第190号【長崎・龍馬の足跡を訪ねて】

 幕末の志士、坂本龍馬(1835―1867)は、長崎へは1864年から、京都の近江屋で暗殺される1867年までの数年間にたびたび立ち寄っています。まさに維新前夜といえるこの時期、龍馬は長崎のどんなところに出没していたのでしょう。その足跡を訪ねてみました。

 

 スタートは、「浜んまち」の名称で親しまれている浜町アーケードの入り口付近にある「土佐商会跡」(長崎市浜町)です。土佐藩の海軍貿易を取り扱った土佐商会は1866年(慶応2)に設立。その翌年、龍馬引きいる海援隊がここで結成されました。海援隊は、すでに龍馬が長崎で組織していた日本初の商社・亀山社中(長崎市伊良林)を再編成したものでした。




 土佐商会跡からほど近いところに、新地中華街へと抜ける「西浜通り」があります。その通りにある三菱信託銀行の辺りは、かつて薩摩藩蔵屋敷(長崎市銅座町)がありました。薩摩藩蔵屋敷は、幕末の頃には志士らが集い活躍する場になっていたとか。1866年に結ばれた薩長連合(1866年成立)の成立のために尽力していた龍馬もまた、ここを訪れたに違いありません。




いったん土佐商会跡にもどり、鉄橋(くろがねばし)を渡って、長崎地方裁判所や長崎法務局などがたち並ぶ万才町へ。この町の一角にある長崎法務合同庁舎は、幕末の頃、長崎を代表する豪商・小曾根(こぞね)家の邸宅があったところです。小曾根家は、坂本龍馬や勝海舟と親交があり、亀山社中もその財力で援助したそうです。




 小曾根邸跡から、地元テレビ局がある金屋町まで徒歩5分。テレビ局の入り口近くに土佐藩士、後藤象二郎の邸宅跡の碑があります。象二郎は、武器や軍艦の買い付けのため長崎に来ていましたが、同藩を脱藩していた龍馬と意見が一致し、土佐藩を倒幕派へと導いた人物です。土佐商会の経営にも携わり、龍馬と象二郎の会談により海援隊も組織されています。




 長崎市から海を渡り、五島列島・有川町江ノ浜地区へ。その海岸沿いに「龍馬ゆかりの地」の石碑がありました。この石碑から見渡す海の沖合いで、1866年春、亀山社中の練習船ワイル・ウェフ号が暴風雨に合い遭難するという事故がありました。碑の解説板によると、この遭難事故で、亀山社中の若き志士らを含む10数名の乗組員が亡くなりました。有川の代官をはじめ地元の鯨組の人々もかり出されて、遭難者や船の荷物の引き上げにあたったそうです。龍馬はこの時、伏見の寺田屋で襲われ負傷していた傷の療養のため鹿児島にいて、現地には事故から約1ヶ月半後に訪れ仲間の冥福を祈ったと伝えられています。江ノ浜地区には乗組員の墓と、龍馬の依頼で建碑されたワイル・ウエフ号遭難者の慰霊碑も残されています。





◎参考にした本:長崎の史跡~北部編、南部編~(長崎市立博物館)

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