第183号【サント・ドミンゴ教会跡資料館オープン】
ポルトガル人やスペイン人などがキリスト教の布教とともに日本にもたらした南蛮文化。その時代から秀吉や家康による禁教政策を経て、オランダ船が来航するようになった出島の時代まで、長崎の歴史の移り変わりを垣間見れる「サント・ドミンゴ教会跡資料館」が先月末オープンしました。
長崎市役所(長崎市桜町)から徒歩5分。桜町小学校内(長崎市勝山町)にあるこの新しい資料館には、同小学校校舎の建設工事に伴う平成12年の発掘調査で出土した江戸時代初期のサント・ドミンゴ教会跡の石畳や排水溝などの遺構の一部がそのまま保存公開されています。出土品には、花十字紋瓦(はなじゅうじもんがわら)やメダイなどキリスト教関連の遺物が数多くあります。当時の長崎とキリシタンとの関わりを物語る貴重な文化遺産だそうです。
家康が徳川幕府を開いたのが1603年。サント・ドミンゴ教会が建てられたのは1609年のことです。熱心なキリシタンだった村山等安(むらやまとうあん)という長崎の代官が寄進した土地に建造されました。この頃(16世紀末から17世紀初頭)の長崎には他に十数もの教会や教会関連の病院がありました。南蛮貿易と布教が盛んに行われていたことがうかがえます。
代官という長崎の有力者の保護を受けていた教会でしたが、江戸幕府の体制が確立していく中で、しだいにキリシタン弾圧が厳しくなり、サント・ドミンゴ教会は1614年の禁教令で、建設からわずか5年で破壊されます。他の教会施設も次々に破壊され、多くの宣教師が殉教しました。
サント・ドミンゴ教会の跡地は、長崎代官の末次氏の屋敷となり(17世紀中期~後期)、さらに末次氏失脚後は、同じく代官職についた高木氏が屋敷を構え(18~19世紀)、約三百数十年にわたり長崎代官屋敷として利用されました。遺構からは食器類などその時代の品々も大量に出土しています。
ところで、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」の歴史をひもとくにあたり、重要な人物のひとりとしてあげられるのが、先に登場した代官の村山等安です。等安はキリシタンであることなどを幕府に訴えられ失脚するのですが、それを訴えたのは、次に代官となったが末次平蔵でした。平蔵は朱印船貿易で財をなしていた博多出身の豪商で、南蛮貿易で莫大な富みを権力を得ていた等安との間に確執と争いがあったのではないかといわれています。
等安に関してもっと知りたい方は、「長崎代官村山等安~その愛と受難」(小林幸枝著/聖母の騎士社)がおすすめです。この本は、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」の整備にあたり、参考資料としておおいに活用されたそうです。