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  • 第179号【長崎と鯨】

     「長崎に行けば、うまい鯨が食べられると思って楽しみにして来たんです」。そんなことをおっしゃる観光客の方々が結構いらっしゃると、長崎で鯨専門店を営む「井上海産物・勇魚(いさな)」の女将さんは言います。 鯨肉は、今でこそ捕鯨が制限され価格が高くなっていますが、以前は豚肉や牛肉よりも安かった時代がありました。30代以上の方なら子供の頃に給食で鯨肉の竜田揚げやベーコンを食べた経験がある方も多いのではないでしょうか。 長崎県では、江戸時代に捕鯨業が大きく発展した歴史があります。五島や壱岐、対馬、平戸、生月島といった島の浦々で、捕鯨にたずさわる鯨組(くじらぐみ)と呼ばれる組織がいくつも生まれたのです。鯨組の組織は、海で鯨を捕獲する「沖場」と、陸で漁の準備や鯨の解体加工をする「納屋場」の2つに分かれ、ひとつの鯨組で約九百人を必要としたほど大規模な組織だったそうです。 また明治以降になると、長崎市では英国人貿易商のグラバーさんらが捕鯨事業をはじめ、その後も地元の人たちによって五島近海で捕鯨が行われています。 そういった歴史的背景のもと、長崎では昔から鯨が食べられて来ました。『鯨一頭七浦潤す』という格言のとおり、かつて鯨一頭が多くの漁民たちを豊かにしたことから、鯨は豊漁の象徴、つまり福を運んでくれるエビス様のように扱われていたとか。そのためか長崎では、今でもお正月やお祝事の晴れの席などに鯨の肉を食すことが多いのです。 鯨肉はその部位によって、すえひろとベーコン(鯨の下あごから腹部にかけての縞状の部分で「畝須:うねす」と呼ばれる部位)、さえずり(舌)、百畳(ひゃくじょう/胃袋)百尋(ひゃくひろ/小腸)などがあり、それぞれ味や食感が違いますが、全体的にさっぱりとして意外にクセのないおいしさです。末広がりの形から「すえひろ」と呼ばれるところは「畝須」の上質な部分を茹でたもので、薄くスライスして、酢醤油やわさび醤油でいただきます。「県外に住む長崎出身の方が、懐かしがってよく買われる。もっとも長崎らしい鯨肉なんでしょう」と「勇魚」の女将さん。 ところで鯨肉は牛・豚・鶏などの肉と比べると、高タンパク・低脂肪・低カロリーと三拍子揃ったヘルシーな肉です。鉄分も多く貧血気味の方にはもってこいです。また鯨のベーコンなどには血栓を予防するエイコサペンタエン酸(EPA)や、話題のドコサヘキサエン酸(DHA)が多く含まれています。 今は、少々お高い鯨肉ですが、だんだんと安くなる傾向にあるとか。これを機に、長崎の鯨肉の歴史も、味わいもあらためて見直したいものです。取材にご協力いただいた、鯨専門店「井上海産物 勇魚」の皆様、ありがとうございました。◎参考にした本/FUKUOKA STYLE Vol12~西海の捕鯨~

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  • 第178号【日本初の蒸気機関車アイアン・デューク号】

    日本で初めて、鉄道が開業したのは明治5年(1872)年のこと。東京の新橋~横浜間の29kmを蒸気機関車が走りました。でも、これが日本の鉄道の発祥ではありません。実はこれより7年前の慶応元年(1865)年に英国人貿易商のトーマス・グラバーが長崎で蒸気機関車を走らせていました。その場所は、長崎港沿いにある大浦海岸通り。この地は、安政6年(1859)に長崎が神奈川や箱館とともに開港した時、イギリスやロシア、アメリカ、フランスとの貿易も許されたことから、外国人居留地として洋館建ての商社やホテルなどが軒を列ねた通りです。英国人貿易商のトーマスグラバーは、この開国直後に長崎に渡ってきています。グラバーが長崎で走らせたという汽車は、上海博覧会に出品されていたもので、イギリス製のアイアンデューク号という名の蒸気機関車でした。それを長崎に輸入し、大浦海岸通りに約400メートルの線路を敷き(現在の大浦海岸埋め立て地にある長崎税関付近から松が枝橋付近)、客車2両をつないで人々に走らせて見せたのでした。黒煙をモクモクと吐いて走る汽車に、目を丸くし歓声を上げる見物人たち。地元ではグラバーが、「陸蒸気(おかじょうき)」を走らせているという噂が広がり、連日、大勢の見物人が集まったといいます。グラバーといえば、他にも造船や炭坑など日本の近代化に大きな影響を与えたことで知られていますが、そんな彼が、大浦でアイアン・デューク号をわざわざ走らせて見せたのには、どんな理由があったのでしょう。日本人にこれからはじまる新しい時代の一端を見せたかった?進んだ西洋の技術を知らしめたかった?いろいろと推測できますが、いずれにしてもこのデモンストレーション(試走)は、当時の日本人に大きなインパクトを与え、日本の近代化の牽引力にもなったと想像されます。またこの他、鉄道関連の史跡が大浦海岸通りから徒歩約10分の大波止出島ワーフそばにも残されています。昭和5年(1930)、長崎駅から出島岸壁に至る臨港鉄道が開通し長崎港駅が開業。線路は現在のJR長崎駅から南に約1、1kmほど延びてあり、中島川の河口にかかる鉄橋を渡り、当時、出島岸壁に発着した日華連絡船と連結していました。現在、線路のあった鉄橋はなく、残されているのは橋台の一部です。当時は、東京へ行くよりも近くて安い片道26時間の大都会、上海を訪れる旅客でおおいに賑わったそうです。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編(長崎文献社)

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  • 第177号【大波止の鉄砲ん玉】

    長崎で昔から俗謡として伝えられている「長崎の七不思議」。『寺もないのに大徳寺、山でもないのに丸山、古いお宮を若宮、桜もないのに桜馬場、北にあるのに西山、大波止に玉はあれども大砲なし、立ってる松を下り松』。この七不思議、実は長崎の歴史をひもとく一種の「謎解き問題」でもあります。今回は、その七不思議の中から「大波止に玉はあれども大砲なし」の謎を解明すべく、さっそく出かけてきました。長崎駅から徒歩で10分ほどの場所にある大波止は、五島、高島、伊王島などの島々と長崎市街地を結ぶ近海航路の発着所「大波止ターミナル」があります。この辺は近年、大型商業施設「夢彩都(ゆめさいと)」やウォーターフロントの市民の憩いの場「出島ワーフ」なども誕生し、人々の多様な交流の場としてめざましく変化がみられた地域でもあります。港の景色を一望するその一帯をぐるっと歩き回わっていたら、見つけました!「鉄砲ん玉」。長崎市民(主にお年寄り)に、「大波止の鉄砲ん玉」と呼ばれているこの玉は、「夢彩都」に隣接するイベント施設「ドラゴンプロムナード」という建物の前にありました。人の流れからちょっとそれたその場所で、直径56センチ、重量560キログラムの鉄の固まりは、雨ざらしで、かなり錆びた状態のまま、ひっそりと台座の上に載せられていました。以前は、もっと人通りのある桟橋近くに置いてあったと記憶していましたが、港の開発にともない、大波止内を転々としたようです。言い伝えでは、島原の乱のとき、原城に立てこもった一揆軍を倒すため、当時、唐通事をしていた人物が、原城を地下から爆破させようと提案。それを受けて、寛永15年(1638)に長崎で鋳造された「石火矢玉」だということです。この玉を打つための大砲はたいへん大きなものだったらしく、それを備え付けるために原城の近くで穴を掘っていたら一揆軍に察知され、ほどなくこの作戦は中止に。結局、玉は使われることなく、以来大波止に置かれ長崎の名物のひとつになったというわけです。この玉について長崎市史には、鋳造されたといわれる年から約150年以上も経った寛政4年(1792)、当時の町年寄りらによって、その重さと大きさが公式に計測されたと記されているそうです。さて意外にも!?島原の乱と長崎を結んだ「大波止の鉄砲ん玉」。あまり目立たない存在ですが、実は人知れず、江戸時代から長崎港の盛衰をじっと見とどけてきた「珠玉の歴史証人」でもあったのです。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編(長崎文献社)

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  • 第176号【ユニークな伝統菓子、茂木の一○香】

    陽射しや風にかすかな春の気配が感じられます。でも天候不順が続きやすいこの時期、風邪ひきさんが急増中です!山の幸、海の幸満載のちゃんぽんで栄養をとって、元気に乗りきりましょう!今回、ご紹介するのは長崎の伝統菓子のひとつ「一口香(いっこっこう)」です。江戸時代中期に中国より伝えられた干し菓子で、もとは唐の禅僧や唐船の乗組員たちの保存食だったものです。上下にこんがりと焼き色の付いた丸い形が素朴でいい感じ。手に取って、そっと二つに割ると、あら、驚き!中身がからっぽなのです!そうとは知らず、一口香を初めて口にする人は、「あれっ?あんこを入れ忘れてるわ」と思うようなのです。中が空洞のユニークなお菓子、一口香の発祥の地、茂木へ行って来ました。長崎駅から車で約20分。美しい橘湾に面した茂木の港は、江戸時代には肥後や薩摩の港から長崎へ通じる要港として繁栄したところです。その茂木港へ、ある日、初代市衛門が雑貨商を営んでいた頃、唐船の乗組員達によって彼らの保存食が伝えられたといわれています。それをさらにおいしく香ばしく仕上げたのが1844年創業の老舗、「茂木一まる香本家(もぎいちまるこうほんけ)」のご先祖様だったのです。ひとつひとつが手作りの「茂木一まる香本家」の一〇香(いっこっこう)。その作業を見学させていただきました。厳選の小麦粉で生地をこね、次に中に入れるあんを水飴、黒砂糖、はちみつなどの材料を混ぜてこねます。こね具合はその日の天気に左右されるので、長年の経験で培ったあんばいで水加減を微調整。職人さんが、小さく丸めた生地を軽く平たくして、すばやくあんを入れて丸め、白胡麻の敷かれた木の箱に次々に並べていきます。この時、まだ空洞はありません。銅板にのせられ200度以上のオーブンで、15分ほど焼きます。一〇香の空洞がつくられるのは実はこの時です。焼いて膨れ上がった皮に、中のあんが溶けて内側にくっついてしまうため中が空いてしまうのです。オーブンから出された後冷まし、さらに焼き目を入れ、香ばしく仕上げられます。江戸時代には、長崎の花街・丸山から茂木に通じる「茂木街道」がありました。この街道は文人墨客の往来が多く、茂木の名物となったこのお菓子はお客様に茶菓子として好まれたそうです。その時、一口ほお張ると香ばしいというので、「一〇香」と名付けられたとか。以来、手作りの味を守り続けている「茂木一まる香本家」。人々に長く愛され親しまれ続けている秘けつは「作る人の魂」にあるようです。

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  • 第175号【出島の料理部屋】

    久しぶりに出島へ行ってきました!さすが、長崎の人気観光スポット、小学生からお年寄りまで大勢の観光客で賑わっていましたよ。出島は今、復元計画が進められていて建物も街並も19世紀初頭の再現をめざしています。すでに出島西側には、オランダ船の船長が宿泊した「一番船船頭部屋」、へトル(商館長次席)が居住した「ヘトル部屋」、砂糖などの輸入品をおさめた「一番蔵」、染料などをおさめた「二番蔵」、そしてオランダ商館員らの食事を作った「料理部屋」の5棟が復元され一般公開しています。今回は、その中から「料理部屋」をクローズアップしてみましょう。「料理部屋」といっても、家屋の一角にあるのではなく、小さな木造の平家建てです。中に入ると、板張りの床に調理台として使った大きなテーブルがあり、煮炊き用のかまどが2つ。天井は漆喰(しっくい)を塗って防火策が施され、屋根には煙出が付き、さらに壁の上部には板がすき間を作って張られ風通しよくなっています。出島にいたオランダ商館員ら十数人分の食事が一日に2回、ここで作られ、その隣に建つカピタン部屋(商館長の住まい)に運んで食べていたようです。この調理室はシーボルトのお抱え絵師だった川原慶賀による「唐蘭館絵巻・調理室図」(長崎市立博物館所蔵)をもとに再現したものです。ソーセージやハム(塩漬け肉)といった食材を作っている様子が描かれています。広いテーブルでお肉を刻む複数の商館員や、かまどの火にかけた大鍋をかき混ぜている日本人、鍋の中の料理を瓶(かめ)に移している日本人、すり鉢でスパイスらしきものをすっているちょんまげ頭の日本人と商館員の従者。その他、オランダ商館員がレシピらしき本を読んでいたり、とらえた豚にナイフを突き刺して血抜きをしている様子などが描かれています。この絵は当時の食文化を知る情報が満載のようです。この料理部屋で、スープやパンなど当時としては珍しい数々の西洋料理が作られました。その食事づくりには前述のように3人の日本人が雇われていました。その彼らによって数々のオランダ料理が長崎の町に伝えられたのでした。興味深かったのは、オランダの調理道具です。ヨーロッパでは17世紀から19世紀末まで調理道具はほとんど変化がないそうで、その頃の真鍮や銅製の鍋、やかんなど、まさにアンティークなスタイルの道具が棚に並んでいました。いずれもシンプルでお洒落なデザイン。当時の人の美意識の高さが伝わってくるようです。◎参考にした本「よみがえる出島オランダ商館」(長崎市教育委員会)「出島~異文化交流の舞台」(片桐一男)

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  • 第174号【長崎湾沖を見わたす善長谷教会】

    長崎駅から長崎港湾沿いに国道を南下。約30分ほどで長崎市深掘町に到着。潮の香りに包まれたこの町はぺーロンの盛んな漁師町。町の背後には城山(じょうやま)と呼ばれるなだらかな山が連なり、のどかな自然に囲まれています。長崎市の中心部からちょっと離れたところにある深掘は、江戸時代には佐賀の鍋島藩の支藩でした。現在も当時の武家屋敷跡が一部残っています。歴史的にたいへん興味深い土地柄ですが、深掘については別の機会にご紹介するとして今回は深掘から城山の山道を約50分ほど歩いて登ったところにある善長谷(ぜんちょうだに)教会をご紹介します。山の中腹に建つ善長谷教会(長崎市大籠町善長谷)は木造の小さな教会です。周辺には畑と数件の民家があるだけ。ここからの眺めはたいへん良く、波光きらめく長崎湾沖のパノラマが広がります。特に夕日が沈む時の眺めは格別といわれ、アマチュアカメラマンたちの姿も度々見かけます。教会の外観は、赤紫と白のペンキが塗られ印象的な色合いです。現在の教会は、明治28年(1895)に建てられた木造の教会が老朽化して昭和27年(1952)に再建されたものです。それから半世紀以上も経っているわけですが、手入れが行き届き、厳かで清清しい空気が漂っています。この地の開拓は、江戸時代文久6年(1823)に、7所帯の家族と2人の独身者が移住したことにはじまります。彼ら移住者が鍋島氏より与えられた居住の条件には、山の上にある八幡神社の祭礼を行うこと、藩主用の水汲み役を果たすこと、地元のお寺の檀家に所属することなどがありました。移住者らは実はキリシタンの里のひとつとして知られる西彼杵郡三重郷樫山の出で、隠れキリシタンでした。彼らは藩の義務を隠れ蓑とし、密かに信仰を続けたのです。「善長谷」の地名の由来は、あるお坊さんが、この地で厳しい座禅の修業を行い悟りの境地に至ったことにより「禅定谷」と呼ばれていたのが、いつしか「善長谷」になったという説と、異教徒のことをスペイン語で「ゼンチョ」と発音することが「善長」の語源になったのではないかという説もあります。善長谷の信者たちは、明治維新後に信仰の自由が許されると、宣教師の呼びかけに従い、カトリックの教会に復帰する人もいましたが、別の土地に移り潜伏キリシタンの道を選んだ人もいたそうです。現在、教会の前にある木には、小さな鐘が結び付けられています。お祈りの時間を知らせるために鐘を鳴らす地元の信者さん。信仰を守り続けた先祖の熱意を今に伝えています。◎参考にした本「長崎の教会」(カトリック長崎大司教区司牧企画室)、「長崎の史跡~南部編」(長崎市立博物館)

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  • 第173号【好評開催中!長崎ランタンフェスティバル】

    先週「大寒」の日、この冬一番といわれる寒波が来て長崎は大雪に見舞われました。その翌日、雪景色の中「2004ランタンフェスティバル」は開幕。真っ白な雪に1万2千個にも及ぶランタンの光が映えてとてもきれい。寒い中にも関わらず、大勢の市民や観光客が光輝く街へと繰り出しました。(^▽^″)前々回のコラムでもご紹介しましたが、近年長崎の冬を彩る一大イベントとなったこのフェスティバルは、中国のお正月を祝う「春節祭」が発展したもの。約2週間行われ、今年は2月5日まで開催されます。開幕してから今日でちょうど1週間経ちましたが、連日ランタンが飾られた街(新地中華街や浜町が中心)は大勢の人出で賑わっています。異国情緒たっぷりの赤や黄の光の下を歩けば、冴えざえとした寒さの中でも、心が温もってくるから不思議です。メイン会場の湊公園会場(新地中華街そば)と、中央公園会場(メルカつきまちそば)では毎日、中国雑技、胡弓演奏、龍踊りなどが行われ、観客を飽きさせません。極彩色の衣装に、大きな目に長いまつげの可愛い顔をした中国獅子舞の躍動感あふれる演技もお見逃しなく。祭りの楽しみといえば出店ですが、昔懐かしいハトシ(※コラム100号参照)、鯨カツ(※鯨肉を揚げたもの)、桃カステラ、角煮まんじゅうなど長崎ならではの味を楽しめる出店が軒を連ね、観光客だけでなく地元の人にも喜ばれています。唐寺の崇福寺(そうふくじ:鍛冶屋町)、興福寺(こうふくじ:寺町)もランタンが飾られています。崇福寺には大雄宝殿や第一峰門といった国宝をはじめ重要文化財や史跡などがたくさんあります。興福寺は、広い境内と赤寺の雰囲気が日本のお寺とはまた違ったおおらかな大陸の趣きが感じられるお寺です。フェスティバル開催中は、それぞれ17時以降入場無料ですので(21時閉門)、この機会に訪れてみませんか?イベントで賑わう湊公園会場から徒歩5分ほどのところに、唐人屋敷会場があります。ここは江戸時代に中国人の居住地域だったところで、土神堂(どしんどう)、天后堂(てんこどう)、観音堂(かんのんどう)、福建会館天后堂(ふっけんかいかんてんこどう)など中国由来のお堂があります。この4つのお堂を全部巡って赤いロウソクをお供えすると良縁に恵まれ、夢がかなうといわれているそうですよ。あなたもぜひ、お出かけ下さい!

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  • 第172号【長崎の冬の魚~ナマコほか~】

    三方を美しい海に囲まれ、東シナ海、五島灘、対馬海峡など好漁場に恵まれた長崎県。4、200キロメートルに及ぶ海岸線には、100を超える漁港が点在し、長崎人の食卓に新鮮でおいしい魚を届けてくれています。(^▽^)冬場のこの時期、長崎の食卓に登場するのが、「ナマコ」です。体長20~30センチ。円筒状でヌメヌメとした姿はたいへん個性的です。腹をひらいて、わたを抜き、塩でもんだあとよく洗って小口切。そして酢醤油などでいただくナマコのの酢のものは長崎のお正月料理として欠かせない一品でもあります。わが家では、深めの中皿にたっぷり盛り、ダイコンおろしを加えポン酢でいただきます。ヌルリと口に入ってきて、噛めばコリコリ。今でこそおいしいと思える食感ですが、子供のころはヘンな食べ物だとしか思えず、親に「ナマコは腸の掃除をしてくれるから食べなさい」とよく言われたことを覚えています。長崎では大村湾で採れる「大村ナマコ」が有名です。昔からやわらかくて味がいいことで知られていました。ところで江戸時代、長崎から中国へ干鮑(ほしあわび)、煎海鼠(いりこ)、鱶鰭(ふかのひれ)など数種類の水産物が輸出されていたのですが(それらは俵づくりで運んだため、「俵物」と呼ばれた)、その中の煎海鼠というのが、何を隠そう、ナマコを乾燥させたもので、中国料理の貴重な食材のひとつなのです。大村ナマコは煎海鼠としておおいに輸出されたそうです。(□□)/海鼠(ナマコ)季節的に鍋料理を囲む機会が多いですが、長崎名物「アラ鍋」を食べたことはありますか?「アラ」とは長崎地方での呼び名で、本名は「クエ」という魚です。ハタ科で体に数本の帯状の模様があり、大きいものでは1メートル近くになるとか。この魚は、「超」がつくほどの高級魚で、市場から直接、料亭や料理屋へ行ってしまうのでしょう、スーパーの鮮魚コーナーや魚屋さんでもなかなか見かける機会が少ないのです。アラ鍋では、脂ののった白身をホクホクさせながらいただきます。アラは本当に美味な魚で、地方を巡業する力士たちは九州に来たとき、アラを使ったちゃんこ鍋を楽しみにしているのだそうです。この他、一年中出回っている魚ですが「タチウオ」もおいしいです。対馬の方では冬から春にかけてしっぽまでしっかり身のついた大型のタチウオが捕れ、「銀太(ぎんた)」のブランド名で出回っています。あなたの町で銀太を見かけたらぜひ、食べてみてくださいね。

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  • 第171号【長崎の冬の風物詩、長崎ランタンフェスティバル】

    「スローライフ」へ関心を抱くナチュラル志向の人々の間で、今、旧暦カレンダーが注目されているそうです。旧暦とは、古く中国の暦をもとに、太陽と月の運行のリズムに合わせて日本独自に改良を加えたもの。そこに記された冬至、小寒、大寒、立春、雨水、啓蟄、春分などの二十四節気は今でも季節を知る目安として利用されています。旧暦には自然のリズムを大切にする「スローライフ」の知恵がたくさんつまっているのです。長崎の冬を彩る一大イベント、「長崎ランタンフェスティバル」は中国の旧正月を祝う祭(春節祭)。毎年、旧暦の元旦から1月15日に行われており、今年は1/22~2/5まで開催します。年によって開催時期が異なるのは(H14年は2/12~2/26、H15年は2/1~2/15)、旧暦は1年の長さが353日~385日まで変化するので、毎年の日付と季節にズレが生じるためです。期間中には雪が降ることもあり、春と呼ぶにはまだ早い気がしますが、1万2千個にも及ぶランタン(中国堤灯)が飾られた街へ出ると、確かにどこからともなく春の気配が感じられるから不思議です。年々規模も華やかさも増しているこのフェスティバルは、今年も新地中華街と長崎市の繁華街「浜んまち」を中心に多彩なイベントが繰り広げられます。メイン会場となる「湊公園会場」(新地中華街となり)では、初日の夕方5時30分から春節礼祭・点灯式が行われ、フェスティバルが一斉にスタートします。会場は、唐人屋敷会場、浜んまち会場、中央公園会場、鐵橋会場、鍛冶市会場、興福寺会場とあり、くんちでおなじみの龍踊り、中国山西省の太原市(たいげんし)雑技団による華やかな中国雑技、懐かしい響きが魅力の胡弓演奏など中国色豊かな催しが毎日披露されます。各会場間は徒歩で約5~15分ほどしか離れていません。人の波をかきわけながらランタンの明かりの下を渡り歩くだけでもけっこう楽しいものです。この祭の見どころのひとつが、所狭しと飾られた中国伝説の珍獣のオブジェです。極彩色に彩られた鳳凰や龍などが幻想の世界へと誘います。今年は申年にちなんで「孫悟空」をモチーフにした高さ8メートルにも及ぶの巨大オブジェがメイン会場に登場。迫力満点の悟空の前で記念写真はいかがですか?期間中の土日には皇帝パレード、媽祖行列といった、歴史絵巻のような華やかなパレードも行われます。明治以前の日本は旧暦でかすかな春の気配を感じながら新年を迎えていました。今年の「長崎ランタンフェスティバル」を機に、旧暦カレンダー見直してみるのもいいかもしれませんね。

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  • 第170号【大唐人屋敷展】

    明けましておめでとうございます。今年どうぞもよろしくお願い申し上げます。新年第1号は、長崎市立博物館で好評開催中の「唐人屋敷展」です。最近、全国の美術館や博物館で行われる地域性の高い企画展を観て回る人が増えているそうですが、今回の「唐人屋敷展」も、長崎ならではの歴史や美術工芸の貴重な資料が展示され、見応えたっぷりです。長崎市立博物館では、長崎市の冬のイベント「ランタンフェスティバル」の時期に合わせて毎年「唐人屋敷展」を開催しています。唐人屋敷とは、江戸時代に長崎に造られた中国人の居住区域のこと。幕府は中国との貿易でキリスト教の布教や抜け荷(密貿易)を防ぐために、中国人を皆そこへ住まわせました。この「唐人屋敷展」で、中国と長崎の歴史的なつながりがわかると、中国の旧正月を祝う「ランタンフェスティバル」もいっそう味わい深くなるはずです。現在の長崎の新地中華街近くにあった「唐人屋敷」は、1689年に造られました。造成当初の総坪数約8、015坪。敷地内には、唐人屋敷(住居)の他、中国の神々を祭った土神堂(どしんどう)、天后堂(てんこどう)、観音堂などがありました。当時の様子は展示中の唐館絵巻」で観ることができます。この絵巻はシーボルトのお抱え絵師で知られる川原慶賀が描いたもので、そこには唐船が長崎港に入港して積み荷を降ろすところから、唐人屋敷での暮しぶりや年中行事の様子まで次々に描かれています。中には遊女と中国人らが賑やかに遊んでいる場面もあります。唐人屋敷への日本人の出入りは、お役人でも公用以外は厳禁でしたが、遊女だけは許されていたのです。当時、長崎~中国を往来した唐船の絵も数種類展示されています。これらの船はジャンク船(帆船)と呼ばれていましたが、実は福州、台湾、南京など出航港によって船の姿が違います。幕府側は、抜け荷などで逃げた船をチェックする際の資料とするために各種唐船を描いていたのです。もともとは中国国内の川を往来する川船の南京船も長崎に入っていました。その南京船以外は、海洋航海の魔よけの意味で、船に「目」が描き入れられています。長崎市立博物館の所蔵品を代表する「寛文長崎図屏風」も展示されています。まだ唐人屋敷が造られていない江戸初期の長崎の町が描かれていて、唐人らが自由に市中を歩いている様子が観られます。この他、蘇州の土を使って長崎で焼かれた「亀山焼」も展示。蘇州の土は文人好みの色や風合いが出たそうです。この「唐人屋敷展」は前期(~1/11迄)と後期(1/13~2/15迄)開催。後期は隠元によって長崎に伝えられた黄ばく宗の文化にちなんだ資料が展示されます。

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  • 第169号【長崎の正月惣菜~紅さしの南蛮漬~】

    今日、明日とクリスマスを思う存分楽しんだ後は、大晦日、そしてお正月と大切な歳事が待ち構えています。これからおせち作りをはじめ、やり残した掃除や用事を済ませるなど、新年を迎える準備も大詰めですね。最近ではデパートや料亭などにおせち料理を注文するのが当たり前となったご家庭がずいぶん増えたそうですが、やはりどんなに忙しくても、初春の膳は晴れ晴れとした気分でおせちを囲みたいという思いはみな同じです。そのおせち料理には、子孫繁栄を願う数の子、豊作祈願の田作り、まめに働くようにを意味する黒豆の他、昆布巻き、栗きんとんなどの定番料理に、各地の伝統料理がいくつか加わって、その地方独特の寿ぎの膳が作られているようです。長崎の場合、その一品といえば、「紅さしの南蛮漬け」です。紅さし(ベンサシ)とは長崎の方言で、一般に「ヒメジ」と呼ばれる魚のこと。体調15センチ前後の小ぶりな身体で、その名の通りおめでたい紅色をしています。日本各地で捕れ、干物や天ぷらなどでもいただきますが、長崎ではやはり南蛮漬でいただくことが多いようです。新鮮な魚が毎朝水揚げされる茂木漁港から、紅さしを仕入れている長崎市築町市場の「貝賀てんぷら」の女将さんによると、紅さしは年中あるけれど、長崎では正月用の南蛮漬を作るため、師走の時期がもっとも出回るとか。12月上旬過ぎから大晦日にかけてどんどん値が上がるため、ちょっと早めにまとめ買いをするといいそうで、「南蛮漬は冷凍しておいて、お正月には必要な分だけを解凍しながら食べたらいいよ」とアドバイスしてくれました。作り方は、まず紅さしを一日ほど干して適度に水分を抜き、油で素揚げします。漬け汁は、酢、醤油、砂糖、だし汁、唐辛子などを合わせ、いったん煮立てて冷やしてから漬け込みます。半日以上経ったらいただきます。南蛮漬は、現在ではポピュラーな料理法ですが、もとをたどれば南蛮貿易時代にポルトガル人が長崎に伝えたといわれ(また、中国料理のひとつという説もある)、長崎から全国に広まったものです。ちなみにその当時の日本人は、油で揚げた魚は好まず、酢や香料の入ったものも食べなかったとか。南蛮漬はまさに、おっかなびっくりの異国の味だったようです。冬の卓袱料理でも出される「紅さしの南蛮漬」。長崎の歴史をひもとくこの一品には、ふるさとを大切に思う心を育てるおいしいきっかけがあるようです。撮影&取材にご協力してくださった、「貝賀てんぷら(長崎市築町)」のみなさん、ありがとうございました。

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  • 第168号【光の街のクリスマス】

    街へ出れば、どこからともなく聞こえるクリスマスソング。お店のウィンドウは、どこもかしこも赤と緑の装飾で賑やかなクリスマスを演出しています。そんな巷のクリスマスもいいけれど、心豊かに、素敵な夢を見させてくれる本格派のクリスマスはいかがですか?今回ご紹介するハウステンボスは今、約100万球のイルミネーションに包まれて、美しくきらめく「光の街」に変身。このクリスマスシーズン(11月中旬~12/25迄)は、サンタクロースと触れ合える楽しいイベントや本格的なエンターテイメントショーなどが繰り広げられています。ハウステンボスへ入場するとさっそく、キュートなベアをかたどったツリーやサンタクロースの衣装をつけた巨大テディベアがお出迎え。夢見るようなクリスマスシーンへの期待感が高まります。街の中心部にあるアレキサンダー広場では昼も夜もクリスマスのスペシャルイベントが行われています。サンタクロースと一緒に歌って踊れる「サンタクロースショー」では、子供たちも舞台に上がって楽しそう。また本場ニューヨークからやってきたグループによる「ゴスペルライブ」は、魂に響いてくるような歌声がとっても感動的。いつの間にか大勢の人々がステージを囲んで拍手喝采。聖なるクリスマスをおおいに盛り上げます。広場に設けられた純白のウエディングドレスを思わせる「ホワイトラブツリー」や約30本の木をピラミッド状に組んだ「ギャザリングツリー」など、ハウステンボスでしか出逢えないオリジナル・ツリーも見逃せません。またオランダにあるドム教会の時計塔をモデルとしたハウステンボスのランドマーク、「ドム・トールン」(高さ105メートル)も、青やオレンジの美しい光を放つ塔へと変身。さらにオランダのベアトリクス女王陛下がお住まいの宮殿外観を忠実に再現した「パレス ハウステンボス」も、夜にはまばゆい光に包まれた「光の宮殿」になって、訪れる人々を幻想の世界へと誘います。各ショップでは「オリジナルスパークリングワイン」や「クリスマスベア」など、クリスマス限定の品々がラインナップ。今年のクリスマスの素敵な記念になりそうです。厳かな雰囲気と同時に、美しくて華やかな彩りに包まれたハウステンボスのクリスマス。子供の頃の夢を思い出したり、かじかんだ心に希望が灯ったりするような、そんなうれしい体験ができそうです。

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  • 第167号【長崎の囲碁と将棋にちなんだ史跡】

     最近、囲碁が静かなブームだそうです。現在、囲碁人口は推定で500万人以上。また将棋の方は、15才以上の愛好者数は1030万人(H13年度:レジャー白書)。どちらもここ数年、愛好者は増加傾向にあるそうです。 古代中国で生まれた囲碁が日本へ伝えられたのは5~6世紀頃。一方、将棋はインドで生まれ、日本へは8世紀頃、中国(または東南アジア)経由で伝わったといわれています。囲碁も将棋も日本では長い歴史を持つだけあって、全国各地に、時代を超えて語り継がれる名人や名手がいるようです。長崎にも、ちょっとした逸話を持つ江戸時代の棋士のお墓があります。 長崎から小倉へ向かう長崎街道のスタート地点に近い「一の瀬橋(いちのせばし)」。旅立つ者との最後の別れを惜しむ場所だったこの橋のたもとから、日見峠へ向かう街道筋の途中に「碁盤の墓」と呼ばれる墓があります。 ここに眠るのは、江戸時代に中国から長崎に来た南京坊義圓(なんきんぼう ぎえん)というお坊さん。この方は塾を開いて碁を教えたと伝えられ、長崎の囲碁界の草分け的存在だったとか。頭部が丸い無縫塔(むほうとう)と呼ばれる形をした墓石は、当時の一般の僧侶の共通した形だといいます。 実はこの墓石、とても粋なアイデアが盛り込まれています。台石が碁盤になっているのです。今は、摩滅して見えませんが、表面にはちゃんと碁盤の線も入っていました。 そして花筒も、碁石を入れる碁笥(ゴケ)になっています。あの世でも囲碁を楽しんで欲しいという亡き人への思いが伝わって来るようです。1804年、この墓について狂歌師の太田蜀山人は「この墓は 南京房か 珍房か ごけ引きよせて ごばん下じき」という、歌を残しています。 「囲碁の墓」から1分ほど街道を登ると「将棋の墓」があります。これは「大橋宗銀(おおはし そうぎん)」という人の墓。正面には、「六段上手・大橋宗銀居士」と刻まれています。大橋は将棋の宗家で、名に「宗」の字を使っていることから、将棋の師匠であったといいます。武蔵国(東京・埼玉)の出身で、賭け将棋をしながら各地を転々とし、1839年に長崎に来たのですが、この時、偽物の通行手形だったため、のちにとがめられ犯科帳にも記載されています。宗銀は、将棋の指南所を開業してもうまくいかず、最後には長崎の材木町(現:賑町)で、行き倒れになりました。身寄りのなかった宗銀の墓は、他の供養塔と同じく、見ず知らずの旅人たちに供養してもらうため、街道筋に設けられたようです。将棋の実力をまともに活かせず前途多難な人生を送った宗銀。それを哀れにを思う人々の気持が彼のお墓を今に残しているのかもしれません。※ 参考にした本「本河内の史跡」 小森定行

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  • 第166号【長崎の街路樹ナンキンハゼとイチョウ】

     11月下旬あたりにピークを迎えた各地の紅葉。皆さんは楽しまれましたか?長崎で紅葉といえば、島原半島の「雲仙」が有名です。ここは湯けむり漂う高原の温泉地で、先月中旬には見頃が終わり、葉を落として冬支度に入りました。今年はタイミングを逃しましたが、いつか当コラムでもご紹介したいと思います。\(^▽^″)オ楽シミニ! 山の紅葉は終わっても、平地にある街路樹の紅葉は、まだ楽しめるところも多いのではないでしょうか。長崎では、燃えるような赤に染まったナンキンハゼの葉が、街中の通りを風情豊かに彩って通行人を楽しませています。ナンキンンハゼは中国原産の落葉樹。18世紀はじめ頃に、中国より長崎へ渡来し、全国に広まったといわれています。現在は、「長崎市の木」として街路樹に広く利用、市花のアジサイとともに長崎のイメージづくりに役立てられ、すっかり長崎の晩秋の風物詩になっています。病害虫に強く、同じ「ハゼ」が付く「ハゼノキ」とは違い、触ってもかぶれることはありません。ナンキンハゼの丸みを帯びたかわいい葉は、夏場はイキイキとした緑色をし、それがフサフサと風にゆれる光景は、遠目にはイチョウのようにも見えます。とにかく長崎市街地のあちらこちらで見かける木ですが、観光がてらに楽しむなら、原爆資料館周辺(平野町)の通りが本数も多いのでおすすめです。 ところで日本の街路樹でもっとも多く植えられている木をご存じですか?それはイチョウだそうです。イチョウは学校や公園、お寺や神社などでも、よく見かけ日本人にはとても馴染み深い木ですが、もとは中国原産です。またイチョウには雄と雌があり、雌の木には秋に銀杏(ギンナン)がなります。銀杏の実に養分をとられるからか、巨木になるのはたいてい雄の木だそうです。長崎市には樹齢約300年の大イチョウがあります。樹高20メートル、幹周り3.9メートルの巨木(やはり雄)で、寺町通りの一角、「大音寺」の霊園内にそびえています。江戸時代からずっと長崎の街を見つめてきたこのイチョウもまた晩秋、美しい黄金色の姿を見せてくれます。 最後に、イチョウの学名「Ginkgo biloba Linn.」のエピソードです。17世紀にオランダ商館医として来日したケンペルが、日本の植物を帰国後ヨーロッパで紹介した時、銀杏(ぎんなん)をローマ字書きで「Ging-yo」と紹介。それがどこかで誤って「Ginkgo」(ギンゴー)となり、その後、そのままあの著名な博物学者リンネが学名に定めたのだそうです。※ 参考にした本「長崎県文化百選~事始め編」 長崎新聞社「大日本百科事典~ジャポニカ2~」 小学館

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  • 第165号【お諏訪のぼた餅食べて、ぶうらぶら】

     今月の長崎は、小春日和の穏やかな天気が多く、日中は修学旅行生や観光客の方々が、うっすらと額に汗しながら街を巡っている姿をよく目にしました。 今回、ご紹介する諏訪神社周辺は、緑あふれる長崎市民の憩いの場。日中、温かな今頃の季節は、近所の幼稚園の子供たちがピクニックを楽しんだり、大人たちがお弁当を広げたりしているところをよく見かけます。しかもこの辺は、おいしい甘味処やさまざまな史跡などもあって、観光スポットとしても見逃せません。さっそく、そぞろ歩いてみましょう。 スタートはおくんちで有名な諏訪神社の参道下から。その石段を登る途中に、「まよひ子志らせ石(まよい子知らせ石)」という石柱があります。明治12年に長崎県警に勤める警部さんたちが資金を出して建てたものです。当時、この近辺は神社へ参拝する人々でたいへん賑わい、迷子になる子供が度々いたそうです。迷子を見つけた人は、この石に子の名前や年齢などを書き、親を待ちました。今のようにテレビやラジオ、携帯電話のなかった時代、この石の効力はかなりのものだったそうです。 諏訪神社で参拝し、境内から続く長崎公園へ入ると、明治18年創業の老舗「月見茶屋」があります。この店の名物は「お諏訪のぼた餅」。ツヤツヤとしたこしあんをまとった姿は、見るからにおいしそう。一人前5個とボリュームがありますが、ペロリとたいらげてしまいます。昭和レトロという言葉そのものの木造の店から東側を望むと「彦山(ひこさん)」が見えます。 長崎では、彦山から出る月の美しさは有名で、江戸時代の狂歌師であり、長崎奉行所の役人として1年間在任した大田蜀山人(おおた しょくさんじん)が詠んだ「長崎の山の端に出る月はよか こんげん月はえっとなかばい」は、地元でよく知られた歌です。ただ上の句が「わいどんもみんな出て見ろ今夜こそ」というのもあり、いろいろいわく付きの伝説的な歌のようです。 月見茶屋のある公園の広場には池があり、その中央に設けた石づくりの噴水は、公園などでの装飾用噴水としては、日本でもっとも古いものだとか。また、この広場には、明治期に外国人が長崎で過ごした日々を書いた小説「お菊さん」の著者で知られるフランス人小説家ピエール・ロティの顕彰碑もあります。 長崎公園にはこの他、いろいろな史跡や碑があります。またの機会にご紹介しますので、どうぞお楽しみに。※ 参考にした本「長崎の文学」 長崎県高等学校教育研究会国語部会「長崎県文化百選~海外交流編」 長崎新聞社

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