第187号【福沢諭吉と光栄寺】
新緑が眩しいこの季節。眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川沿いでは、柳やクスの木が青葉を茂らせ、さわやかな初夏の風に揺れています。今回訪ねた光栄寺(長崎市桶屋町)は眼鏡橋よりも上流にかかる一覧橋と古町橋の間にあります。光栄寺は、幕末、明治期の思想家、福沢諭吉(1835~1901)が、長崎に遊学した際に寄宿した所として知られるお寺です。
豊前中津藩(現在の福岡県東部と大分県北部の一部にあたる地)の大坂蔵屋敷で生まれた諭吉は、藩士だった父を早くに亡くし、中津で下駄づくりや刀剣細工などの内職にはげむ貧しい子供時代を過ごしました。学問(漢学)に抜きんでた才能を発揮し、20才の頃、大坂で蘭方医・緒方洪庵が主催する塾に入門して蘭学を学んだ後、江戸に出て現在の慶応義塾の起源となる蘭学塾を開きます。その頃、英語を独学。のちに幕府の外国方に雇われて翻訳の仕事に勤め、幕府使節に随行し欧米に三回渡りました。
大政奉還後は、新政府から招かれるも官仕には就かず、慶応義塾の経営に専念しながら、活発な文筆活動を開始。「天は人の上に人を造らず~」のフレーズで知られる『学問のすゝめ』(明治5年刊行)は、当時のベストセラーとなり、彼の名声を決定的なものにします。その後、諭吉は人権平等の理念と自由独立の精神を貫く生涯を送ったのでした。
諭吉が長崎に遊学したのは、19才の時の約1年間。洪庵の塾に入る直前のことです。
長崎での様子は諭吉が後に自分の生涯を口述した『福翁自伝』の中の「長崎遊学」の項に詳しく記されています。「長崎で蘭文を読む気はないか」と兄に聞かれ、勉強のできた諭吉は「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょう」と自信たっぷりに答えて、兄と共に長崎へ来たのは良かったのですが、abcの26文字を覚えるのに3日もかかったことや、光栄寺の近所に住む砲術家の地役人のところに居候になった際、鉄砲を討つのも見たことがないのに、訪ねてくる諸藩の人に、たいそうな砲術家のごとくあれこれ応対していた話など、自分や他人、物事に対して、どこかユーモアのある暖かな視点で語っています。興味のある方は、ぜひ、御一読ください。長崎で過ごした若き日々が、その後の諭吉の人生に多大な影響を及ぼしたことがうかがえます。また、諭吉が長崎で過ごした足跡として、光栄寺からほど近い所に彼が使ったという井戸もあります。
話は変わりますが、この寺の境内には沙羅(さら)の木があり、毎年5月中旬過ぎ頃、わずか2~3日だけ真っ白な花を咲かせます。平家物語冒頭の『祇園精舎の鐘の声。~~沙羅双木の花の色~』で知られる花です。機会があれば、ご覧になられませんか。
◎ 参考にした本/日本を創った人々~福沢諭吉~(平凡社)、長崎遊学の標(長崎文献社)、福翁自伝(岩波文庫)