第20回 異国の菓子物語

はじめに


私が本紙に「長崎開港物語」料理編を書き始めてたのは平成4年11月で今回が其の20回にあたる事と、「みろくや」が一般市民のため平成4年9月より年6回開講してきた「長崎食の文化講座」が、今年は其の10周年を迎えるという記念すべき年であるので、私の未発表の食文化関係資料と本紙に登載した長崎料理物語を一冊に編集し「十周年記念誌」として今秋には発刊して下さるとの事である。


そこで、今回は料理の方向を少し変え、長崎異国趣味の菓子物語を紹介する事にした。



1.異国の菓子物語

西川如見が「長崎土産物」として広めた、2種類の異国趣味の菓子。



▲サラセン模様絵皿


長崎の開港は1571年のポルトガル船の入港に始まるのであるから、当然、長崎異国趣味の菓子は南蛮菓子、唐人菓子の順で始まっている。

  南蛮菓子・唐人菓子の名を長崎名物の菓子として全国に広めたのは西川如見である。


如見は長崎の貿易商西川家に慶安元年(1648)に生れ幼少の頃より儒学・天文・地理・暦学を修め、特に天文学者としては世に大いに認められ、亨保3年(1718)将軍吉宗によって江戸に招かれ天文・地理学を講義し、多くの著書も発刊している。其の中でも我が国最初の地理書といわれる「華夷通商考」は有名である。


 その如見が長崎の歴史風土を記述し、亨保4年(1719)序文をのせ、京・大阪・江戸・の三都の書林より発刊している「長崎夜話草」があり、其の巻5に「長崎土産物」の項がある。その中に長崎には特産の菓子2種類があることをあげ次のように記している。


○南蛮菓子色々。ハルテ、ケジヤアド、カステラボウル、花ボウル、コンペイト、アルヘル、カルメル、ヲベリヤス、パアスリ、ヒリョウス、ヲブダウス、タマゴソウメン、ビスカウト、パン、此外猶あるべし。


○唐菓子色々。香餅、大胡麻餅、砂糖鳥、羅保衣、香沙?、火縄餅、胡麻牛皮、玉露?、賀餅頭、此外猶多し此唐人伝也



2.南蛮菓子

不ラ路とはポルトガル語の菓子の意。型により丸ボウル、花ボウル、カステラボウル。



▲スペインの水差し(越中文庫)


初期の南蛮菓子を紹介した文献に一つに東北大学内狩野文庫に収蔵されている「南蛮料理書」(狩第六門1978)がある。その中より菓子に関するものを取りあげてみる。


一、不ラ路の事

  小麦粉の粉壱升に白砂糖五十目、しを水にてこれうすくのべ厚さは五分ばか里にしてくるまて切、なべに紙をしき、上したに火を置き、やき候也。口伝あり


不ラ路とはポルトガル語のBolo(菓子)のことである。


現在は佐賀の名物の「丸ボーロ」として知られているし、前出の「長崎夜話草」にはカステラ・ボウル。花ボウルの名が記してある。これは型によって丸ボウル、花ボウル、カステラボウルと区別されていたと考える。


 更に同書にはカステラ・ボウロの事について次のように記してある。


 たまご拾二に、砂糖を六十目、麦の粉弐百六拾匁 この3品を加て鍋に紙をしきて、こをふり、そのうへに入れ、上したに火を置いてやき申也。口伝有之


 このカステラの語源であるが、ポルトガル語でCasteloと言えば積みあげる、又は城などという意味である。又一説には昔、スペイン国のCastela地方の人より伝えられた菓子であるからカステラと言うと論ずる人もいる。現在ポルトガルではこの種の菓子はPao-de-loとよばれていてカステラという名称の菓子はない。恐らくカステラは城のように大きく膨らんだ菓子と言う意味であろうと私は考えている。この菓子は江戸時代の初期には既に全国に其の製法が伝えられていたが現在のカステラとは其の材料が違っている。


それは現在のカステラは明治時代以降、前記砂糖、卵子、麦粉の3品の材料の他に水飴が加えられるようになったからである。これは中国より明治以降導入された中国菓子の製法に影響をうけたからである。



3.ボウロをつくる鍋

ポルトガル人によって持ち込まれた、ボウロをつくる鉄蓋の天火(オーブン)



▲17世紀初期 南蛮趣味の日本人


ボウロをつくるには鉄鍋に入れ其の鍋の上に火を置いて焼き申し候、といっている。


従来の日本における鍋の蓋は全て木で造られており、その木蓋の上に火を置いて焼くことは出来ないことである。我が国には従来オーブン(天火)はなかったのであるが、ポルトガル人の来航によってこの種オーブン様式の鍋が持ち込まれたのである。


 我が国における「天火」は鉄で平鍋をつくり、其の上に鉄で平板をつくって鍋蓋とし、その鉄蓋の上に炭火を載せ、ボウロをつくっている。この種「天火」を長崎の人達は引釜とよんでいる。それは、この種「天火」の鉄蓋は熱くて手で持てないので「引き棒」で引き下ろしていたからである。


 鉄蓋の天火を考案したのはポルトガル人が16世紀マカオに進出し、其の地を基地として活躍するようになったとき、同地の人達の工夫で造られたものでと考えている。


 ポルトガル人はパン(Pao)を我が国では常食としていた。前出の「南蛮料理書」には其の製法を次のように記している。


一、はんの事

麦の粉を甘ざけにてこね、ふくらかして津くり、ふとんにつつみ、

ふくれ申時、やき申候、口伝あり


然し、江戸時代禁教時代になるとパンは「キリシタンに関係あり」として一般には食べることが禁止されていた。(以下次号)


第20回 異国の菓子物語 おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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