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  • 第167号【長崎の囲碁と将棋にちなんだ史跡】

     最近、囲碁が静かなブームだそうです。現在、囲碁人口は推定で500万人以上。また将棋の方は、15才以上の愛好者数は1030万人(H13年度:レジャー白書)。どちらもここ数年、愛好者は増加傾向にあるそうです。 古代中国で生まれた囲碁が日本へ伝えられたのは5~6世紀頃。一方、将棋はインドで生まれ、日本へは8世紀頃、中国(または東南アジア)経由で伝わったといわれています。囲碁も将棋も日本では長い歴史を持つだけあって、全国各地に、時代を超えて語り継がれる名人や名手がいるようです。長崎にも、ちょっとした逸話を持つ江戸時代の棋士のお墓があります。 長崎から小倉へ向かう長崎街道のスタート地点に近い「一の瀬橋(いちのせばし)」。旅立つ者との最後の別れを惜しむ場所だったこの橋のたもとから、日見峠へ向かう街道筋の途中に「碁盤の墓」と呼ばれる墓があります。 ここに眠るのは、江戸時代に中国から長崎に来た南京坊義圓(なんきんぼう ぎえん)というお坊さん。この方は塾を開いて碁を教えたと伝えられ、長崎の囲碁界の草分け的存在だったとか。頭部が丸い無縫塔(むほうとう)と呼ばれる形をした墓石は、当時の一般の僧侶の共通した形だといいます。 実はこの墓石、とても粋なアイデアが盛り込まれています。台石が碁盤になっているのです。今は、摩滅して見えませんが、表面にはちゃんと碁盤の線も入っていました。 そして花筒も、碁石を入れる碁笥(ゴケ)になっています。あの世でも囲碁を楽しんで欲しいという亡き人への思いが伝わって来るようです。1804年、この墓について狂歌師の太田蜀山人は「この墓は 南京房か 珍房か ごけ引きよせて ごばん下じき」という、歌を残しています。 「囲碁の墓」から1分ほど街道を登ると「将棋の墓」があります。これは「大橋宗銀(おおはし そうぎん)」という人の墓。正面には、「六段上手・大橋宗銀居士」と刻まれています。大橋は将棋の宗家で、名に「宗」の字を使っていることから、将棋の師匠であったといいます。武蔵国(東京・埼玉)の出身で、賭け将棋をしながら各地を転々とし、1839年に長崎に来たのですが、この時、偽物の通行手形だったため、のちにとがめられ犯科帳にも記載されています。宗銀は、将棋の指南所を開業してもうまくいかず、最後には長崎の材木町(現:賑町)で、行き倒れになりました。身寄りのなかった宗銀の墓は、他の供養塔と同じく、見ず知らずの旅人たちに供養してもらうため、街道筋に設けられたようです。将棋の実力をまともに活かせず前途多難な人生を送った宗銀。それを哀れにを思う人々の気持が彼のお墓を今に残しているのかもしれません。※ 参考にした本「本河内の史跡」 小森定行

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  • 第166号【長崎の街路樹ナンキンハゼとイチョウ】

     11月下旬あたりにピークを迎えた各地の紅葉。皆さんは楽しまれましたか?長崎で紅葉といえば、島原半島の「雲仙」が有名です。ここは湯けむり漂う高原の温泉地で、先月中旬には見頃が終わり、葉を落として冬支度に入りました。今年はタイミングを逃しましたが、いつか当コラムでもご紹介したいと思います。\(^▽^″)オ楽シミニ! 山の紅葉は終わっても、平地にある街路樹の紅葉は、まだ楽しめるところも多いのではないでしょうか。長崎では、燃えるような赤に染まったナンキンハゼの葉が、街中の通りを風情豊かに彩って通行人を楽しませています。ナンキンンハゼは中国原産の落葉樹。18世紀はじめ頃に、中国より長崎へ渡来し、全国に広まったといわれています。現在は、「長崎市の木」として街路樹に広く利用、市花のアジサイとともに長崎のイメージづくりに役立てられ、すっかり長崎の晩秋の風物詩になっています。病害虫に強く、同じ「ハゼ」が付く「ハゼノキ」とは違い、触ってもかぶれることはありません。ナンキンハゼの丸みを帯びたかわいい葉は、夏場はイキイキとした緑色をし、それがフサフサと風にゆれる光景は、遠目にはイチョウのようにも見えます。とにかく長崎市街地のあちらこちらで見かける木ですが、観光がてらに楽しむなら、原爆資料館周辺(平野町)の通りが本数も多いのでおすすめです。 ところで日本の街路樹でもっとも多く植えられている木をご存じですか?それはイチョウだそうです。イチョウは学校や公園、お寺や神社などでも、よく見かけ日本人にはとても馴染み深い木ですが、もとは中国原産です。またイチョウには雄と雌があり、雌の木には秋に銀杏(ギンナン)がなります。銀杏の実に養分をとられるからか、巨木になるのはたいてい雄の木だそうです。長崎市には樹齢約300年の大イチョウがあります。樹高20メートル、幹周り3.9メートルの巨木(やはり雄)で、寺町通りの一角、「大音寺」の霊園内にそびえています。江戸時代からずっと長崎の街を見つめてきたこのイチョウもまた晩秋、美しい黄金色の姿を見せてくれます。 最後に、イチョウの学名「Ginkgo biloba Linn.」のエピソードです。17世紀にオランダ商館医として来日したケンペルが、日本の植物を帰国後ヨーロッパで紹介した時、銀杏(ぎんなん)をローマ字書きで「Ging-yo」と紹介。それがどこかで誤って「Ginkgo」(ギンゴー)となり、その後、そのままあの著名な博物学者リンネが学名に定めたのだそうです。※ 参考にした本「長崎県文化百選~事始め編」 長崎新聞社「大日本百科事典~ジャポニカ2~」 小学館

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  • 第165号【お諏訪のぼた餅食べて、ぶうらぶら】

     今月の長崎は、小春日和の穏やかな天気が多く、日中は修学旅行生や観光客の方々が、うっすらと額に汗しながら街を巡っている姿をよく目にしました。 今回、ご紹介する諏訪神社周辺は、緑あふれる長崎市民の憩いの場。日中、温かな今頃の季節は、近所の幼稚園の子供たちがピクニックを楽しんだり、大人たちがお弁当を広げたりしているところをよく見かけます。しかもこの辺は、おいしい甘味処やさまざまな史跡などもあって、観光スポットとしても見逃せません。さっそく、そぞろ歩いてみましょう。 スタートはおくんちで有名な諏訪神社の参道下から。その石段を登る途中に、「まよひ子志らせ石(まよい子知らせ石)」という石柱があります。明治12年に長崎県警に勤める警部さんたちが資金を出して建てたものです。当時、この近辺は神社へ参拝する人々でたいへん賑わい、迷子になる子供が度々いたそうです。迷子を見つけた人は、この石に子の名前や年齢などを書き、親を待ちました。今のようにテレビやラジオ、携帯電話のなかった時代、この石の効力はかなりのものだったそうです。 諏訪神社で参拝し、境内から続く長崎公園へ入ると、明治18年創業の老舗「月見茶屋」があります。この店の名物は「お諏訪のぼた餅」。ツヤツヤとしたこしあんをまとった姿は、見るからにおいしそう。一人前5個とボリュームがありますが、ペロリとたいらげてしまいます。昭和レトロという言葉そのものの木造の店から東側を望むと「彦山(ひこさん)」が見えます。 長崎では、彦山から出る月の美しさは有名で、江戸時代の狂歌師であり、長崎奉行所の役人として1年間在任した大田蜀山人(おおた しょくさんじん)が詠んだ「長崎の山の端に出る月はよか こんげん月はえっとなかばい」は、地元でよく知られた歌です。ただ上の句が「わいどんもみんな出て見ろ今夜こそ」というのもあり、いろいろいわく付きの伝説的な歌のようです。 月見茶屋のある公園の広場には池があり、その中央に設けた石づくりの噴水は、公園などでの装飾用噴水としては、日本でもっとも古いものだとか。また、この広場には、明治期に外国人が長崎で過ごした日々を書いた小説「お菊さん」の著者で知られるフランス人小説家ピエール・ロティの顕彰碑もあります。 長崎公園にはこの他、いろいろな史跡や碑があります。またの機会にご紹介しますので、どうぞお楽しみに。※ 参考にした本「長崎の文学」 長崎県高等学校教育研究会国語部会「長崎県文化百選~海外交流編」 長崎新聞社

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  • 第164号【冬、ますます食べたい長崎名物、角煮まんじゅう】

     少しずつ寒さが増してくると、温かい食べ物が恋しくなりますね。今回は身も心もおいしく温めてくれる長崎名物「角煮まんじゅう」をご紹介します。「角煮まんじゅう」とは、豚バラ肉を茹でて角切りにし、こっくり、やわらかく煮込んだ「豚の角煮」を、「中華まんじゅう」にはさんだものです。そのジューシーでとろけるような豚肉と、ほっこりとした中華まんじゅうのハーモニーは、まさに長崎ならではの美味。最近では長崎土産として人気急上昇中ですが、これは長崎の人々が伝統の卓袱料理のメニューの中で、昔からいただいて来たものです。 長崎の料亭などで、卓袱料理を食べた経験のある方はご存じだと思いますが、「豚の角煮」と、具の入っていない「中華まんじゅう」とは、別々の皿に盛られて運ばれて来ます。自分で蒸したての「中華まんじゅう」を開いて、アツアツの角煮をはさみ、好みでカラシを付けていただくのです。ところで長崎では「豚の角煮」を「東坡肉(とうばにく:トンポーロ)」とも呼んでいます。中国の宗の時代の文人である蘇東坡(そ とうば)が、好んだことにちなんで付けられた料理名だそうです。 「豚の角煮」と「東坡肉」。実は同じものではなく、厳密には違いがありました。家庭などで作る「豚の角煮」は、油で揚げることはしませんが「東坡肉」は、豚バラ肉を茹でた後、油で揚げ、さらに蒸すなどして作ります。油で揚げるといい焼き色が付き、中華独特の濃厚な味が増すとか。ちなみに「東坡肉」は醤油や甘味が比較的多く使われる上海料理を代表する料理のひとつです。 その「東坡肉」を中華まんじゅうに前もってはさみ手軽に食べれるようにした「角煮まんじゅう」。主役のお肉は、「東坡肉」本来の方法で作るところもあれば、現代の日本人の口に合うようにと、揚げずに煮込む際に油を加えたり、豚バラから出る油を利用するなど、それぞれ工夫があるようです。 ところで主原料の豚バラ肉は、赤身と脂肪が肉の層を成しているところから三枚肉とも呼ばれています。角煮まんじゅうのお肉にも、その層がはっきり出ていて、口にするとトロリとした食感です。お肌にいいといわれるコラーゲンがたっぷり含まれているので、女性には特にお薦めですよ。 長崎にカステラ屋さんが数多くあるように、角煮まんじゅうもいろいろ。製造元によって微妙に味が違います。まずは当社お薦めの角煮まんじゅうから味わってみませんか?※ 参考にした本「長崎事典~風俗・文化編」長崎文献社、「肉料理」婦人之社編集部

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  • 第163号【海男たちの夢の跡?!五島・日島の石塔群】

     秋の夜長の楽しみで、月や星空を眺めながら壮大な宇宙や遠い昔のことなどに思いを馳せる人もいらっしゃることでしょう。今回はそんな季節にぴったり。遥かいにしえへと誘う五島列島・日島(ひのしま)の遺跡をご紹介します。 五島列島のほぼ中央に浮かぶ若松島。ここから目的地の日島までは、漁生浦島(りょうぜがうらしま)、有福島(ありふくじま)といった橋や防波堤でつながる小さな島々を経なければなりません。道は入り組んだリアス式の海岸に沿ってあり、とにかく曲がりくねっているのですが、信号も行き交う車も少ないので運転のストレスはありません。景色は西海国立公園の一角のまるで湖のような海に浮かぶ大小の島々が見渡せ、東シナ海の洋上とは思えないほど穏やな美しさの自然を楽しみながら日島への道を辿ります。 日島は面積1.65平方キロメートルの小さな島。人口72人ほどで、島に生息する野生シカの数の方が多いといわれる寒村です。しかし古来、中国大陸と本州、九州とを結ぶ交通の要地で、朝鮮半島との貿易の本拠地として栄えた島でした。日島の名も、かつて烽火(ほうか)によって異国船が来たのを知らせる監視所があったことによる「火ノ島」の呼び名が「日島」に転化したといわれています。 そんな日島の曲(まがり)地区に、歴史のロマンに包まれた「日島曲石塔群」という遺跡があります。それは日本の中世(鎌倉~南北朝~室町)時代の古墓で、東シナ海を見渡す場所にこつ然と建ち並ぶおびただしい数の石塔群です。雨風にさらされ摩滅が激しく、所々崩れ落ちたその白い姿は、海の青さを背景に、長い時間をくぐり抜けてきたものならではの圧倒的な迫力を放っています。 石塔群は、石材も石塔の形も数種類あります。いずれも地元で制作されたものではなく、主に関西地方や若狭湾で知られる福井県の高浜町日引(ひびき)で制作されたことがわかっています。これは中世の頃の海道で、福井や鳥取、島根、山口、福岡、五島などを結ぶ日本海ルートの活発な動きを証明するものだそうです。また当時の海賊集団で知られる「倭冦」がこの石塔建立に関係しているという考えもあるといいます。 なぜ、ここにわざわざ運んで建てたのか。海男たちの供養のための墓であろうこの石塔群建塔の背景は不明のままです。繁栄の時代の日島や、シンプルな航海技術で命がけで海上を行き来した海男たちへと思いを馳せる石塔群は、600年以上もの時を超え、人々を魅了し続けています。※ 参考にした本/「石が語る中世の社会」大石一久著

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  • 第162号【長崎のまろき山々~その1、鍋冠山~】

     登山を楽しむ人が全国的に増えているそうです。自然と親しみ、季節を身近に感じ、日常からも解放される。山って本当に気持がいいですよね。長崎市では公民館などが山歩きの講座を設けると、募集人員を遥かに超える申し込みが来るといいます。長崎市街地には、高くけわしい山はなく、標高300~400m級の中くらいの山々が長崎港を取り囲むように連なっています。散策やハイキングなどに適した山々です。 ところで大正~昭和期の京都の歌人で九条武子(くじょうたけこ)という女性が長崎を訪れた際にこんな歌を残しています。「水色にくれゆくまろき山いくつ 紅毛人の夢ひむる町」。大正14年若葉の季節。長崎市内を見物した武子は、神戸に似て坂の多い町だなと感じながら石畳の道を歩き回りました。通りですれ違ったのは、浴衣に赤い帯をたれ、外国人のような目元をした子供。見渡せば夕暮れ色に染まる長崎の小さな山々。武子はその様子にドラマチックな異国の風情を感じたようです。 武子の目にも映ったであろう、まろき山々の中で、頂上からの景色が抜群に美しいことで知られるのが、鍋冠山(なべかんむりやま/169m)です。場所は先週ご紹介したグラバー園の裏手の高台近くで、山の頂きにはこんもりと樹木が茂っています。ちなみに鍋冠山の名は、その樹木の茂り方がまるで鍋を伏せたような形に見えるからという説があるのですが、定かではありません。 この山からの眺めは、長崎の観光ポスターや絵はがきなどによく使われているので、登ったことがなくても、景色を知っている人はいるかも知れません。入り組んだ長崎港のほぼ全体像と、山の傾斜にびっしりはりついた家やビル、そして港をはさんだ向うに稲佐山。また長崎港の入り口の方には、平成18年春に完成予定の「女神大橋(めがみおおはし)」の姿も見えます。海の青と空色のコントラストも美しく、その眺望を一目見ようと観光客の跡が絶えません。 観光客のほとんどは、鍋冠山頂上の展望台まで車を利用しているようです。しかし地元の山登りたちは、その山肌につくられた石段の道か、林の中を通る道を利用します。石段の道がもっとも近道ですが、いずれもふもとからゆっくり登って30分前後。今時分は、道に枯れ葉が敷きつめて、あちらこちらに栗の実が落ちているはず。道の脇にはススキやセイタカアワダチソウが元気にそよいで秋の風情を満喫できることでしょう。※ 参考にした本「長崎県の山歩き」林正康著、「九条武子~その生涯とあしあと」籠谷眞智子著

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  • 第161号【坂の街ならではの工夫。グラバー園への新ルート】

     スロープやエレベーター、床の段差をなくした広いトイレなど、街のあちらこちらでバリヤフリーの工夫を見かけるようになりました。身体の不自由な方はもちろん、全ての人の快適をめざす「バリヤフリー」。今回ご紹介する長崎の人気観光スポット、「グラバー園」への新しいルートも、この考えから生まれたようです。長崎港を見下ろす南山手にあるグラバー園。丘の斜面を利用した園内には、居留地時代のハイカラな洋館が各所に点在。毎日、全国から大勢の観光客が訪れ、ロマンあふれる異国情緒を楽しんでいます。このグラバー園の入り口は、丘のふもと近くにありますが、石畳の坂と石段を少し登らなければなりません。足腰の弱った方や、車椅子を利用している方にとってはたいへんでした。 だけど、これからは「グラバースカイロード」を利用すれば安心です。路面電車の石橋電停下車徒歩2分(相生町)。グラバー園へちょうど背後から登るような位置にあるこのロード(道路)、斜面地を文字どおり斜めに移動するタイプのエレベーター(長さ100メートル)で、周辺に住む住民の足として昨年夏から運行しています。ちなみに「グラバースカイロード」の正式名称は「都市計画道路南大浦線」といい、日本で初めて「道路」と位置付けられたエレベータ。まさに坂の街・長崎ならではの新しい「道」なのです。 グラバー園へは、「グラバースカイロード」を降りてすぐの場所にある普通の垂直エレベータに乗り継ぎます。最上階で降りるとグラバー園のもっとも高い位置に到着。ここに新しく設けられた第二ゲートから入ることになります。従来からの入り口(第一ゲート)に比べ、ゆるやかな下りで、園内全体を巡ることができるので、たいへんラクです。 グラバー園内には、各所に車イス専用のスロープが設けられ、港の景色もあふれる植物もゆっくり堪能できます。また日本最古の木造洋風建築の旧グラバー邸(国重要文化財)や、日本様式を取り入れてつくった旧ウォーカー邸、南欧風のバンガローが素敵な旧リンガー邸は、車イスでの入室が可能です。当時の暮しぶりをじっくり垣間見れます。 ところで「グラバースカイロード」は、東山手や長崎港など坂の街のさまざまな表情を見渡せ、夜景もたいへん美しいビュースポットとして注目されています。この秋のあなたのお出かけスポットに、加えてみませんか?

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  • 第160号【上五島の教会その1・石造りの頭ケ島教会】

     日本の最北西端にある五島列島を訪れたことはありますか?長崎港から五島灘を往来する定期高速船で約80分。南北に連なるこの列島は、南から福江島(ふくえじま)、 久賀島(ひさかじま)、奈留島(なるしま)、若松島(わかまつじま)、中通島(なかどおりじま)の5つの主な島があり、美しい波間に浮かぶ周辺の小さな島々も含めると、島数は130を超えるそうです。 五島列島には、禁教の時代(戦国時代~江戸時代)に、迫害を逃れた長崎のキリシタンたちが渡りました。島内には長い潜伏期間を経て、晴れて信仰の自由が許された明治以降、熱心なカトリックの信徒の方々によって建てられた教会が数多く点在しています。キリシタンの歴史はもちろん、過去の建造物や洋館に感心のある方にとっても必見の教会ばかりです。今回、ご紹介する頭ケ島(南松浦郡有川町)は、中通島の東北部に位置する周囲わずか4km足らずの小さな島です。ここには上五島(五島列島北部地域)で唯一の空の玄関・上五島空港があり、また周囲は絶好の釣り場としても知られています。 有川町の中心部から車で約30分ほどの頭ケ島へは、町内屈指のビュースポット、中通島と頭ケ島を結ぶ全長300メートルの「頭ケ島大橋」を渡って行きます。頭ケ島の山合いの道路を下ると、突然、目の前にエメラルドグリーンの海が広がりました。その海辺には数軒の民家。波音と、風に揺れる樹木のざわめきしか聞こえない静かな集落です。 頭ケ島教会は、この小さな集落の風景に溶け込むように建っていました。石を積み上げたその姿はいかにも堅牢そう。素朴で、しかし洗練されており、不思議な存在感があります。この頭ケ島教会は、大正6年(1917)に建立。日本の教会建築に大きな功績を残した鉄川与助(てつかわ よすけ)の設計・施工によるもので、西日本で唯一の石造り教会です。石はこの島に産出する砂岩で、信徒の方々が労力と全財産を捧げて築いたそうです。 10~12世紀にかけてヨーロッパで発達したロマネスク建築を意識した教会の内装は、珍しい折り上げ天井で、白い花や薄いピンクの文様など華やかな装飾が印象的です。そこには信仰の自由を得た人々の喜びが込められているのかもしれません。人口が少ないため日曜日の御ミサに集まる信徒数は20名に満たないそうですが、教会も、熱心な祈りも当時のまま受け継がれています。

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  • 第159号【とろけて、うっとり。ハウステンボスのおいしい秋。】

    この秋、リニューアルしたみろくやのホームページに合わせて、当コラムも気分一新。これから新設「みろくや編集室」が総力を上げてお届けします。どうぞ、よろしく!第一弾は、秋の「ハウステンボス」をご紹介します。ちょうど今、うっとりするような秋の花々に包まれて、おいしい料理をたーんと味わえる、「秋のフラワーカーニバル」を開催中(11/4迄)です。\(^^)おすすめの見どころは、運河に浮かぶ「花の名画」です。これは水上花壇を巨大なキャンパス(縦10m、横7、2m)にして、マネの「ウィーン娘」やフェルメールの「青いターバンの女」といった世界の名画をマリーゴールドやベゴニアなどの秋の花々で再現。うっとりするような見事な出来映えです。 スペインからやってきた実力派フラメンコチームによるショーも見逃せません。本場ならではの情熱的なステップと、哀愁が漂う歌声。まさに芸術の秋にふさわしいひとときを楽しめます。グルメ心をおおいに刺激する、おいしいものもいっぱいです。ハウステンボスはオランダ産チーズの売り上げ日本一を誇るチーズ王国でもあるのですが、この秋は世界のチーズ100種類を揃えて、街をあげて「チーズ祭」が行われています。クリームチーズを使った「カースシェイク」という珍しいドリンクやチーズたっぷりのパスタ料理、種類も豊富なチーズケーキなど、ハウステンボスでしか味わえないチーズメニューが目白押しです!この秋、球根を植え、春の花壇づくりをはじめようとしている方は、秋植え球根がいろいろ揃った中心広場の「大花市」へお出かけ下さい。特にチューリップは日本一の品揃えと言われるだけあって、珍しい原種のブルーチューリップも手に入れることができましたよ。 ところでハウステンボスは、ご存じのように今年2月、会社更生法の適用を申請しましたが、その後も社員の努力と地元周辺地域の応援により、しっかりと営業は続けられ、先月には新しく投資会社の支援が決定。今後は、百数十億円が投資され新たな「滞在型リゾート」の実現をめざして行くそうです。日本ではまだ未知数のリゾートビジネスの可能性を秘め、注目を浴びるハウステンボス。あなたもその再生の息吹を確かめに出かけてみませんか?

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  • 第158号【大光寺に姿三四郎のお墓?】

     黒沢明監督によって映画化もされた、富田常雄作の青春柔道小説の主人公、「姿三四郎」。 151cm、52kgというミニモニサイズながら、相手の力を利用して倒す「山嵐」を生み出し、 講道館四天王の一人に成長するも、ライバル村井半助の娘、乙美とは悲恋に終わってしまう…という、 男気に感服する内容です。(^^;元祖スポ根物? 三四郎のモデルとなる西郷四郎(1866-1922年)は新潟県(当時は会津藩)出身。 なのになぜお墓が長崎に? じつは講道館で活躍後、四郎の生活の中心は長崎に移ります。 そして1902年、同郷に近い二本松出身の鈴木天眼と一緒に「東洋日の出新聞」を創刊。 ジャーナリストとしての道を歩みます。 東洋日の出新聞は努めて分かりやすくという編集方針のもと、1934年まで発行されました。 大手発行の新聞各紙が日露戦争後のポーツマス条約に反対するという状況のなかでも、 日本とロシアの国力の違いを見誤ることなく、条約支持を主張。 「勇気ある少数意見」として、新聞史上にもその評価が残っているそうです。 (□_□;長崎県立図書館ニ資料ガアッタハズ。 第2の故郷となる長崎で20年以上過ごす間、柔道、水泳、弓道などの振興にも努めた四郎は、 晩年を尾道で過ごしましたが、病没後はその半生を過ごした長崎の大光寺に眠ります。 享年57歳、四郎の死を悼んだ恩師嘉納師範は翌年、特別に講道館の六段を授け、その功績を讃えました。▲慶長19年(1614)創建大光寺(長崎市鍛冶屋町)▲近くに保育園もあって賑やかだった大光寺境内▲姿三四郎モデルとなった西郷四郎のお墓

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  • 第157号【黒島と辻町の共通した不思議なネーミング】

     巷で、無駄な知識に「なるほど…」とうなずくことが、少し大切な風潮ですね。 特に名前の由来は大事に守りたいものです。こみくら行ってきました。佐世保駅から松浦鉄道に乗り換えて30分。 相浦港から生活船と貨物便の2種類が運行していて、こみくら、貨物船の「むつ丸」(12人乗り)で50分かけて渡りました。 交通手段がちょっと不便な、それでいて誰もが行ってみたい「黒島」へ。 (^^;長崎-佐世保モ合ワセルト3時間! 農協の黒島支所と佐世保市役所の黒島支所の郵便物の区別がつきづらいという、時間がゆったりと流れる島。 この島には重要文化財の美しい教会、黒島天主堂があり、 長崎に多い教会の中で黒島の教会の塔は王様の冠型をしているのが特徴です。 島が樹木に覆われて黒いから黒島。カトリック教徒が多いからクルス島がなまってクロ島とも言われています。 ところ変わって長崎の浦上地区には辻町という名の町があります。 この町には十字修道院や十字幼稚園があって、 丘の上には踏み絵に心痛めたカトリック信者によって十字架が建てられた、その名も十字架山があります。 …何かピンときませんか?「辻」の文字。 永く親しまれた名前や町名など、町村合併などで簡単に無くしてはいけないような、そんな気持ちになってしまいます。 (□_□)十字架山ハ公式巡礼地ニ指定サレテイマス。▲黒島天主堂重要文化財(国指定)▲有田焼のタイルも使われた教会内部▲公式巡礼地に指定された、聖地 十字架山

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  • 第156号【南山手のレストハウスは清水氏宅】

     こんにちは、初秋どころではない暑さが続いていますが、熱中症(熱中毒症らしいですね)かかっていませんか?  こんな暑さでは丘の坂道の途中にある、グラバー園を始めとする長崎の洋館巡りなんておすすめできません …なんて…そんなことはないのです。 コミクラ名付けるところのため息のエレベータ(斜行エレベータ、"グラバースカイロード"のことデス。)を利用しないテはありません。 (^∇^) ♪ラクチン いきなり垂直エレベータを乗りついでグラバー園の裏口(新入場門)の頂上から見学をスタート! 坂道を下りながら洋館見物ができる。あっちょっと待って。 今回お伝えしたいのは、ひっそりと姿を消しそうだった洋館が、 この「ため息のエレベータ」のおかげで南山手の長崎市民の宝物のような地位を獲得するかもしれないってことです。 〈清水氏宅-石造平家建、寄棟造、桟瓦葺-石造平家建の住宅で長崎居留地においては貴重な構造である。 しかし、改良が著しく、復元困難である。玄関ホールを中心にその周囲に諸室を配した平面で、 ベランダを北側と東側の2カ所に設けていた〉と平成2年の調査書にはありますが、 丁寧な工事修理が施されこのたびめでたく南山手レストハウスとして再生となりました。 (^^;食事ハ出来マセン。念ノ為 完成にあたり長崎市では、この洋館の利用方法を募集しています。 旧香港上海銀行やグラバー園での結婚式を提案してきたコミクラとしてはもちろん、 元清水邸を利用したホームウエディングは素敵だなと思うし、 テレビのロケや写真撮影に使用してもらったり、 図書室のある学童保育もいいかな…といろいろ考えこんでしまいますが、 皆さんならどう活用したいですか?▲市民の活用を待つ南山手レストハウス▲改修前の清水邸▲ため息のエレベーター"グラバースカイロード"

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  • 第155号【ピントコさんの恋 ~ピントコ坂~】

     長崎は坂の町、港を見下ろす南山手の丘に「どんどん坂」、墓地へ続く寺町 の斜面に「ヘイフリ坂」…なんとも不思議な呼び名ですね。そして茂木街道の 一部(上小島~田上付近)、「ピントコ坂」。前者二つについては、ちゃんぽん コラムの読者の皆さんはご存じですよね? (^^;バックナンバーデ探シテネ。 さて、このピントコ坂、これはでこぼこな道という本来の意味よりも、長崎 では唐の貿易商人、何旻徳(カ・ピントク)さんが語源となっています。元禄 2年(1689)に完成した唐人屋敷には、中国経由のキリスト教思想輸入の禁止と 密貿易の取り締まり、長崎の婦女子との風紀上の問題を起こさぬように、との 目的がありました。 ところが、唐人屋敷内でも富裕な「何」氏は、筑後屋(引田屋とならぶ丸山 で最高の茶屋)の遊女登倭(とわ)となじみになり、子をなしましたが、元禄 3年(1690)、偽金づくりの疑いで死罪になってしまいます。哀しみの中、登倭 は亡きがらを坂の近くへ葬り、自らも命を絶ったと伝えられています。その後 二人をいたみ、坂道の途中に「阿登倭(おとわ)の石碑」が建立されました。 (□-□)/近クニハ愛八サンノオ墓モアリマス。 最期に唐人さんが丸山遊女に伝えた、九連環(きゅうれんかん)の歌をご紹介 しましょう。「みよみよ、我にたまいし九連環を、九つ九つ連なる鎖の指輪。 もろ手かけても解きほどかれぬ、小刀で切りても割きかねる、えい、なんとし よう」…唐人と丸山遊女の愛情を唄った俗謡ですが正しい解釈とピントクさん との関連を探して、コミクラは今、奮闘中です。 (><;調ベキレナカッタノ…▲閑静な住宅街の中にある、現在のピントコ坂▲ピントコ坂と愛八さんのお墓の案内板▲ピントコさんと阿登倭さんの墓碑

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  • 第154号【秋の気配 ~どんの山~】

     長崎と言えば居留地があったことでも有名です。 今は埋め立てられて一筋の川になっている大浦川も、昔は小さな入江の姿をしていて、 入江をはさみ長崎港に向かって右側がイギリスなど各国の領事館などがあった東山手、 左側がグラバー邸や大浦天主堂などがある南山手です。 山手と言うくらいですから当然頂上があります。 南山手の頂上が鍋冠山(なべかんむりやま)、東山手の頂上がどんの山です。 南山手の丘から西日に映える東山手の丘を眺めると、 そこはイタリアのナポリか? ポルトガルのリスボンか? といった南欧風の様相を見せてくれます。 (^o^)オ薦メView Point! かつて南山手に貿易商の邸宅が立ち並んでいた時代、東山手はいくつかの領事館を過ぎてオランダ坂を登ると、 ミッション系の私学が丘の大部分を占めていたのでした。 そうして更にロマンチックな街灯のある坂道を登っていくと、長崎の港の見える丘公園「どんの山公園」にたどり着きます。 鍋冠山が長崎港をダイナミックに縦に見せる山だとすれば、どんの山は港を横向きに優雅に見せてくれます。 美しい豪華客船ダイヤモンドプリンセスをたたえた長崎港にホウとため息をつくのも、 フウフウ言って登ってくるからではありませんよ。(;´▽`A``シンジテネ… 正午に「ドン(午砲)」を鳴らして知らせていたので「どんの山」と呼ばれていますが、 風取山というのが本来の名称だったそうです。 名前の通り、頂上での涼しい風は、ちょっと早めに秋を感じる事が出来ますよ。▲南山手側から見た南欧風の東山手▲どんの山から一望できる長崎港▲ドンを鳴らした大砲

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  • 第153号【異国から届いた美少女からの手紙 ~ジャガタラお春~】

     「あら日本恋しや、ゆかしや、みたや、みたや……」 日本への望郷の思いが綴られた手紙が長崎に着いたのは、今から350年程前のこと。 寛永16年(1639)10月、幕府の鎖国政策により、長崎市中に在住していた外国人と、 その家族287人がバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ)へ追放されます。 その中に14歳の少女「お春」がいました。青く大きな瞳に透き通るような白い肌。 お春は美しく、そして頭の良い少女だったそうです。 (□_□)/ジャガタラ=ジャカルタです。 冒頭の切ない手紙は、お春がバタビアからこっそりと送ったものです。 お春は明けても暮れても故郷へ帰ることを祈って年月を送りますが、 最期まで故郷の土を踏むことはできませんでした。 聖福寺(長崎市玉園町)の境内にあるお春の碑には、歌人吉井勇の句が刻まれています。 「長崎の鴬は鳴く いまもなほ しゃかたら文の お春あはれと」 また平戸観光資料館では、現存する4通の内、 3通のジャガタラ文(お春のではありません)が保存・展示されています。 (ノ_・、)望郷の想いにジ~ン…。 ところで、お春は異国の地でどのような生涯を送ったのでしょうか。 21歳の時、平戸生まれのシモンセンと結婚。 東インド会社へ入り、順調に出世したシモンセンは、退職後に持ち船貿易を営み、 バタビア教会長老も務める名士だったそうです。 お春は3男4女をもうけ、金銭的には裕福な生涯を送ったとのことですよ。▲聖福寺境内にあるじゃがたらお春の碑▲長崎の「唐四カ寺」のひとつ。聖福寺

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