第177号【大波止の鉄砲ん玉】

長崎で昔から俗謡として伝えられている「長崎の七不思議」。『寺もないのに大徳寺、山でもないのに丸山、古いお宮を若宮、桜もないのに桜馬場、北にあるのに西山、大波止に玉はあれども大砲なし、立ってる松を下り松』。この七不思議、実は長崎の歴史をひもとく一種の「謎解き問題」でもあります。




今回は、その七不思議の中から「大波止に玉はあれども大砲なし」の謎を解明すべく、さっそく出かけてきました。

長崎駅から徒歩で10分ほどの場所にある大波止は、五島、高島、伊王島などの島々と長崎市街地を結ぶ近海航路の発着所「大波止ターミナル」があります。この辺は近年、大型商業施設「夢彩都(ゆめさいと)」やウォーターフロントの市民の憩いの場「出島ワーフ」なども誕生し、人々の多様な交流の場としてめざましく変化がみられた地域でもあります。港の景色を一望するその一帯をぐるっと歩き回わっていたら、見つけました!「鉄砲ん玉」。




長崎市民(主にお年寄り)に、「大波止の鉄砲ん玉」と呼ばれているこの玉は、「夢彩都」に隣接するイベント施設「ドラゴンプロムナード」という建物の前にありました。人の流れからちょっとそれたその場所で、直径56センチ、重量560キログラムの鉄の固まりは、雨ざらしで、かなり錆びた状態のまま、ひっそりと台座の上に載せられていました。以前は、もっと人通りのある桟橋近くに置いてあったと記憶していましたが、港の開発にともない、大波止内を転々としたようです。




言い伝えでは、島原の乱のとき、原城に立てこもった一揆軍を倒すため、当時、唐通事をしていた人物が、原城を地下から爆破させようと提案。それを受けて、寛永15年(1638)に長崎で鋳造された「石火矢玉」だということです。この玉を打つための大砲はたいへん大きなものだったらしく、それを備え付けるために原城の近くで穴を掘っていたら一揆軍に察知され、ほどなくこの作戦は中止に。結局、玉は使われることなく、以来大波止に置かれ長崎の名物のひとつになったというわけです。




この玉について長崎市史には、鋳造されたといわれる年から約150年以上も経った寛政4年(1792)、当時の町年寄りらによって、その重さと大きさが公式に計測されたと記されているそうです。




さて意外にも!?島原の乱と長崎を結んだ「大波止の鉄砲ん玉」。あまり目立たない存在ですが、実は人知れず、江戸時代から長崎港の盛衰をじっと見とどけてきた「珠玉の歴史証人」でもあったのです。


◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編(長崎文献社)

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