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  • 第29回 長崎料理ここに始まる。(一)

    はじめに 江戸の酒落本にテンプラの事を次のように説明している。(山東京山説・蜘蛛の糸巻) 昔、天竺の浪人、ぶらりと来りて作り始めたる料理をテンフラと言う。 たしかに、テンプラは天竺南蛮(ポルトガル)より我が長崎に伝えられた料理なのである。ポルトガル人が長崎の街なかに住み始めたのは元亀二年(1571)以降であるから、其の時代より長崎の家庭でテンプラが造り始められ事になる。 資料によると徳川家康もテンプラを好んだと記してある。其の資料とは「東照宮御実紀」附録巻十六にある。元和二年正月二十一日(1616)家康公、駿府の田中に放鷹に出かかけらる。其のころ、茶屋四郎次郎、京より帰りて、様々の御物語ども聞え上がりしに、近頃、上方にては、何ぞ珍しきことはなきかと尋ねられ候えば、此ごろ京阪の辺にては、鯛を萱(かや)の油にてあげ、その上にニラをすりかけしが行はれ、いと良き風味なりと申す。折しも榊原内紀清久より、能浜の鯛を献りければ即ち其のごとく調理してめし上げられしに…… 大変、家康は慶ばれて賞味されたと記してある。一、テンプラの資料▲江戸の料亭八百善 文政5年(1832)刊・料理通 私は若い頃、長崎学の中に「長崎・食の文化史」の構想を描いて各地を訪ね回っていたとき、東京新橋の有名なテンプラの老舗「天国」さんで、お店の露木幸子様にお逢いでき、お話を聞いているうちに、露木様より「叔父の露木米太郎が著述した天婦羅物語があるので、お読みになってください。」と言われて、其の本を下さった。 私は此の本でイロイロな事を教えて戴き、「天国」さんでは、江戸風のテンプラの味を堪能させて戴いた。 長崎初期のテンプラの四郎は長崎県立図書館内渡辺文庫にあった。本の題名は「阿蘭陀菓子製法」とあった。そこには次のように記してあった。一、てんぷら里の志ようイ、こせうのこ、につけいのこ、ちやうしのこ生が。ひともじ、にんにく、之をこまかにきざみ、とりを津くりて、鍋に油を入れ、此六いろをいりて、とりを入れ、またいり、其の上くちなし水もてそめ、それにだしを入て、またさかし候さし、あんはい候てよく候ロ、うおのれう里、なに魚なりともよし、せきり、むきのこつけ油にてあげ、その後、丁子のこにんにく すりかけ 志るよき様にして にこめ申候 千葉大学の松子幸子先生の研究資料によると東京国立図書館その他に収蔵されている「料理集」の中にテンプラがあるとの事であった。その「料理集」には寛政九年(一七〇七)「崎水の人白蘆華記」とあった。崎水とは、長崎の事であり次のように記してあった。一、てんふら魚の身、背切にても、おろし身にても、うとんの粉とき、まふして油にて上げだす、又小魚なと丸にてむき、粉つけ、す上げ出す時は セラアト云うあり 文政十三年(一八三〇)江戸の喜多村信節の「嬉遊笑覧」巻十には南蛮・てんぷらを次のように記している。○昔より異風なるものを南蛮と云…○文化のはじめ頃(一八〇四~)深川六軒ばかりに「松がすし」出きて、世上すしの風一変し、それより少し前に、日本橋きわの屋台みせに吉兵衛と云もの、よきてんぷらにして出してより他所にも良きあげものあまたになり、是また一度せり 明治二十六年長崎の歴史家香月薫平先生は、代表作「長崎地名考」物産之部にテンプラテンプラとは唐伝なり。小海老又は魚の肉に製するを良とす。丈唐麻油にて製するべし。此他の製は皆住品にあらず。二、テンプラの語源 長崎市史風俗変の南蛮料理の項に古賀十二郎先生はテンプラの事を詳しく述べられておられる。 それによると 今日までテンプラの語源はしっかり判明していない。語源に近いものとして、ポルトガル語のTemperad(名詞)とTemperado(形容詞)がある。併しTemperadoは転訛してTemperad(名詞)になる。その料理は「野菜などをゆでて其を能く調和結合したる食物を言う。」▲伊万里焼色絵皿 私は、ここで前述の「てんぷら里の志よう」の説明文を思い出し、初期のテンプラには二様のものがあったのではないかと考えた。最後に古賀先生は次のように結論されている。 要するに、テンプラはポルトガル語のTemperoにあたり、我が国のテンプラ料理を意味している。 其の後、私は二十六聖人記念館艦長の結城了悟神父についてテンプラの事をお尋ねしたら、それは「長崎がキリシタンの時代Temporasの時に食べる食事がその語源になったのでしょう」と教えて下さった。 ポルトガル語の辞書を見るとTemporasはキリスト教では四季(春夏秋冬)の始めの木・金・土の三日間は小斎日と言と書いてあった。私は神父さんに日本で言う「精進料理を食べる日」ですねと言ったら笑っておられた。Temporasの日は「牛肉類は食べないで野菜や魚を食べられたのですね」とも言われた。 今はポルトガルでも殆どこの宗教習慣はなくなったそうである。 成るほど、我が国でも葬式の時の精進料理は殆どなくなりましたからね。 念のため、ポルトガル駐日大使アルマンド氏が一九七一年発刊された「南蛮文化渡来紀」付記ポ語と日本語の交流を見たらTempora斎日(複数で)天ぷらの語源(?)とあった。 後記、長崎名物のシッポクにテンプラが用意されていたか調べてみたら、足立正枝翁の「長崎風俗考」にも、足立敬亭「藤屋シッポク献立」にもテンプラは用意されていなかった。 テンプラは長崎の家庭料理だったのでしょうね。第29回 長崎料理ここに始まる。(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理

    一、出島オランダ屋敷復原の歩み▲出島 カピタン部屋2階大広間 阿蘭陀冬至料理再現大正11年10月、国は史跡名勝天然記念物保存法により長崎県下では平戸オランダ商館跡、出島オランダ商館跡、シーボルト宅跡、高島秋帆旧宅の4件を史跡地に指定している。この当時の模様を長崎県は昭和3年、次のように報告している。 この地(出島)は、もと扇型の小島であったが明治19年以来・周囲の大修築により現在の出島の地はまったく陸地となり、唯その名を存するのみで公有地は出島周辺とその内にある県市道のみで他は全て民有地である。 ただ出島1番地より26番地の間は、公益上必要止むを得ざる場合の他、現状の変更は之を許可せざる方針である。指定史跡地において旧の偲びを止めるものとしては、史跡地内を縦貫せる二筋の道および地番石標のみが残っている。二、出島復原の第一歩 昭和26年8月20日、長崎市教育委員会に国の文化財保護調査委員会より「出島問題について指示したい事があるので至急東京に出て来て下さい」との連絡があった。 長崎市教育委員会では早速、田川務市長と相談し市教育委員会より当時文化財担当を兼ねておられた築瀬義一社会教育課長(後の市会議員)を文化財保護委員会総務部長富士川金也氏の所に派遣している。▲出島 カピタン部屋外観 先ず文化財教育委員会は「どこからどこまでが昔の出島であるか確認して下さい」と言うことであったと、記録が残っている。 然し出島全体が私有地であってみれば、発掘調査がすぐに出来るわけでないので「先ず旧出島の一部を公有地として買いあげ、其処を拠点として出島復興の第一歩とします」と言うことになったと言う。 文化財保護委員会より間もなく記念物課史跡地担当の黒板昌夫先生がおみえになった。黒板先生のお父様は波佐見町出身で有名な歴史学者黒板勝巳先生であり、私達には本当によく指導して戴いた思い出がある。 次に出島に関する基礎資料の収集を黒板先生は指導して下さった。 旧出島内の土地購入については、幸いなことに出島の中心地の一部にあたる処に旧川南造船所所有の石倉と其の隣接地300坪があり、之を購入する事が決定した。価格は坪1万円であったが原爆により傷んでいるので其の整備修復費を加算すると900万円はかかるとの事であった。この整備事業については国も其の大分を援助して下さると言うことになり、結果としては450万円の補助を国から戴いた。復興事業の技官としては後に工学博士となられた山口光臣先生が赴任してこられた。これによって出島復興の第一歩が踏み出されたのである。三、出島整備の完成 其の後、出島全域の完全公有化を達成したのは確か4年前のことであったと思うので、その間約半世紀と言う事になる。其の間、長崎新聞社の皆様、朝永、海江田、両病院ならびに日野様はじめ出島地区居住の皆様方に大変お世話になった事が今更ながら思い出される。 昭和57年10月本島市長の時、本格出島の基礎研究をせよと言うことになり「出島史跡整備審議委員会」が発足。その成果として昭和62年3月長崎市より「出島一その景観と変遷」の大冊を発刊している。 その本の発刊によってオランダ関係の原本資料をはじめ、国内外の出島関係資料を収集することができたので、之に基づいての発掘調査が進められ、現在の出島遺構復原の完成となっている。四、出島内部の展示 出島遺構の復原と共にその内部に何を展示するかという事も考えられた。 私には出島内料理の展示を考えるようにと言われた。今回復元された建物は、寛政10年3月6日(1798)夜の出島大火後再建された出島の建物を原型として復元されているので、展示資料もそれにあわせて1800年初期の出島料理にして戴き、その料理模型はカピタン部屋の2階とし、有名なオランダ正月の料理を考えてくれないかと言われた。 当時の資料としては、1800年頃編纂された「長崎名勝図絵」。次いで私が昭和57年発刊した「長崎西洋料理」(第一法規出版)内に編集しておいた浦里豊氏蔵の「異国食用図」、長崎版画の各種、川原慶賀筆「唐蘭館絵巻」、石崎融思筆「蘭館図」等があった。オランダ正月の料理には次のようなものがある。○ 子豚。型のごとくにして内臓を取り去る。ボートルを引き(註:ボートルとはバター)。直火にてあぶる。口に橙をくわえさせる。尾には帛(きれ)をつけて飾る。背かに金箔をふる。この料理オランダ語にてスペイトと言う。○ パステイ。内に鶏の切身、エンス(燕巣)の類、椎茸、木茸、ネギ、胡椒、肉ずうく、にて合わせ蒸す。ボートルに卵を潰し入れて味を加減す。次に麦粉とボートルを加味して焼く、食用となす。○ ラーグ 鶏たたき丸めて椎茸、ねぎ、すましあんばい。○ スペーナン 菜みじんにたたく、ボートルにてサット揚て皿に盛り、玉子・四ツわりにして盛り合わせ。○ カステイラブロト 花かすていら、紙焼のかすていら、紅毛紙を箱に折、かすていらの種を焼鍋の中にならべ焼たるなり。○ パン オランダ本国は米なし。故に小麦を以て常食とす。▲出島を一望 出島にはカピタン部屋の右裏1棟に「阿蘭陀台所」がありオランダ料理人にまじって日本人料理人3人が勤めていた。 オランダ商館の医官ツンベリは其の日本人料理人について次のように記している。 日本人料理人は出島にいます。 オランダ風の料理を上手に作るのに慣れていた。この出島の日本人料理はオランダ人が江戸参府の時には必ず3人のうち2人が江戸までテーブルと椅子を持参し、同行している。そして2人の料理人の1人は必ず1日前に出発し、オランダ人が宿所につく前に食事を用意していたと記している。 出島では、日本産の牛は食べる事を禁じられていたので、毎年春にバタビヤより入港してくるオランダ船には食用となる牛が積まれていた。司馬江漢も天明8年(1788)長崎に来遊したとき、此の出島の牛を見て、其の模様を「西遊日記」に綴っている。 今回復原された出島オランダ屋敷は全国的に評判となり、毎日参観される人が多く来られ、出島内にはボランティアの案内者も多数おられるとの事でした。第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第27回 出島・カピタン ティチングの記録より(一)

    ▲山下南風版画 オランダ人酒宴図 はじめに出島・カピタン ティチング(Isaac Titsingh)について記しておかねばならない。 彼は1779年8月15日初めて出島オランダ商館のカピタンとして在任。翌年2月19日江戸参府のため出島を出発。4月5日将軍家治に謁見。5月27日長崎帰着。11月バタビヤに帰っている。そして、翌1781年再び出島カピタンを任命され8月2日出島に到着。1782年には再び江戸参府に出発。4月13日再び将軍家治に謁見している。この時は出島カピタンの仕事が多忙で彼が再びバタビヤに向けて出発できたのは1783年11月6日であった。ところがオランダ政府は三度彼を出島カピタンに任命したので翌1784年6月バタビヤを出発。8月18日出島に上陸している。 但し、オランダ政府は「この仕事を最後にオランダ本国に帰ってきてよろしい」との許可を与えていた。ティチングが無事に日本での最後の仕事を済ませ再びバタビヤに帰着したのは1785年の1月2日であった。そして彼がようやくイギリス船に乗り、ロンドンに帰着できたのは1796年12月であったと記してある。 以上ティチングの伝記功績についての論考については沼田次郎先生翻訳の「ティチング日本風俗図誌・解説」(新異国叢書)を読まれるとよい。一、ティチングの見た日本▲赤絵皿(ベトナム製) ティチングは帰国後、多くの資料を持ち帰っていたので是等の資料を活用し各方面にその研究を発表した事によって、次第に東洋学研究者として名声が上がると共に彼の東洋関係のコレクションも有名だったと沼田先生は記し、更に其の彼の多数の編本がロンドンの大英博物館に所蔵されていると記しておられる。 今回はティチングの代表作とされる前記日本風俗図誌を中心にして述べてみることにした。○最初に初期の豊臣秀吉の話が出てくる。  その当時、秀吉は非常に貧乏で婚礼の席で花嫁と祝言の酒を酌むのに必要な、ごくありふれたシガラク焼きという陶器の酒入れ(瓶子)すら持っていなかった。○次に秀吉と家康との関係にふれて次の話を記している。  家康の第八子ヒデユキ(Fide-youki)の夫は勇敢な武将であったので、太閤はは非常に彼を恐れていた。そこで秀吉はお茶の中に毒を入れて彼を毒殺しようとしたが、他の者の主張に従いつつmandjouと言う小さな菓子の中に毒を入れて殺してしまった。二、長崎・深堀騒動の事ティチングが集録した逸話の中に元禄13年(1700)長崎で起こった深堀義士の話がある。事件は、同年12月20日長崎町年寄高木彦右衛門家では産まれた子供の名前をもらうため子供を駕篭にのせ宮参りに行く途中。(雨がひどく降っていたので道はぬかるみであった)駕篭のわきを急いで通り抜けようとした鍋島深堀藩の武士深堀勘左衛門は足をすべらせ、其の駕篭に泥を跳ね上げてしまった。これが事件の発端となっている。深堀武士は多いに謝ったが高木の家来達は武士達を大いにたたき、更にOuya-goto-matche(浦五島町)にあった深堀屋敷にまで押しかけて散々に深堀武士達を馬鹿にした。遂に深堀の武士達は腹をたて、高木の家に押しかけ高木彦衛門の首を戦利品と持ち帰り、後本蓮寺に胴と共に埋めた。この戦いの時、高木家の白い番犬が主人を守ろうと駆け出し、何人もの敵を傷つけ、そのため殺されたが、高木の墓には其の白い犬が埋められた。  ティチングは更に続けて、次の話を加えている。  私の日本滞在中にその高木彦右衛門を殺した連中が血の滴る首の髪を掴んで提げて通るのを見たという婦人がまだ長崎に住んでいた。三、九代将軍徳川家重について○八代将軍吉宗の長子家重は過度の女色と飲酒で白痴同様になった。世人は家重をAnpontan(アンポン丹)と呼んだ。アンポン丹を服用すると暫く知覚を失う。   家重は対馬の藩主宗対馬に「中国竜門の滝でとれた鯉を献上するよう清国に使をだせ」と命じている。其の鯉を焼いて、其の灰を水にとかし子供を洗うと疱瘡(ほうそう)のにかかった時、大変効き目があり痛みもなく、疱瘡の跡も残らないと言う。将軍は朝鮮国経由で清国竜門で得た鯉で作った焼灰を水でとき二人の子供を春夏秋冬それぞれ洗わせた。○将軍家重は酒を飲み過ぎて健康は日々衰え、もはや言葉も出ず将軍はIsoumo-no-kami(大岡忠光)を通してのみ命令を出し、間もなく尿器官が弱って自分の部屋に閉じ込もらねばならなくなった。   ティチングは以上の将軍家重の事のみでなく歴代将軍の裏面史も多く入手していた事が彼の著書を読めば読むほど其の思いを深くする。四、ティチングの史料収集▲山下南風版画 出島図 ティチングは前述のように三回も日本に来航し、2回も江戸に参府。将軍謁見は2回もしている。そして、交友関係には、当時の長崎奉行を始め、薩摩藩主島津重豪・福地山藩主朽木昌綱、更に長崎ではオランダ通詞吉雄幸作を始め長崎の知識人、江戸では蘭学者の中川淳庵・桂川甫周等とも交友があった。それは彼の人柄と外交手腕にあったといわれている。そして、当時ティチングの名は日本人の間に広く知られ、その人物は高く評価されていた。○ティチング自身、大いに日本趣味があり次第に日本研究に深く入り込んでいったのであろうが、彼の此の行動は当時の日本人にオランダ趣味を待たせ、オランダ研究、ひいては我が国の洋学研究を進めさせていると、ティチング研究の第一者であられる沼田次郎先生は述べておられる。 次項では、ティチングの目から見た、日本人の祭事や儀式に関する食文化を中心に筆を進めてみたいと考えている。 例えば、日本人は死者の葬儀の時にはできるだけ清潔に調理する。そして、小さな善にお椀の御飯と汁と三種の食物の入った椀が用意される。(以下次号)第27回 出島・カピタン ティチングの記録より(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第26回 平戸にみる西洋料理(其の二)

    ▲安南手色絵皿前号で解説したように平戸のポルトガル船への開港は1550年であり、長崎の開港は1571年であるので、当然・長崎県下で最初のヨーロッパ風食事が開始されたのは平戸の町である。 今回は前回に引続き、1613年6月11日平戸港に到着。平戸藩主松浦隆信(1603~1637)に面会。8月6日にはイギリス国王の書簡をたずさえて駿府に家康を、更に江戸まで足を伸ばして将軍家光に面会したジョン・セーリス「日本渡航記」(新異国羨書)を中心に西洋料理関係の話を進めてきた。一、セーリス(J.Saris)の平戸出発 1613年8月、平戸公はセーリスのために大阪まで船を用意している。その船は片側に25本にカイがあり、乗り組みの船員は60人であった。 使節の一行はセーリス以下、イギリス人10名、通詞の日本人1名、W・アダムスとその家来(日本人)2名、警護の武士1名とその家来3名、槍持ち1名であった。 8月6日、出帆のとき祝砲13発をもって送られた。平戸より2日間漕ぎ続け博多の港につき上陸している。博多の町では人々が騒ぎたて自分達の後ろよりついてきた。日記には「之にかまわず行きました」と記してある 下関を過ぎ、8月27日大阪に着いている。途中何も異状もなかったと記してあり。船中の給与については、ビールとビスケット。1食は豚肉・1食は米と油と記してある。 次に当時の日本人の食に関する記事が収録してある。▲中国色絵壷 日本人は全般に米を食べ、白い米が最高である。我等のパンの代わりである。次に塩漬けの魚、酢漬けの菜類。豆類。 塩漬けまたは酢漬けの大根と其の他の根。野禽・家鴨・真鴨・鵞鳥・雉・しぎ・うずら・其の他多くの種類がある。彼等は其れ等に粉をかけて塩漬けにする。(粉は糠(ぬか)のことである) 鶏は多い。鹿も同様であり赤いのと淡黄色の両方ある。野猪・野兎・山羊・牝牛などもある。チーズはあるがバターはない。牛乳は飲まない。 註:チーズは豆腐を間違えたのだろう。 9月8日、セーリスは駿河につき家康に国王の書と使節よりの贈物を呈している、その贈物は、立派な繻子の布団・絹の穀物・飾帯・毛織布2布・ソユトラ産蘆荅・オランダ製手布3枚。二、江戸におけるセーリス一行 9月14日、一行は江戸に着いた。9月17日、将軍家光に面接。 9月21日、浦賀港の調査のため出発・浦賀より再び駿河に向かう。9月29日・駿河にはスペイン使節一行も来ていた。スペインの使節は「甘いぶどう酒5壷」と「緞子」を献上している。 10月16日、一行は京都出発、21日正后ごろ大阪に着いた。10月24日、大阪まで私達を送ってくれた平戸藩の船が大阪で持っていたので早速その船に乗り込んだ。 11月6日、朝10時頃・平戸に着いた。平戸では早速私達の船(イギリスのボート)に乗り上陸しイギリス商館に向かうとき祝砲5発があげられた。三、セーリス江戸参府・留守中の江戸 (平戸イギリス商館員リチャード・コックス日記より) 9月13日、平戸の老法印が病気と聞いたので、私は通訳ミグエルに「あまいぶどう酒の大瓶1個と砂糖漬け及び砂糖パン2箱を見舞として贈った。」 平戸ではこの当時、一般には、まだ「甘いパン」は造られることがなかったので、珍しいものとして「甘いパン」がイギリス商館内では作られていたことが知られる。 10月10日、7日以来長崎奉行が平戸に来た。この夜、長崎の役員の子息2人が来た。平戸公はこの時、イギリス商館に来られたので皆と一緒に宴席をもった。平戸公は此の時、「葱と蕪菁とを入れて煮たイギリス牛肉と豚肉を食べたいので明日もってきてくれ」との事であった。 10月11日平戸公に早速、注文の牛肉・豚肉それにぶどう酒1本と白パン6個を持たせた。公より孫の若殿、弟の松浦信実、親類の松浦主馬を招き一緒に之を賞味されたとの報告があった。▲オランダ人形(陶器) 10月13日、平戸公より使いが来てぶどう酒1本を持ってオランダ商館に来るようにとの事であった。そこには大変結構な中食が用意されていた。肉は日本風とオランダ風の両方で美味しく調味されていた。松浦公は彼の長男、若き兄弟と一つのテーブルにつかれ、他のテーブルには公の弟(信実)、それに私と松浦家の家老が席についた。オランダ・カピタン自身は席につかないでテーブルの肉を切って接待した。 10月30日、平戸公の家来より明日、城内で能(のう)があるので、食料品を献上するようにとの連絡あり、スペイン産のぶどう酒2本・焼鶏・焼豚肉・軽パン及び料理の材料3箱をとどけた。 以上のように平戸公は様式料理を非常に好まれたことが良く理解されるし、平戸には西洋料理を調理できた日本人の料理人がいたことも知られている。第26回 平戸にみる西洋料理(其の二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第25回 平戸にみる西洋料理(其の一)

    平戸の領主は松浦氏である。平戸の開港は長崎の開港より古く、ポルトガル船の初めての入港も長崎開港より20年も前の1550年であった。そしてこの年、フランシスコ・ザビエルも平戸に到着しキリシタンの布教を開始している。そして当然、そこにはポルトガル風の料理が普及していた。当時の平戸の食の事情について、1560年平戸地方にキリシタンを布教していたフェルナンデス神父は次のような書簡をローマに報告している。▲中国染付蓋物この町(平戸)にはポルトガルと同じ食糧があります・・・・・・日本の人達は何でも平戸の町では食べているが、坊さんのみは牛肉を食べません。この地方にはポルトガルと同じ食糧はありますが其の量は少ない。平戸の人達はあまり働かないので飢餓する人が多い、又、この地方は非常に寒い。平戸・松浦地方は、ポルトガル船が入港する以前より倭冦や朝鮮貿易のこともあって唐船が入港していた。其の故もあって豚は当地方では其の一部は使用されていた。次に、長崎県下で最初にパンが焼かれ、洋風の食事が開始されたのは平戸地方であった。一、イギリス船の入港ポルトガル船は種々の事情もあって、1562年(永禄5)には平戸の港を出て、大村氏領の横瀬浦(現・西彼杵郡西海町)に入港し更に1571年には長崎港(大村氏領)に入港して以来平戸の港にポルトガル船の入港は殆どなかった。松浦氏は、1609年5月ポルトガル船にかわってオランダ船の平戸入港に成功している。オランダ人は、早速平戸の町にオランダ商館を建設し貿易を開始している。更に平戸港にはオランダに続いて1613年にはイギリス船クローブ号が入港し、同年10月には平戸イギリス商館を建設し、オランダ、イギリスの二国は長崎を中心にしているポルトガルの貿易船に対抗することになった。この時のイギリス商館長はジョン・セーリス(John Saris)といった。セーリスは1813年6月12日(慶長18・5・5)平戸に入港し、8月には将軍秀忠と前将軍家康に面接するため江戸・駿府に向けて出発し、通商の許可を受け11月6日平戸に帰着している。このセーリスはイギリス東インド会社の貿易船隊司令官であり、彼の日本来航は英国王ジェームス一世の将軍家康への国書をたずさえ、対日貿易開始の使命を帯びての事であった。そして彼は其の時の記録「日本来航記」(村川堅固訳・岩生成一校訂・新異国羨書)を執筆している。私達は今、このセーリスの渡航記の中より我が国に及ぼした食文化を考えてみることにした。尚、長崎談叢九十輯に伊東秀征氏の「平戸と長崎の出来事に関するエドマンド・セーヤーズの日記」があるので本稿には大いに参考にさせて戴いた。 二、平戸と西洋料理▲伊萬里赤絵急須セーリスは1612年1月14日胡椒七千袋を船に積み込み日本に向けバンタムの港を出発している。乗り組み員はイギリス人74名、スペイン人1名、日本人1名、インドネシヤ人5名であった。次に其の日の船中食の記録に次のように記してある。船中の給与、一Sack酒(スペイン産葡萄酒)及びビスケット。二食、全能の神が彼らに健康を恵み給う牛肉。次の日の1月15日には岩礁の難関を無事脱出した記録と次の食の記録が讀まれた。給与Sack酒及びビスケット。二食は小麦と蜂蜜なお岩礁を無事に通過した苦労に報い各員にバイトン葡萄酒。四月十四日船はモルック諸島を平戸に向かっている。其の時の食事は給与、ビスケット及びラック酒、一食は牛肉と焼団子、一食はオートミール。六月十日、船は天草の近くに進んできた。午前九時、南の疾風、西寄り北へ航進。四隻の大型の(日本人の)漁船が予の船に近付いてきた。船は一本の柱に帆をはり片側に四本の櫓がついている。予等は長崎に行くのかと聞く。予は船長・事務長に命じて漁船の船長と他の一人に平戸まで案内させることにした。彼等は三十リアルの金と、彼等の食事に要する米を報酬として望んだ。そして彼等の内二人は予の船に乗り込み予の船の全ての仕事に快く労力を提供して下さった。この日の給与、サック酒及びビスケット。一食は牛肉、一食はオートミール。翌六月十一日午後三時、平戸の手前半リーグに投錨。潮が引き進むことが出来なくなったからである。礼砲一発を射つ。それから、領主松浦鎭信公がイギリス船を訪問したと記している。然しイギリス船の平戸訪問はこの時が始めてなのであるのに、どうして領主松浦鎭信公が同船を訪問したのであろうか。これは先年来、平戸に来航していたオランダ人より、イギリス船の来航があることを知らされていたからであると考える。船長セーリスは、この時領主松浦鎭信公を「数種の缶詰をガラス器に盛ってもてなした」とある。この時がイギリス船の入港は平戸公にとっては大いに歓迎すべきものであった。この時、平戸の人達(商人達)は、セーリスに日本酒の樽、魚、豚肉を贈ったと記してある。そして平戸の身分ある婦人が船を訪ねてきたので船室に入ることを許したところ、室になったビーナスの画像をみて彼女等は此の画像をマリヤと思って礼拝し、他の人に聞こえないように「私達はキリシタンである」ことを告げた。▲ 東巴(トンパ)文字絵皿6月13日。セーリス一行は王の歓迎をうけている。この時の料理は塩と胡椒で調理された類種の野菜や菓物であった。6月22日平戸松浦の老公が船に来た。彼は遊女を同伴してきた。セーリスは音楽と色々の砂糖漬を出してもてなした。王は其れを良く食べた。私達は王に望遠鏡一個と黒絹と金の縫取りのあるナイト・キャップを贈った。平戸藩では、当時すでに洋食が大いに普及していたし、平戸公自身も大いに洋食を好まれていた。7月3日のセーリスの日記には、王と私と朝食を共にするために「イギリス商館に来られた」と記録されている。(次号に続く)第25回 平戸にみる西洋料理(其の一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第24回 パン物語(三)

    一、パン製造の古文献先年、千葉大学教育学部の松下幸子先生より東北大学狩野文庫蔵書の中より「南蛮料理書」と「阿蘭陀料理煮法」のコピーを御恵送いただいた。前者は江戸時代初期のものであり、後者は幕末のものである。両書共にパンの製法の事が次のように記してあった。○南蛮料理書 一はんの事 麦のこ あまさけにてこね ふくらかしてつくり ふとんにつつみ ふくれ申時 屋き申也 口伝有○阿蘭陀料理煮法 一パン拵様 麦粉を白酒にて堅くこね 凡茶碗にて丸くなし長目に造り 鍋に入 上下より蒸焼きにす 始めは至極少火にて焼 少しふくれの出きる時 武火(つよび)を以やき終る也 但白酒はまんぢうを拵る時もちうる白酒也前回述べたようにポルトガル船が来航していた頃の長崎の街では自由にパンが焼かれていたが、キリシタン禁教の時代を迎えると、「パンはキリストの肉体」という教えから幕府はパンを食べる事を禁じている。然し、亨保4年(1719)に長崎の人・西川如見が著した「長崎夜話草」を讀むと其の中の長崎土産の項に「ビスケット・タマゴ・ソメン・パン・・・・・・」の名をあげているが、此の事は当時の長崎にはパンは一般には食用とされなかったがオランダ人のためには焼かれていたので名前をあげたのであろう。二、出島オランダ屋敷とパン▲蘭人出島会食図出島オランダ商館の日記を讀むと次のようなことが記してあった。1643年2月早朝、江戸参府に出かけていたカピタン一行が大阪より船に乗り長崎の出島に入った。翌二十八日前カピタン・エルセラック君が住んでいた旧宅に移転を命じられた。次いでパンを食べることは日本人に禁じられていたが、私達は奉公に願って昨日特にパンを食べる事を許された。前回も述べたが出島内には料理室もあり、日本人の料理人も雇われていたが出島内でパンを焼く事は許されなかった。其の故にオランダ人のパンは長崎の町に唯一一軒パンを焼くことを許されていたパン屋が毎日きめられた数だけのパンを焼いていた。出島オランダ商館日記を讀むと更に多くのパンに関した記事が記してある。一六四九年八月四日パン屋から、小麦その他商館用品の全てが値下げになったので今後一年間は十個のパンのかわりに良く焼いて目方もかわらぬパン十一個半ずつを納めると言ってきた。これで私達は目方六十五匁のパン百個であったのが百十五個となった。三、長崎のパン屋▲オランダ焼皿江戸時代、全国でパン屋が営業できたのは長崎の町のパン屋一件だけであった。そのパン屋では前述のように出島のオランダ人のために納品したパンだけでなく、毎年春に入港し、取り引きを終え秋に出帆するまでに港に碇舶しているオランダ船の船員の食用としてのパンも納品していたのである。オランダ船は毎年一・二艘は入港し、船員の人達は上陸し町中を歩くことは禁止されていたので、毎日が大変であったと考える。一艘の乗員は120人内外であり、出島で生活できるオランダ人は12・3人であった。この人達のすべてが食用とするパンを長崎のパン屋は納品し其の代償の取引については「長崎会所五册物」に次のように記されている。一、日用食物パン代の儀はオランダ人食用に付、日日パン屋より賣込来る。右代銀は償これなし、オランダ人買調候に付き代銀は月々長崎会所お取替渡し仰付らる。オランダ船滞在中に相調候分は出帆引合に相立て差引仕り・・・・・・これによるとパン屋の代金は全て長崎会所が立替え支払うのでパン屋は欠損なく大儲けしていたのである。この事について1790年頃オランダ通詞として活躍していた楢林重兵樹が書き留めた「楢林雑話」を讀むと次のように記してある。オランダ人は常食としてパンというものを用う。長崎にて之を賣ることをなすものあり、之をハン屋という。オランダ人みな之のハン屋より買うて食す。ハン屋の年中の利益は二百両ばかりなりと云う。オランダ人はパンの上に牛羊の酪・ボートル(バターの事)を引いて食す。又密を煎じて卵をかけて煮るをパンドウスと云う。パンはゼルマニヤ語なるべし。パンはオランダ語にては鍋にてパンは蒸して作る食べものなりとの意なるべし。又パンの鍋にやきつきたる皮をコロインと云ひ子供の虫にて食を忌むとき、又は面部などの腫るるときは之を塗るとよし。また、江戸時代第一の知識人として知られた司馬江漢も天明8年10月(1788)長崎に来遊し其の時見聞きしたことを綴って「西遊日記」を著しているが、その中にも「パン」の事を次のように記している。彼のオランダ国は牛肉を上食とす、中以下はパンとて小麦にて製する物を食す。オランダは寒国にて米を生ぜざる故なり。この全盛をきわめた長崎のパン屋はオランダ屋敷に近く大波止にも近かった、樺島町にあったと言う。▲有田焼色絵カップ安政六年、(1859)幕府はそれまでの鎖国令を止めて開国に踏み出した事より長崎の街の様子は一変した。そして開国の翌年、万延元年10月(1860)には大浦地区に居留地が完成したので外国の人達は出島を出て大浦地区に洋館を建て移り住んだ、このとき外人の家では料理人を雇い自家製のパンを焼いたり、新しいパン屋が大浦地区には開店した。その故に、それまで唯一一軒で販賣していた長崎のパン屋は、他の出島出入賣込人と共同し次の歎願書を出している。私共これまで出島用取掛り仰付られ勤め候 その故に外人商売については從来の如く一切おまかせ下され度・・・・・・然し、時代は大きく展開していたのであった。第24回 パン物語(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第23回 パン物語(二)

    一、 オランダ商館・長崎出島に移転のこと 長崎の港内・長崎奉行所下(当時の奉行所は現在の長崎県庁本館の地にあった)の海岸を埋め出島の地が完成したのは寛永13年5月(1636)で、その面積は3,969坪(約13ヘクタール)であった。 この出島が築造された目的は、「ひとつは幕府における海外貿易の統制」と他のひとつは「キリシタン禁教のため」であった。その故に1571年(元亀2)長崎開港以来、長崎の町に自由に住み、日本婦人と家庭と持つことも許されていたポルトガルの人達を全て出島の中に収容し、許可なく自由に長崎の町に出ることを禁じている。 そして、唐船に対しても我が国に貿易のため入港を許す港は長崎一港に限り、今までのように平戸、その他に港に来航することも禁じている。 寛永16年7月(1639)幕府は更にポルトガル人(船)の長崎入港を禁じ、ポルトガル人を追放し、我が国に入港を許す船は唐船(ベトナム・タイ・カンボチヤの船を含む)とオランダ船のみと命じた。▲オランダ色絵皿 そして、この時、幕府は更に前年(1614)実施した我が国のキリスト教徒148名をマカオ・マニラに追放した事に続いて、イギリス・オランダ人の混血児とその関係者11名をジャカルタに追放している。 この中の一人に長崎筑後町生まれのジャガタラお春がいた。 翌1640年9月(寛永17)大目付井上筑後守は平戸オランダ商館に行き商館長マキシミリアン・メールに、ポルトガル人に立ち退かせたあと空家となっていた長崎出島の地に移るように命じた。  これに対してオランダ人は幕命であり否応は言えなかった。二、オランダ人・出島に移転す 1641年6月25日(寛永18・5・17)のオランダ商館の日記には次のように記してある。 (村上直二郎先生訳・岩波書店刊) 日の出の頃、船が長崎についたので直ちに予は(M・メール)オランダ人及び(船に乗船してきた)日本人の通詞他の人々に室をきめ、日本人家主(25人の長崎町人)に必要な修理を頼んだ。午后、主なオランダ人と奉行所に挨拶に行き今まで平戸で使用していた日本人の使用許可を願った。 食事のことについてはあまり記載されていないが、それは前回述べたように当時の長崎の町には既にポルトガル人が1571年以来、自由に町中に住み・牛肉やパンなどをとる食生活があったので即座に不自由はなかったからである。 8月1日(寛永18・6・25)次の申し渡しがあった。それは食用に関するものであった。 オランダ船が持参した牛肉、塩豚肉、アラク酒、イスパニヤ・フランスの葡萄酒、オリーブ酒、その他キリシタンが通常使用するものを日本人、中国人又は外国人に賣渡し、交換または贈与してはならぬ。 8月9日(寛永18・7・3)幕府はオランダ人に日本人に対してキリスト教布教の厳禁を命じている。その一節には次のように記してある。 日本人の面前でキリスト教の儀式を行ってはならぬ。日曜や聖日を祝い休んではならぬ。聖書・聖歌集を日本人に見せてはならぬ。 1641年8月19日(寛永18・7)出島門前に次の制札が建てられたと記している。1、 日本人はオランダ人と共謀し金・銃器・その他禁制品の輸出を禁ず。1、 オランダ人は許可なく出島外に出てはならない。1、 遊女以外の女、僧、乞食は出島に入ることを禁ず。1、 日本人の船は出島の周囲に建ててある杭の中に入ることを禁ず。1641年10月24日(寛永18・9・20)長崎奉行所に幕府より派遣されて来た大目付井上筑後守は島原藩主高力摂津守ならびに馬場・拓殖両長崎奉行と共に午后出島オランダ商館を訪ねてきた。商館長は葡萄酒及び料理で出来るだけ飲待したが「彼等は料理に出した葡萄酒・アラク酒・牛酪・酪酪の事について種々質問した」 以上の他・次のことがあった。▲赤絵オランダ船絵付コーヒーカップ1、 オランダ人は日本滞在中は陸上でも船上でもラッパを吹かぬこと。(1641・8・11)2、 オランダ人は今後日本人を使用することを禁ずる。(1864・8・11)これによって商館内に平戸以来雇用してきた日本人使用人21人の内13人を解雇し、奉行所より派遣使用人として通詞2人、青記1人、料理人2人、部屋召使3人の計8人を申請した(1846・8・13) この2人の出島料理人は寛文4年(1664)より奉行所派遣の定役となり、人員も3人となり「阿蘭陀台所へ毎日相詰め」「出島くずねり」とよばれ、1ヶ月に1人前45匁づつ遣申候」といっている。 然し長崎出島オランダ屋敷内の台所でパンが焼かれることはなかった。出島内で食用されていたパンは後述するが長崎の町なかで作られ出島に運ばれていた。 尚、当時オランダ船をはじめポルトガル・イギリス船も航海中はパンを食用とせず全てビスケットを食用していた。此の事については、伊東秀雄先生の「イギリス東インド会社船・クローヴ号船員の食生活」(長崎談叢87輯・平成10・5刊)を参考にお読み下さるとよい。(以下次号)第23回 パン物語(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第22回 パン物語(一)

    はじめに 昨今、各方面から、どうした訳かパンの事について問い合わせが多い。そこで今回は我が国におけるパンの歴史を訪ねることにした。 パンという言葉が我が国で一般に使用されるようになったのは1549年F・ザビエルが鹿児島に上陸し本格的にキリスト教の布教を開始したことにより始まっていたと考える。それはパンと葡萄酒がキリスト教に関係があるからである。  ポルトガル人の種子島来航はザビエル上陸以前のことであり、当時のポルトガル船には当然食料としてパンは持ち込まれていたがそのパンは船員用であり日本人一般には普及されていなかったと考える。1.パンの始まり▲オランダ船図(越中文庫) パンの語源はポルトガル語のPaoである。~ 1562年10月西海町横瀬浦からローマに報告されたアルメイダ神父の手紙をみると、この年大村純忠を教会に招待したと記してあり、その中に次のように記してある。 私達は修院を良く飾り大村の殿様と其の一族の人達を食卓に迎えました。 この時、日本人の食事、ならびに我が国風(ヨーロッパ式)の食事もつくりもてなしました。そして其の間に3つのビオラの楽を演奏しました。 このようにヨーロッパ式の食卓を用意したのであるから、そこにはパンが焼かれ牛肉料理が用意されていたと考える。 横瀬浦の開港は1562年であるが平戸にポルトガル船が初めて入港したのは1550年であり、槙セ浦開港以前ポルトガル船が入港し、キリシタンの信者も多くいた府内(現在の大分市)の街では此のとき既にパンは造られていたと考える。 それは1655年ガゴ神父がポルトガルに送った府内のことを報告した書簡の中に病人のためにパンを造ったと次のように記してあるからである。 貧窮な病人のため他に薬がないので聖水と聖パンを供した然しこの聖パンというのは洗礼の時に使用されるパンはホスチヤのことである。2.ホスチヤのこと▲デルフト(オランダ)焼絵皿(越中文庫) 1600年(慶長5)6月長崎イエズス会の後藤宗卯(当時、長崎を代表する頭人の一人)が刊行した「ドチリ・キリシタン」に次のように記してある。 バテレン様(神父)ミサをおこない給うとき、聖書のお言葉をカリスとパンの上にとなえ給えば、其の時までパンたりしもの即時にゼス・キリスト様のまことの御身となり、カリスの中にある所の葡萄酒はイエス・キリスト様の御血となる(意訳) ドチリナキリシタンという書名は「これキリシタンのおしへと言う義也」と記してある。 この意味でパンと葡萄酒はキリスト教では宗教上大事なものとしてであり、キリスト教の我が国布教と同時にパン(ホスチヤ)が作られたが、パンを日本人の食卓に用いることはなかった。 1604年(慶長14・9)上総国に漂着したドン・ロドリコの報告書によると次のように記している。 日本人はパンを(主食として)食べるより菓物を食べるように食べていた。 1600年代になると長崎の町にはイエズスの本部や岬の教会、ミセルコルデイヤの教会など多くの教会があり、街の人達は全てキリシタンの信者であり、まだ長崎の町にはひとつもお寺もお宮もなかったのである。 前回に引用した事もあったが1618年10月18日長崎の教会にいたコロウス神父はローマの本部に次のように長崎の町のことを報告している。 長崎の町には建物はヨーロッパ風であるし牛を殺したり、パンを焼いたりすることのできる人達が多く町中にいるのでポルトガルやスペインに住んでいるのと同じような生活ができる。 この頃(1604年頃)、全国のキリスト教徒は75万人で我が国のキリシタン史上最高の人数であり1610年の長崎の人には1万5千人と記してある。 然し1612年徳川幕府はキリシタン禁教令を発したので教会が破却されている。これ以来キリシタンに対する弾圧が始まり1622年(元和8)8月には長崎では西坂の地で元和の大殉教が行なれている。3.オランダ船来航とパン▲スペインの水壺(越中文庫) オランダ貿易船が我が国に始めて来航したのは平戸であり其の時は1597年7月(慶長7)であった。 平戸の町は1500年ポルトガル船の入港以来南蛮貿易港として栄えていたが、宗教上の事もあって1564年(永禄8)以後は南蛮船が入港することが無くなったので町は寂しくなっいた。其の町へオランダ船の入港をみたので町は大いに沸いた。 1612年、オランダは平戸オランダ商館を平戸崎方に設置している。そして其の翌年にはイギリスの貿易船も平戸に入港し、町は一層にぎやかになった。 幸なことに、この平戸オランダ商館の日記が現在オランダのハーグの国立文書館に保存されていたのである。(永積洋子訳・平戸オランダ商館の日記)その日記を読むとパンに関する多くの資料が記されている。当時の平戸の町には既にパンを焼くことのできる人達がいたと記してある。  一例をあげると1615年のコックス日記(コックスは平戸イギリス商館長)を読むと次のように記してある。 私はパン製造人に小麦一袋を渡しました。そして其の代金の代わりにパンで返してもらうことにした。 1630年代の平戸オランダ日記には「砂糖入りパン」という言葉もあった。パンは平戸オランダ、イギリス商館内では常食として使用されていたことが知られる。勿論長崎の町でも当時はポルトガル人はパンを常食としていた事は前述のとおりである。(以下次号)第22回 パン物語(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第21回 長崎版画に描かれた異国の料理

    はじめに先日、みろくやさんより長崎版画について教えて戴けないかとのご要望があったので、今回は其の中より異国の料理を題材にした版画は長崎にしかないので取りあげてみることにした。1.長崎版画とは▲阿蘭陀人食事之図 竹壽軒版(長崎県立美術博物館蔵) 江戸時代における版画は、其の土地の名勝古跡を人に語るときのよき資料となるし、旅行きの時の手軽な土産品(現代の絵葉書)にもなった。又、美人図の版画は現代のブロマイド的なもので江戸時代には特に評判の物として大いに発売されていた。 次に江戸時代の版画は大別して三つの種類に分類することができる。 一つは江戸を中心にした江戸版画、二つは京都、大阪を中心にした上方版画、三つは長崎の版元で製作された長崎版画である。 その長崎版画の特長は他の地方では描くことのできなかった唐船、蘭船の図でありその船で来航してきた異国の人達の生活風俗を描いた異国趣味の版画であった。2.版画と地図▲漆絵 オランダ船(越中文庫) 版画の今一つの作品として旅行者のために各地の地図が造られていた。其の地図にも墨色一色のもの、それに手彩色が加えられている物と、多色刷りのものもあった。 其の地図の中でも「肥州長崎之図」は評判のものであった。それは地図の中に出島や唐蘭船など異国趣味の物が描かれていたからである。そして其の種類も30種類のものが造られる程評判の高いものであった。 長崎地図版画研究の参考資料としては1977年6月京都古典同好会が発刊している「古版長崎地図集」がある。一読されておかれるとよい。 長崎版画初期のものとしては1681~88年の間に製作されたと推定されている墨刷筆彩の長崎図がある。大きさは63.4×15.1糎であり版元は記されていない。 そして、この地図の特長は、地図の下欄に南京人、阿蘭人など異国の人物5人と異国までの距離が書き込んであり、港内には唐蘭船図や港番所が描かれているところにある。3.長崎版画と料理▲オランダの皿(越中文庫) 当時の人達にとっては唐蘭館内での食事風景には大いに興味がもたれた。それは唐蘭館内の生活は全て異国風であった事と其の中には係役人以外は自由に出入りすることが禁じられていたからである。 この人々の好奇心に目をつけて発売されたのが唐蘭館内食事風景の版画である。 この種版画の初期の物としては版元竹寿軒製作の「阿蘭陀人会食の図」がある。そしてこの時代より長崎版画にも江戸版画の技法を取り入れて合羽刷や多色刷の版画が製作されている。 竹寿軒の図にはテーブルを囲んで5人のオランダ人が椅子に座り、一人の黒人の召使は酒を注ぎ、他の黒人は大皿に盛られた料理を運んでいる。そしてオランダ人の手には各人フォーク、ナイフ、スプーン、コップをそれぞれ持たせ、テーブルの上には、大皿に乗せられている角のついた牛の頭の料理を中心に5皿の料理が描かれている。 更に図の左手には高台に下げられた鐘が描かれ、其の横に次の文字が読まれる。 食鐘 メイザンとも云う 図の左下には「長崎恵比寿町 竹寿軒改板」と刻してある。 竹寿軒は宝暦年間(1751)を中心に活躍した版元で、始めは東浜町にあり版元は中村 惣三郎と言い、後には恵比寿町に移っている。 次に此の図には「改版」と記してあるので此の版画の他に原本があったと思うが不明である。 次には豊嶋屋版の大判の蘭人宴会図三種と蘭人会食図がある。そしてこの図の上部には次のようなオランダ文字が書かれている。それは正面に大きくHOLLANDERと書き左右に小さくDeze print Zuiver gedruchtと記してある。一説では此の蘭文字は長崎に遊学していた林子平が書いたものだと言うが、長崎のオランダ通詞関係の人達は全て蘭文が書けたので、此の蘭文の筆者を林子平とのみ限定することは出来ないかもしれない。 豊嶋屋は天明・寛政の頃(1721~1800)勝山町にあった版元で店主は大畠文治右衛門で二代は大畑伝吉と言い、此の時屋号を富嶋屋と改めている。更に此の版元のことは司馬江漢の「西遊日記」の中にも記されている。 次に有名な長崎版画の文錦堂にも賀蘭人床楽図という合羽刷のオランダの食事風景の版画が造られている。 文錦堂も亦「勝山町上の角」にあった。多分富嶋屋が廃業した後に江戸より合羽刷の職人を招き新しい技法で長崎版画を製作したのであろう。他に合羽刷の三種の紅毛人食卓図がありこれには版元の記載はないが多分文錦堂版であろうと考えている。そして此の三種の食卓図には始めてオランダ婦人が描かれており、其の中には食卓でヴァイオリンを弾くオランダ婦人が描かれている。 文錦堂は初代を松尾齢右衛門、二代を俊平、三代を林平といい明治4年に歿している。文錦堂の繁栄期は二代の時であったので1800年より二代俊平が没した1859年頃まであったと考える。 以上、オランダ人食卓図に対して唐人食卓の図は極めて其の数が少ない。唐人の食卓之図としては文錦堂合羽刷の大清人酒宴図、益屋版唐人卓子ノ図、版元不明の唐人拳戯図の三種がある。食卓の上には大皿に乗せられた大魚、家鴨の丸焼、桃の実などが描かれ、中でも文錦堂版には中国風の食卓、其の左右にはガラスの大きなホヤを被せた燭台、卓の下には二つの七輪が置かれ此の上に煮物鍋と大土瓶が描かれていて実に良くその雰囲気があらわれている。第21回 長崎版画に描かれた異国の料理 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第20回 異国の菓子物語

    はじめに私が本紙に「長崎開港物語」料理編を書き始めてたのは平成4年11月で今回が其の20回にあたる事と、「みろくや」が一般市民のため平成4年9月より年6回開講してきた「長崎食の文化講座」が、今年は其の10周年を迎えるという記念すべき年であるので、私の未発表の食文化関係資料と本紙に登載した長崎料理物語を一冊に編集し「十周年記念誌」として今秋には発刊して下さるとの事である。そこで、今回は料理の方向を少し変え、長崎異国趣味の菓子物語を紹介する事にした。1.異国の菓子物語西川如見が「長崎土産物」として広めた、2種類の異国趣味の菓子。▲サラセン模様絵皿長崎の開港は1571年のポルトガル船の入港に始まるのであるから、当然、長崎異国趣味の菓子は南蛮菓子、唐人菓子の順で始まっている。  南蛮菓子・唐人菓子の名を長崎名物の菓子として全国に広めたのは西川如見である。如見は長崎の貿易商西川家に慶安元年(1648)に生れ幼少の頃より儒学・天文・地理・暦学を修め、特に天文学者としては世に大いに認められ、亨保3年(1718)将軍吉宗によって江戸に招かれ天文・地理学を講義し、多くの著書も発刊している。其の中でも我が国最初の地理書といわれる「華夷通商考」は有名である。 その如見が長崎の歴史風土を記述し、亨保4年(1719)序文をのせ、京・大阪・江戸・の三都の書林より発刊している「長崎夜話草」があり、其の巻5に「長崎土産物」の項がある。その中に長崎には特産の菓子2種類があることをあげ次のように記している。○南蛮菓子色々。ハルテ、ケジヤアド、カステラボウル、花ボウル、コンペイト、アルヘル、カルメル、ヲベリヤス、パアスリ、ヒリョウス、ヲブダウス、タマゴソウメン、ビスカウト、パン、此外猶あるべし。○唐菓子色々。香餅、大胡麻餅、砂糖鳥、羅保衣、香沙?、火縄餅、胡麻牛皮、玉露?、賀餅頭、此外猶多し此唐人伝也2.南蛮菓子不ラ路とはポルトガル語の菓子の意。型により丸ボウル、花ボウル、カステラボウル。▲スペインの水差し(越中文庫)初期の南蛮菓子を紹介した文献に一つに東北大学内狩野文庫に収蔵されている「南蛮料理書」(狩第六門1978)がある。その中より菓子に関するものを取りあげてみる。一、不ラ路の事  小麦粉の粉壱升に白砂糖五十目、しを水にてこれうすくのべ厚さは五分ばか里にしてくるまて切、なべに紙をしき、上したに火を置き、やき候也。口伝あり不ラ路とはポルトガル語のBolo(菓子)のことである。現在は佐賀の名物の「丸ボーロ」として知られているし、前出の「長崎夜話草」にはカステラ・ボウル。花ボウルの名が記してある。これは型によって丸ボウル、花ボウル、カステラボウルと区別されていたと考える。 更に同書にはカステラ・ボウロの事について次のように記してある。 たまご拾二に、砂糖を六十目、麦の粉弐百六拾匁 この3品を加て鍋に紙をしきて、こをふり、そのうへに入れ、上したに火を置いてやき申也。口伝有之 このカステラの語源であるが、ポルトガル語でCasteloと言えば積みあげる、又は城などという意味である。又一説には昔、スペイン国のCastela地方の人より伝えられた菓子であるからカステラと言うと論ずる人もいる。現在ポルトガルではこの種の菓子はPao-de-loとよばれていてカステラという名称の菓子はない。恐らくカステラは城のように大きく膨らんだ菓子と言う意味であろうと私は考えている。この菓子は江戸時代の初期には既に全国に其の製法が伝えられていたが現在のカステラとは其の材料が違っている。それは現在のカステラは明治時代以降、前記砂糖、卵子、麦粉の3品の材料の他に水飴が加えられるようになったからである。これは中国より明治以降導入された中国菓子の製法に影響をうけたからである。3.ボウロをつくる鍋ポルトガル人によって持ち込まれた、ボウロをつくる鉄蓋の天火(オーブン)▲17世紀初期 南蛮趣味の日本人ボウロをつくるには鉄鍋に入れ其の鍋の上に火を置いて焼き申し候、といっている。従来の日本における鍋の蓋は全て木で造られており、その木蓋の上に火を置いて焼くことは出来ないことである。我が国には従来オーブン(天火)はなかったのであるが、ポルトガル人の来航によってこの種オーブン様式の鍋が持ち込まれたのである。 我が国における「天火」は鉄で平鍋をつくり、其の上に鉄で平板をつくって鍋蓋とし、その鉄蓋の上に炭火を載せ、ボウロをつくっている。この種「天火」を長崎の人達は引釜とよんでいる。それは、この種「天火」の鉄蓋は熱くて手で持てないので「引き棒」で引き下ろしていたからである。 鉄蓋の天火を考案したのはポルトガル人が16世紀マカオに進出し、其の地を基地として活躍するようになったとき、同地の人達の工夫で造られたものでと考えている。 ポルトガル人はパン(Pao)を我が国では常食としていた。前出の「南蛮料理書」には其の製法を次のように記している。一、はんの事麦の粉を甘ざけにてこね、ふくらかして津くり、ふとんにつつみ、ふくれ申時、やき申候、口伝あり然し、江戸時代禁教時代になるとパンは「キリシタンに関係あり」として一般には食べることが禁止されていた。(以下次号)第20回 異国の菓子物語 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第19回 長崎開港430年

    長崎開港430年▲南蛮の小鉢(越中文庫)長崎の開港は元亀(1571)の初夏である。最初に長崎に入港してきたポルトガル船の船長はTristao Vas de Vesigaといった。当時の長崎の町は、港の中につき出ていた岬の上に新しく建てられた教会(サン・パウロ)と其の前に開かれた6町があった。そして其の町の住人は全て他国より移住してきた信者の人達で1,000人前後はいたようである。以来、毎年のようにポルトガル船が定期的に入港したので、他国の商人達が集まってきた。そして其の町の発展には目をみはらせるものがあった。協会の神父さん達は全てポルトガル、スペインの人達であり、ポルトガル船の人達も自由に町中を歩き、町の人達もすべてが信者であったので毎日曜ごとの教会のミサには、いつも信者で溢れ、ラテン語の賛美歌が遠くまで響いていたそうである。前号で私は、其の当時長崎の町でつくられたパンや輸入されてきた砂糖の事について記したので今回はその他の南蛮料理について考えてみることにした。1.平戸の南蛮料理長崎の南蛮料理のルーツは平戸の町にあり。平戸城の中にも南蛮料理を作る料理人がいた。▲スープを飲む南蛮人(越中文庫)長崎の南蛮料理のルーツを訪ねてゆくと、其処には長崎の開港よりも半世紀前(1520年)に既にポルトガル船の入港があり、以来南蛮貿易の街として栄えていた平戸の町がうかんでくる。そして平戸の町にも教会が建てられ信者の人達も多くいたのであるが、平戸は長崎の町とは違い古い城下町であり寺院や神官、山伏などの力も強かったので、事あるごとにキリシタンの人達と争っていた。然し当時の平戸の町は南蛮貿易の町として賑わっていたのである。1560年頃、平戸の町の様子をフェルナンデス神父は次のようにローマに書き送っている。平戸の人達は何でも食べるのですが、お坊さん達は牛肉を食べない。この地にはポルトガルと同じ食料がありますが其の量は少ないのです。平戸の人達の中には労働をしない人がいて其の人達は飢餓(貧乏)です。又この地方は寒いのです。これによっても平戸では既に牛肉豚肉が食べられていたことがわかる。現在も平戸の土産に「カスドス」という菓子がある。このカスドスの語源はカステラ・ドスというポルトガル語と考えている。カステラは我が国では一般にポルトガルの菓子(Pao-dose)であり、ドスはdose(甘い)でるので、甘いカステラの意味である。現在のカステラは非常に甘いが初期のカステラは甘味が少なかったので蜂蜜をつけたと記してある。その故に平戸のカスドスには今も蜂蜜が加えられているそうである。平戸には、この他にも南蛮料理の話がある。1621年スピノラ神父の手紙の中に「自分が平戸のお城に呼ばれた時、殿様からポルトガル式の肉の振舞いがありました」。又他の同神父の他の手紙には「城から帰ったとき夕食に冷たいけれども肉のパイ及びパンと鶏肉が運ばれ、平戸の殿よりポルトガルと日本の良い酒が贈られた」と記してあった。オランダ商館も1641年長崎出島に移される以前は平戸にあったので、オランダ人も最初は平戸に住んでいた。当時平戸オランダ商館日誌を読むと之にもヨーロッパ風料理が平戸の町で作られていたことや、当時の平戸の殿様は「鶏のむし焼き」が好物であったと記してある。そして平戸城の中には此のような南蛮料理を作ることのできる料理人がいたのである。2.長崎南蛮料理のルーツ長崎の南蛮料理は1571年の開港と共に始まる。▲江戸時代長崎港図(純心大学博物館蔵)長崎の南蛮料理のルーツは、前述したように長崎より約半世紀も前に開港した平戸の人達によって伝えられたと考えている。一体、半世紀近くも親しんだ平戸の町を離れてポルトガルの人達は何故長崎の港に来たのであろうか。そこには平戸の領土松浦隆信と大村領主大村純忠との勢力争いが第一の理由である。ポルトガルの史料によると、「松浦氏の一部の人達の中にポルトガル商人団に好意を持たない者がいる。次にキリスト教徒に不親切な人達がいるので、吾等に厚意を示している大村氏の領内の港に貿易港を移す」と記している。ポルトガル船は大村純忠と必要な協定を結び1561年7月には大村領内横瀬浦(現・裁西海町内)に入港、貿易を開始している。純忠は翌1562年6月、26名の家臣と共にキリスト教に転宗、霊名をドン・パルトロメと称した。じつに素早い行動である。之に対して反純忠派は同年11月末、横瀬浦を焼き払っている。1565年純忠は再起して長崎港外福田の港を開きポルトガル船を迎えている。神父達は1567年福田の隣り長崎村に布教を開始している。そして其処にすばらしい港を発見し1570年港を測量し、大村純忠の協力もあって1571年長崎開港となった。この時平戸の信者達は大勢移住し平戸町を作っている。ここに南蛮料理のルーツが開かれたのである。第19回 長崎開港430年 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第18回 長崎食文化の夜明け

    1.長崎食文化の夜明け長崎人が最初に口にした南蛮の味は、ホスチヤ(初期のパン)と葡萄酒。▲荷揚げ 山下南風作(純心博物館蔵)我が国ではポルトガル、スペインより来航する船を南蛮船といい、オランダ、イギリスより来航する船を紅毛船又はオランダ船といった。ヨーロッパより最初に我が国に来航した船は南蛮船である。それは1543年初めてポルトガル人が種子ヶ島に来航してより間もなくの事であったという。南蛮船は鹿児島、坊ノ津、豊後、博多などに寄港し、1549年には平戸、1571年には長崎の港に入港している。以来、本格的な我が国とヨーロッパとの通商が開始され、今年はその南蛮船が長崎に初めて入港して430年という記念の年である。この南蛮船の長崎入港には、長崎地方の領主大村純忠が熱心なキリシタンであった事とイエズス会の神父達の協力によるものがあった。その南蛮船が長崎に初めて入港して430年という記念の年である。住民は全てキリシタンの信者であり、そして此の町には神社もお寺も一つも建っていなかった。ポルトガルの人達は長崎の街中を自由に歩くことができたし、日本人女性と家庭をもっていたポルトガル人の人達も多く住んでいた。その故に長崎の町ではポルトガル風の南蛮料理や南蛮菓子がつくられ、ポルトガル語の会話もできた。私はその当時の長崎南蛮食の文化史を『第1回 西洋料理編(一)』に記しておいたので今回は其の続編として稿を続けることにした。長崎の人達が、最初に口にした南蛮の味はパンと葡萄酒であったに違いない。それはキリシタンの人達は必ず教会に行き洗礼をうけ、パンと葡萄酒を戴くことから始まるからである。パンはポルトガル語のpaoを語源としているのでポルトガル人が最初にこの言葉を我が国に伝えたものである事がわかる。パンは小麦粉さえあれば比較的容易にできるのであるが、我が国にはパンを焼く釜「オーブン」はなかったので日本では鍋を改良してパンを焼いたにしても一応の指導をポルトガル人にうける必要があったに違いない。▲ポルトガルの皿(越中文庫)我が国初期のパンは主として教会で作られていたのである。1599年10月28日付マニラ発・メスキタ神父のパンについて次のような報告書がある。京都でつくられた金箔のホスチヤの箱を去年おくりました。その中には日本の小麦でつくったホスチヤを入れておくりました。ホスチヤ(ポルトガル語hostia)については1600年(慶長5)6月長崎で発刊された「ドチリナキリシタン」を読むと次のように記してある。パンの上に、キリストの教え玉う言葉(聖書の言葉)をとなえ玉えば、それまでのパンは、即時にキリスト様のお身体の一部と変じホスチヤとなり玉う・・・・これ不思議のことなり。要約すると、同じパンであっても聖書の言葉を上からとなえると信仰的なものとして崇められるものになると言うのである。先日、長崎西坂町にある二十六聖人記念館を訪ねたら多くのキリシタン遺品の中に17世紀初期につくられたホスチヤがあった。そしてこのホスチヤこそ我が国に現存している唯一の初期のパンであろうという。2.我が国の食文化に大きな影響を与えた砂糖考南蛮船による砂糖輸入に始まる、調理用としての砂糖使用。▲ポ南蛮船の積荷 一般に我が国で砂糖を調理用として使用するようになったのは南蛮船による砂糖輸入に始まるとされている。1563年来航し1597年長崎で歿し日本についての種々の記録を残しているイエズス会のフロイス神父は日本人の食に関しても次のように記してある。1. 吾れ吾れ(ヨーロッパ人)は甘い味を好むが日本人は塩辛いのを喜ぶ。1. 吾れ吾れは砂糖、卵をつかって麺類を食べるが日本人は芥子や唐辛子をつかう。1.日本人の汁は塩からい。日本人は吾れ吾れのスープを塩気がないという。然し1600年を過ぎる頃には南蛮船が長崎に毎年運んでくる砂糖の味を日本人は楽しみ次第に次のような砂糖菓子がつくられているとポルトガルの文献に記してある。Sato Mochi(訳文) 砂糖を中に入れ餅。Mochi 米で作った円いBollo(菓子)。Yocan 豆と黒砂糖をまぜて作る菓子。Sato インド、アフリカで作る甘味。1600年以降の南蛮船の積荷を調べると次第に砂糖の積荷が増えている。そしてポルトガルの貿易記録には「白砂糖は仕入値が百斤につき15匁であるのに長崎では百斤30~45匁で売れ、黒砂糖は日本人が好むので仕入値百斤4~6匁に対して40匁~60匁に売れる」と記してある。そして1655年頃になると我が国の人達も黒砂糖より白砂糖を好むようになり1700年頃(元禄時代)の記録には「白砂糖二百五十万斤、氷砂糖三十万斤、黒砂糖七・八十万斤」を輸入したと記してある。我が国で使用される砂糖は全て長崎に毎年入港してくる唐蘭船によって大いに繁昌していたと言っても過言ではない。その故にか、今でも長崎料理の味は他所の味付けに比べて「甘い」と言われている。第18回 長崎食文化の夜明け おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第17回 阿蘭陀料理編(二)

    地方史研究に外国文献を取り入れ、新分野「長崎学」を開拓した古賀十二郎。▲ポルトガルの絵皿(越中文庫)今年の長崎には"ながさき阿蘭陀年"の各種行事に軌をあわせるように、なかにし礼先生の小説・長崎ぶらぶら節の直木賞受賞、それに続いて市川森一先生の脚本、深町幸男先生の監督による映画化で観光地長崎は今更ながら全国的に大きく認められてきた。この小説の主人公は実在されていた古賀十二郎先生と名妓愛八である。古賀先生は長崎の二十世紀を代表される博学の人で明治12年長崎五島町の旧黒田藩御用達で素封家萬屋の長男として家督を継いでおられる。先生は長崎商業高校を卒業後、東京外国語学校に進学、やがて郷里に帰られて以後は長崎県立図書館の創立など長崎文化の推進に尽くされている。先生の学風は従来の地方史研究にみられなかった外国文献を大いに取り入れられ研究されたことで、ここに新しく、「長崎学」という新分野を開拓された功績は各方面より高く評価されている。1.長崎学における食文化長崎人の食習慣などを集録した、代表的著者「長崎市史風俗編」▲平戸三川内焼 デミタス・カップ(越中文庫)古賀先生の代表的著者に長崎市史風俗編があり其のページ数は上遍742ページ、下遍330ページの大冊で大正14年11月長崎市役所より市史佛寺編、神社編などと共に出版されている。風俗編は18章に分類され其の第9章が衣食住であり、同章の第2節(P618~700)が料理となっている。料理は先ず1,卓袱料理。2,南蛮料理。3,ターフル料理。4,長崎料理。5,揚屋。6,待合。7,料理屋。8,鰻屋。9,鋤焼屋。10,食事。11,牛肉類其他食用の禁。12,夜打。13,菓子其他。14,煙草と阿片。に分類されている。この内第10食事というのは長崎人の平常もちゆる食事のことが集録されている、その中より2、3の事を拾うとイ)長崎人の家庭では朝飯は冷飯の茶漬けに香のものを用う。味噌を朝飯に用うることはない。これは贅沢な家庭にてもこの習慣あり。 但し客人に対しては朝飯でも汁物、魚肉類を出すことは云ふ迄もなし。ロ)冬になると朝芋がゆを用うることもあり。天明8年(1771)長崎に遊学した司馬江漢の日記の文に「11月11日、雨天、朝・・・・・・夫よりしてサツマ芋の粥(かゆ)を喰ふ。」と記してある。2.長崎学とターフル料理ターフルとは、蘭語の食卓の意。パン、酒類など出島オランダ屋敷の食生活を解説。▲色絵コンプラ正油瓶(越中文庫)ターフルとは蘭語のTafelに外ならぬのである。そして食卓と云う意味を持っている。と先生の説明は始まっている。そして続いてパンの説明が記してある。パンというのは蘭語ではなくポルトガル語paoスペイン語でpanと称した。蘭語ではbroodというが長崎人にあわせてパンと言っていた。パンはオランダ人の主食で長崎の街に唯1軒のパン屋があり、毎日数をきめて焼かれていた。そのパンは出島オランダ屋敷に納入するだけの数が焼かれ日本人にはパンを売ることは禁止されていた。それはキリスト教とパンとは関係があり、「パンはキリスト教の肉、葡萄酒はキリスト教の血なり」と教会で教えられていたからである。出島のオランダ人と長崎のパン屋との間には次のような取り決めがなされていたと1649年8月4日の出島オランダ商館日記に記してある。向う1年間は1匁に10個のパンのかわりに善く焼いた目方もちがわぬパン11個半ずつ納めると言ってきた。これで目方65匁のパン100個であったのが115個となった。次にターフル料理によくでてくる言葉としてはボートルという言葉がある。古賀先生は「ボートルとは蘭語のboterである」と説明され元禄15年(1702)6月13日より来崎していた土佐藩士吉本八郎右衛門の日記を引いて出島のオランダ人の食生活について次のように説明されている。パンと申す小麦粉にて仕候餅に、牛の乳を塗り申候更に、先生は明和2年(1765)刊行の「紅毛詩」を引用されてバタは「牛の乳をねりつめたものなり。紅毛人諸食物にまじへ食す。日本の鰹節を用ふるがごとし。此もの丸薬となし、衣に砂糖をかけ小児の百日ぜきに用ゆ、効あり」と説明されている。洋食器の中にフォークがあらわれてくるのは出島のオランダ式の食卓からで、ポルトガル船の時代にはまだフォークがあらわれていない。先生の論考には次のように記してある。ホルコという。蘭語Vorkにあたる。蘭語辨惑には「物をこの器にてさし喰ふ俗に関さしといふなり」とある。長崎ではホコと称する。長崎名勝絵には三刃鑽と記し右傍にホコと片暇名をつけている。英語にてはforkという。ターフル料理には酒類もいろいろある。葡萄酒、麦酒、アラキ酒、焼酒の名をあげられている。このうち麦酒は蘭語のbierに外ならぬのである。蠻語箋には「麦酒 ビール」とある。亦長崎の出島で編集されたドーフハルマ辞書にはBiter Oomogite Kosiraje-tar' nomi mono.とある。ビールも亦紅毛船によって長崎に舶載されたものである。アラキ酒はよく出島オランダ屋敷の招待客のもてなしに食卓に並べられている。アラキ酒は蘭語orakと云う。ポルトガル語ではaracaスペイン語ではaracフランス語ではarack、英語ではarack(or racl)その母語はアラビヤ語aragに見いだすのである。古賀先生は更に言葉を続けられてアラキ酒は我が国では阿刺吉、荒気など書いた。蘭領インドのバタビヤ産のアラキ酒は最良のものである。アラビヤ語のaragは汗または汁という意味を持っている。東インドのイスラム教徒の間にこの言葉は普及した。そして強い酒と云う意味である。そして古賀先生は「これは要するに強い酒である」と結ばれている。古賀先生は上述のように東京外大の御出身で語学には非常に堪能であられ、この酒の解説は先生ご自慢の文であられた。第17回 阿蘭陀料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第16回 阿蘭陀料理編(一)

    1.幕末から明治初期の洋食最初のパスティに始まり、ペール(梨)コムポットまで13種。▲古渡オランダ皿(越中文庫) 私は前号で紹介した東北大学狩野文庫所蔵の「阿蘭陀料理煮法」と「阿蘭陀料理献立」を参考にしながら幕末より明治初期の洋食を今回は述べてみたいと考えている。  両書共に最初に出されている西洋料理としてパスティをあげている。その料理の材料としては家鳩、鶏かまぼこ、椎茸、ひともじ、ささ燕巣、鶏卵、粒胡椒、肉豆蒄の粉と記しその調理法は、○家鳩は四つ割りにしてボートルを以・赤く色つく様に炙り焦付ときは水を少しづつふりかけ撹する也。○鶏の肉コウ(かまぼこ)鶏の肉を細くさき、鶏肉、ビスコイト、粉胡椒、肉豆蒄の粉を入、塩を加えまぜ合わせおおよそ竜眠肉の大きさに丸くし鳩同様にボートルにて焚る。○鶏卵はゆで長さに四つきり右の具を一同にし胡椒の粉、肉豆蒄の粉を加え鶏汁にて煮込む。2番目の料理はケレーフトソップと記してある。その調理法については次のように記述してある。○材料。伊勢海老肉コウ、椎茸、ひともじ、海老を丸ながらゆで頭を去、竪に2つに切りて肉を抜き取り細くたたき、ひともじをきざみ、粉胡椒、肉豆蒄の粉、鶏卵、塩、ビスコイ此6品を加え撹ぜかまぼこを造る。これを海老のからにつめボートルにて煮る。煮方はゆで海老の頭をつき砕き鶏汁に入れ撹ぜ布にて漉しアクを去る、此汁にて上の具を煮塩を加え塩梅するなり。3番目の料理としては次の2品がでる。1,ゲコークト・ヒス(ゲコークト=煮物・ヒス=肴)鯛鱈鰈の類1,ゲブラード・ハルク(ゲブラード=揚物・ハルク=豕)炙豚 ボートル但是よりペールコンホット(梨子)まで13種あり。上のゲーコクト・ヒスを引取り、その跡に一同でる。ゲーコクト・ヒスの煮方は、魚・鯛、鱈、鰈の類の鰓腸を去り、塩水にて煮る。からし・ボートルにてゆるめ煮魚を浸し食す。1,ケブラード・ハルク 豚の体股を取、毛皮を去り、膝節より足先を切、接股のさかいの所に割のかたを付て二重になしてまげ糸にて伸びぬようにくくり付け水にてよく煮、汁を捨てる。ボートルおおよそ茶碗2盃入る。色つく様になるまで煮る。折々水をうちふり鍋に煮付ぬように煮あげ、其汁に塩を加えかけ汁とする也。但し豚に限らず野猪・羊・野牛の類いづれも是に倣ふ。2.阿蘭陀料理煮法鴨料理、小鳩料理、紙焼鶏等から菓子、スープの調理法まで。▲九谷焼金彩赤絵蓋茶碗 この後、料理はゲブラードフウドル(鶏料理)ケブラードアンドホヤゴル(鷺料理)他鴨料理、小鳥料理、紙焼鶏、焼豚、焼鰻、蒸魚の料理と続き次の野菜料理3品を用意する。○ゲストーフトラアプ(蕪菁) かぶらを蒸し芹葱を置て細くきざみ、ボートル・ビスコイト粒・胡椒の粉・肉豆蒄の粉を入れ撹ぜ塩を加え鶏汁をいれ煮て塩梅す。○ゲストーフトゲルウヲルトル これば前述の材料が胡蘿蔔とかわる。○スピナアジイ(菜または千さの類を用う) 野菜を柔らかにゆで鉋丁を以て至て細かにたたきボートル胡椒の粉、肉豆蒄の粉を加え鶏汁にて堅くにつめ若汁多き時はビスコイトを加えて塩梅す。鉢に盛るときは其上をハアカにて平らめに慣て其上に鶏卵を四つ割にしてならべ別にパンを上にきせる。竿まわり長さ一寸余りに拵えボートルににて焚、是を鶏卵のあいあいに御して置なり。 次にペールコムポットが用意される。その製法は次のように記してある。梨子の砂糖煮 梨を丸むきにし蔕付の所より穴をあけしんを抜去。水にてゆであげ穴の所より砂糖をつめこみローイウエを似て煮込むなり。但、肉桂少し香気に加え又砂糖を入れ汁を密の如く濃く粘るようにするなり。折々に梨子に汁をかけ赤く色つくように煮るべし。ローイウエインというのは葡萄酒のことであり、ボートルとはバターのオランダ語である。スコイトというのはビスケットのことであり、その作り方は次のように説明されている。○パンを薄くはき臼に晒し細末にす。悉なる時はパンの上皮をはき去り内の水に浸しぶりて用也。パンの拵様は次にのぶ。パンは麦粉を白酒にて堅くなておおよそ茶碗大に丸く少し長めに造り鍋に入れ上下より蒸焼にす。始めは至極く小火にて焼。少しふくらの出来た時、武火を以焼終わる也。但白酒はまんぢうを拵る時用る白酒なり。次に菓子の事が記述されている。○タルタ、○ソイクルブロートーかすていらに当たる。○ヒロース、○スペレッツ、○スース。そして前述の「阿蘭陀料理煮法」には、その菓子の製法が記してある。 次には「汁拵様」と記し、その調理法をつぎの様に記してある。「汁は鶏を骨抜にきり水にて骨の砕るまで能く煮、布にてこし、汁をとり、別に麦の粉にボートルを入れておく・・・」とある。現在のスープに調理法を述べている。次に本書は蒸焼調理法に関することも詳しく述べてある。3.終わりにこの時期の阿蘭陀料理は、現在の西洋調理法の出発点。▲19世紀長崎に輸入されたオランダ皿(越中文庫)この時期の料理が現在の西洋調理法の出発点になったのであり、これらの料理法が一般に普及するようになったとき我が国の料理史も大きく変化してきたのである。このオランダ料理の出発点は勿論出島のオランダ屋敷に勤務させられていた3人の「オランダくずねり」(料理人)であった事も忘れてはならない。第16回 阿蘭陀料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第15回 長崎オランダ年によせて

    1.今年は長崎オランダ年という400年前、我が国初のオランダ船は、豊後国(大分県)に到着。▲ギリシャ色絵鉢 編集子より今年は「長崎オランダ年」という行事があるので、今回はそれにそった長崎料理物語にして戴きたいとの依頼があった。  今年は日蘭交流400年の年であるので長崎県市では「長崎オランダ年」と銘打った各種記念行事を行うという。 然し、400年前すなわち1600年の初夏オランダの貿易船が我が国に初めて到着したのは豊後国(大分県)の海岸であったと記してある。そして、その後1609年オランダ船は平戸に入港、更に長崎の港に初めてオランダ船が入港したのは1641年6月25日早朝でカピタン(オランダ商館長)は早速出島に上陸したと記してある。  それ以来オランダ船は、1859年に至るまで我が国では唯一長崎港にのみ入港することが許可されていたので、其の間は全てヨーロッパの近代文化は長崎の港を経由して我が国に渡来してきたのである。  長崎でのオランダ人は出島オランダ屋敷にのみ居住することが許され、許可なく出島外に出る事は堅く禁じられていた。2.出島内でのオランダ人の生活生活様式は全てヨーロッパ式、年に一度は「オランダ正月」を催す。▲長崎板画・阿蘭陀人卓子図(長崎市立博物館所蔵) オランダ人の出島内での生活は全てヨーロッパ式である事は幕府は認めていたが、オランダ人女性の渡航は禁じた。然し、そのかわりに丸山遊女の出島出入りを認めることにした。 出島内の朝夕の食事は勿論洋食であり主食はパンで、牛肉やバターが食べられ、コーヒーやビール、葡萄酒も飲まれていた。  そして年に一度、出島関係の人達が出島オランダ商館より招待をうけごちそうになっていた。これを長崎の人達は「オランダ正月」といった。なぜ、長崎の人達はこの日を「オランダ正月」といったのであろうか。 それは其の招待日が、我が国での暦は当時東洋的旧暦であったが、出島内では西暦がつかわれ其の1月1日に招待をうけていたからである。  長崎名勝図絵(1800年頃編纂)にこの日の事について次のように記している。 オランダ正月とて出島館中に年々定まる祝日あり。冬至の後十二日に当たる日なり。此日館中盛饌あり・・・ オランダ人の食事は、箸を用いず三又鑚(ホコ)快刀子(ナイフ)銀匙(さじ)の三器を用う。  ホコは三股にして先は尖りて長く象牙の柄をつく、以之、器中の肉を刺し、ナイフを取りて切さき、之をサジにすくい食す。  又上器三器と共に白金巾(白布)を中皿に入れて人毎に各一枚を卓の上にだしておく。白金巾は食事のときに膝の上におほひ置く也。 同書にはこれに続いて料理の献立が記してある。私はその出島オランダ料理全般について、本紙「長崎料理ここに始まる」-其の2おらんだ料理編より其の5までの間に記したので、この方面に興味をもたれる方はご参考にして戴ければ幸甚である。3.史跡地出島の発掘成果と食文化発掘された資料を基に、出島食文化を新しい視点で研究。▲現川焼茶碗(長崎純心大学・清島文庫) 戦後・国指定史跡出島約12,000平米の発掘調査は進み着々として大なる成果をあげている。その中でも食文化に関する新研究は注目を集めている。 長崎県史編纂委員であられた箭内健次先生が中心になられて、平成5年3月親和銀行文庫第17号として「長崎出島の食文化」が発刊されている。この本には新しく発掘された資料を中心に出島食文化の実態を新しい視点から調査され良く編集されており、我が国の西洋料理を知る上には拙著の「長崎の西洋料理」(昭57、第1法規社刊)と共に一読しておかれることをお勧めする。 私は同書の中で特に興味を引かれたものの一つに片桐一男先生執筆の「鷹見泉石とオランダ料理」の中で江戸における「和蘭の会」の人達の活躍であった。「和蘭の会」の中でも、特に私は出島カピタン・H・ヅーフよりオランダ語の名前をつけてもらうほどオランダ狂とよばれた江戸の菓子商伊勢屋七左衛門兵助の伝記に興味をひかれた。  彼のオランダ名はFrederik van Gulpenと記してある。「和蘭の会」では会食があった記事は読まれるが、その時の料理、飲み物、その時の食器が如何なるものであったかと言うことについては記録がないようである。 ただ菓子類についてはパンとカステラが作られていたことは記録の中よりわかる。そこで、パン・カステラを作るとなれば、其の製造には当然のこととして引釜(オーブン)を必要とする。また引釜を用意したとなると、オーブンを使用する料理もつくられていたと考えている。 私はこの、つくられたであろう料理について前回にもご指導をうけた千葉大学教授の料理研究家松下幸子先生より先年送って戴いた東北大学狩野文庫所蔵の「阿蘭陀料理献立」と「オランダ料理煮法」を参考書として取り上げてみることにした。松下先生の但書によると「両書共に幕末のものではないかと東北大の書誌に詳しい人のお話でした」と記してあった。(以下次号)第15回 長崎オランダ年によせて おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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