第29回 長崎料理ここに始まる。(一)
はじめに
江戸の酒落本にテンプラの事を次のように説明している。(山東京山説・蜘蛛の糸巻)
昔、天竺の浪人、ぶらりと来りて作り始めたる料理をテンフラと言う。
たしかに、テンプラは天竺南蛮(ポルトガル)より我が長崎に伝えられた料理なのである。ポルトガル人が長崎の街なかに住み始めたのは元亀二年(1571)以降であるから、其の時代より長崎の家庭でテンプラが造り始められ事になる。
資料によると徳川家康もテンプラを好んだと記してある。其の資料とは「東照宮御実紀」附録巻十六にある。
元和二年正月二十一日(1616)家康公、駿府の田中に放鷹に出かかけらる。其のころ、茶屋四郎次郎、京より帰りて、様々の御物語ども聞え上がりしに、近頃、上方にては、何ぞ珍しきことはなきかと尋ねられ候えば、此ごろ京阪の辺にては、鯛を萱(かや)の油にてあげ、その上にニラをすりかけしが行はれ、いと良き風味なりと申す。折しも榊原内紀清久より、能浜の鯛を献りければ即ち其のごとく調理してめし上げられしに……
大変、家康は慶ばれて賞味されたと記してある。
一、テンプラの資料
▲江戸の料亭八百善 文政5年(1832)刊・料理通
私は若い頃、長崎学の中に「長崎・食の文化史」の構想を描いて各地を訪ね回っていたとき、東京新橋の有名なテンプラの老舗「天国」さんで、お店の露木幸子様にお逢いでき、お話を聞いているうちに、露木様より「叔父の露木米太郎が著述した天婦羅物語があるので、お読みになってください。」と言われて、其の本を下さった。
私は此の本でイロイロな事を教えて戴き、「天国」さんでは、江戸風のテンプラの味を堪能させて戴いた。
長崎初期のテンプラの四郎は長崎県立図書館内渡辺文庫にあった。本の題名は「阿蘭陀菓子製法」とあった。そこには次のように記してあった。
一、てんぷら里の志よう
イ、こせうのこ、につけいのこ、ちやうしのこ生が。ひともじ、にんにく、之をこまかにきざみ、とりを津くりて、鍋に油を入れ、此六いろをいりて、とりを入れ、またいり、其の上くちなし水もてそめ、それにだしを入て、またさかし候さし、あんはい候てよく候
ロ、うおのれう里、なに魚なりともよし、せきり、むきのこつけ油にてあげ、その後、丁子のこにんにく すりかけ 志るよき様にして にこめ申候
千葉大学の松子幸子先生の研究資料によると東京国立図書館その他に収蔵されている「料理集」の中にテンプラがあるとの事であった。その「料理集」には寛政九年(一七〇七)「崎水の人白蘆華記」とあった。崎水とは、長崎の事であり次のように記してあった。
一、てんふら
魚の身、背切にても、おろし身にても、うとんの粉とき、まふして油にて上げだす、又小魚なと丸にてむき、粉つけ、す上げ出す時は セラアト云うあり
文政十三年(一八三〇)江戸の喜多村信節の「嬉遊笑覧」巻十には南蛮・てんぷらを次のように記している。
○昔より異風なるものを南蛮と云…
○文化のはじめ頃(一八〇四~)深川六軒ばかりに「松がすし」出きて、世上すしの風一変し、それより少し前に、日本橋きわの屋台みせに吉兵衛と云もの、よきてんぷらにして出してより他所にも良きあげものあまたになり、是また一度せり
明治二十六年長崎の歴史家香月薫平先生は、代表作「長崎地名考」物産之部に
テンプラ
テンプラとは唐伝なり。小海老又は魚の肉に製するを良とす。丈唐麻油にて製するべし。此他の製は皆住品にあらず。
二、テンプラの語源
長崎市史風俗変の南蛮料理の項に古賀十二郎先生はテンプラの事を詳しく述べられておられる。 それによると
今日までテンプラの語源はしっかり判明していない。語源に近いものとして、ポルトガル語のTemperad(名詞)とTemperado(形容詞)がある。併しTemperadoは転訛してTemperad(名詞)になる。その料理は「野菜などをゆでて其を能く調和結合したる食物を言う。」
▲伊万里焼色絵皿
私は、ここで前述の「てんぷら里の志よう」の説明文を思い出し、初期のテンプラには二様のものがあったのではないかと考えた。最後に古賀先生は次のように結論されている。
要するに、テンプラはポルトガル語のTemperoにあたり、我が国のテンプラ料理を意味している。
其の後、私は二十六聖人記念館艦長の結城了悟神父についてテンプラの事をお尋ねしたら、それは「長崎がキリシタンの時代Temporasの時に食べる食事がその語源になったのでしょう」と教えて下さった。
ポルトガル語の辞書を見るとTemporasはキリスト教では四季(春夏秋冬)の始めの木・金・土の三日間は小斎日と言と書いてあった。私は神父さんに日本で言う「精進料理を食べる日」ですねと言ったら笑っておられた。Temporasの日は「牛肉類は食べないで野菜や魚を食べられたのですね」とも言われた。 今はポルトガルでも殆どこの宗教習慣はなくなったそうである。 成るほど、我が国でも葬式の時の精進料理は殆どなくなりましたからね。
念のため、ポルトガル駐日大使アルマンド氏が一九七一年発刊された「南蛮文化渡来紀」付記ポ語と日本語の交流を見たらTempora斎日(複数で)天ぷらの語源(?)とあった。
後記、長崎名物のシッポクにテンプラが用意されていたか調べてみたら、足立正枝翁の「長崎風俗考」にも、足立敬亭「藤屋シッポク献立」にもテンプラは用意されていなかった。
テンプラは長崎の家庭料理だったのでしょうね。
第29回 長崎料理ここに始まる。(一) おわり
※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。