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  • 第104号【オテンバは、オランダ語!?】

     パソコンを習ってるという60代男性が、初めて本屋のパソコンコーナーをのぞいた時の事。 意味のわからない英語のタイトルばかりズラリと並んだ書棚に仰天。 勇気を出して一冊開いてみるとカタカナ語が洪水のようにあふれてる。 思わず「ここは日本か!」と叫んじゃったそうです。 この男性の苛立つ気持ちに同情する方もいらっしゃることでしょう。 IT関係のカタカナ語は聞き慣れない英単語ばかりですよね。 ( ̄~ ̄;)用語マニュアルも買わなきゃ。 同じカタカナ語でも昔からあるものは、既に意味がわかっているから安心です。 今となってはそれが舶来の言葉とは知らずに使っているものもたくさん。 南蛮貿易&出島時代に伝わった長崎ゆかりのものであげてみると、 服に付けるボタンや、水を入れるコップ、雨の日に着るカッパなどがそう。 ボタンはもとはポルトガル語Botao(ボタン)で、日本語では釦、鈕という文字が当てられています。 ボタンはもともと日本の衣服にはなかったもの。 ですから音読みでそのまま取り入れるしかなかったようです。 コップはその昔、ポルトガル船が来航した時に日本へ運ばれて来ました。 ポルトガル語ではCopo(コッポ)ですが、私たちが言うコップは、オランダ語のKop(コップ)から来たものらしい。 江戸後期の蘭学者で長崎に遊学したこともある大槻玄沢は、 オランダ製のガラスの盃(さかずき)をコップというとして、 『コップというはもと茶碗の如きものをいうなり…』と記しているそうです。 蘭学者をはじめとする当時のオランダかぶれの皆さんは、得意げにコップでブドウ酒を飲んでいたとか。  ( ̄∇ ̄)_∀ シミルナァ~▲コップはオランダ語から? おきゃんで、そそっかしい女の子のふるまいをいうお転婆(オテンバ)という言葉も、 オランダ語Ontembaarから来たという説があります。オランダ語では“制御できない、屈服しない、野生の”という意味。 その意味からしてもオランダ語源説は有力かもしれません。 お店の売り出しの時よく使われるバザールという言葉、もとは市場を意味するペルシア語ですが、 日本へはポルトガル人またはオランダ人が伝えた思われ、17世紀の出島で、すでに表記されていました。 当時の年表に記されたその文字は『ラク・バザル』(Lak Bazar)。直訳すると 漆(うるし)市場のことですが、 実際は出島内に設けられた『伊万里陶磁店』のことだそうです。 それにしても当時もいろいろあった外来語。人々はどんな気持ちで受け入れていたのでしょうね。 (^。^゛結構、楽シンデタカモネ▲「日本の想い出・出島の大通り」バザールで売られた日本の陶器(右下)(リンデン刊/長崎市立博物館蔵)※参考にした本/「ながさきことはじめ」(長崎文献社編)「長崎舶来言葉」(入江一郎著 長崎文献社発行)

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  • 第103号【白亜の神ノ島教会へ】

     今回は長崎港の入り口の岬に建つ「神ノ島教会」(所在地/長崎市神ノ島町)を訪ねました。 長崎市中心部から少し離れたところにある神ノ島へは、バスが便利です。 長崎駅前から乗り込んだ『神の島~教会下』行きのバスは、稲佐山の裾野を左手に行き、 三菱造船所を経て約25分ほどで終点『教会下』へ到着します。 (‘ ∇‘ )/意外ニ、近イ▲青空に際立つ美しさの神ノ島協会 降り立った神ノ島は観光客の姿も見られない静かな海辺の町。 ここは地名からも想像できるようにかつては小さな「島」でしたが、昭和42年の埋め立てにより陸続きになりました。 バス停から山手を見上げると荘厳な雰囲気の「神ノ島教会」がありました。 急な階段をのぼり教会へ行ってみると、長崎港の沖合いや対岸にある町、 そして長崎港内に出入りする船が白い波をたてて気持ちよさそうに走る姿が見えます。 神ノ島教会はまさに航海に出る人の安全を見守るかのようです。 <(‘ o‘ )ナカナカノ景勝地デス 青空にくっきりと映える真っ白な外観が特徴の神ノ島教会は、 同じ長崎市内にある国宝の大浦天主堂(1864年築)の次に古い教会で、 フランス人ジュラン神父によって設計された由緒ある建物です。 明治30年(1897)に造られたものですが、それ以前は木造の仮教会(明治9年築)があったそうです。 建築学的にも珍しい神ノ島教会は、れんが造りの平屋建て。 創建当初、表面は漆喰で塗られでしたが、現在は石灰・セメントが塗られています。 中に入るとこうもり傘のように弧を描くいくつものアーチが天井を支え、 窓枠には赤・青・緑・橙・黄色などの古めかしい雰囲気のステンドグラスがはめ込まれていました。▲神ノ島教会の内部。天井、ステンドグラスも美しい地元の人によると、教会はあちこち改修されているけれど、海側のステンドグラスは昔から変わらないものだそうです。 (☆o ☆ )キレカァ・・ 近くには神ノ島教会と共に船の航海を見守る大きなマリア像もあります。 地元でドンク島と呼ばれる小さな岸壁の上に建つそのマリア像は、 昭和24年、聖フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念して建てられました。 現在のマリア像は2代目で昭和59年、老朽化を機に、大勢の漁船員を抱える地元の水産会社の支援で再建されたものだそうです。▲船の航海を見守る美しいマリア像 ところで神ノ島教会はずいぶん昔、俳優の故・上原謙(加山雄三さんの父)さんが挙式を上げた教会として地元では知られています。 知人や友人の多い都会ではなく、わざわざこの地を選んだのは、都会の喧噪を離れ、静かにおごそかに愛を誓いたかったからかもしれません。 (‘ ◇‘ )LOVEガ永遠デ、アリマスヨウニ※参考にした本/長崎の教会(発行:カトリック長崎大司教区司牧企画室)

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  • 第102号【西瓜(スイカ)と南瓜(カボチャ)】

     残暑が厳しいですが、お元気ですか。今回は西瓜と南瓜のお話です。 いずれも長崎ゆかりの夏野菜。夏バテ気味の身体にうれしい効果をもたらしてくれる食材です。  へ(×_×;)へ 暑ーーッ 暑い日は、冷やした西瓜を豪快にガブリ。 そのみずみずしい甘さはノドの渇きと疲れを和らげてくれます。 子供の頃は西瓜割りを楽しんだり、実をくり抜いて西瓜ぢょうちんを作ったりしたもの。 真ん丸い愛嬌たっぷりの姿と赤い実に、果物なのか野菜なのか、 真剣に悩んだ事も今となっては懐かしい思い出です。 (`_´)ソレデ、野菜、果物、ドッチネ?▲夏はやっぱりスイカです! 西瓜の原産地はアフリカで、11世紀頃インドやシルクロードを経由して中国へ伝わったそうです。 この時、西の方から中国へ入って来たことから「西瓜」と呼ぶようになったとか。▲ポンポンと叩いて品定め!?音良し、味良しでした。日本へ伝わったのは16世紀末頃、ポルトガル人が西瓜の種を長崎に伝えたという説、 また17世紀中頃に中国から隠元和尚が隠元豆と一緒に種を持って来て長崎で栽培したのが始まりという説などがあります。 当初、その赤い果実が血の色だとして人々が気味悪がり食べなかったという西瓜。 その赤の正体はリコピンという栄養素の色素でした。 果汁にはその他リン酸やカリウムなど、いずれも利尿作用のある物質が含まれていて、 解熱や二日酔にいいのだそうです。(@∇+;)二日酔イノ朝ハ、西瓜! 南瓜はポルトガル人が16世紀後半頃、長崎に伝えたのが始まりだといわれています。 ポルトガル人はインドシナ半島にあるカンボジアからそれを持ち込んだらしく、 カンボジアが転じてカボチャと呼ぶようになったとか。 それに後から中国文字の南瓜を当てて書くようになったようです。▲ポルトガル人が伝えた「西洋カボチャ」 長崎(九州地方)では南瓜をボウブラと呼ぶ人もいます。 南瓜はポルトガル語でabobora(アボブラ)というのですが、どうもそれが訛ったようです。 関東では南瓜を唐茄子(トウナス)とも呼んでいるようですが、これには南蛮渡来の瓜という意味があるそうです。 南瓜はたいへん栄養豊富な緑黄色野菜です。 お腹の調子を整え便秘を防ぐ食物繊維、皮膚を保護するビタミンAの他、 ビタミンC、ビタミンEなどがバランスよく含まれています。 その栄養価と育てやすさから、終戦後の食料不足の折、各家庭ではおおいに作り食べていたという話を聞きました。 当時を知る人にとってはちょっと苦い思い出のある野菜のようですが、命をつないでくれたありがたい野菜だったのです。 *⌒▽⌒*/旬野菜デ、ヘルシーナ夏ヲ!※参考にした本/ながさきことはじめ(長崎文献社編)

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  • 第101号【2002夏のハウステンボス】

     ハウステンボスは長崎市内からバスで約1時間ほどで出かけられるリゾートの街。 今回、久しぶりに故郷・長崎へ帰省した叔母たちと週末に一泊してきました!  短いレポートですが、夏のハウステンボスをお届けします。 L(@^▽^@)」 楽シムゾー! バスから降り立つとそこはレンガ造りの古き良きヨーロッパの街並。 今年で10周年を迎えたハウステンボスは、運河には鳥などかわいい生き物たちが棲みつき、 自然環境を大切にするこの街ならではの、のどかな光景が根付いていました。 (゜゜)ゞコブ白鳥、鴨ナドガイルヨ 初めて来た叔母のために、まずは街の中心部にあるドムトールン(ハウステンボスのシンボル的な塔)へ。 最上階からは波静かな大村湾に抱かれた広大なヨーロッパ風の街並がよく見渡せます。 「こんなに広いとは思わなかった」と叔母は感動しきり。ここが日本ということを忘れさせる美しい景色です。▲ドムトールンから臨むハウステンボスの街並み ドムトールンの近くではこの夏スタジオジブリの話題の映画「猫の恩返し展」も開催中(9月1日迄)でした。 歴代のジブリアニメの作品を紹介するコーナーもあり、ジブリファンは見逃せません。 (@∇@)大きなネコバス発見!! さてハウステンボスの夏は、実は夕刻からが本番!海辺で、歌って、踊って、 歓声をあげるスペシャルなひとときが待っているのです。 夕方5時、夏の熱気を昇華させるようなラテンミュージックが潮風にのって聴こえはじめます。 海辺の舞台周りでは、たいまつが焚かれ情熱的な雰囲気。作家の村上龍氏がプロデュースしたというこの舞台。 キューバのトップミュージシャンらで編成されたサルサバンドと女性歌手が、ノリノリのショーを見せてくれます。 それは理屈抜きに心地よく、ンもう、最高の気分です。♪♪ ""8(^∇^8)(8^∇^)8"" ♪♪▲夕刻からはじまるラテン音楽のステージ ラテンのリズムの余韻に浸りながら夜の運河巡りへ。 街灯やイルミネーションのロマンチックな光をたたえる街に、見とれっぱなし。 さらに運河を利用した「ウオータースキーショー」では世界でも指折りの実力者たちがアクロバットな妙技を次々に展開。 波しぶきと歓声に包まれ、爽快なひとときでした。 夜はまだまだ続きます。港では「クリスタル・イリュージョン」という水と光と音のショー。 まさに真夏の夜の夢のような、幻想的な世界です。続いては「花火」。 ドドーンと頭上で開く大輪の花が夜空を焦がす様は圧巻。日常のいろいろが遠くなっていくのを感じます。 花火の後、再びラテンの音楽に酔いしれながら、夢の一夜は熱く感動的にふけていったのでした。 *.;“;^・:(*^▽^*)/:・;^;早朝のハウステンボスもステキですよ。▲クリスタル・イリュージョン

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  • 第100号【ちゃんぽん文化が育んだ家庭料理「ハトシ」】

     皆さんは「ハトシ」をご存じですか?それは長崎の家庭料理が発祥だといわれている料理です。 今回は長崎でも知る人ぞ知る「ハトシ」の謎に迫ります。 α~ (ー.ー") ハテ?サテ?ハトシ?▲おいしく出来上がったハトシ手作り(自作)です(^-^) 「ハトシ」は、エビのすり身を食パンにはさみ油で揚げたもので、おかずというよりおやつ風な料理です。 名前がとてもユニークですが、実は「ハトシ」は広東語で、 中華レストランでは「蝦吐司」「蝦仁吐司」「蝦多絲」「炸吐司」などと書き表されています。 (□□)ノ旦~~「飲茶」系ノ料理ミタイデス 中国料理の名前の付けられ方には、 料理を作った人の名・地名・縁起のいい言葉などと材料・調理法などを組み合わせることが多いそうですが、 「蝦吐司」の場合は「蝦」はエビ、「吐司」はトーストを意味し、材料名をそのまま使っています。さて、その「ハトシ」が長崎へ伝わったのはいつ頃でだったのでしょう。長崎の著名な郷土史家である越中哲也先生によると「ハトシが伝わったのは明治以降で中国から来たらしい。 もともとは、料亭から始まり家庭料理になったようだ」ということでした。 中国と長崎は古くから交流の歴史があり、その中で卓袱料理やちゃんぽんが生まれています。 その土地柄を思えば「ハトシ」もまた然りと考えていいのかもしれません。 「ハトシ」は主に中華レストランや卓袱料理を出す料亭や小料理屋などで味わうことができますが(五百~千円位)、 実はこうしたお店で出される「ハトシ=蝦吐司」(エビのすり身を使ったもの)と、 ジゲモン(長崎人)たちが家庭で作る「ハトシ」は、ちょっとした違いがあります。▲中華街で見かけたハトシのメニューサンプル たとえば戦後昭和20年代後半に、子供達によく作ってあげていたという70代の老夫婦は『魚や豚のミンチとか、その日、手に入ったものに野菜やあり合わせのものを混ぜて作りよった。 それこそ材料はちゃんぽんで、いろいろ工夫してね。子供がそりゃあ喜んだとよ』 (⌒ー、⌒〃)母チャン、ンマカー また、鶏のすり身で作ったハトシが正月の定番料理だという人もいるなど、 パンにはさむすり身がエビに限らず家庭ごとの個性があるです。 その多様さ、懐の深さが、長崎の家庭料理が発祥だといわれる由縁かもしれません。 いろんなものを大らかに受け入れ、そこから新しいものを作っていく長崎独自のちゃんぽんな風土。 家庭料理「ハトシ」にはそんな長崎の地域性が秘められていました。▲三角タイプのハトシ※参考にした本/中国料理用語辞典(井上敬勝 編・日本経済新聞社 発行)

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  • 第99号【グラバー園の夜は、ビューティフル】

     満月を2日後に控えた7月の夜、グラバー園へ行ってまいりました。 普段は18時(ランタンフェスの時は19時)以降は入れませんが、 夏から秋にかけては21時30分まで楽しめるのです(今年は7月20日から10月14日迄)。 この夜間開園が行われるようになったのはほんの数年前から。 景勝地のひとつとして名高いグラバー園からの夜景をゆっくり楽しめるとあって観光客や地元の人に好評です。 (^▽^)/期間限定ナイト・スポット! 長崎市南山手にあるグラバー園一帯はかつて外国人居留地でした。 園内には旧グラバー邸や旧リンガー邸などのように、 幕末~明治に長崎にやって来た外国人貿易商が海を見下ろすこの丘を気に入り建てた洋館の他、 その頃、長崎市内に散在していた洋館をここへ移築・復元させたものもあります。 日本家屋にはない独特の雰囲気で、古き良き居留地時代を彷佛させる洋館たち。 特に夜はそれぞれがほどよくライトアップされて、ますますエキゾチシズムをたたえた趣のある表情を見せてくれます。(σ。σ)/オススメハ、旧オルト邸!▲月明かりの下の旧グラバー邸 さて西果ての地・長崎の日没は遅く、この日も暗くなりはじめたのは19時30分を過ぎてからでした。 最高の夜景をカメラにおさめようと、園内でもっとも見晴しがいいといわれる「旧三菱第2ドッグハウス」へ向かいました。 開放的なベランダが印象的なこの建物、もともとは造船所のドッグのそばに建てられていたもので、 修理に来る船の乗組員の休憩宿泊施設として利用されていたそうです。 \(□_□)明治初期洋館建築ノ典型的スタイル!▲旧三菱第2ドッグハウスからの夜景はゼッタイお薦め。 その2階ベランダに上がると長崎の空と港と街の景観がいっぺんに目の中に飛び込んで来ました。 真正面には港をはさんで稲佐山が横たわり、その山肌にある民家や観光ホテル、 そして港内を行き交う船もきれいな明かりを灯しはじめました。ホントに素敵な眺めです。 もう少し暗くなってから撮ろうと待っていたところ、同じ思惑らしき人々が数人カメラ片手に集まって来ました。▲夕暮れ間近の長崎港と稲佐山三脚を持って来なかったことを嘆く観光客の声が聞こえます。よほどこの景色が気に入ったのでしょう。 ((_・ (・_・) ・_))素晴ラシイ"パノラマ"デス  さて美しい眺めの中で、ひときは目立つ船がありました。 今年5月に進水したばかりの客船「ダイヤモンド・プリンセス」(全長290m、11万3千総トン)です。 イギリスの会社から発注されたもので最大乗客数3100名の世界最大の豪華客船だそうです。 現在は内装を中心に工事が進められているとか。しばらくはその巨大な姿を楽しめるようです。 月明かりの下、夕涼みがてらそぞろ歩いたグラバー園。 街の喧噪からも離れて久しぶりに贅沢なひとときを過ごしました。 (^▽^@)大満足!

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  • 第98号【平和を願うトンチンカン人形】

     8月9日「長崎原爆の日」まで、あと2週間余り。そこで今回は「平和」への願いを込めて作られた「トンチンカン(頓珍漢)人形」をご紹介します。実は以前にもコラムに登場していて、その際、読者の方々からもっと詳しく知りたいというリクエストがあったものです。(^◇^)/第51号ヲゴ覧下サイ▲ひとつひとつ手作りで個性的な“頓珍漢人形” トンチンカン人形は高さ2~7cmほどの小さな素焼きの人形です。ひとつひとつ手びねりで作られていて、どれも姿形が違います。日本のハニワを思わせる原始的な魅力を持つフォルムは、泥絵の具で彩色され、表情もたいへんユーモラス。かわいいモンスターたちといった感じもしますが、そこには哀感が漂い、見る人の心にしっかりと触れて来ます。(’。’)ナゼナノ? この人形の作者は久保田馨(くぼたかおる)さん(1928~1970)という愛知県出身の方です。彼が長崎にやって来たのは24才の時でした。▲絵や俳句、詩なども展示されています。戦後7年経ったその頃の長崎は被爆の隠れた傷跡が残っていたものの、爆心地付近の浦上は緑が萌え、人家も建ち、人々の表情もいくぶん明るくなっていたそうです。平凡でのどかな雰囲気が漂うこの街に暮らすことになった久保田さんは、間もなく長崎焼の人形に出会い、心を動かされ、自らも人形を作るようになります。 26才で長崎市の愛宕山に設けた工房は「トンチン館」と称し、わずか2坪ほどの広さでした。ここで約30万体の「トンチンカン人形」が作られたそうです。「トンチンカン」の名の由来は人形が焼けた時にする音色だからとか、鍛冶屋が鳴らす「トンチンカン」という音が好きだったから、などと言われているそうですが、平和を強く願った久保田さんが原水爆をつくった人間のおかしさや悲しさを「トンチンカン」という言葉に託したとも言われています。 トンチンカン人形は昭和29年頃から長崎市内の土産物店で1個30~70円で売られ、購入した観光客とともに全国各地へちらばっています。昨年、旧香港上海銀行長崎支店記念館2階にオープンした展示室の「来場者の感想ノート」には、20数年も前から長崎に来るたびに、この人形を探し求めたという人の話がありました。(゜▽゜)エッ、アナタモ買ッタ!? 作者の久保田さんは42才の若さでこの世を去っています。やがて店頭からもその姿は消え、もう買うことはできません。しかし30年以上も経った今に至るまで静かに根強くその魅力と価値は語り継がれ、こうして新しい形で私たちの前に現れました。トンチンカン人形の何かを叫んでいるような不思議な表情。そこに再会の意味が隠されているのかもしれません。v(^-^ )LOVE&PEACE!▲後期(S35~45頃)の作品※参考にした本/「ざくろの空~頓珍漢人形伝~」(渡辺千尋著/河出書房新社)

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  • 第97号【チンチン電車1番系統・赤迫~正覚寺】

     暑中お見舞い申し上げます。お中元の季節ですね。デパートに勤める友人によると、お中元コーナーのピークは今週末の連休(7/20・21)になるだろうということです。お品選びにまだ迷っていらっしゃる方や、出かけるのはちょっとおっくうという方、よろしかったら我が社のホームページからお中元のご注文をなさいませんか? (〃ー〃) 冒頭CMでゴメンナサイ。 さて今回は長崎名物・チンチン電車から「1系統・赤迫(あかさこ)~正覚寺下(しょうかくじした)」をご紹介します。この「1系統」は利用客が最も多いといわれ、長崎市北部の赤迫から住吉、浦上と国道を南下して、長崎駅、大波止、出島、さらに長崎市の中心繁華街の西浜町、思案橋を経て正覚寺下までを結んでいます。全長は7.3km。始発から終点までの所要時間は35分弱。料金はご存じの通り、どこで降りても一律100円です。\(∩∩)アリガタイ、安サデス▲500円で1日乗り放題!!1日乗車券は観光にお薦め 公的機関が集中する市中心部を通る「1系統」は、沿線に住む多くの市民にとっては大切な生活の足。観光客にとっても平和公園、原爆資料館、原爆落下中心地(松山下車)や原爆で片方だけが残った山王神社の一本柱鳥居(大学病院前下車)、日本26聖人殉教の地(長崎駅前下車)など、平和と祈りアピールする観光スポットへ行くのに、たいへん便利な路線として知られています。 またこの「1系統」だけが五島町、大波止、出島という、長崎港そばの電停を通ります。近年この辺りは大型ショッピングセンター「夢彩都」やレストランやショップが港沿いに軒をつらねる「出島ワーフ」(大波止下車)のオープンで電停の利用者数がぐんと増えました。さらに復元が着々と進む「出島」も、走る電車内(築町~出島間)からつぶさに見られるのも魅力です。(`▽´)アッ、オランダ商館ダ!▲電車内から撮った復元中の出島 終点・始発となる「正覚寺下」の電停に停車している車窓から下を見おろすと真下を銅座川が流れています。そういえば次の電停は「思案橋」。その昔、この川の先に思案橋がかかっていました。一方「赤迫」の電停の方はというと、国道上で路線がぷっつり途切れ、終点・始発と思えないようなこぢんまりとした印象です。ここはさらに市北部にある滑石(なめし)方面へ路線を延長する話がずいぶん前からあるようですが、今のところそういう動きは見えませんでした。(¨)延長サレルト、イイナ▲正覚寺電停に止まる電車内から見える銅座川 長崎観光でもし時間が空いたら、ぜひ「1系統」に乗り込んでみませんか?この時期、冷房のきいたチンチン電車は、街中を走る「涼」の場。乗車する街の人々や車窓からの景色など、電車で長崎ウォッチングはけっこう快適で楽しいですよ。※参考にした本/長崎のチンチン電車(田栗優一・宮川浩一 著)

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  • 第96号【梅雨から夏の空もよう】

     梅雨入り後、しばらくは晴天の日が多かった長崎。もしや今年は空梅雨(カラツユ)?と思っていたところ、7月に入ってからはかなりジメジメした雨天日が続くようになりました。どうやら梅雨は最盛期に入ったようです。冷房の効いた部屋から外に出た時の、あのムッとした感触を味わう度に、梅雨がないといわれる北海道が羨ましくなります。(‐ε‐カナリ爽快ラシイ▲シットリ雨の中島川沿い ところでこの季節をなぜ「梅雨」というのか、ご存じですか?その語源にはいくつか説があるようです。ひとつは中国大陸の揚子江流域あたりで梅の実が熟す頃に訪れる季節だったことから言われるようになったという説。又、「黴(カビ)」が生えやすい季節にちなんで昔、中国で「黴雨」(バイウ)と言っていたところ、のちに語感が悪いので“梅雨“という字を当てたという説。いずれにしても日本へは中国から「バイウ」で伝わったそうで、「ツユ」と言うようになったのは江戸時代からだそうです。(□□)/梅雨ハ、東アジア独特ノ気象デス▲長崎市の花「アジサイ」 これから夏にかけてのお天気が気になるので、福岡管区気象台が6月28日に発表した1ヶ月予報を見てみました。九州北部地方(山口県を含む)では、平年同様、曇りや雨が多く、気温は平年並みか高く、降水量や日照時間は平年並みということでした。(“)梅雨明ケハ、ドウナノヨ!? また近年、よく耳にする「エルニーニョ現象」も気になります。これは南米ペルー沿岸から赤道沿いに東太平洋の広い範囲で、海面水温が上昇する現象のことです。それが起きた年は世界的に異常気象が発生するといわれ、日本でも梅雨明けが遅れ、豪雨も起きやすく、冷夏になるといった傾向になるそうです。ちなみに1957年7月の諫早豪雨、1982年7月の長崎豪雨もエルニーニョ現象の起きた年でした。そこで長崎海洋気象台へ問い合わせてみると、現在「エルニーニョ現象」の兆候が見られ、発生の傾向があるということでした。(゛)大雨ニ気ヲツケマショウ。 南山手にある長崎海洋気象台へ寄ってみました。建物の前の広場にはサクラをはじめウメ、アジサイ、ヤマツツジ、シダレヤナギなど、いろいろな種類の観測用植物が植えられていました。これらの開花や発芽によって季節の進み具合や気象状況の推移が見えて来るのだそうです。気象観測はコンピューター化が進んでいると思われますが、このような観測方法も当然ながら残っているのです。満開の時期を過ぎた気象台のアジサイを見ながら、なぜだかホッとしました。(\´。`/)梅雨明ケハ、マダ、分カリマセン▲長崎海洋気象台の百葉箱と港の眺め※参考にした本/改訂版NHK気象ハンドブック(日本放送出版協会発行)

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  • 第95号【伊王島へ泳ぎに行こう!】

     子供時代の夏の思い出といえば、やっぱり海水浴、ですよね。ジリジリと照りつける太陽の下、元気いっぱいに浜辺へ繰り出したあの頃。くちびるが青くなるまで泳ぎまくったものです。海に囲まれた長崎県は良質の海水浴場があちこちに点在しています。今回はその中から長崎港の沖合に浮かぶ小さな島、伊王島(いおうじま)の海水浴場をご紹介します。\(⌒▽⌒)夏ハスグソコ 長崎港から高速船でわずか19分。伊王島町は、伊王島とすぐ隣にある沖之島からなる町で、3つの橋がこの2つの島を結んでいます。町の総面積は2.25平方kmほどで、人口は約1000人。通りを走る車の数も少なく、のんびりとした静かな町です。 港から自転車で5分ほどのところにある海水浴場は2年前に再整備され「コスタ・デル・ソル」(スペイン語で「太陽の海岸」の意味)という名称で新たにオープンしました。充実した設備はもちろん、カヌーの貸出しや子供用プール、そして随所にバリアフリーも施され、安全に快適に海を楽しめます。でも、何と言っても魅力は全長340mの長いビーチと海の美しさ。周囲を山の緑に包まれて、おおいに自然を満喫できます。(^^)/施設利用&カヌーハ有料デス▲伊王島の美しい海水浴場コスタ・デル・ソル 充実した設備で小さなお子さんがいる家族も若いカップルも、安心して海水浴が楽しめそうな伊王島の海水浴場。ちなみに今年の海開きは先月16日だったのですが、長崎市周辺の海水浴場の中ではもっとも早く、夏を待ちきれない子供たちや家族連れが町内外から集まって元気に泳いだそうです。 ところで伊王島を訪れた時、港でまっ先に目に入るのはオレンジ色した屋根の建物の数々です。実はこれらはスポーツリゾート施設だったところで、今年1月に残念ながら閉鎖してしまったのです。そういうこともあって、島民らの間にはちょっと沈んだ空気もあるようですが、しかしこの島にはまだまだ他にはない見どころがあります。 たとえば港から自転車で7~8分のところにある沖之島天主堂。長崎市の大浦天主堂にも似た歴史あるゴシック式聖堂で、夜はライトアップされ印象的な美しさを見せてくれます。そして島の北端にある伊王島灯台も一度は訪れてほしい場所。この灯台は1866年(慶応2)に米・英・仏・蘭の4ヵ国と江戸条約を結んだとき、観音崎・野島崎・潮岬など全国8ケ所に設置されたもので、鉄造りの洋式灯台としては日本初という貴重なものだそうです。岸壁の上に立つこの灯台から見渡す景色も絶景です。(¨)ゞ近クニアル灯台記念館モ見テネ。▲沖之島天主堂▲岸壁に立つ伊王島灯

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  • 第94号【幻の亀山焼】

     今回は「亀山焼」についてご紹介します。「亀山」と聞いて、坂本竜馬が長崎で組織した貿易結社・亀山社中を思い出された人もいるかと思いますが、実はこの二つの亀山は同じ意味です。というのも、亀山は当時そう呼ばれていた地名(現:長崎市伊良林2丁目)からとったもので、亀山社中は亀山焼が製作されていた施設の一部を借用したものではないかといわれているのです。(∞)真偽ハ定カデハアリマセンガ…▲美しい絵柄の皿や碗が作られた 伊良林にある亀山焼の窯跡を訪ねてみました。場所は竹ん芸でも有名な若宮稲荷神社から南へ少し登った高台。亀山社中跡も近くにあります。そこには「伊良林平公民館」が建ち、そばにレンガに似た石が積み上げられていました。「亀山焼窯跡」と記した立て看板の説明によると、それは窯の奥壁部分になるそうです。もとは登り窯だったらしく、その復元想像図を描いた看板もありました。(゜゜)山ノ傾斜ガ登リ窯ニ適シテタ?▲亀山焼登釜の復元想像図(地元自治会がつくったもの) 亀山焼は長崎お金持ちの町人らによって1807年(文化4)に開窯されました。当初は出島のオランダ人たちが必要としていた"水がめ"を作って販売するのが目的だったそうです。しかし、間もなくオランダ船の入港が激減し、水がめの製造は中止、代わって白磁染付を製作するようになります。陶工に大村藩の波佐見焼や長与焼に携わる人たちを招き、陶磁器原料は有名な天草石を、文様を描く顔料の呉須(ごす)は中国産の良質のものを使用。そうして作られた製品の底には"亀山焼"、"崎陽亀山製"、"瓊浦亀山製"などの銘が入れられました。 亀山焼の大きな特徴に、木下逸雲(きのしたいつうん)、鉄翁(てつおう)、三浦梧門(みうらごもん)といった「崎陽三筆」と言われた画人らや、豊後(ぶんご/現:大分県)の田能村竹田(たのむらちくでん)といった有名な文人墨客も絵付けを行った美しい絵柄があげられます。現在も愛好家達を魅了し、「幻の亀山焼」ともいわれているそうです。( ==)/旦 イイ~仕事シテマス。▲亀山焼の窯跡(奥壁部分) そういえば以前、長崎市立博物館で見た亀山焼には白磁に美しい青でラクダが描かれていました。この他オランダ船やオランダ文字などの図柄があるそうです。伊良林平公民館にも発掘された亀山焼の破片が展示されていて、洒落た文様の皿がありました。それも有名な画人によるものかもしれません。 亀山焼は白磁以外にも積極的に商品開発を行い、青磁やひねり細工、中国の土を用いた蘇州土亀山(そしゅうどかめやま)などを製作しましたが、元々何もなかった所に窯場を開いたこともあって設備等の出費が大きく、経営はずっと苦しかったそうです。途中、長崎奉行所の保護も受けますが、1865年(慶応元年)にとうとう閉窯になりました。竜馬が亀山社中を起こしたのはそれから間もなくのことです。( -_-)旦~ 竜馬愛用ノ湯呑モ亀山焼ダッタソウナ■参考文献/「~土と炎の里~長崎のやきもの」下川達彌 著「長崎歴史散歩」原田博ニ 著「長崎事典」長崎文献社 刊

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  • 第93号【日本最古の現役鉄橋・出島橋】

     例年よりやや遅れて梅雨入りした長崎。降り続く雨はうっとうしいものですが、新緑の季節後さらに輝きを増した樹木や、雫にしっとり濡れる紫陽花たちの姿は心を潤すような美しさです。梅雨は自然界だけでなく人間にとっても慈雨(じう)なのかもしれませんね。(^^)/梅干、梅酒作リノ季節デス! 今回は中島川の下流に架かる鉄橋・出島橋をご紹介します。出島橋は出島の北東隅で中島川をまたいで長崎県庁のある江戸町側に架かっています。1890年(明治23)に造られました。以前、日本で最初に造られた鉄橋として「くろがね橋」をご紹介しましたが、出島橋は現役として使用されている鉄橋の中で日本最古のものです。(¨)/橋齢、112才!▲江戸町側からの出島橋 長さは36.2m、幅5.5mという小さなこの橋は、色は淡白いブルーで全体は直線を活かしたすっきりしたデザインです。細部は小さな鉄材が美しく組まれ、明治期のものとは思えないモダンな雰囲気を漂わせています。ユニークなのは両端の上部コーナーにアクセントのように施された唐草模様と、上部中央に付いた黒い銘板です。この銘板はコウモリを思わせるモチーフになっていて「出嶋橋DESHIMA-BASHI」と金色で刻まれています。制作者らの細部へのこだわりが感じられるところです。(^〇^)中国ではコウモリはラッキーシンボル! 実はこの橋はアメリカで制作された後で日本に輸入されています。その辺の経緯はわからなかったのですが、橋の材質は練鉄で、構造は専門的な言葉を使うと『練鉄のピン結合のプラットトラス構造』というものだそうです。随所に小さな部材をレース編みのように細かく組上げているのが見られますが、これは当時、大きな鉄の部材を造る技術が確立されていなかったため、そうすることで大きな鉄の役割を果たしているのだそうです。 ところでこの橋は、完成当初とは架かっている場所も名前も違っています。最初は現在地より下流で出島の北西隅に架かる玉江橋のすぐ近くに架かっていました。名前も「新川口橋」と呼ばれていたそうです。▲玉江橋から見える出島橋現在地へ移転したのは完成から20年後の1910年(明治43)のことです。その時代は近代化を進める国策により出島周辺では港湾改修工事が行われています。出島と江戸町側の間では、中島川のつけ替え(変流工事)が行われ、川幅を広くするため出島は18mも削られました。 現在、出島と江戸町側の間を中島川がゆったり流れていますが、もともとここは海で、陸地との距離は現在の川幅の半分以下もなかったということになります。そしてさらに出島の海側も埋め立てられ、海に浮かんでいた出島はすっかり内陸部になってしまったのです。(><;残シテイテホシカッタ 出島周囲の姿を大きく変えたこの工事は1885年(明治18)から1904年(明治37)まで行われました。ほぼこの時代に重なる時期に完成・移転した出島橋は、埋め立てられていく出島の様子を間近で見ていたのです。そんな遠い時代から今の姿でしかも現役で働いている出島橋。九州の土木遺産として名を連ねる名橋のひとつです。

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  • 第92号【逆さVOCマークの朱印船貿易商・荒木宗太郎】

     感動を呼ぶ華麗なパフォーマンスと日本代表の快進撃! 巷は連日ワールドカップの話題でもちきりですが、これからひととき、サッカーも日常も忘れて長崎時空の旅へご一緒しましょう。時代は豊臣秀吉が天下統一した翌年の1588年(天正16)へ。熊本肥後から長崎へ向かうひとりの武士がいました。この男の名は荒木宗太郎(あらき そうたろう/?~1636)。今回の主人公です。(^^)/ハジマリ、ハジマリ 宗太郎自身の話に入るその前に。皆さんは長崎くんちの演し物で、本石灰町(もとしっくいまち)の御朱印船(ごしゅいんせん)をご覧になられたことはありますか? 朱色の豪華な船で船体や帆、船旗にはオランダ東インド会社のシンボル「VOC」を逆さにしたようなマークが記されています。この「逆さVOCマーク」の御朱印船こそ、荒木宗太郎を今に語り継ぐものなのです。▲長崎駅構内に展示されている御朱印船(三菱重工長崎造船所製)▲逆さVOCはこんな感じ 宗太郎は長崎で出島貿易が始まる直前の時代に朱印船貿易商を営み大成功をおさめた豪商です。長崎の飽之浦(あくのうら)に居宅を構え、長崎惣右衛門と名乗りました。本石灰町はその宗太郎が朱印船貿易でマカオから運んできた漆喰(しっくい)の原料を荷降ろしする場所だったことからこの町の名前が付いたそうです。(□□)/唐では「石灰」をシックイと発音。 ここで朱印船貿易について簡単にご説明します。秀吉はキリシタン禁教政策の一方で海外貿易の魅力を捨てきれず、1592年(文祿1)、許可状をもって認可する政策をとりました。その許可状(朱印が押されていた)を持つ船が御朱印船です。この制度は鎖国体制強化で日本人の海外渡航が禁止された1635年(寛永12)まで続き、その間、約350隻以上の御朱印船が台湾、フィリピン、ジャワ、カンボジア等、東南アジアの19地域に渡り、各地に日本町(日本人居住地)がつくられるほど盛んに交易が行われました。 宗太郎は勇気ある行動派タイプだったようで、他の貿易商と違い自ら船頭になって海を渡り、東南アジア各地と交易で巨万の富を得ました。そんな中で、何度か訪れたトンキン王国(現在のベトナムの一部)の王に見込まれて、なんと王の娘である王加久(ワカク)をお嫁にもらいます。その王女を連れて長崎に入った時の行列は、多くの侍女や召し使いも同行し、たいそう華やかだったそうです。▲飽の浦公園側の荒木邸 それからというもの長崎の人々は華やかな行列を見ると「アニオ様の行列のごたる(ようだ)」といったそうです。アニオとは王后を意味する「阿娘(アニヨン)」という言葉が訛ったものです。宗太郎はアニオ様を大事にし、夫婦は生涯仲むつまじく暮らしたそうです。ちなみに二人は命日も同じです。(^_^)/アニオさんが10年長生きしました さて宗太郎の船が掲げた「逆さVOCマーク」ですが、海賊がオランダ東インド会社と間違えて襲って来ないようにするためと伝えられています。宗太郎の生前はオランダ商館は平戸にありました。東南アジアを駆け巡っていた宗太郎はその頃にわかに東南アジアで力を付けていたオランダの力を見抜き、そのマークの威力を利用することを思い付いたのかもしれません。( “)/長崎食文化、第3回ターフル料理編も併せてご覧下さい。

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  • 第91号【旬の魚、アラカブ、アジ、イサキ】

     長崎を訪れた人に“魚が安くておいしいところですね“と、よく言われます。長崎の近海は五島灘や対馬海流など好漁場に恵まれ、また海岸線も漁に適したリアス式海岸で、昔から漁業が盛んな土地柄です。おかげで私たちは水揚げされたばかりの新鮮な魚を比較的安価に手に入れることができ、刺身や焼き魚、煮つけなどにして、旬のものを一年中いただいています。 イタダキマァス ( ^∇^)y= >°)))彡 ということで今回は、この季節に長崎の食卓を賑わしている魚たちを何匹かご紹介したいと思います。まずひとつめは「アラカブ」です。カサゴ、ガシラとも呼ばれる黒褐色の魚で、小ぶりでちょっとゴツイ顔をしています。淡白でクセのない白身魚なのでいろいろな調理法でいただけますが、近所の魚屋さんでリサーチしたところ、断然人気は思ったとおり「味噌汁」でした。アラカブの出し汁は、ほのかに甘い磯の香と独特の風味がして、たまらないおいしさです。この魚、普段は磯の岩場に棲み、よく動き回っているので身が引き締まっています。火を通すと骨離れが良く食べやすくなるのもいいところです。(⌒┐⌒)スキデスARAKABU!▲ユニークな姿をしたアラカブ▲一番人気はアラカブの味噌汁 「アジ」は、初夏がもっとも脂がのっておいしくなるといわれています。大衆魚ですが、近年では全国的に漁獲量が減少気味で高級魚になっているそうです。長崎県のアジの漁獲量は全国でも有数です。最近では「ゴンアジ」といって五島灘産のアジが長崎ブランドとして全国的に知られるようになりました。これも脂がのり、たいそう美味だそうです。 私はアジの小ぶりのものが手に入ると南蛮漬をよく作ります。長崎ではお正月にベニサシという魚を使った南蛮漬が有名ですが、アジは一年を通して手に入る魚なのでこちらの方がずっとポピュラーではないかと思われます。甘酢にしばらく付け込んで、骨まで柔らかくなったものを豪快に頭からガブリといただきます。現在、南蛮漬は一般の料理メニューのひとつとして全国で作られていますが、もとをたどればポルトガル人が長崎に伝えたのが最初です。長崎は南蛮漬の本場というわけです。 >><(((・> > ̄*)ガブリッ  ※「長崎食文化・西洋料理編(1)」もご参照下さい。 ところでつい数日前、五島列島に住む友人から我が家に「ブリゴ」が届きました。「ブリゴ」とは出世魚として知られる「ブリ」の子供という意味だそうで、地元では「ヤズ」、「ワラサ」、「ネリゴ」など他にもいろんな名称で呼ばれているそうです。「ブリ」といえば冬場の「寒ブリ」が有名ですが、今の時期は、出世コースを泳ぎはじめた成長途中のものが釣れるようです。刺身にしていただきました。もちろん「ウマカー!」です。▲友人から頂いた「ブリゴ」刺身でいただきました。 これから夏にかけて、イサキ、アゴ(トビウオ)、ケンサキイカなどの最盛期がやって来ます。その味を思い浮かべてひとりニンマリ。長崎の海の幸は、人の幸につながってまーす。(⌒∪⌒)yサチオオカレ

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  • 第90号【南山手のユニークな坂】

     ユニークな名前の坂を散策しにグラバー園のある南山手へ行って来ました。長崎は今、修学旅行シーズンなので、学生さんたちの姿が目立ちます。横に広がってゾロゾロ歩く彼等の間をすり抜けながら目的の坂道へ向かっていると、グラバー園の先にある「コンスイ通り」と呼ばれるあたりで、パタリと人の姿が見えなくなりました。どうやら観光の方々は、グラバー園の向こう側まで足をのばす人はいないようです。(゜◇゜)ハッ、誰モ、イナイ!▲コンスイ通りはカップルへお薦め 今回、歩いた南山手界隈は、オランダ坂のある東山手とともに、安政の開国後、外国人居留地として造成された土地です。かつてこの一帯には各国の商館やホテル、銀行、洋風住宅、領事館等が建ち並び、ポルトガルやロシア、ベルギー、イギリスなど各国の人々が往来しました。その華やかな居留地時代のハイカラな雰囲気は今も通りや佇まいに残されています。(¨)港町・神戸ニ似テマス。 さて、くだんの「コンスイ通り」は石畳でレンガづくりの塀が続く洒落た通り。長崎港の眺めも良く、静かな佇まいはカップルにお薦めです。「コンスイ」とはロシア語で領事館を意味するそうで、居留地時代、近くにロシア領事館があったことからそう呼ばれているとか。実はこの通りの先には「コンスイ坂」と呼ばれる坂が待ち伏せています。車道としても利用されているその坂は傾斜がたいへん急で、坂の下に「勾配率20%」の標識が掲げてありましたが、それ以上あるような気がしました。(゛)シンドソウ。 そのコンスイ坂は、下から眺め見るだけにして、さらに南西へ数分のところにある「ドンドン坂」へ行ってみました。そこは石畳の坂道で、数年前のみろくやのCMにも登場したとても雰囲気のある場所です。私の歩測!?では長さが約140m、幅は約170㎝で車は通れません。この坂も勾配率20%の標識があり、下りは歩き出したら止まらない感じです。上まで登りきると港の景色が見えてなかなかいい感じです。▲絵葉書になりそうな雰囲気のどんどん坂 それにしても気になるのはこの名前。地元では「雨のドンドン坂」とも呼ばれているのですが、坂の横にあった看板には『ダラダラ坂→ドロドロ坂→ドンドン坂と移り変わり、雨が降ると流れが急なので“雨のドンドン坂”となったと言われている』と書いてありました。石畳のエキゾチックな風情が、居留地時代のイメージを彷佛させます。 グラバー園下、南山手8番館のそばにも、通称「地獄坂」という、ちょっと怖い名前の坂があります。その急勾配(勾配率20%)に坂の上の住人らが皮肉を込めてそう呼んだのでしょうか? でも石畳で風情ある洒落た表情をしています。幅は約2m20㎝ほどで登りのみ一方通行の車道として利用されていますが、どの車もギューンと音を立て、一生懸命に登っています。ここは車にとっても「地獄坂」のようです。(><)長崎ニハ通称「地獄坂」ガ多イ!?▲登ると実感!? 通称「地獄坂」

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