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  • 第197号【親子で出かけよう!夏のハウステンボス】

     子供たちの夏休みも1週間が過ぎました。元気いっぱいの彼らを早くももてあましている親御さんのために、「夏のハウステンボス」をご紹介します。コマーシャルでご存知の方もいらっしゃるように、ハウステンボスは今、本場ヨーロッパの洗練された空間やサービスをどんどん取り入れ、より魅力的な「ヨーロピアン・リゾート」をめざして「変身中」です。この夏は、そんなテーマをかかげる新生ハウステンボスのスタートとあって、期待を裏切らない素敵な催しが目白押し。今回は特に親子が楽しめるものをピックアップしました。この暑ささえも素敵な思い出に変わる楽しい時間が待っていますよ。 まず、親子でぜひ訪れていただきたいのが、ハウステンボス美術館で開催中の「ディック・ブルーナー展」です。「ミッフィー」に代表されるシンプルな線と明るい色彩で描かれたキャラクターは、きっとどこかで見たことがあると思います。公開されているのは、このキャラクターを生み出したオランダを代表するアーチスト、ディック・ブルーナー氏の絵本や原画、青年時代のグラフィックのデザイン画、絵画など約1300点です。かわいくて微笑ましいその絵の中に、作家の厳しいこだわりと、信念が込められていました。とにかく見応えたっぷりで、ミッフィーが世界中で愛されている理由がわかるようです。 夏の海を楽しみたいという方々には、帆船「観光丸」での洋上クルーズがおすすめです。大村湾の美しい景色を楽しめるだけでなく、デッキでのロープワークも体験できるとあって、親子連れに人気です。大村湾クルーズは、ヨットやボートなどでも行われています。好みのスタイルで海へ乗り出してみませんか。 この夏のハウステンボスでは、太陽の下で元気に遊ぶ子供たちを大勢見かけることができます。運河では、「バンパーボート」というタイヤのような丸い形をしたボートに乗ってはしゃいだり、広場では地面から噴き出す噴水や霧を浴びて笑顔いっぱい。人口の雪を積もらせた「サマースノーランド」では、炎天下で雪だるまづくりに夢中になる子など、エキサイティングで、涼しい遊びが街のあちらこちらに用意されています。 街の一角には、人気のテレビアニメ「マシュマロ通信(タイムス)」の世界を再現した「マシュマロタウン」もオープンしました。手作りドーナツがおいしい「ドーナツショップ」や「シナモンの占いの館」、グッズ販売、ゲームなど、お楽しみが満載の賑やかなタウンです。 夏休み期間中(~8月31日)毎日、日替わりで、ビーズストラップや万華鏡、麻ひも手提げ、手作りカレンダー、アロマ石鹸などの手作り体験ができる「SUMMERワークショッププログラム」(1プログラム1000円)も、親子に好評です。約1時間ほどで、手作りの作品を仕上げることができます。これを利用して、夏休みの図工の宿題を仕上げるのもいいかもしれません。その日によって、作品のアイテムが変わるのでチェックして参加してくださいね。

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  • 第196号【夏野菜ことはじめ~トマト、トウモロコシ~】

     暑中お見舞い申し上げます。全国的に梅雨明けが早かった今年。長崎も平年より約1週間ほど早い今月11日に明けました。いきなりやってきた蒸し暑い夏に、早くも夏バテぎみの人が続出。こんな時こそ、旬の食材から元気をいただいて暑さに負けない毎日を過ごしたいものです。 今回は、長崎がはじまりといわれる夏野菜を二つご紹介します。ひとつ目は、食卓を真っ赤な元気カラーで彩るトマトです。子供の頃、畑でもぎって食べたトマトは夏の太陽の匂いがしておいしかったですね。今ではスーパーなどで年中手に入り、私たちの毎日の食卓に欠かせない野菜になっています。 最近ではトマトの赤い色をつくるリコピンという色素が、ガンを防ぐ効果があるということで話題になりました。また美肌づくりに欠かせないビタミンCや体内の余分な塩分の排出を助けて高血圧を予防するカリウムも豊富など、栄養面ではたいへん優れた野菜です。 そんなトマトの原産地は南アメリカです。大航海時代にヨーロッパへ渡来したあと、17世紀にオランダ船が出島に運んできたのが日本での最初だといわれています。その頃は観賞用として栽培され、見た目のとおり、「あかなす」とか、「唐柿」などと呼ばれていたそうです。明治に入ってから食用の野菜として輸入されたそうですが、独特の臭いが日本人には好まれず、なかなか普及しませんでした。消費が増えたのは昭和30年代に入ってからで、この頃には改良され、気になるトマト臭がずいぶん緩和された品種になっていたようです。 もうひとつの長崎ゆかりの夏野菜は、トウモロコシです。お米や小麦とともに世界の三大穀物のひとつです。トウモロコシの原産はアメリカ大陸で、アメリカ先住民の主要穀物として栽培されていたそうです。日本へはトマトよりも少し早く16世紀の南蛮貿易時代に、ポルトガル船によって長崎に伝えられといわれています。当時、長崎では「ナンバンキビ(南蛮黍)」と呼ばれていました。 また、トウモロコシは今でも「トウキビ(唐黍)」とも呼ばれますが、その名からも想像できるように、中国から伝わったという説もあるようです。ただ、オランダ船が運んできたトマトを「唐柿」と呼んだように、とにかく当時の長崎では、海を渡ってきた珍しいものに対して、運んできた船の国籍にかかわらず「南蛮○○」「オランダ○○」「唐○○」というふうに称することがよくあったようです。余談になりますが、野菜の名に限らず、このような当時の人々のシンプル&アバウトな名前の付け方は、何かと深読みしがちな現代の歴史愛好家たちにいろいろと混乱を与えているような気がします。 トウモロコシはビタミンB1、B2、Eとリノール酸を含み、動脈硬化の予防にいいそうです。また、ヒゲや、芯の部分も利尿作用や血中の脂肪を減らす栄養分が含まれているとか。焼きトウモロコシの香ばしい匂いは食欲をそそり、茹でたトウモロコシも甘くてジュシーな種実がたまらなくおいしいですよね。 この夏も、トウモロコシやトマトなど旬の野菜を豊かな食生活と健康づくりにお役立てください。 ◎参考にした本や資料/「からだによく効く食べもの事典」(池田書店)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第195号【長崎ラムネ物語展(長崎市歴史民俗資料館)】

     りんご飴、わた菓子、お面に風船…夏祭りの出店に並べられたおもちゃやお菓子の中で必ず見かける飲み物といえば、「ラムネ」ですよね。ビー玉入りの個性的なスタイルと、甘くてちょっぴり苦味のある炭酸の味わいは、子供の頃の夏の思い出とも重なって懐かしい気分になります。そんなラムネと長崎との深い関わりについて紹介した「長崎ラムネ物語展」が、長崎市歴史民俗資料館(長崎市上銭座町)で今、開催されています(~7月31日迄)。 「日本清涼飲料史」によると、ラムネと日本の出会いは、嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航した際、船に積んでいたラムネを幕府の役人に飲ませたのが最初だとされ、それが定説になっているようです。このペリーより前か後かは定かではありませんが、実は長崎・出島にも江戸時代の後期にはラムネが輸入されています。長崎市内の発掘調査で出てきたラムネ瓶により、出島だけでなく、新地荷蔵や町家などでも飲まれていたことが確認されているそうです。 発掘されたラムネの瓶は、「キュウリ瓶」と呼ばれるタイプで、文字どおりキュウリのようなユニークな形をしています。この頃の口栓はコルクだったので、それを湿らせておくために横に置かれ、飲む時に専用の台に置かれていました。ラムネは当初、「オランダ水」と呼ばれていましたが、のちにコルクの栓を抜くとき「ポン」と勢いのいい音をたてていたことから「ポン水」と呼ばれるようになります。そして現在のラムネという名称がおおやけに長崎で使われるようになったのは、明治33年(1900)頃からで、「レモネード(Lemonade)」の名称で輸入されていたものが、訛ってラムネとなったといわれています。 さて、「長崎ラムネ物語展」では、日本でもっとも早い時期にラムネ製造を行ったとされる長崎の2つの製造元が紹介されています。製造者の名は藤瀬半兵衛氏、そして古田勝次氏という人物です。藤瀬氏は慶応元年(1865)、長崎で製造をはじめたのちに東京に移転。一方、古田氏は藤瀬氏より少し後に開業し昭和46年まで製造を続けていました。古田氏はラムネのトレードマークとして握手をしている図柄、その名も「お手引きラムネ」というマークを使っています。世界の人は仲良く手を握らなければという考えから生まれた図案だそうです。世界に目を向けた明治時代の商人の心意気が伝わるようです。「お手引きラムネ」のマークのついたラムネは現在も販売されていて、長崎市内の食事処や商店など置いているところもあるようです。(諏訪神社の月見茶屋にもあります)。 又、外国人では、長崎にウォーカー商会を設立した海運・貿易商のウォーカー兄弟が、「バンザイ・エアレイテツド・ウオーター・ファクトリー」という会社を立ち上げ、1904年にラムネ製造を開始しています。長崎市小曽根町には、その時の製造所だったレンガ造りの建物が現在も残されています。 「長崎ラムネ物語展」ではそんな先駆者たちが製造した時代の珍しいラムネ瓶が数タイプ展示されています。ぜひ、間近で御覧下さい。余談ですが、長崎市歴史民俗資料館は、小規模ながらもユニークな企画展を催すことで知られるミュージアムです。知的好奇心旺盛な方は今後の企画展も要チェックです。 ◎参考にした本や資料/「日本清涼飲料史」(東京清涼飲料協会編)、「歴史民俗資料館だよNo.47」(長崎市歴史民俗資料館)

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  • 第194号【貿易港フィランド(FIRAND)を散策】

     九州本土の西北端、平戸瀬戸を隔てて浮かぶ平戸島は、南北に細長くタツノオトシゴに似た形をしています。北は玄界灘、西は東シナ海を望む風光明美な島で、長崎市から車で約3時間ほどです。 九州本土と平戸瀬戸をまたぐ巨大な平戸大橋(長さ665m、高さ30m)を渡るとまもなく平戸の中心市街地に到着です。かつてこの地は、日本初の海外貿易港として栄えました。日本が鎖国する前のことです。今回はその面影を辿りつつ平戸の魅力に迫ります。 平戸港を囲むようにしてある平戸の市街地は旧平戸藩の城下町で、2~3時間もあればひとめぐりできる小さな街です。しかし、街に点在する史跡をひとつひとつ堪能し、食や文化に触れ、風情あるたたずまいに目を止めながら歩けば時間はいくらあっても足りないというくらい奥深い街なのです。 日本の西の端に位置する平戸は、その地の利を生かして古くから中国や朝鮮との交流がありました。奈良・平安時代には遣唐使船の寄港地として船や人々が往来し、鎌倉・室町時代には、この地を治めていた松浦氏はアジアとの貿易で富みを得ていたといいます。 このように早くから海外交流に目覚めていた平戸が、さらなる国際化で繁栄をみせるのは1550年にポルトガル船が入港してからのことです。この時から、のちに徳川幕府が鎖国政策で海外貿易の拠点を長崎・出島だけとするまでの約90年間、平戸の港ではポルトガル、イギリス、オランダの国々の船と交易が行われました。平戸は、「FIRAND」(フィランド)と呼ばれ南蛮貿易の隆盛を極めたそうです。 平戸港の入り口右側には「常燈の鼻」と呼ばれる石垣の防波堤があります。ここにはかつてオランダの国旗がはためき、そばには1609年、日本で初めて開設された平戸オランダ商館がありました。しかし、1941年、幕府の命令で長崎出島に移設される際、その建物は徹底的に取り壊されたそうです。現在は、当時、貿易品が積みおろされていた階段状の埠頭や1610年~1620年代に築かれたという高さ2メートルほどの「オランダ塀」、オランダ商館員らが使用した井戸などが残されています。 街の中心部には、城と城下街を結ぶ石橋がありました。「幸橋(さいわいばし)」という名ですが、別名「オランダ橋」(国指定重要文化財)とも呼ばれています。1702年に、オランダ商館の築造に携わった大工さんたちによって造られたものです。ここから山手の方へ10分ほど歩くと、かつて東西の文化が共存した平戸の街を象徴する「寺院と教会の見える風景」が見られます。 平戸の市街地はエキゾチックな石畳の道が続き、ゆったりとした城下町ならではの風情も漂っています。そんな街中で、樹齢400年という大きなソテツに出会いました。太い茎が枝分かれしてニョキニョキとのび、くだを巻いている状態です。こんなソテツは見たことがありません!江戸初期の貿易商の家の庭に植えられていたものそうです。このソテツに南蛮貿易で栄えた頃の平戸について、いろいろ聞いてみたくなりました。

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  • 第193号【長崎の金星観測碑】

     しばしば足を止め見上げる空は、心をときめかせたり、おおらかな気分にしてくれます。今月8日、金星が太陽の前を横切るという現象がありましたが、ご覧になられましたか?日本では130年ぶりという現象に、多くの人が空を見上げたことでしょう。 この日、金星が太陽に入ったのは、午後2時11分。全国的に悪天候で長崎も曇り空でしたが、夕方近くになって晴れ間がさし、感動の天体ショーが観測されました。長崎市科学館では、午後4時20分から見られるようになった金星の丸い影が太陽の前をゆっくりと過ぎる様子をインターネットでも中継したそうです。 ところで130年前の金星の太陽面通過は、1874年(明治7)12月9日でしたが、外国の観測隊が長崎で観測を行ったことをご存知ですか?当時、欧米の国々は金星の太陽面通過の現象を通じて、地球と太陽の正確な距離を求めようと、観測がしやすいとされた東アジアなどに観測隊を派遣させたそうです。その中で、日本の横浜と長崎も観測の適地として選ばれ、長崎にはフランスとアメリカの観測隊がやってきたのでした。 天文学者ジャンサン氏率いるフランスの観測隊は、長崎港から北側に位置する金比羅山を観測地に選びました。金比羅山の一角には、この時の観測を記念して建てられたピラミッド型の碑があります。碑には、金星を意味する「VENUS」の文字が大きく刻まれていました。ほかにも関係者の名前らしき文字や何かのデザインが刻まれているようですが、風化してよくわかりません。長い時の流れが感じられます。 この碑から東に24メートルほど離れた場所には、レンガ積みの金星観測台がひっそりと残っていました。実際に観測の機材を載せて使われた貴重な史跡ですが、発見されたのは何と平成5年(1993)のことで、つい最近です。生い茂った樹木に隠れ、その存在は長い間忘れ去られていたようです。 一方、ダビッドソン氏率いるアメリカの観測隊は、長崎市街地の南側に位置する「星取山」で観測を行いました。観測地だったところには現在、「星取山無線中継所」があります。この時の観測がきっかけで、もとは「大平山」という名の山だったのが、「星を撮る」から、「星取山」と呼ばれるようになったそうです。 アメリカのダビッドソン氏一行は、星取山での金星観測にあたり、正しい経緯度を知る必要性から、長崎と東京間の経度差の測定を行い、日本最初の経緯度原点(東京都板倉:チットマン点)値を決定しています。金比羅山で発見された観測台は、経緯度原点地を決める基準になったダビッドソン点の位地を推定する手がかりとなるもので、測地学上重要な意義を持つのだそうです。 観測台のそばには長崎県測量設計業協会が、「我が国初の経緯度原点確定の地」の記念碑を平成9年(1997)に建立しています。 現在、金比羅山の観測地跡地に設けられている展望所からは、長崎市街地と港が一望できます。フランスの観測隊は、天体だけでなく、居留地時代で賑わう長崎港もしっかり眺めたに違いありません。

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  • 第192号【初夏のハウステンボス】

     全国的(北海道を除く)に梅雨入りして早1週間が過ぎました。ジメジメのお天気に外出もおっくうになりがちですが、ここはいさぎよく雨と仲良しになって、雨に濡れる庭の花々を楽しんだり、家の中でじっと雨音に耳を傾けたりするのもいいですね。小さな気分転換になります。 それでも、お出かけして思いきり気分をリフレッシュしたい!という方には、ハウステンボスがおすすめです。今、「ヨーロピアンフラワーフェスティバル」を開催中(7月16日迄)で、アジサイなど季節の花々が満開。賑やかなイベントもあって、しめった気分を爽やかにしてくれます。 広大なハウステンボスの花畑には今、白、ピンク、赤色のベゴニアが美しいグラデーションを描くように植えられています。街の通りや運河沿いには、涼しげな青紫色のアジサイがひときわ鮮やかに咲き誇り、各所で雨の風景にもよく似合う素敵な花々やハーブとの出会いがあります。 中でも、街の中心部にあるホテル・アムステルダムの中庭はぜひ訪れて欲しいところのひとつです。色とりどりの花々でつくられた「ヨーロピアンパティオガーデン」が設けられていて、その庭を愛でながら優雅なティータイムを過ごせます。また、世界各地に分布する「ベゴニア」の多彩な品種を集めたコレクションも楽しめます。 ホテル・アムステルダムの近くにあるマリンクラブハウスの一室では、韓国人写真家チョ・セーヒョン氏の写真展「the man」を開催中です。チョ・セーヒョン氏は、俳優、ミュージシャンやスポーツ選手など韓国の多くの有名人を撮影している写真家で、展示されている作品50点の中には、「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンさんやサッカー選手のアン・ジョンファンさんなどの写真もありました。 韓国の男性たちの魅力が伝わる写真展で気分はすっかり・KOREA・!となったところで、つづくランチタイムも韓国料理店「ソウル」へ足を運びました。ハウステンボスのシンボルタワー「ドム・トールン」のある建物の中で、中国料理やイタリア料理など各国の本格的な味を楽しめるレストラン街の一角にあります。 注文したメニューは、この季節どうしても食べたくなる「韓国冷麺」。ソバ粉とジャガイモのデンプン粉でつくられたハンフン麺という韓国独特のコシのある麺を、唐辛子味噌を入れたあっさりスープでいただきます。梅雨時の蒸し暑さを忘れさせる唐辛子の刺激。さすが、本場の味といったおいしさです。 その他の場内イベントとして、日中は歌やダンスのエンターテイメントショー、夜には海辺の広場でクラシック&ジャズライブや、ミュージカルなどが連日行われていて、ドラマチックなひとときを楽しむことができます。 ところで、現在、「HUIS TEN BOSCH変身中」というTVCMでもご存知のように、ますます魅力的なリゾート地を目指して、今、場内の各所でリニューアル工事が行われています。新生ハウステンボスは、7月17日からだそうで、新スポットや新施設などがお目見えする予定です。乞う、ご期待!

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  • 第191号【長崎てんぷら】

     サク、サクッとした衣に包まれた天ぷら。大好きという人も多いことでしょう。天ぷらはお寿司と並ぶ代表的な日本食のひとつですが、長崎学の書籍などを読むと、織田信長の時代に南蛮人によって長崎に伝えられた料理として紹介されています。最初から日本食だったわけではなかったようですね。 みろくやのホームページに掲載している越中哲也先生の「長崎開港物語~第一回西洋料理編(一)」にも、南蛮料理のひとつとして伝えられたことが記されています。天ぷらという言葉もポルトガル語のTemporaからきたらしいということです。 歴史的に天ぷらにゆかりの深い長崎には、「長崎天ぷら」という郷土料理があります。天ぷらといえば通常、野菜や魚などを、天ぷら粉か小麦粉を水で溶いた衣に包んで油で揚げ、天つゆなどでいただきます。一方、長崎天ぷらは、砂糖や卵であらかじめ味付けした衣で揚げ、天つゆなどは添えないのが特長です。衣の味と食感は、前者があっさり、サクサクとしているのに対し、後者は甘くてサックリ&ポッテリといった感じです。 香ばしく揚がった長崎天ぷらは、揚げ菓子のようでもあり、子供の頃、母親が夕食のおかずにと揚げていくそばから、ひとつ、ふたつ摘んで食べては怒られた記憶があります。我が家では天ぷらといえば、長崎天ぷらがスタンダードで、天つゆでいただく天ぷらは、外食先のものという認識でしたが、周囲10名ほどの友人らの家庭の天ぷらについて聞いてみると、衣に味付けをしない天つゆ派が半分以上という意外な結果が出て驚きました。てっきり、みんな長崎天ぷら派だろうと思っていたからです。 このミニミニ調査の結果では、長崎てんぷら自体を知らない長崎人もいました。また、ふだんは天つゆ派だけど、たまに長崎天ぷらを作るというところもありました。また、長崎天ぷら派の家は、60代以上の家族がいるところばかりでしたので、もしかしたら、あっさり系を好む現代っ子の長崎天ぷら離れという現象が、いつの間にか進行していたのではないだろうかと勝手な想像をします。では、長崎天ぷらの作り方をご紹介しましょう。(1)衣に包む材料を用意します。野菜ならサツマイモ、インゲンマメ、レンコンなど。魚なら甘ダイやブリの切り身やキビナゴなど、お好きなものを選んでください。野菜は適当な大きさに切り、魚類は洗って水気を切り、薄塩をしておきます。(2)衣を作ります。小麦粉1カップと片栗粉小さじ1を合わせて振るい、水50cc、酒大さじ1杯、砂糖大さじ1/2杯、塩少々、卵1個(卵黄のみ1~2個でも可)を加えてよく混ぜ合わせます。調味料の分量などは好みに応じて適宜加減してください。(3)材料の野菜や魚類は水気をとり、衣をつけ油で揚げます。砂糖が入っているので焦げやすくなっていますから火加減に注意して揚げて下さい。さて、長崎天ぷらは、冷めてもおいしいのが特長です。でも、やはり揚げたてがいちばんです。温かいうちに召し上がってください。

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  • 第190号【長崎・龍馬の足跡を訪ねて】

     幕末の志士、坂本龍馬(1835―1867)は、長崎へは1864年から、京都の近江屋で暗殺される1867年までの数年間にたびたび立ち寄っています。まさに維新前夜といえるこの時期、龍馬は長崎のどんなところに出没していたのでしょう。その足跡を訪ねてみました。  スタートは、「浜んまち」の名称で親しまれている浜町アーケードの入り口付近にある「土佐商会跡」(長崎市浜町)です。土佐藩の海軍貿易を取り扱った土佐商会は1866年(慶応2)に設立。その翌年、龍馬引きいる海援隊がここで結成されました。海援隊は、すでに龍馬が長崎で組織していた日本初の商社・亀山社中(長崎市伊良林)を再編成したものでした。 土佐商会跡からほど近いところに、新地中華街へと抜ける「西浜通り」があります。その通りにある三菱信託銀行の辺りは、かつて薩摩藩蔵屋敷(長崎市銅座町)がありました。薩摩藩蔵屋敷は、幕末の頃には志士らが集い活躍する場になっていたとか。1866年に結ばれた薩長連合(1866年成立)の成立のために尽力していた龍馬もまた、ここを訪れたに違いありません。いったん土佐商会跡にもどり、鉄橋(くろがねばし)を渡って、長崎地方裁判所や長崎法務局などがたち並ぶ万才町へ。この町の一角にある長崎法務合同庁舎は、幕末の頃、長崎を代表する豪商・小曾根(こぞね)家の邸宅があったところです。小曾根家は、坂本龍馬や勝海舟と親交があり、亀山社中もその財力で援助したそうです。 小曾根邸跡から、地元テレビ局がある金屋町まで徒歩5分。テレビ局の入り口近くに土佐藩士、後藤象二郎の邸宅跡の碑があります。象二郎は、武器や軍艦の買い付けのため長崎に来ていましたが、同藩を脱藩していた龍馬と意見が一致し、土佐藩を倒幕派へと導いた人物です。土佐商会の経営にも携わり、龍馬と象二郎の会談により海援隊も組織されています。 長崎市から海を渡り、五島列島・有川町江ノ浜地区へ。その海岸沿いに「龍馬ゆかりの地」の石碑がありました。この石碑から見渡す海の沖合いで、1866年春、亀山社中の練習船ワイル・ウェフ号が暴風雨に合い遭難するという事故がありました。碑の解説板によると、この遭難事故で、亀山社中の若き志士らを含む10数名の乗組員が亡くなりました。有川の代官をはじめ地元の鯨組の人々もかり出されて、遭難者や船の荷物の引き上げにあたったそうです。龍馬はこの時、伏見の寺田屋で襲われ負傷していた傷の療養のため鹿児島にいて、現地には事故から約1ヶ月半後に訪れ仲間の冥福を祈ったと伝えられています。江ノ浜地区には乗組員の墓と、龍馬の依頼で建碑されたワイル・ウエフ号遭難者の慰霊碑も残されています。◎参考にした本:長崎の史跡~北部編、南部編~(長崎市立博物館)

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  • 第189号【唐風の中に和風の趣き・聖福寺】

     長崎の唐寺・聖福寺(しょうふくじ:玉園町)は、崇福寺(そうふくじ:鍛冶屋町)、興福寺(こうふくじ:寺町)、福済寺(ふくさいじ:築後町)とともに、「長崎の唐四ケ寺」、「長崎四福寺」のひとつに数えられています。昨年、さだまさしさん原作の「解夏」という映画のロケ地にもなり話題になりました。 聖福寺は、長崎駅前にある筑後町から隣接する玉園町にかけて続く「筑後通り」の一角にあります。この通りは、他にも冒頭の福済寺をはじめ由緒ある寺院が建ち並ぶ静かなところで、同じくお寺が並ぶ思案橋近くの「寺町通り」界隈とは、また違った落ち着いた風情が漂っています。 聖福寺(1678年創立)の開基は鉄心という長崎人です。中国人を父に持つ鉄心は、中国の名僧・木庵に師事し、黄檗宗の総本山である京都宇治の「黄檗山万福寺」で修行。のちにこの寺の要職にも付くような名僧となりました。そんな鉄心のために、長崎奉行や在留唐人らが建立したのが聖福寺だったのです。 ところで、黄檗宗とは、1654年に隠元禅師が中国から長崎に渡来した際に伝えた禅宗の一派です。(ちなみにこの時のお土産がインゲン豆で、「隠元」の名前が付けられました。)日本で活躍した隠元禅師は、ときの将軍さまにこの国にとどまるようにいわれて、永住を決意。そうして1661年に開創されたのが、のちに鉄心が修行した宇治の万福寺でした。 聖福寺は、大陸の大らかな風格が漂う建物ですが、どこか和風の趣もあります。それは、鉄心が当時すでに長崎にあった他の3つの唐寺の建築様式よりも、宇治の万福寺の様式を好んだからと推測されているそうです。 とはいえ、やはり唐寺。釈迦を祀る大雄宝殿の正面の扉に施された桃の浮き彫りや朱塗りの手すりは、いかにも大陸の息吹が感じられます。また、ほんのり朱色がかっ屋根瓦は、肥前武雄産の「釉薬(うわぐすり)かけ瓦」で、長崎では他に見られないものだそうです。 聖福寺の敷地内には他にも見どころがいろいろあります。ひとつは「惜字亭(しゃくじてい)」と呼ばれる赤レンガ造りの六角形をした炉です(1866年造)。お寺の不要となった文書類を焼却するための炉なのですが、ハッとさせられるのは、その「惜字亭」という名称です。ものごとを大切にする当時の心が伝わってくるようです。 また、明治初期に廃寺となった寺の瓦などを集めて造られた「瓦壁」や、毎年茶道の各流派が集って茶筅の供養が行われているという「茶筅塚」(昭和40年建立)などもあります。観光がてら、散歩がてらに、お出かけになりませんか。◎参考にした本:長崎歴史散歩(原田博二著・河出書房新社)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第188号【事始め~落花生とビール~】

     だんだんと夏に向かうこの季節、仕事が終わってからのビールがますますおいしくなりますね。ビールは冷蔵庫に必ず入っているというご家庭も多く、季節を問わず毎晩欠かさないという方もいらっしゃるように、私たちにとってたいへん身近なアルコール飲料です。そういえば、ひと頃は地ビールブームで、全国各地でオリジナルビールが作られていましたが、日本人がビール好きであることをあらためて思い知らされました。 そんなビールの日本でのルーツを探ってみると、鎖国時代の長崎にさかのぼることがわかりました。オランダ船が出島に運んできたのがはじまりだそうです。「ビール」という言葉もオランダからの外来語で、当時は「ビイル」と呼ばれたり、また、その原料から「麦酒」と訳されて「むぎざけ」とも呼ばれていたとか。現在でも、ビールは漢字でこう書きますよね。 江戸中期の蘭医で、「解体新書」を翻訳したことで知られる杉田玄白は、長崎でビールを飲んだ時の感想を、「にがくて味わうに耐えない」と書き記しているそうです。 そういえば、長崎奉行所の役人が、出島でオランダ船が運んできたコーヒーをはじめて飲んだときもに、「にがくて味わうに耐えない」と同じようなことを言ったと伝えられています。ビールにしてもコーヒーにしても現代の日本人にとっては欠かせない飲み物ですが、当時の日本人の口に合うものではなかったようです。 さて、キンキンに冷えたビールに欠かせないのがおつまみです。これまた、長崎ゆかりということで、落花生などはいかがでしょう。落花生の原産は南米ですが、江戸時代に中国経由で唐船が日本に伝えたという説と、ヨーロッパルートでオランダ船が運んだのではないかという2つの説があるそうです。いずれにしても最初は長崎に渡り、各地に広がっていったと推測されています。 ところで、落花生ゆかりの地である長崎県にふさわしいものが、長崎県大村市にありました。「塩ゆで落花生」という特産品です。地元で栽培された落花生を、殻付きのまま大釜で塩茹でしたもので、殻の中にはほどよい塩加減に茹で上がった柔らかい実が並んでいます。とにかくビールによく合うおすすめのおつまみです。 この夏、ビール&落花生でリラックスタイムを過ごす時、このおいしさが遥か昔に海を渡ってきたことや、日本でのルーツが長崎にあることを思い出してみませんか。いつもの味が、ロマンの味に変わるかもしれません。◎参考にした本:ながさきことはじめ(長崎文献社)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第187号【福沢諭吉と光栄寺】

     新緑が眩しいこの季節。眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川沿いでは、柳やクスの木が青葉を茂らせ、さわやかな初夏の風に揺れています。今回訪ねた光栄寺(長崎市桶屋町)は眼鏡橋よりも上流にかかる一覧橋と古町橋の間にあります。光栄寺は、幕末、明治期の思想家、福沢諭吉(1835~1901)が、長崎に遊学した際に寄宿した所として知られるお寺です。 豊前中津藩(現在の福岡県東部と大分県北部の一部にあたる地)の大坂蔵屋敷で生まれた諭吉は、藩士だった父を早くに亡くし、中津で下駄づくりや刀剣細工などの内職にはげむ貧しい子供時代を過ごしました。学問(漢学)に抜きんでた才能を発揮し、20才の頃、大坂で蘭方医・緒方洪庵が主催する塾に入門して蘭学を学んだ後、江戸に出て現在の慶応義塾の起源となる蘭学塾を開きます。その頃、英語を独学。のちに幕府の外国方に雇われて翻訳の仕事に勤め、幕府使節に随行し欧米に三回渡りました。 大政奉還後は、新政府から招かれるも官仕には就かず、慶応義塾の経営に専念しながら、活発な文筆活動を開始。「天は人の上に人を造らず~」のフレーズで知られる『学問のすゝめ』(明治5年刊行)は、当時のベストセラーとなり、彼の名声を決定的なものにします。その後、諭吉は人権平等の理念と自由独立の精神を貫く生涯を送ったのでした。 諭吉が長崎に遊学したのは、19才の時の約1年間。洪庵の塾に入る直前のことです。 長崎での様子は諭吉が後に自分の生涯を口述した『福翁自伝』の中の「長崎遊学」の項に詳しく記されています。「長崎で蘭文を読む気はないか」と兄に聞かれ、勉強のできた諭吉は「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょう」と自信たっぷりに答えて、兄と共に長崎へ来たのは良かったのですが、abcの26文字を覚えるのに3日もかかったことや、光栄寺の近所に住む砲術家の地役人のところに居候になった際、鉄砲を討つのも見たことがないのに、訪ねてくる諸藩の人に、たいそうな砲術家のごとくあれこれ応対していた話など、自分や他人、物事に対して、どこかユーモアのある暖かな視点で語っています。興味のある方は、ぜひ、御一読ください。長崎で過ごした若き日々が、その後の諭吉の人生に多大な影響を及ぼしたことがうかがえます。また、諭吉が長崎で過ごした足跡として、光栄寺からほど近い所に彼が使ったという井戸もあります。 話は変わりますが、この寺の境内には沙羅(さら)の木があり、毎年5月中旬過ぎ頃、わずか2~3日だけ真っ白な花を咲かせます。平家物語冒頭の『祇園精舎の鐘の声。~~沙羅双木の花の色~』で知られる花です。機会があれば、ご覧になられませんか。◎ 参考にした本/日本を創った人々~福沢諭吉~(平凡社)、長崎遊学の標(長崎文献社)、福翁自伝(岩波文庫)

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  • 第186号【長崎の端午の節句~唐あくちまき~】

     きょうは端午の節句。かしわ餅やちまきを召し上がった方も多いことでしょう。この節句の由来となる中国では古来、この時季、虫が出てきたり悪疫が流行りやすかったため、その厄除けのために門に薬草のショウブをさしたり、薬用酒やちまきを食べて健康を祈ったのだそうです。 長崎では端午の節句が近づくとちょっと変わった形のちまきが、和菓子屋さんや饅頭屋さんの店頭に並びます。普通、ちまきといえばもち米や団子を竹の子の皮で三角形に包んだものを想像しますが、このちまきは、もち米がサラシでくるまれ棒状をしています。「唐あくちまき」とか「長崎ちまき」と呼ばれるものです。 中国と古くから縁の深い長崎は戦国時代末期から、江戸前期に入り唐人屋敷ができるまでの約100年間、唐船の来航がたいへん盛んで、唐人たちが長崎市中に自由に居住していました。そんな中で長崎の人々の暮しは中国の風俗や習慣にいろいろと影響を受けます。さらに唐人屋敷が完成して、唐人たちが皆そこに居住するようになってからも、食、祭、生活習慣など彼らの影響を受け続け、現在の異国情緒豊かな長崎の町の雰囲気が紡がれていったのです。 そんな歴史的つながりを背景に、いつしか長崎で作られ食べ継がれてきたのが、この「唐あくちまき」です。作り方は、「唐あく」を溶かした汁に一晩つけ込んだもち米を、細長いサラシの袋につめて長時間煮ます。煮上がったサラシ袋を切り開くと、ツヤツヤとアメ色に輝くちまきが顔を出します。切るときは、包丁でなく糸を巻くようにして切ると簡単です。もっちりとした食感と、唐あく独特の風味が特徴で、砂糖やきなこ、黒みつなどをつけていただきます。 もち米を柔らかくアメ色にする「唐あく」は、もともと中国で産出する天然のアルカリ性の湖水のことです。現在、長崎では炭酸ソーダをもとにしてつくった固まりが輸入されていて、新地中華街などへ行くと、ちまき用の「唐あく」として売られています。「唐あく」は、ちゃんぽん麺の製造にも用いられていて、特有の匂いとねばりを出す役割を果たしています。でも、ちまき用の唐あくとは、ちょっと違うらしく、ちゃんぽん麺には使用できないそうです。 長崎人に食べ継がれている「唐あくちまき」は、子供の頃はあまり好まなかったのに、大人になって好きになったという人が多いようです。また、「ウイロウみたい」という人もいます。はてさて、どんなお味なのか。ぜひ、長崎で食べてみて下さい。◎参考にした本大日本百科事典(小学館)、中国文化と長崎県(長崎県教育委員会)、長崎県大百科事典(長崎新聞社)、長崎料理歳時記(長崎新聞)

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  • 第185号【島原半島の春野菜~ミニアスパラガス~】

     今、ミニ野菜が静かなブームです。野菜売り場では、芽キャベツや小玉ねぎ、ミニアスパラガス、ミニキャロット、小ナスなど、いろいろなミニ野菜を見かけるようになりました。人気の秘密は、見かけのかわいさだけではありません。普通サイズの野菜に比べて、味も香りも栄養価も劣らないことや包丁いらずで手軽に調理できることなどが魅力のようです。 長崎で生産されるミニ野菜の中で、今、注目を浴びているのがミニアスパラガスです。 長崎県内でも屈指の野菜の産地として知られる島原半島の最南端に位置する地域(北有馬町、南有馬町、口ノ津町、加津佐町、小浜町)で栽培されています。もともとこの地域はアスパラガスの産地として知られたところで、毎年春には旬のアスパラガスをいち早く市場へ送り出しています。 「JA島原雲仙」の方に話を伺いました。「ミニアスパラガスは2年ほど前から本格的に取り組みはじめました。その頃、すでにタイ産のものが出回っていましたが、日本ではどこも作っていなかったのです」。アスパラガス(ミニアスパラガスを含む)を作っている農家の方々は、全員が「エコファーマー認定者」です。これは長崎県が減農薬で人と環境にやさしい栽培に努めている農家を認定したもので、「安心」、「安全」な野菜づくりの証しでもあります。 約10センチくらいに長さに揃えられた島原半島のミニアスパラガス。太さはタバコよりも少し細めです。「ミニアスパラガスは独特の甘味があって、口当たりがやわらかいのが特長ですね」。通常、アスパラガスは茹でていただくことが多いのですが、「焼いて、塩を軽くふって食べるのがいちばんおいしい」とJAの方はいいます。さっそく試してみると、確かにアスパラガスの風味やみずみずしさがいちだんと増して美味!また、「料理のトッピングに使っているという方も多いようですね」。かわいい姿は、おいしさだけでなく料理の見映えにも貢献していました。 実はミニアスパラガスは、ミニサイズ専用の品種ではなく、普通サイズのアスパラガスを栽培する中で、不規則にできる小さいサイズを収穫したものだそうで、いわば普通サイズの副産物なのでした。農家の方の中には、普通サイズに目が慣れているため収穫の際にミニサイズの大きさと長さを確認できる、お手製の目安棒を使って収穫している人もいらっしゃいます。 疲労回復や滋養強壮に効果的なアスパラギン酸や細胞の老化を防ぎ、毛細血管を丈夫にするルチンが含まれているアスパラガス。あなたの健康生活にさっそく役立ててみませんか?◎取材協力JA島原雲仙 南部基幹営農センター

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  • 第184号【長崎水辺の森公園へ出かけませんか】

    ゴールデンウィークにマイカーで長崎へお越しの方々にうれしい情報です。先月末、九州横断自動車道長崎自動車道が、長崎多良見インターチェンジ(IC、長崎市中里町)から長崎IC(同市早坂町)まで延伸。さらに長崎ICから長崎市新地町までを結ぶ「ながさき出島道路」が開通し、長崎市中心部への新しいアクセスルートとして注目を浴びています。「ながさき出島道路」の出入り口(新地町)からは、長崎港、出島、新地中華街、グラバー園、そして長崎県庁や長崎市役所など長崎市中心部にある観光スポットや公的機関へすぐに行けて、たいへん便利です。所要時間も、これまで諫早市から長崎県庁まで一般国道だと約50分ほどかかったのが、長崎自動車道と「ながさき出島道路」を利用すると約25分と大きく短縮されました。この新しい道路を利用してぜひ、訪れてほしいのが「長崎水辺の森公園」です。この春、「ながさき出島道路」の出入り口そばに完成した新しい公園で、長崎港と市街地の風景を見渡すのびやかなロケーションに加え、森のような樹木と季節の花々を楽しめる素敵なところです。すでに大勢の市民が思い思いのスタイルで、のんびりとしたひとときを過ごしています。実は「長崎水辺の森公園」が誕生するまでは、海や港と日常的に親しめるような公園がありませんでした。ですから長崎の人々にとってこの公園は、「港町・長崎」を名実ともに実感できる大切な場所になることでしょう。公園内は「大地の広場」(約2.5ha)、「水の庭園」(約1.2ha)、「水辺のプロムナード」(約2.8ha)の3つのエリアで構成され、大地、海、空、植物など自然との共生を体感できる工夫があちらこちらに施されています。たとえば、ヤシやアコウ、オオシマザクラ、ヤマボウシなど何種類もの樹木が植えられ、海際ながら森の空気を感じることができます。また芝生の広場も随所にあり、つい寝転びたくなってしまいます。裸足で歩くと心地いい、玉石をはめこんだ「ビードロの道」、いろいろな植物のタネの形をした「石のベンチ」、そして山から湧き出た水を噴水やせせらぎとして利用した「水の劇場」。ここでは裸足になった小さな子供たちがワイワイいいながら水と親しんでいました。公園内には大きな水路が通っていて、全部で11の橋がかけられています。その中のひとつ「風待橋」から長崎港沖を見ると、建設中の巨大な「女神大橋」の橋桁が見えました。長崎が「港」を通してまたひとつ歴史を刻もうとしている。「長崎水辺の森公園」は、そんなことも実感できる公園です。

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  • 第183号【サント・ドミンゴ教会跡資料館オープン】

     ポルトガル人やスペイン人などがキリスト教の布教とともに日本にもたらした南蛮文化。その時代から秀吉や家康による禁教政策を経て、オランダ船が来航するようになった出島の時代まで、長崎の歴史の移り変わりを垣間見れる「サント・ドミンゴ教会跡資料館」が先月末オープンしました。 長崎市役所(長崎市桜町)から徒歩5分。桜町小学校内(長崎市勝山町)にあるこの新しい資料館には、同小学校校舎の建設工事に伴う平成12年の発掘調査で出土した江戸時代初期のサント・ドミンゴ教会跡の石畳や排水溝などの遺構の一部がそのまま保存公開されています。出土品には、花十字紋瓦(はなじゅうじもんがわら)やメダイなどキリスト教関連の遺物が数多くあります。当時の長崎とキリシタンとの関わりを物語る貴重な文化遺産だそうです。 家康が徳川幕府を開いたのが1603年。サント・ドミンゴ教会が建てられたのは1609年のことです。熱心なキリシタンだった村山等安(むらやまとうあん)という長崎の代官が寄進した土地に建造されました。この頃(16世紀末から17世紀初頭)の長崎には他に十数もの教会や教会関連の病院がありました。南蛮貿易と布教が盛んに行われていたことがうかがえます。 代官という長崎の有力者の保護を受けていた教会でしたが、江戸幕府の体制が確立していく中で、しだいにキリシタン弾圧が厳しくなり、サント・ドミンゴ教会は1614年の禁教令で、建設からわずか5年で破壊されます。他の教会施設も次々に破壊され、多くの宣教師が殉教しました。 サント・ドミンゴ教会の跡地は、長崎代官の末次氏の屋敷となり(17世紀中期~後期)、さらに末次氏失脚後は、同じく代官職についた高木氏が屋敷を構え(18~19世紀)、約三百数十年にわたり長崎代官屋敷として利用されました。遺構からは食器類などその時代の品々も大量に出土しています。 ところで、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」の歴史をひもとくにあたり、重要な人物のひとりとしてあげられるのが、先に登場した代官の村山等安です。等安はキリシタンであることなどを幕府に訴えられ失脚するのですが、それを訴えたのは、次に代官となったが末次平蔵でした。平蔵は朱印船貿易で財をなしていた博多出身の豪商で、南蛮貿易で莫大な富みを権力を得ていた等安との間に確執と争いがあったのではないかといわれています。 等安に関してもっと知りたい方は、「長崎代官村山等安~その愛と受難」(小林幸枝著/聖母の騎士社)がおすすめです。この本は、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」の整備にあたり、参考資料としておおいに活用されたそうです。

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