも港の岸壁あたりだと見つけやすいです。  中島川を上流(片淵方面)に向かって歩くとマガモの姿がありました。黄色いクチバシ、緑色の頭、こげ茶色の胸、白い首輪など色鮮やかな姿をしています。これは雄で、雌は全身が黒褐色をしています。マガモは、以前はもっと下流の眼鏡橋界隈にいましたが、一昨年くらいから姿を見かけなくなっていました。餌のある草地を求めて上流へ移動したのかもしれません。ちなみにマガモは全国的に見られる水鳥ですが、一部の地域では軽度に絶滅の危機が懸念されるとしてレッドリストに載っているとか。これからもマガモを見守っていきたいものです。  まちのあちらこちらで、春のやわらかな野草の生い茂るさまを見ると、ときに雑草と呼ばれる植物のたくましさを思い知らされます。うつむきかげんに紫色の花をつけるスミレ。「山路来て何やらゆかしすみれ草」(芭蕉)、「菫ほど小さき人に生まれたし」(夏目漱石)などの句からもうかがえるように、その姿は日本人の感性をくすぐるのですが、その可憐な姿とはうらはらに、スミレ自身はたいそうしたたかです。あんな小さなカラダでタネを3メートルも飛ばしたり、またアリを利用していろんなところに運んでもらったりして長く生き残ってきました。  ギザギザの葉を持つタンポポは、葉を地面のすぐ上で放射状に伸ばしています。このような付け方をした葉を「ロゼット葉」といいますが、これは、その植物が踏まれる事を前提にした生育の仕方。踏み付けられるからはじめから上に伸ばさないそうです。茎の方は基本、まっすぐに伸びて花を咲かせますが、踏み付けに対する耐性を持っていて、何度が踏まれると、茎を横に伸ばして花をつけるそうです。  踏まれたら立ち上がるという無駄な努力はせず、踏まれながら生きる知恵を働かせるロゼッタ葉の野草。帰り道、路上販売のわらびやタケノコを買い求めながら、自然界の奥深さを思うのでありました。  ◎参考にした本/「野鳥ガイドブック」(志村英雄、山形則男、柚木修 共著)、「雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方」(稲垣栄洋 著)

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  • 第447号【マルコ・マリ・ド・ロ神父のこと】

      フランス北西部に位置するノルマンディー地方。世界遺産の『モン・サン=ミシェルとその湾』があることで知られています。サン・マロ湾に浮かぶこの孤島の聖地から、そう遠くないところにヴォスロールという農業や酪農の盛んな村があります。そこは、今回ご紹介するマルコ・マリ・ド・ロ神父の故郷。自然豊かな風景のなかに石造りの教会や古城などが点在する美しい村です。    ド・ロ神父(1840-1914)は、明治時代、長崎のキリシタンゆかりの地である外海(そとめ)という地域で、私財を投じて、教会堂の建設や医療・福祉活動、土木・農業分野での技術指導、さらにはソーメンやパン、マカロニなどの製造と販売、イワシ網工場の設計・施工などを行い、貧困にあえいでいたこの地域の人々の暮らしの支援に生涯を捧げた人物です。現在、活動の中心地となった外海の「出津(しつ)」というところには、ドロ神父が手掛けた出津教会、旧出津救助院などがあり、イワシ網工場だったところは、「ド・ロ神父記念館」として、活動の足跡を紹介する施設になっています。    ド・ロ神父の人類愛に満ちあふれた偉業を知るにつれ、気になったのが、その生い立ちや人柄でした。これまで幾度か外海に足を運んだ際に出会ったシスターや地元の方の話、そして、ド・ロ神父について書かれた本などから伝わってきた人物像は、「日だまりのような人」。明るくユーモアがあり、外海の人々にたいへん慕われていたそうです。ド・ロ神父のもとには、子どもたちがよく集まり、そのなかには黒い司祭服を握りしめて離さない子もいました。そのためド・ロ神父の衣服の腰あたりは、かわいい手の仕業でいつもテカテカしていたとか。「ド・ロ神父記念館」の前に建つ銅像を見るたびに、このエピソードを思い出します。    ド・ロ神父は、ノルマンディーの貴族の出身。広大な農場を持つ家は、たいへん裕福だったそうです。『神父ド・ロの冒険』(森禮子 著)によると、両親は堅実で、子育てもしっかりしていました。三人の息子(ド・ロ神父は次男)には、あえて牧場や農場で働かせ、牧畜や農業、大工、石工、鍛冶などの仕事を覚えさせたといいます。末の一人娘にも、裁縫、刺繍など手仕事を身に付けさせました。こうした教育方針は、当時のフランス社会が不安定だったことから、子どもたちがどんな時代でも生きていけるようにという親心からだったようです。その頃のド・ロ神父は、冒険を好み、ときにはいたずらもする活発な子だったと伝えられ、厳しくも温かな両親のもと、幸せな日々を過ごしたようです。    この両親は、のちに息子が殉教もいとわぬ覚悟で日本へ向かうことになったとき、日本での活動資金として多額のお金を持たせました。また、教会の炊事をしていた年老いた女性もコツコツと貯めた老後の資金をド・ロ神父に託しました。当時、フランスのカトリックの人々は、幕末の動乱期にあった日本で激しいキリシタンの迫害が起きていることを知っていて、彼らが渡した多額のお金には、ド・ロ神父の身を案じると同時に、日本のキリシタンに対する同情もあったのだろうと、森氏は同書に記しています。    偶然にも、きょう3月26日はド・ロ神父の誕生日。28歳で日本に渡り、一度も帰郷することなく、74歳で長崎で没しました。それから100年以上経った現在もこうして語り継がれるとは、ご本人も想像していなかったはず。現在、ド・ロ神父は、自ら建設にあたった出津の野道共同墓地に静かに眠っています。墓地内にはどこか西洋の古城を思わせる石積みがあり、ノルマンディーの村を彷彿させます。   ◎参考にした本/「神父ド・ロの冒険」(森禮子 著)、「外海~キリシタンの里~」(外海町役場)、

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  • 第446号【春よ、来い】

     3月に入ってからも猛吹雪や積雪など真冬並みの厳しい天候で、たいへんな思いをされている地域の方々へ、心よりお見舞い申し上げます。一日も早く、全国各地に穏やかな春がやってきますように。  こちら九州・長崎は、ずいぶん春めいては来たものの、この時季から多くなる黄砂に見舞われたりしながら、三寒四温の天候が続いています。風はまだまだ冷たく、石橋群で知られる中島川で見かける白サギもどことなく寒そう。しかし一方で、川沿いには菜の花が咲き、暖地を好むハクセイレイやキセキレイの姿も見られます。観光客でにぎわう眼鏡橋のひとつ下流側にある袋橋(ふくろばし)の下では、春先に育つ海髪(うご)が川面をあざやかな緑色に染めていました。このあたりは長崎港の海水と川水が混じるところ。塩分が適度に低くなった場所は、海髪が育ちやすいそうです。  中島川上流の桃渓橋(ももたにばし)のたもとでは、桃の花が満開。家々の庭先ではハクモクレンがおおぶりの花びらを開きはじめました。この調子で季節がすすめば長崎のソメイヨシノの開花日は、平年並みの今月22日頃になるとか。関東や甲信地方では平年より遅くなり、東北・北海道は平年並みか平年より遅れるところもあるそうです(「桜の開花予想」3/5日本気象協会発表より)。  長崎市鳴滝地区の「七面山(しちめんさん)」と呼ばれるところにある「妙光寺( みょうこうじ)」は、地元では一足早く楽しめる桜の名所として知られています。ちょうど今、啓翁桜(けいおうさくら)という、早咲きの桜が満開のときを迎えています。やさしいピンク色をした小ぶりの花で、控えめながらさわやかな香りがします。  ところで「七面山」は、江戸時代から続く長崎の正月の風習のひとつである「七高山巡り(しちこうさんめぐり)」という正月登山で行く山のひとつです。七高山とは、長崎のまちを囲むようにしてある金比羅山(こんぴらさん)、七面山、烽火山(ほうかざん)、秋葉山(あきばやま)、豊前坊(ぶぜんぼう)、彦山、愛宕山(または岩屋山)の7つの山のことで、年のはじめにそれぞれの山に登り一年間の無病息災を祈願します。江戸時代は、正月2日から15日までの間に、「今日は、この山」、「明日は、この山」と決めて、家族や親族が揃ってのんびりと登っていたそうです。現在は、尾根を行く短いルートで、一日でいっきに山々を巡るのが主流のようです。  妙光寺からの帰り道、鳴滝界隈を散策。江戸時代にはシーボルトの鳴滝塾や唐通事の別宅などがあり、風光明媚な田園地帯でした。現在も市中心部の住宅街ながら、段々畑のある緑深い山に囲まれ、のどかな風景が残っています。畑の脇道を行けば、豆の花、木瓜の花、キンセンカ、ペンペン草、モンシロチョウなど、春の植物や昆虫たちと次々に遭遇。日だまりでウトウトするうららかな春は、もうすぐそこまで来ています。   ◎参考にした本/「日本大歳時記~春~」(講談社)

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  • 第445号【長崎でやんちゃした?若き日の西園寺公望】

     長崎奉行所立山役所跡(現・長崎歴史文化博物館)から、長崎駅方面へ通じる「玉園町通り」に入っところで、春を告げる甘い香りが漂ってきました。それは紫紅色をした沈丁花の香り。「西園寺公望仮寓居跡(さいおんじきんもちかぐうあと)」の碑のたもとで、はやくも満開のときを迎えていました。  明治から昭和にかけて活躍した貴族政治家で、2度の首相をつとめた西園寺公望(1849-1940)。長崎にやってきたのは明治3年(1870)、目的は仏語を学ぶためでした。このとき20代初めの若者でしたが、すでに戊辰戦争や会津征討で要職に就いて従軍した経験を持ち、その後も官職にありました。しかし、「自分はまだ若く、もっと勉強する必要がある」という思いから仕事を辞し、いっかいの書生という立場で長崎に下ってきたと伝えられています。  幕末~明治期にかけての長崎は、時代の要請もあって語学教育が充実していました。公望が学んだのは、「広運館(こううんかん)」という語学学校で、現在の長崎県庁の地にありました。ここは少し前までは、長崎奉行所西役所だったところ。仮住まいがあった玉園町通りから、徒歩20分ほどの距離です。  ちなみに玉園町通りは、「永昌寺(えいしょうじ)」、「聖福寺(しょうふくじ)」、「福済寺(ふくさいじ)」など由緒あるお寺が点在する通りで、当時からほとんど変わらない道幅は、車一台が通るくらい。江戸時代には奉行所をはじめ役所関連の屋敷や各藩の蔵屋敷などが近隣にあり、諸藩の武士や地役人らがおおいに行き交った界隈です。  全国から有志が集った「広運館」には、国学科、漢学科、英語科、仏語科、算術科、露語科などがありました。公望が学んだ1870年の学生数は349人で、その内もっとも人数が多かったのは英語科の111人、公望が所属した仏語科は48人だったそうです。  「広運館」のはじまりは、安政5(1858)に長崎奉行所立山役所に隣接する岩原屋敷内に設けられた「英語伝習所」にさかのぼります。その後、英語稽古所(片淵)、英語所(片淵)、語学所(万才町)、洋学所(江戸町)、済美館(興善町)と名称と所在地をめまぐるしく変え、明治元年(1868)に広運館として移設されました。その間、外国語の教科を増やしたり、内容を充実させたりなどしたようですが、どんどん変化する開港前後の国際情勢に対応しようとする様子が垣間見えます。   「西園寺公望仮寓居跡」の説明板には、上野彦馬の撮影局で撮った写真が載っていました。公家の公望が刀を差し、浪人のような姿で写っています。その表情たるや颯爽として、ソチオリンピックのスノーボード男子ハーフパイプでメダルを獲得した10代のコンビからも感じられた、どこかやんちゃで飄々としながらも、やるときにはやる、そんな頼もしさが感じられます。写真から察するに、京都と官職を離れ、のびのびとした日々をおくったようにも思えます。  公望が長崎で学んだのはわずか7カ月。仏留学の辞令が下り、その年の12月にフランスに向けて出発。10年近くの留学を経て帰国すると、首相そして最後の元老をつとめるなど重責を果たしたのでした。  ◎参考にした本/「長崎百科事典」(長崎新聞社)、明治百年~長崎県の歩み~(毎日新聞社)

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  • 第444号【中国と長崎の縁を紡いだ唐通事】

    「2014長崎ランタンフェスティバル(春節祭)」もいよいよ明後日(2/14)まで。今年も大勢の人で賑わうなか、春節を祝う風習の残るアジア各地からの観光客の姿もけっこう見受けられました。年々、規模も内容も充実している長崎の春節祭は、国を超えて注目されはじめているようです。 「長崎ランタンフェスティバル」は、中国と長崎のゆかりの深さを象徴する催しのひとつです。では、そもそもいつ頃から中国との交流がはじまったのでしょうか。江戸時代、中国語の通訳や唐船との通商事務などを担当した「唐通事」(とうつうじ)に注目して、たどってみました。  長崎港に唐船が姿を現しはじめたのは、長崎がポルトガルとの貿易港として開港した元亀(1570~1573)の頃であったと言われています。開港前の長崎は九州の一寒村に過ぎず、商売のために外国の船が入ることなどなかったのです。当時、唐船は自由に日本各地の港に入り商売をしていて、九州では薩摩沿岸や平戸などで交易を行っていました。商魂たくましい彼らは長崎の開港を耳にして、すかさずやって来たと考えられます。また当時、明の時代だった中国は内乱が絶えず、清との政権交代も近い不安定な時期でした。その戦乱から逃れて来た人もいたようです。  1603年(慶長8)、江戸幕府が開かれ、長崎奉行が設置されました。初代長崎奉行の小笠原一菴は、唐通事の必要性を強く感じたのか、任命された年に長崎に居住していた山西省出身の馮六(ほう ろく)という人物をその人柄や能力を見込んで初代唐通事(大通事)に抜擢。馮六は二年後には退職したようですが、その子孫は日本人だった母方の「平野」姓を名乗り、代々唐通事を勤めました。  概ね唐通事は、江戸時代初め頃までに在留・帰化した唐人と、その子孫が起用されており、その家系は70ほどあったそうです。なかでも代表的な家系は、潁川(えがわ)、彭城(さかき)、官梅(かんばい)、神代(くましろ)、東海(とうかい)、鉅鹿(おおが)など。これらの姓は日本名で、陳氏は「潁川」姓、劉氏は「彭城」姓、魏氏は、「鉅鹿」姓と、それぞれ中国の出身地名を日本名にしたり、妻が日本人の場合はその姓を名乗ることもありました。  諏訪神社から徒歩15分。長崎市西山本町の小高い斜面地に、鉅鹿家の始祖、魏之琰(ぎ しえん)とその兄が眠る中国式墳墓の形式でつくられたお墓があります。福建省出身の魏之琰は、明朝に仕えた楽人で、貿易商に転じたのち寛文年間(1661~1672)に長崎に居住。日本に明清楽を伝えました。当時の長崎奉行牛込忠左衛門に気に入られたのか、その懇命により帰化し「鉅鹿」の日本名を賜ります。鉅鹿家は五代目のときに唐通事となり幕末・維新まで勤めたそうです。  崇福寺(長崎市鍛冶屋町)に多大な援助をし、檀越(だんおつ)のひとりでもあった魏之琰の住まいは、酒屋町(現・長崎市栄町)にあり、たいへん裕福であったと伝えられています。私財を投じて中島川に本紺屋町橋(現在の常磐橋付近にあった石橋)を寄進するなど、地域にもその財を還元しました。魏之琰のように寄進をする唐通事や唐商人は少なくなかったようで、彼らは長崎の町づくりにもおおいに貢献したのでした。   ◎参考にした本/「長崎唐人の研究」(李 獻璋)、「長崎 東西文化交渉史の舞台」(若木太一 編)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第443号【春の兆し~2014長崎ランタンフェスティバル~】

     沖縄でヒカンザクラ(緋寒桜)が開花したというニュースを聞いた先週、長崎でも冬に咲くサクラがある西山神社(長崎市西山本町)へ出かけました。社務所の方によると、以前は新暦の正月に開花していたそうですが、ここ数年は遅れ気味だとか。例年、見頃を迎えるのは旧暦の正月頃。だからヒカンザクラは「元日桜」とも呼ばれるのでしょう。訪れたこの日は、5、6輪開いたところ。今年の満開は2月初め頃になるそうです。  西山神社の帰り道、近くの松森神社(長崎市上西山町)にも寄ってみました。春先に咲くロウバイ(蝋梅)があることで知られる神社です。ちょうど満開のときを迎え、水仙にも似た甘くさわやかな香りを辺りに漂わせていました。ロウバイの名は、黄色い花びらが蝋を引いたような光沢があることや、蠟月(ロウゲツ/旧暦12月の異称)に咲くことにちなんだものとか。毎年、開花を楽しみにしている人も多く、この日も参拝がてら花見をする人々の姿が絶えませんでした。  一年でもっとも寒い時季に咲いて、春がもうすぐそこまで来ていることを教えてくれるロウバイやヒカンザクラ。それにしても毎年、旧暦でしめす時季に忠実に咲いていることに驚かされます。つくづく旧暦ってすごい暦だな思います。  さて、「旧暦」、「春の兆し」といえば、「長崎ランタンフェスティバル」です。旧暦の中国のお正月・「春節」を祝う催しで、今年は1月31日(旧暦元旦/春節)~2月14日(旧暦1月15日/元宵節)まで開催します。まちの中心部に1万5千個に及ぶ中国ランタンや故事にちなんだ人物や神獣などのオブジェが飾られます。期間中は龍踊り、中国獅子舞、中国雜技などの催しで連日賑わいます。中島川の眼鏡橋付近は黄色いランタンに彩られ、新地中華街そばを流れる銅座川では、川面に映る桃色のランタンの幻想的な景色を楽しめます。 ところで、中国では旧暦12月に入ると新年(春節)を迎える準備がボチボチはじまり、暮れも押し迫った12月23日から1月15日(元宵節)までは、祭日の雰囲気に包まれるそうです。実家を離れて暮らす人々も、大晦日までに家にもどり1週間ほど正月休みをとるのが一般的なのだとか。きょう1月22日は旧暦12月22日。もうすぐ、中国やアジアのいろんな地域で正月休みをとる人の大移動がはじまるはずです。  ランタンフェスティバルの最終日となる元宵節は新年最初の満月の日になります。この日は、「元宵団子」と言って、家族揃ってピンポン玉くらいの大きさの団子(ユェンシャオ)を食べる風習があります。唐代からはじまった風習で、一家団欒の象徴なのだとか。数年前、ハルピン出身の中国の方に元宵団子の作り方を教わる機会がありました。それは、黒ゴマの餡をもち米粉で作った生地で包んだものでした。その方によると、元宵団子は地方によって材料や作り方に違いがあるものの、家族揃ってお団子を食べ、幸せを願う風習は、いまも中国全土で見られるそうです。     参考にした資料や本/「日本大歳時記~冬編~」(講談社)、「中国年中行事冠婚葬祭事典」(周 国強 著/明日香出版社)

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  • 第442号【長崎ことはじめ~南蛮ことば編~】

     明けましておめでとうございます。長崎の元旦は穏やかな天候に恵まれました。長崎県でいちばん初詣に訪れる人が多い諏訪神社は、今年も参道が大勢の人々で埋め尽くされていました。眼鏡橋あたりでは、飛び石を渡って遊ぶ子供たちや、帰省した家族がのんびり散歩を楽しむ姿などが見られ、お正月らしい和やかな雰囲気に包まれていました。  さて、元旦から1週間も過ぎれば、そろそろお正月気分もひとくぎり。きのうは七草がゆで、お腹を休めた方も多いことでしょう。風邪気味のとき、食欲があまりないときなど、胃にやさしく、簡単に作れるおかゆや雑炊はありがたいものですね。  ところで雑炊は、一般には「おじや」と呼ばれ、その言葉の響きからも純和風に思えます。広辞苑にも「じや」は、煮える音だとありました。しかし、一説にはスペイン語で煮込み料理を意味する「olla」(オジャ)に由来するとも言われています。もし、そうだとしたら、伝わった時期は戦国時代でしょうか。450年以上も前に日本に初めてキリスト教を伝えたザビエル以後、次々にやってきた宣教師たちによってさまざまな南蛮文化が伝えられました。長崎もこの時代の1571(元亀2)年にポルトガル船が初めて入港し、南蛮貿易時代がスタートしました。  この頃、日本へやってきた宣教師たちの国籍はスペイン、ポルトガル、イタリアなどさまざま。日本人とは違う顔立ち、服装、言葉。彼らを目の当たりにした当時の日本人の驚きようは想像を絶します。  さて、「おじや」伝来のこの時代に、カステラやコンペイトウやアルヘイトウなどのお菓子も宣教師たちによって伝えられました。それぞれの名称は、スペイン語やポルトガル語に由来するものです。宣教師たちは布教活動の際にこうした珍しいお菓子を日本人に配ったと言われています。当時の食生活を思えば、心も身体もとらえるような魅惑のお菓子だったのではないでしょうか。  古き良き日本のお正月遊びのひとつ「歌留多(カルタ)」も、スペイン語あるいはポルトガル語の「carta」に由来する外来語です。当時の日本人は、南蛮人が遊んでいるそれを模して「天正カルタ」(または南蛮カルタ)という、いまのトランプと基本的にはあまり変わらないものを作りました。  ところで、日本には平安朝の時代から「貝覆(かいおおい)」という遊戯がありました。はまぐりの内側に歌や物語の有名なシーンを描き、歌なら上の句・下の句を、絵なら同じものを合わせる遊びです。この遊びが手のひらサイズの長方形の紙に書き分けられ「歌カルタ」などと呼ばれるようになったのは江戸時代初めのこと。これは、「天正カルタ」にヒントを得たもので、貝を紙に代えたことで作る費用も手間もずいぶん省けたそうです。ちなみに紙で最初に作られたのが、当時から人気だった「百人一首」だそうです。  いまもなお、日本の言葉や伝統に大きな影響を及ぼし続ける南蛮文化。その計り知れない魅力と面白さを、今年もいろいろな視点で紹介していきたいと思います。  ◎参考にした資料や本/「日本大歳時記~新年編~」(講談社)、「長崎事典~風俗文化編~」(長崎文献社)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第441号【クリスマスよもやま話】

     クリスマスの定番アイテムといえば、セイヨウヒイラギ。冬枯れの季節に、春を連想させる深緑色の葉と真っ赤な実は、古くから魔除けとして用いられ、クリスマスカラー(緑と赤)のもとになったといわれています。ちなみにセイヨウヒイラギの英名はholly(ホーリー)。「神聖な」を意味するholyが転じたものだそうです。  常緑樹のセイヨウヒイラギは、モチノキ科モチノキ属の植物です。大音寺(長崎市寺町)に、同じモチノキ属のクロガネモチがあり、やはり秋から冬にかけて小さな真っ赤な実を付けます。通常、クロガネモチは成長しても樹高10メートル程度だそうですが、大音寺のそれは15メートルを超える大木で、長崎市の天然記念物に指定されています。  セイヨウヒイラギやクロガネモチ、そしてナンテン、センリョウ、マンリョウ、ピラカンサスなど、秋から冬にかけて赤い実をつける植物をよく見かけます。いずれもクリスマスやお正月の飾りに欠かせません。春や太陽の炎をイメージさせる赤い実は、やはり縁起ものとして扱われるのでしょう。  なかでもナンテンは「難を転じて福となす」に語呂が通じることから縁起が良いとされ、昔から庭木として親しまれています。中国原産のナンテンは、一説には享保年間(1716-1735)に唐船が長崎に運んできたともいわれています。ナンテンの名も漢名の「南天燭(ナンテンショク)」からきたものだそうです。  出島のオランダ商館の医師として1775年8月に来日したツュンベリー。スウェーデンの著名な博物学者であるリンネの高弟でもあったツュンベリーは、ケンペル、シーボルトと並んで出島の三賢人のひとりとして知られています。出島での任務を終えたツュンベリーは帰国後、日本のナンテンに「ナンディナ・ドミニステカ」という学名を付けて世界に紹介しました。「ナンディナ」は、ナンテンが訛ったもの。「ドミニステカ」は「家庭的」という意味があるそうです。江戸時代、日本ではどの家の庭にも植えられていたというナンテン。ツュンベリーはそのことを知っていたようです。  さて、出島でのクリスマスと言えば、「冬至」です。キリスト教が禁止されていたその時代、オランダ人は「冬至」の祝いに見せかけてキリストの生誕祭を祝ったといわれています。毎年クリスマス近くにある「冬至」は、昼間の時間がもっとも短くなり、この日を境にまた日が長くなっていくという特別な日。厳しい寒さのなかに訪れる春の兆しとして、古代から祭事が行われてきました。  一方、イエス・キリストの誕生日は12月25日とされていますが、実際は定かではなく、古く冬至の祭事が行われていた12月25日に合わせたともいわれています。そんなことを知ってか知らずか、出島のオランダ商館員たちは冬至の宴を楽しみ、さらにその約1週間後の阿蘭陀正月では、奉行所の役人や通詞などを招いて阿蘭陀式で祝宴を張ったそうです。  年末年始、会食の機会が増えるのは昔も今も同じよう。食べ過ぎ、飲み過ぎに注意して健やかにお過ごしください。今年もありがとうございました。                  Merry Christmas & a happy New Year  ◎参考にした資料や本/「クリスマス小事典」(現代教養文庫)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第440号【秋帆を想う】

     前々回、狛犬めぐりをしたとき、人知れず森林のなかに鎮座する狛犬がありました。そこは長崎公園の一角にある東照宮(家康廟)の古い参道で、現在は石段が崩れかけているため通行止めになっています。東照宮は江戸時代には、同場所にあった安禅寺に祀られていましたが、明治維新後、廃寺になりました。もとは由緒ある寺の狛犬だけあって、大きめで端正な姿をしています。調べてみると、1829年(文政12)に高島四郎兵衛茂紀(しげのり)が奉献したものだとわかりました。茂紀は、幕末期の西洋砲術家として名高い高島四郎太夫茂敦(しげよし)こと、秋帆(1798-1866)の父親です。  町年寄を代々つとめた高島家。理由はわかりませんが、有力な地役人であった父・茂紀が、ほかでもない東照宮に狛犬を奉るという行為は、あり得ないことではありません。茂紀は日本に昔から伝わる荻野流の砲術にくわしく、多くの門下を擁し、息子の秋帆にも仕込みました。秋帆がのちに西洋砲術を学び、第一人者となったのは、そうした父親の影響だったようです。  ところで、この秋シーボルト記念館(長崎市鳴滝)で開催された特別展[「鳴滝塾」の誕生 ~シーボルトと高島秋帆~](11/10で終了)で、秋帆が西洋砲術を一体誰から学んだのか、ということについて興味深いことが紹介されていました。これまでは、オランダ商館長のステュルレルなどとされていましたが、ステュルレルと同時に来日した商館医師シーボルトが伝授した可能性があることを示す史料が展示されていたのです。  同特別展によると、シーボルトが来日した1823年(文政6)頃、父・茂紀は出島の警備を受け持っていて、秋帆は町年寄見習として出島に出入りしていたそうです。秋帆は儒学や書道、絵画、蘭学なども学ぶ多彩な人物。二人とも人並み以上の才能と好奇心を持っていたでしょうから、互いにビビッときて、交流を持つようになったとも考えられます。また、秋帆の実兄で町年寄の久松碩次郎もシーボルトの活動を理解し、鳴滝塾の開設などに協力的であったといわれています。  この後、西洋砲術を学んだ秋帆は高島流砲術を開き、佐賀藩など近隣の諸藩に伝授しました。1841年(天保12)には、幕府の命で徳丸原(現・東京都板橋区高島平)で砲術の演習を行いました。ちなみに、秋帆の名字が「高島平」の地名の由来となったことはよく知られています。さて、演習の翌年、当時江戸町奉行だった鳥居耀蔵の讒訴(ざんそ)により、逮捕・投獄されます。許されたのは12年後のこと。その後は「喜平」と名乗って幕府に仕え、晩年を過ごした小石川で亡くなりました。文京区の大円寺に葬られましたが、長崎・晧台寺後山にある高島家の墓地にも、門人たちが秋帆の墓を設けました。  秋帆は生まれ育った長崎で、40代前半まで過ごしています。たいへん裕福だった高島家は、西役所(長崎奉行所)に近い大村町(現・万才町)にあり、その跡からは西洋、東南アジア、中国、朝鮮などの品々が発掘されています。この屋敷は1838年(天保9)の長崎のまちの大火の際に類焼し、秋帆は丸山に隣接する小高い丘の上にあった別邸に移り住みました。ここは、茂紀が1806年(文化3)に建てた木造瓦葺の2階建ての屋敷でした。敷地内には砲術の練習場跡があり、砲痕が残る石、常夜灯、石垣、土塀、そして一棟の石蔵がいまも残されています。  かつて西洋砲術を学ぶ男たちの熱気に包まれたであろう屋敷跡。いまは黄金の葉を付けたイチョウの木が、静かに葉を散らしていました。  ◎参考にした資料や本/シーボルト記念館特別展「「鳴滝塾」の誕生~シーボルトと高島秋帆~」リーフレット、「長崎事典~風俗文化編~」(長崎文献社)、「長崎市史」

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  • 第439号【長崎の植物観察~晩秋編~】

     秋の七草のひとつ、薄(すすき)。どこか淋しげな姿で郷愁を誘います。身近な植物だと思っていましたが、近頃では近郊に出ないと群がり生える景色は見られなくなりました。薄で思い出すのが、芭蕉十哲のひとり向井去来の「君が手もまじるなるべし花薄」という句です。  長崎で生まれ育ち、京都に出て芭蕉と出会い、門人となった去来。その後、何度か帰郷して蕉風俳諧を長崎に伝えました。「君が手も~」は、元禄2年(1689)夏に帰郷し、仲秋の頃に京都へ帰る際、長崎街道・日見峠で簑田卯七(みのだ うしち/去来の親戚筋で俳諧を志した人物)に見送られたときの句です。別れを惜しみ、いつまでも手をふる卯七。去来が振り返るたびにその姿、その手が薄の間に見え隠れし、ゆれる花穂に混じっていつしか見えなくなってしまった、そんな光景が浮かびます。  この句に出て来るのは仲秋の薄で、花穂がふさふさと付いている頃です。晩秋~初冬の今時分になるとずいぶん散ってしまい、より淋しい感じがします。余談ですが、去来が長崎で過ごしたこの時期、芭蕉は「おくのほそ道」の旅の終盤にありました。  さて、今回は薄の写真を撮りがてら晩秋の植物を観察。長崎の低地は、ようやく紅葉シーズンを迎えたところで、イチョウ、ナンキンハゼ、サクラなどの紅葉がまちを彩っています。寺町通りの一角にある大音寺の大イチョウ(樹高約20m/推定樹齢300年以上)も見事な黄金色に染まりました。  趣のある茅葺きの建物と日本庭園が美しい「心田庵」(長崎市片淵)では、美しく紅葉したヤマモミジが見られました。心田庵は、去来が生きた時代とも重なる1660~1680年代頃に、唐通事の何兆晋(が ちょうしん)が建てた別荘です。当時、風雅の楽しみを知る人たちが集い、お茶を嗜んだそうです。今年2月長崎市の史跡に指定され、春と秋には期間限定で一般公開されています。庭園では、サザンカ、ツワブキの花などが見られました。石垣や樹木の表面には、ちょうどこの時期に成長する「豆蔦(マメヅタ)」が這いつたっていました。直径2センチ前後の小さな葉ですが、光沢のある緑色が目を引きます。  シーボルトの鳴滝塾跡(長崎市鳴滝)へ足を運ぶと、イチョウやムクロジが鮮やかな黄色に染まっていました。中国原産のイチョウは全国各地で見られますが、ムクロジは関東より西の比較的温かな地域に分布する高木です。市街地の一角ながら雑木林や段々畑の風景が残る鳴滝界隈。雑木林の地面には、アラカシの大木からこぼれ落ちたドングリの実がたくさんころがっていました。辺りを包むんは、ひんやりとした空気と落ち葉の匂い。自然界は着々と冬支度をすすめているようです。       ◎参考にした本/「名前といわれ 野の草花図鑑2」(杉村昇/偕成社)、紅葉ハンドブック(林将之/文一総合出版)、どんぐりハンドブック(いわさゆうこ/文一総合出版)

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  • 第438号【長崎の狛犬いろいろ】

     神社などで見かける狛犬。そのルーツは古代文明の発祥地といわれるオリエント(エジプトやメソポタミア)の時代にまでさかのぼり、ライオン(獅子)がその意匠のモデルだといわれています。オリエントから東へは、シルクロードを経て伝わり、中国では唐獅子、日本では狛犬として現在に至っています。西へ伝わったものは、神殿や宮殿を守るライオン像や紋章のデザインに取り入れられるなどしました。  長崎で狛犬といえば、「カッパ狛犬」や「トゲ抜き狛犬」、「立ち狛犬・逆立ち狛犬」などめずらしい狛犬が数多く点在している諏訪神社が良く知られています。もともと長崎のまちには、神社や唐寺、道の脇にひっそりとある祠(ほこら)など狛犬が置かれるような場所がたくさんあります。その姿も、威風堂々としたものから、愛らしくユーモラスなものまでいろいろなタイプがあり、見比べながらのまち歩きも楽しいものです。  長崎市内各所の狛犬を数多く見ていると、タイプによっていつ頃つくられたものかが、何となくわかるようになってきます。たとえば、諏訪神社の参道でいちばん最初に出会う大きな狛犬は昭和10年のものですが、たてがみも表情もくっきりと彫られ、胸には「瓔珞(ようらく)」という飾りも付けるなど、全体的に堂々として、いかにも強そうな雰囲気が漂っています。こういう「立派で、強い」印象の狛犬は、大正時代から昭和10年代のものに多いようです。戦争が続いた当時の時代背景がなんとなく感じられます。  聖福寺(長崎市玉園町)の参道にいらっしゃる狛犬は、江戸時代のものと思われます。どこかアニメチックな表情で、短い足と広い尾がかわいい。この狛犬に限らず、江戸時代の狛犬は、石工の人柄やセンスが偲ばれるほど個性的。発注者のこまかい注文がある一方で、職人が自分の思いを込める余地があったのでしょう。  長崎のまちの狛犬(?)でもっともめずらしいと思われるのが、出雲大社長崎分院(長崎市桜町)にあります。神話に出て来る鰐鮫(ワニザメ)と白兔をモチーフにしたもので、狛犬的な存在らしいのですが、その鰐鮫が「サメ」ではなく、「クロコダイル」なのです。向かって左側はクロコダイルの背中に、白兔が腹這いで乗り、右側は白兔が立ち上がった姿勢で乗っています。関係者のお話によると、これは大正時代につくられたもので、当時、動物園を通して「ワニ(クロコダイル)」が知られはじめた頃だったとか。「石工は一人でも多くの人の注目を浴び、参拝に来ていただこうと、クロコダイルを彫ったと思われる」とのことでした。ハイカラ好みでどこかおおらかな明治の気風を残した大正時代の空気が感じられるエピソードです。  歴史的に中国とのゆかりが深い長崎らしい狛犬が、崇福寺の山門前に佇んでいます。こちらは「唐獅子」と呼んだほうがしっくり来る姿です。また、長崎には江戸時代の唐通事のお墓で、約20年の歳月をかけて築いたといわれる「東海の墓」があります。そこにもお墓を守るように設けられた狛犬的なものが見られます。  表情豊かな狛犬を見ていると、特に江戸時代などはその地域の人々に愛され親しまれる存在で、いまでいうご当地マスコットキャラクターではなかったかと思われ、現代の日本人に通じる国民性が垣間見れる気がするのでした。  ◎参考にした本/「狛犬の歴史」(藤倉郁子/岩波出版サービスセンター)、「狛犬事典」(上杉千郷)

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  • 第437号【各藩の蔵屋敷跡をめぐる】

     江戸時代に長崎に設けられていた諸藩の蔵屋敷跡をめぐりました。蔵屋敷とは、米やその他の物産を貯蔵する倉庫の役割と、販売するための事務所を兼ねた屋敷のこと。江戸や大坂、大津など、商業都市や交通の要所などに設置されました。長崎には、熊本・佐賀・福岡・対馬・小倉・平戸・薩摩・久留米・柳川・島原・唐津・大村・五島・長州の14藩の蔵屋敷がありましたが、他の地域にある蔵屋敷とは少し様子が違いました。そこで、もっとも重要とされた役割は情報収集と伝達だったのです。それには理由がありました。  寛永16年(1639)に海禁政策(鎖国)が完成。ポルトガル船の来航が禁止されてから数年が経った正保4年(1647)夏のこと。長崎港に突如、ポルトガル船が2隻やって来ました。通商の再開を求める目的を持った使節だったのですが、このとき幕府は過剰反応とも思えるような対応に出ます。西日本の諸藩に出兵を命じ、総勢約48,000人の動員を得て長崎港内外の警備を固めたのです。  結果、ポルトガル船は攻撃を加えられることはなく、米や水を与えられて長崎港を出ていきました。この事件以降、西日本の諸藩は長崎に蔵屋敷を設けて、「聞役(ききやく)」という、長崎での情報を速やかに入手して伝える役目を置き、いざというときの出陣に備えるようになりました。もともと長崎警備の任務があった福岡・佐賀をはじめ、熊本・対馬・平戸・小倉の6つの藩は、「聞役」を一年中滞在させる、「定詰」に。柳川藩や唐津藩など他の8藩は、5月中旬から9月下旬までの「夏詰」で派遣したそうです。  諸藩の蔵屋敷は、長崎奉行所(西役所・立山役所)跡からいずれも徒歩圏内に点在しています。長崎駅前の商店街の一角(大黒町)に熊本藩蔵屋敷跡、道を隔てて佐賀藩蔵屋敷跡も隣接していました。大黒町の隣に位置する五島町界隈には、柳川藩、鹿島藩、佐賀藩深堀鍋島家屋敷、そして福岡藩の蔵屋敷跡があります。いずれも運搬などに便利な海際に設けられていました。  興善町には、坂道を挟んで小倉藩と長州藩の蔵屋敷がありました。その坂は、いつの頃からか「巌流坂」と呼ばれるように。両藩の間にある鳴門海峡には、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島があり、そこからきた名称だそうです。  「巌流坂」の近くには、佐賀藩深堀鍋島家屋敷の家臣と町年寄高木家の若者が起こした事件、『深堀騒動』の現場である「大音寺坂」と呼ばれる坂段があります。身分が上のはずの武士がささいなことでコケにされてしまい、それが大きな事件を引き起こしたというもの。事件の顛末は、赤穂浪士討ち入りの参考にされたともいわれています。  正式な蔵屋敷ではないものの、長崎に拠点を置いた藩は、松前藩、会津藩、加賀藩、尾張藩、紀州藩、伊代松山藩、宇和島藩など十数あったそうです。また、水戸藩は、医者に密偵の役目を与えて長崎に送り込み、情報を得ていたそうです。   いまとなっては、どの蔵屋敷跡も当時のなごりが見られず、とても残念。しかし、その場所に行くと長崎警備のことだけでなく、海外貿易の水面下で、諸藩が少しでも有利な情報を得ようと、画策したり、右往左往していたことが、何となく想像できて楽しい。きっと、こうしたところに長崎の歴史にさらなる深みと面白みを与えてくれるストーリーが埋もれているのでしょう。

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  • 第436号【秋の味~アケビから煮しめ料理~】

     この夏の猛暑で体重が3㎏減りましたが、早くも元にもどってしまいました。店頭に山盛り積まれた採れたての野菜やくだもの。収穫の季節ならではの彩りと喜びがあり、眺めるだけでつい頬がゆるみます。先日は小さな商店街の一角で、「アケビ」を発見。そばにいた60代の女性は、「子どもの頃の遠足で、よくとって食べてたのよ!」と懐かしそう。「アケビ」のよこに並んでいたのは、「イチジク」。いずれも山野に自生していたもののようで、小ぶりで、形も無骨。さっそく買い求め、秋の味覚を満喫しました。  日に日に秋めきながらも、ときおり厳しい残暑にさらされるこの時期、バテ気味の身体にいいといわれるのが「甘酒」です。長崎では「長崎くんち」の少し前頃から、店頭でよく見かけるようになります。「昔は、どこの家でも手作りしていた」、「くんちのとき、必ずおばあちゃんが作っていた」という友人たちがいました。ビタミンB群や各種アミノ酸、ブドウ糖が含まれる「甘酒」は、いわば日本のスタミナ飲料。そのルーツは古墳時代にさかのぼるというから驚きです。滋味あふれるおいしさと豊富な栄養。日本中で、行事のたびに欠かさず飲まれてきた理由がわかります。  秋祭りなどの行事の日、お赤飯や煮物、酢の物といった、いわゆるハレのメニューを一品添えて食卓を囲む家々も少なくないと思います。こうした行事食は、同じような料理でも地域ごとに味や名称などに個性があらわれます。たとえば、「煮しめ」。長崎くんちのときも、行事食のひとつに数えられます。ニンジン、ゴボウ、レンコン、タケノコ、とり肉などを少し甘めの調味で煮ます。「いり鶏」とも呼ばれる料理です。  佐世保市と大村市の間に位置する東彼杵町や川棚町あたりでは、「栗つぼ」と呼ばれる煮しめ料理が、やはり秋祭りなどの行事食のひとつとして食べつがれているようです。「栗つぼ」は、長崎くんち料理の「煮しめ」と材料は似たり寄ったりですが、その名のとおり栗が入るのが特徴です。煮こむとき麦味噌を入れるので、より素朴な味わいです。「つぼ」というのは、料理を盛るお椀をつぼに見立ててそう呼ぶようになったといわれています。  おなじく島原地方にもたんに「つぼ」と呼ばれる煮物があります。サトイモ、ニンジン、レンコン、ゴボウ、厚揚げ、コンニャクなどをだし汁で煮込み、仕上げにクズなどでとろみをつけたものです。ちなみに、富山に暮らしたことのある友人によると、富山のあるお寺では、コゴミと呼ばれる山菜と根菜類を煮込んだ「つぼ煮」という精進料理が受け継がれているそうです。    大村あたりでは、「煮ごみ」と呼ばれる煮しめ料理があります。祝い事や仏事など人々が集まるときは必ず作られているとか。特徴はこの地域でとれる落花生が渋皮付きのまま入ること。地元の学校給食でも出され、郷土の味として大切にされているようです。

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  • 第435号【平成25年の長崎くんち】

     先週木曜日(旧暦8/15)の夜は全国的に晴れ。長崎でも雲一つない夜空にまんまるのお月さまが浮かびました。家のベランダから、仕事場の窓から、大勢の人々が中秋の満月を見上げたことでしょう。この時期、長崎の新地中華街では中国の三代節句の一つといわれる「中秋節」の祭り(9/16~20)が行われました。たくさんの黄色いランタンが中華街を照らします。新年を祝う「ランタンフェスティバル」と比べ、こじんまりとしたお祭りですが、アットホームでいい感じ。秋の夜長を家族連れてのんびり楽しめます。  全国的に祭りや催しが多いこの季節。長崎でも諏訪神社の大祭「長崎くんち」が10月7、8、9日に控えています。寛永11年にはじまり379年目となる今年、奉納踊りを担当する「踊り町」は、桶屋町(おけやまち)、万屋町(よろずやまち)、栄町(さかえまち)、本石灰町(もとしっくいまち)、船大工町(ふなだいくまち)、丸山町(まるやままち)の6カ町です。  桶屋町は、まちのシンボルである傘ぼこの垂幕(たれ)を100年ぶりに新調。傘ぼこの上にのる飾(だし)は、ファンの多い「からくり仕掛けの白象」です。出し物は、「本踊り」。江戸時代に長崎に上陸した象にちなんだストーリーが織り込まれ、踊りに、衣装に、長崎らしい異国趣味がうかがえます。  万屋町も、豪華さで知られる傘ぼこの垂幕「長崎刺繍魚づくし」の部分が新しくなったそうです。現代の職人さんによる長崎刺繍の出来映えが楽しみです。出し物は「鯨の潮吹き」。江戸時代の捕鯨の様子をモチーフにしたもので、曵き回される大きな鯨(約2トン)や、その背中から勢いよく吹き出す水にずぶぬれになる根引き衆の姿に、何度も「モッテコーイ」の声がかかりそうです。  栄町の出し物は「阿蘭陀万才」です。どこかピエロを思わせる出で立ちの二人組、「万歳」(青色の衣装)と「才蔵」(黄色の衣装)が、ユーモラスな踊りを披露。その昔、日本にやってきたオランダ人が元気に正月の祝儀に回っていたのに、教会の鐘の音を聞いたとたん、故郷を恋しがるというストーリーです。7年前は主役の二人を女性が演じていたはずですが、今回は男性だとか。おかしみのなかにせつなさのある「阿蘭陀万才」をお楽しみください。  本石灰町の出し物は、龍囃子(じゃばやし)のなか勇壮な朱色の船体がいく「御朱印船」、船大工町は子どもが扮する船頭の網打ちが見どころのひとつでもある「川船」、丸山町は長崎検番による「本踊り」と、見逃せない奉納踊りが続きます。   本番を前に、10月3日の夕方から夜にかけて行われる「庭見世」へもぜひ、お出かけください。それぞれの踊り町で、傘ぼこや本番で使用する衣装や道具、贈られたお祝い品などをお披露目。国指定重要無形民俗文化財である「長崎くんち」への期待がさらに高まります。

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